Artifact:03 魔女の記号(中編)

 その夜、ファイは初めての夢を見た。

 ファイは自分の生まれた場所──あの石部屋に独り立っていた。

 欠けた天井から月明かりが差しこみ、目の前の床を照らす。その太く眩い光線の向こう側に、誰かの影が見えた。

「……どうして」

 光の向こうの誰かは呟くように、絞り出すように言った。アヒルチャンでも、ましてファイでもない。聞いたことのない、少女の声音だった。

「何?」

 ファイは訝しげにその人影に目を凝らす。月明かりは幻想的に明るく、相手の姿は漠然としたシルエットとして見えるのみだった。ファイと同じくらいの背丈だった。

「どうして、私の」

 相手の声色からは怒りや恨みといった負の感情が伺えた。それはファイに向けられた初めての感情だった。ファイは少し興味を惹かれた。

 やがて、月を叢雲が覆いはじめると、あれだけ強かった月明かりが次第に細くかき消えていった。それに伴って、相手の姿がゆっくりと見えるようになってくる。相手は白い服を着ていた。

「……あれ?」

 ファイは首を傾げた。この相手を……正確には姿を、ファイは知っていた。

「どうして、私の体を奪った」

 それはファイがまだファイでなかったとき、ファイであったもの。ファイの素体となった《人形》の姿だった。


「どうして、私の体を奪った」

 《人形》は繰り返し、そう怨嗟の言葉を口にした。

「奪った?私が?」

 ファイは理解できないといった表情で《人形》と対面する。白銀の髪、清純な白のドレス。そういった色の違いを除けば、ファイと《人形》はまるで鏡合わせのように見えた。《人形》の首元には青い十字架の首飾りがかけられている。ファイはおもむろに自分の首元に手をやって、金色の十字飾りのついたチョーカーを弄った。

「そうだ、お前のその体は私のものだった」

 《人形》はファイを睨みつける。透き通るような白い肌よりなお白い目の上に乗っているのは、緑がかった美しい瞳だった。ファイはその《人形》の目を、黒地に黄色の眼で観察する。

「えーと、何か勘違いしてない?」

 ファイは《人形》の存在には興味があったが、《人形》の恨み言についてはさっぱり興味がなかった。

 冷めた瞳で見つめるファイに憤ったか、人形はファイに歩み寄ってきた。橙の靴が石の床を叩き、硬い音を立てる。

「あっ、靴は私とお揃いなんだね」

「黙れ……!」

 暢気に観察していたファイの首元に、《人形》の両手がかけられた。恨みのままに力がこめられ、柔らかな素材でできた肌に指が食い込んでいく。これは夢のはずなのに、《人形》の手には確かな感触があった。ファイはそれを無抵抗に受け入れつつ、怒りで歪む《人形》の顔を間近で見つめる。

「返せ、私の体を、返せ……!」

「返せ、って言ったってさあ……使いたいならさっさと使えばよかったじゃない。なんで私が中に入るまで放っておいたの」

 ファイは面倒臭そうに《人形》の言葉を遇らう。恨まれているのは面白いが、彼女が言っていることは的外れもいいところだ。まるであからさまな虚言のように、価値のある言葉として響かない。

「煩い、返せ、それは私のものだ……!」

「それと、必死になってるのに悪いんだけど。私、その程度じゃ死なないと思う。そういうの、知ってるんじゃないの?」

 ファイがそう言うと、《人形》は諦めたのか手を離した。ファイの言葉を事実と認めつつも、なお恨めしそうにファイを見つめている。

「……お前に私の記憶は使わせない」

 やがて《人形》が口を開いた。雲が通り過ぎ、月明かりが再び差し始めた。

「お前が私の記憶を我が物顔で扱うなど虫唾が走る。化け物め、お前など生まれなければ、どれほど良かったことか……!」

 そう吐き捨てるように言って、《人形》は光の中に姿を消した。それとほぼ同時に、部屋が歪み、絵の具のように色が混ざり合って黒に溶けていった。

 それが目覚めの合図だった。


 ファイはソファの上で目を開いた。窓の外は夜だ。時計を確認すると、八時三十分を指していた。

「生まれなければ、かあ」

 立ち上がろうとして、自分の身体に薄手の毛布がかけられていることに気づいた。向かいの二人がけのソファでは、アヒルチャンが横になって眠っている。ファイはその事実に安心した。

「生まれなきゃアヒルチャンに会えなかったんだから、生まれたほうが良かったに決まってるじゃない。うん」

 立ち上がり、毛布を持って歩いていく。きっとこれはアヒルチャンが持ってきてくれたものだ。寝ているアヒルチャンに毛布をかけてあげた。

「でも記憶が見られないのは困るなあ……この館、変な仕掛けがいっぱいありそうだし……」

 夢の中の《人形》の言葉を信用するなら、あの日ファイが見たのは《人形》の記憶ということになる。そして、今その記憶は《人形》によって鍵をかけられてしまっているらしい。

「この素体からだ、一体なんなんだろう」

 ファイは何気なく自分の腕をつまんでみた。好奇心は、ファイに生まれながらにして備わっていた情動だ。ただの憑代だと思っていた人形が、思いのほか面白そうな素材だった。それに自分探しというと、なんだかそれっぽい。ファイは俄然、館の探索に向けてやる気が湧いてきた。

「……アヒルチャンが起きるまで、何してようかな」

 せっかく水が使えるのだから、皿洗いでもしてみようか。それと、またコップで水を飲んでみようと思った。心なしか喉が渇いている気がする。

 ファイは書斎を出てキッチンへと向かっていった。


 アヒルチャンが起きてきたのは、時計が十時前を指す頃だった。

「おはようです……」

 アヒルチャンはキッチンにいるファイのもとにふらふらとやってきて、半開きの目と弛んだ声でそう言った。

「おはようアヒルチャン。お水飲む?」

「飲みます……」

 ファイはシンク横の籠の中に並べられた洗いたての食器類の中から、昨日アヒルチャンが使っていたアヒル柄のマグカップを引っ張り出した。それに水を注いでアヒルチャンに手渡すと、アヒルチャンはそれを両手で受け取って呷るように飲み干した。マグカップを下ろしたアヒルチャンの顔は、いつも通りの無表情のような表情に戻っていた。

「これで目が覚めました」

「アヒルチャン、よく寝てたね」

「帰りが遅くなりましたから。都市伝説アヒルチャンの主な活動時間は深夜帯なので」

「じゃああの時計、アヒルチャンの暮らしに合わせてセットしてあるんだ」

「そういうことになりますね」

 アヒルチャンは昨夜の外出で買ってきたらしい菓子パンの袋を取り出した。一袋に二つ、たまごサラダのパンが入っている。アヒルチャンは袋を開けて、一つをファイに手渡した。

「ありがと。でも……アヒルチャン、それだけで大丈夫?お腹減らない?」

「大丈夫ですよ。いただきます」

 アヒルチャンはファイの心配に軽く答え、両手で持ったパンに大口を開けて噛み付いた。アヒルチャンの口の中の鋭い牙が一瞬煌めいた。

「うん、いただきまーす」

 ファイもパンに口をつける。ファイにはアヒルチャンのような牙はない。極めて人間らしい歯が並んでいるのみだ。

「アヒルチャン、いつも──」

 何食べてるの、と訊こうとしてファイは思いとどまった。昨日それを尋ねられたアヒルチャンは、一瞬硬直した。何故かはわからないが、この質問がアヒルチャンを困らせてしまうのなら、いつかアヒルチャンから話してくれる時を待とうと思った。

「──どこに行ってるの?」

 ファイは質問を変えた。アヒルチャンは口に含んでいたパンを嚥下してから答えた。

「そうですね、日にもよりますが……繁華街とか、住宅街とか……私を知ってる人のいる場所です」

「そっか、アヒルチャン、友達がいっぱいいるんだね」

「友達?」

 少し沈んだ様子のファイの言葉に、アヒルチャンは首を傾げる。アヒルチャンがこうして首を傾げることは今までも何度かあったが、いつもより角度が大きい気がした。

「だってそうでしょ?知ってる人のところに遊びに行って、そこでご飯を食べてるってことでしょ。そういうの、友達って言うよね?」

 ファイはそう言いながら、自らの内にある嫉妬という感情に気づいた。アヒルチャンが羨ましい。アヒルチャンの友達が羨ましい。自分はそのどちらにもなれていない。

「くあー?」

 それに対してアヒルチャンは困ったように曖昧な発音の返事をした。その聞いたことのないようなアヒルチャンの声に、ファイは少し笑った。嫉妬は取り敢えず、横に置いておくことにした。

「ねえ、アヒルチャン」

「なんですか」

「あとで行きたい場所があるんだけど」


 食事を終えた二人は、館の中に変化が起きていないか探索してまわった。

 二階へ続く階段の穴は、ゆっくりとだが確かに修復されているようだった。この分だと、二階の部屋に行くことができる日もそう遠くないかもしれない。この四日間、二人は一度も二階に上がらなかった。行こうと思えばアヒルチャンの飛行能力で穴を飛び越えることもできたが、そうはしなかった。ファイにとって、大穴で行く手を阻む二階はの探索場所だった。だから穴を飛び越えるのは、なんとなく狡いような気がして、気が引けるのだった。それに、探索した一階の部屋や廊下の中には、天井にヒビが入っている箇所もいくつか見つけた。もう落ちるのは懲り懲りだ。『二階の探索はおあずけ』。これはファイとアヒルチャンの約束事になった。

 アヒルチャンとファイは二階に何があるのか、何があってほしいかを想像して意見を出し合った。アヒルチャンは寝室があるといいと言った。ファイより身長の高いアヒルチャンは、ソファで眠るのにやや不便しているようだった。ファイはこの館の元の持ち主の日記などがあると嬉しいと思った。ファイは自分のことが知りたかった。

 それからファイとアヒルチャンは一旦書斎に戻ることにした。戻りしなに二人はキッチンを覗いてみた。ファイが洗ったまま籠に放置していた食器類は、いつのまにか食器棚に戻っていた。籠の中には、食事後に洗ったアヒルチャンのマグカップだけが残されていた。

「自動でお片付けしてくれるみたいで便利だね」

「私が持ち込んだものは影響を受けないみたいですね」

 二人は書斎に戻り、しばらく本を読んで午後の時間を過ごした。やがて時計が四時を指す頃、本を書棚に戻しに行ったファイは、戻ってくるなりソファで料理本を読んでいたアヒルチャンの脚をつついた。アヒルチャンが本から目を離してファイを見た。

「行こ」

「わかりました」

 アヒルチャンは本を書棚に戻し、書斎を後にした。


 ファイの目的地は当然、地下室だった。入り口である廊下の行き止まりまで歩いていき、雑貨棚にある象牙色の小物入れを開く。

 中には赤い指輪が一つ入っている。あの日と同じだ。

「……アヒルチャン、ちょっと着けてみて、これ」

 ファイはアヒルチャンに指輪を渡す。アヒルチャンはそれを興味深げに観察してから左手の人差し指に嵌めた。

「うん、それで、そこの床に手を近づけて」

 言われた通りにアヒルチャンは床の正方形の枠に左手を翳す。指輪が淡い光を発し、地下への入り口が開かれた。ファイは開いた穴を覗き込む。

「アヒルチャンでもここは開けられるんだ……うん、覚えた」

 ファイは真剣な表情でつぶやいた。そして同じく穴を覗き込んでいたアヒルチャンの方を向いた。

「降りよう、アヒルチャン」


 ファイはアヒルチャンに抱かれてゆっくりと降下した。途中でまた足場が消えて落下するのを恐れたためだったが、今回は二人が地下室の床に着地しても、足場も入り口の穴も消滅せずに残っていた。

「何を調べるんですか?」

 アヒルチャンがファイを床に下ろしながら問う。

「この部屋に隠されてる秘密を暴くんだよ」

 床を踏みしめてファイは得意げに言った。

「さてと」

 ファイは地下室を見渡す。まず、今回の調査の本命である、壁に意味ありげに設置された扉。チョークで何かの図形を描いていた痕跡の残る床。そして、本が一冊だけ置かれている本棚。

「あった……!」

 ファイは本棚に駆け寄る。

 ファイが書斎に一旦戻ったのは、適当に時間を経過させるためだった。当初の予定では、取り敢えず六時頃になったら地下室に行こうと考えていた。だが、読んでいた本を書棚に戻しに行った時、ファイは奇妙なことに気づいた。書棚にのだ。アヒルチャンは律儀に本を元あった場所に戻すし、ファイもそれに倣っている。つまりこれは、独りでに本が配置を変えたということになる。もしや、と思った。

「きっとこれ、書斎の本棚のどこかに隠してあったんだ……」

 ファイは地下室の書棚に現れたその本を手に取る。紺色のハードカバーでずっしりと重い。

「えーと、タイトルは……『The Dreams in the Dollhouse』……」

 ファイは机に腰掛けてその本を読み始めた。アヒルチャンは暇を持て余し、辺りを歩き回りはじめた。

「……図形を……門を開き……」

 ファイはぶつぶつと呟きながら本をめくり読み進める。アヒルチャンは部屋の隅に転がっていた何かを拾い上げた。折れたチョークの欠片のようだった。

「……異なる次元……外宇宙の……」

 ファイはページをめくる速度を上げる。アヒルチャンは暇つぶしに拾ったチョークで床に何かを描き始めた。まず手始めに部屋の中心に巨大な真円を描いた。

「……これは……もしかして……」

 ファイは最早殆ど読まずにページを次へ次へとめくっていく。一方のアヒルチャンは円の中心よりやや下側に菱形を描き、その菱形に横向きの対角線を引いていた。

「……やっぱり、ただの小説だ。これ」

 ファイは溜息をついてパタンと本を閉じた。アヒルチャンはぐりぐりと床にチョークを押し付け、菱形の上方、左右対称の位置に二つの点を作っていた。

「アヒルチャン、ごめん、ハズレだった。帰……何してるのアヒルチャン」

「落書きです」

 本から目を上げたファイが見たものは、四つん這いの姿勢でこちらを見るアヒルチャンと、床を埋めるように描かれた、単純化された巨大なアヒルの顔だった。ファイはその光景に暫く言葉を失った後、息をひとつ吐き出してから、アヒルチャンに向けて言葉を告げた。

「……かわいい」

「まつ毛も描くともっとかわいいですよ」

「ほんとだ……」

 ファイは本を棚に戻し、アヒルチャンの元に駆け寄った。アヒルの線を踏まないように気をつけた。

「あれ、どんな本だったんですか?」

 アヒルにまつ毛を描き足したアヒルチャンは本棚を指差した。

「ファンタジー小説の短編集だった。『魔女の記号』っていう不思議な図形を使って、異次元への扉を開く魔女が居たんだって」

 アヒルの絵を見て少し和んではいたものの、ファイはあからさまに気分が落ち込んでいた。図形と扉。この地下室と要素こそ似ているが、小説の中では『記号』の詳細な形状も、その使い方も、肝心な部分が何も描かれていなかった。今日は残念ながら収穫なしだ。

「もしかしてこの扉も、異次元に繋がったりするのかな……」

 ファイは壁の扉に手を触れてみる。扉はただ無機質な扉で、その向こうにあるのは壁だけだ。

「異次元には私も行ったことはありませんね、どんなところなんでしょう」

 アヒルチャンもファイの真似をして扉に手を触れてみた。その時だった。

 窓もない地下室に、何処からともなく濃青色の霧が立ち込めはじめた。ファイはこの霧に見覚えがある。アヒルチャンの転移時に現れる、超自然の霧だ。

「アヒルチャン、何処行くの!?」

 ファイは慌ててアヒルチャンに叫んだ。だが当のアヒルチャンもこの霧の出現に戸惑っているようで、いつもより少し目が見開かれ、手が小刻みにパタパタと羽ばたいていた。

「アヒルチャンの意思じゃないの……!?」

「どこかに、飛ばされ……!」

 アヒルチャンの身体が次第に薄くなっていく。滅多に変わらないアヒルチャンの表情が困惑に崩れている。ファイは今度は躊躇わなかった。伸ばした手がアヒルチャンの腕を掴んだ。そこから波及するようにファイの身体も霧に溶けていく。あたりの霧はより色濃くなっていく。ファイは急速に身体が浮かぶような感覚を覚え、アヒルチャンを握る手に力を込めた。

 離さない。尊重すべきはアヒルチャンの意思だ。だから離さない。アヒルチャンが望まずして自分の前から消えることを、許さない。

 突然壁の扉が大きく開いた。その先には無機質な石壁ではなく、眩いばかりの光の空間があった。二人は光に呑み込まれるようにして消滅した。

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