Artifact:03 魔女の記号(後編)

「……うーん……」

 ファイは目を開いた。気を失っていた、ということらしい。

「気絶って……この人形からだにできることとできないこと、よくわかんない……」

 ファイは壁に寄りかかって座り込んでいた。視界の明るさを見るに、今は夜のようで、ここは屋外のようだった。地下室ではなく、もっと圧迫感のある狭い空間だ。それに、とても騒がしい。ファイのすぐそばで、轟々と何かが稼動している音がする。

「……アヒルチャン」

 ファイは自分の手がアヒルチャンを掴んでいないことに気づき、青褪めた。慌てて周囲を確認する。アヒルチャンはいない。

 ここはごく狭い通路のようで、ファイの目の前数メートルの位置にはもう向かいの壁がある。右側に視線をやると行き止まりだった。左側には──ファイにはその物体の用途など知り得ないことだったが──唸りを上げる巨大な業務用のエアコンの室外機があり、その陰から先を覗いてみると、眩い人工光と人々の喧騒に溢れる大通りがあった。森や館の中とはまるで違う、悪臭とも言える臭いが鼻についた。

「……アヒルチャンはどこ」

 今のファイにとって、見知らぬこの場所が何処なのかは考えるべき問題ではなかった。自分は手を離してしまった。その事実による焦燥がファイを支配していた。

「探さなきゃ……!」

 ファイは立ち上がる。生まれて初めての轟音と大通りに見える夥しい数の人影に気圧されるが、迷いを振り払うように頭を振って気を持ち直した。顔にかかった長い髪を手で横に退け、拳を握って気合いを入れる。意を決し、ファイは大通りに飛び出さんと駆け出した……瞬間、ファイは大通り側から慌てた様子で駆け込んできた何者かの脚に蹴り飛ばされた。

「ぐえっ」

 ファイは転がって尻餅をつく。ファイにぶつかった何者かも躓いてバランスを崩し、情けない悲鳴を上げつつ、顔からコンクリートの地面に突っ込んだ。

「痛たた……ちょっと!」

 立ち上がった矢先にまた座らされた。出鼻をくじかれたファイはむくれながら、地面に突っ伏しているスーツ姿の男の方に歩いて詰め寄る。

「痛かったんだけど!」

 詰め寄られた男は体を起こしながらファイの方を振り返り、「ひぃっ!?」と短い悲鳴を発して尻餅をついた姿勢で後ずさった。擦り剥けたその顔には明確な怯えの色が浮かび、身体は小刻みに震えている。

「いや、そこまで怯えなくても……いいんだけど……」

 目端に涙さえ浮かべている男を見下ろし、ファイは頬を掻く。だがここでファイは違和感に気づいた。この男の目は自分を見ていない。見ているのはもっとだ。

 そうだ。ファイは思い至る。男はこの路地に慌てた様子で駆け込んで来た。何故慌てていたのか。それはきっと、彼は何かに追われていて、それから逃れようとしていたからだ。潤んだ男の目には黄色いものが映っている。薄黄色いファイの肌よりも、もっと鮮烈な黄色だ。ファイはその色を知っている。

「アヒルチャン……!」

 見間違うはずもない。夜にあって尚鮮やかな黄色の肌、それはアヒルチャンに違いない。ファイは安堵と歓喜のままに後ろを振り返った。

 そこにいたのは確かにアヒルチャンだった。だがその纏う威容は、普段一緒に過ごしているときの温和でマイペースなアヒルチャンとはまるで違っていた。アヒルチャンは薄く笑っていた。白目の色を黒く反転させ、その中央には赤とも青ともつかぬ不気味な光を抱く瞳が揺らいでいた。反転眼の視線はただ倒れた男だけを見下し、射竦めている。アヒルチャンは獲物を前に、酷薄に笑っていた。

「アヒルチャン……?」

「すみません」

 アヒルチャンはファイを意に介さず、男に歩み寄る。街の雑踏やノイズはいつのまにか何処かへとかき消え、アヒルチャンの声は夜の静寂の中、静かに、しかし頭の中を直接揺らすように厳かに響き渡った。男はか細い悲鳴を発しながら、恐怖で竦み動かない脚の代わりに手を動かして無理矢理後ずさる。その男を見下したまま、アヒルチャンは悠然と、威圧的に歩み寄る。

「すみません、道に迷ったのですが」

「やめてくれ、俺は知らない……!あんたの家なんて知らない!」

「そうですか。では」

 喚く男の首元に、アヒルチャンの右手が伸びた。首根っこを掴み、そのまま片手だけで男の身体を持ち上げる。足が地面から離れても、男はなおも抵抗してバタバタと四肢を振り乱し暴れていたが、アヒルチャンがひと睨みすると、男は糸の切れた人形のように手足を力なく垂れ下げた。男の首から千切れたネクタイが地面に落ちた。

「いただきます」

 アヒルチャンはそう言うと、男を持ち上げている腕を引き込んだ。同時に口を大きく開き、左右の鋭い牙を光らせる。牙は引き込まれた男の首筋に深々と突き立てられた。男の身体が一瞬だけ、跳ね上がるように震えた。

 十数秒経って、アヒルチャンは男を噛みつきから解放した。男の傷口からは赤い血ではなく、透き通った光の糸のようなものが空中へ漏れ出ていて、その一筋はアヒルチャンの口元と繋がっていた。アヒルチャンは左手の指で口元を拭い、糸を断ち切った。空中に漏れ出ていた光の糸は霧散するように消えていった。

「ごちそうさまでした」

 アヒルチャンはそう言うと再び腕を伸ばし、そのままゆっくりと一本ずつ、黄色の指を開いた。男の身体は重力に従って落下した。男に既に意識はなく、生気を失った顔で地面に崩れ落ちていた。


「……」

 ファイはその一部始終を、口をぱくぱくさせながら眺めていた。アヒルチャンがようやくファイの方を向いた。アヒルチャンが一度瞬きすると、その目は嗜虐的な反転眼ブラックアイから、ファイのよく知る底なしの黒い目に戻っていた。

 アヒルチャンはややばつの悪そうな表情をファイに向けた。

「……見られちゃいましたね」

「……アヒルチャン。アヒルチャンのご飯って」

「……はい」

 アヒルチャンは先程自分が襲ったをちらりと見た。そして告げる。

「私はヒトを襲う都市伝説、アヒルチャンなんです」

「……そっか」

 ファイはそれを聞くと、納得したように頷きながら嬉しそうに笑った。

「そっか。それじゃあ、こういうところにでも来ないと食べられないよね、ご飯」

 予想と異なる返答に、今度はアヒルチャンが戸惑いの表情を見せていた。ファイはアヒルチャンがころころ表情を変えているのを珍しく思った。

「いいんですか、私が人喰いでも」

「いいも何も……なんでそんなこと聞くの?」

 アヒルチャンの問いかけに、今度はファイが困惑する番だった。

「私にアヒルチャンのすることを決める権利なんてないよ?」

「その、怖いとか、悪いとか」

「ご飯、食べないと生きていけないんでしょ?何が悪いの?」

「……くあー」

 一瞬黙り込んだあと、アヒルチャンは鳴き声のような声を発した。

「くあー……もしかしたらファイがヒトに近い倫理観を持ってるんじゃないかと思って……今まで隠してきて損しました」

 アヒルチャンはため息をつきながら、ファイの顔を安堵した様子で見つめる。その言葉にファイはようやく合点がいった。

「あー!アヒルチャン、なんか歯切れが悪い時があったのってそういうことだったの!」

「そうです。あまりにも純朴だったので、判断が付きかねていました」

「もう、こっちも心配したんだよ」

「ごめんなさい」

「それに……」

 ファイは地下室でアヒルチャンの腕を掴んだ手の平に目を落とす。

「目が覚めたらこんなところにいて、手を離しちゃったから、もうアヒルチャンと会えないかもしれないって……」

「ごめんなさい、お腹が空いていたのでご飯を探しに行きました」

「謝らないでよ、私はアヒルチャンがやりたいことをやってるのが好きなんだから……アヒルチャンにまた会えてよかった……」

 ファイは怒っているのか戸惑っているのか、それとも泣きそうなのか判別しがたい声色で言った。そして、顔を一度手で擦ってから、今度は真剣な顔でアヒルチャンに向き直った。

「……でもお詫びにアヒルチャンが何かしたいなら、やって欲しいことがあるんだけど」

 回りくどい言い回しだ。ファイは発言してから心の中で自分を責めた。素直にお願いすればよかった。

「なんですか」

 アヒルチャンは特に気にした様子もなく、いつもの表情で首を傾げた。ファイはアヒルチャンのその目を正面から見据えて言った。

「……私を、食べてみて欲しい」


 突き立てられたアヒルチャンの牙は、義体人形のしなやかで頑強な表面素材ひふを貫き、易々と内部素材にくまで沈み込んだ。ファイは一瞬の痛みにピクンと震えた。

 今、アヒルチャンはファイの横にしゃがみこみ、袖を捲り上げて露出させたファイの二の腕に噛みついていた。先程の捕食と違い、アヒルチャンの目はいつものままだ。ファイの望みを、アヒルチャンは受諾した。実際、アヒルチャンも人ではないものファイの命の味に興味があった。少しだけなら大丈夫だろうと、アヒルチャンはそう結論づけた。

 牙と皮膚に開いた穴の間の僅かな隙間を通って、ファイの中から何かが渾々と流れ出ていく。おそらく、なにかたいせつなものがたべられている。ファイは直感的にそう思ったが、恐怖はなかった。流体状のそれが身体の内からアヒルチャンの口の中に流れ込んでいくたび、ファイは全身が段々と虚脱に包まれていくのを感じた。最初に訪れるのは、奪われる恐怖。だが緩やかな脱力は思考を麻痺させる。それは穏やかな快楽となって意識を蝕んでいく。このままではいずれ立っていられなくなり、気を失うだろう。ファイが少しふらついた。アヒルチャンは頃合いとみて、ファイの腕から口を離し、ふらついたファイの身体を両手で支えた。

「……あたまがぼーっとする」

 解放されたファイは大きく息を吐き出した。自分の腕を見ると、二つの牙の咬み傷が残されている。ファイはそれを満足げにひとしきり見つめたりさすったりした後、捲り上げた服の袖を元に戻した。そして隣で口を拭っている黄色の捕食者に問いかける。

「アヒルチャン、どうだった?」

 だが一方のアヒルチャンはなんだか釈然としないといった様子だった。

「なんなんでしょうね、これは……」

「アヒルチャン、もしかして私、美味しくなかった……?」

 おずおずとファイが訊く。アヒルチャンは首をひねっていた。

「やっぱり、ヒトとは何かが違うんですよね……例えるなら……」

「……水みたい?」

 ファイは被せるように言った。それがファイの最も望まない答えだったからだ。

 だがアヒルチャンは首を振って否定した。

「ゼロカロリー飲料って感じですね」

「……なにそれ」

 ファイは意味がわからずきょとんとする。

「美味しいんですが、殆ど栄養にならないんですよ。以前飲んだことがあります」

 アヒルチャンのその言葉に、沈んでいたファイの表情が明るくなった。ファイは『ゼロカロリー飲料』というものの実態はわからなかったが、『美味しい』の言葉を聞けただけで満足していた。自分の命には、味があった。

「ありがとう、アヒルチャン。これからも、食べたくなったらいつでも食べていいよ。私、多分死なないから」

「そうします」

 不安が解消し気分が良くなったファイは、脱力した体をほぐすつもりで、腕を大きく上げて伸びをした。それに伴って自然と欠伸が出た。視界がぼやける。ファイは自分が眠気を感じていることに気がついた。

「そろそろ帰ろっか、アヒルチャン……」

 そう言ったファイは目をこすりながら辺りを見回して、大変な見落としに気づいた。

「アヒルチャン、これ、どうやって帰るの?」

「……どうやって帰りましょう」


 結論から言うと、二人はすぐに館に帰ることができた。

 アヒルチャンが空に浮かび上がって周囲を俯瞰してみると、ファイのいる位置から数十メートルほど離れた人気ひとけのない裏路地に、二人がここに飛ばされるときに巻き込まれた光のような輝きを放つ、超自然の円形の穴ゲートを発見した。二人が手を繋いでゲートをくぐり、そのまま感覚にして十数メートル、眩いトンネルの中を歩くと、視界が光から解放された。二人は館のすぐそばの森の中に立っていた。くぐり抜けたはずの光のゲートは、後方を振り返ってもどこにも存在しなかった。

「これ……どういうこと?」

「……もしかしたら私の転移能力と同じなのかもしれません」

 ファイが消えたゲートを探して森を走り回ろうとするのを片手で抑えながら、アヒルチャンは分析する。

「アヒルチャンの能力と同じ?」

「私は私を知っている人の近くに飛べますが、その『近く』にはバラツキが出るんです。さっき食べた人は三軒隣のラーメン屋にいたので、楽に見つけられましたけど」

「……待ってアヒルチャン、あの人知ってたの?」

「私は知りませんけど、あの人は私を知ってたんですよ。よくあることです」

 それを聞いて、ファイは何かに思い至った様子だった。一人納得したように頷き、アヒルチャンに振り返る。

「アヒルチャン、とりあえず帰ろうか」


 二人は館に戻り、アヒルチャンの指に嵌められている指輪で再び道を開いて地下室へと戻った。

 地下室には光があった。開かれたままの扉のその向こうには、先の見えない光のトンネルが続いていた。

「……やっぱり、魔女の記号の門について……」

 ファイは書棚に置かれている本を手に取り、ページをめくった。

「『ある種の角度、ある種の図形は異なる座標、異なる次元への門を開く鍵となる』……『すべての座標と次元を網羅する《魔女の記号》は既存の如何なる幾何学にも記述することは不可能であり、人の内なる認識のみによって記述される』……『故に《魔女の記号》を他者に伝授することは不可能である。だが不完全な記号であっても限定的な鍵としての役目を果たす』……つまり、アヒルチャンの記号……」

 ファイがアヒルチャンを見た。アヒルチャンは床に描かれたアヒルマークを指差して首を傾げた。ファイは首を横に振った。

「これはただの小説だけど……この本に準えて言うなら、アヒルチャンの中の転移の力が不完全な《魔女の記号》になってて、この……館の《裏門》を開いちゃった……んだと思う」

「そうなんですか」

「……たぶんだけどね。これ、ただの小説だし」

 ファイは本を閉じ、興味深げに《裏門》を触りながら観察しているアヒルチャンのそばに駆け寄った。

「でもそんなことはどうだっていいの。アヒルチャン、この門はアヒルチャンの飛べる場所まで道を繋げてくれるはず」

 ファイはアヒルチャンの手を引いて、《裏門》の前に立った。アヒルチャンの横に並び立ち、ファイは期待に満ちた顔で、アヒルチャンを見上げる。アヒルチャンは相変わらずの感情の掴み難い表情で見つめ返してきた。

 今日はいい日だった。それは疑いようがない。今夜は気持ちよく眠れるだろう。

「これからは私も、アヒルチャンと一緒に出かけられるんだ……!」



魔女の記号、空想の扉。事の真偽や真贋など、事実の前では言葉遊び。

このおはなしは、ここでおしまい。

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