Artifact:03 魔女の記号(前編)

「アヒルチャンアヒルチャン、こっち来て!」

 部屋に駆け込んでくるなり、ファイは中にいたアヒルチャンに叫んだ。館の一階にあった一室、書架の立ち並ぶ書斎のような部屋。そのソファに腰掛け、アヒルチャンは寛いで本を広げていた。

 部屋に灯りはなく、窓の外に見える空は依然として夜だ。ファイたちがこの館に住み始めてから少なくとも三日が経過していることは、アヒルチャンがどこからか持ってきた目覚まし時計でわかっている。だがこの森と館に陽の光が差し込む様を、ファイたちはまだ見たことがなかった。

 アヒルチャンは表紙に『料理の基礎Foundation of Cooking』と書かれている本を閉じて立ち上がった。本を書架に戻し、入り口ドアの前で待っているファイのもとにマイペースに歩いていく。ファイは待ちきれないといった様子だったが、特に急かすことなくアヒルチャンが歩いてくるのを見つめていた。アヒルチャンは滅多に走らない。その余裕ともいえる落ち着きようを、ファイは気に入っていた。

「どうしたんですか」

「ついてきて」

 ファイは廊下を歩き出した。アヒルチャンはその後ろをいつも通りついていく。

 二日前も、こうやって二人は館の中を歩き回り、一階にある様々な部屋を探索した。キッチンや広間の他に、骨董品が並べられた棚ばかりが置かれた博物館のような展示室や、その部屋に入りきらなかったものをしまっているのであろう、箱まみれの物置のような部屋も見つけた。先ほどの書斎も、探索の中で二人が見つけた場所だった。一階には寝室のように寛げる場所は見つからなかったため、ファイとアヒルチャンの当面の生活の拠点は書斎になった。

「ねえアヒルチャン、ずっと料理の本読んでたよね」

 ファイは向き直り、後ろ歩きしながらアヒルチャンに話しかける。

「そうですね」

「アヒルチャン、料理したい?」

「料理なんてしたことがありませんからね。できるならやってみたいです」

 答えを聞くとファイは嬉しそうに笑った。それも、何やら含みのある笑い方だ。おそらくファイが見せたいものに関係しているに違いない、とアヒルチャンは察した。ファイはすぐ考えが表情に出る。あまり表情の変わらないアヒルチャンとは対照的だった。

「ファイは色々読んでいましたよね。何の本を探していたんですか」

 気付かないふりをして、今度はアヒルチャンが問いかけた。

「うん……この館もそうだけど、私の素体からだってどう考えても普通じゃないでしょ?だから、私のことがどこかに書いてないかなって」

 まあ何も見つからなかったけど、とファイは不満げに漏らす。あの書斎には魔術的な事象の存在を仄めかすファンタジーやオカルトの本こそ多くあれ、クリティカルな内容のものは存在しなかった。二日前、書斎の本を引っ張り出しては流し読みして元に戻してを繰り返し、ファイはそう結論づけた。そもそも、ある程度を超えて難しい本はファイには読めなかった。そこで、ファイは情報収集の手段を館の探索に切り替えたのだ。

「それで、今日も部屋を色々巡ってたら、見つけたの。えーと……」

 ファイは話を切り上げ、一つのドアの前で立ち止まった。アヒルチャンはその場所に首を傾げる。

「ここは……トイレですか」

「ごめん、後ろ向いてたから歩きすぎた」

 ファイは今度は前向きで、来た道を早歩きで戻っていった。


 ファイが再び足を止めたのは、キッチンに続くドアの前だった。

「ここが本当の目的地」

 ファイはそう言って中に入った。「やっぱり」と思いながら、アヒルチャンも続く。

 キッチンの中に入るのは、アヒルチャンにとっては二日ぶりのことだ。アヒルチャンのこの二日間は、書斎で本を読んでいるか、ファイの館探索に付き合っているか、たまにふらっとのところへ転移して、しばらくして何か食べ物や小物を持って帰ってくるかで構成されていた。

 キッチンは二日前に訪れたときよりもやや綺麗になっているように見えた。それは埃や汚れといった掃除で説明のつく範疇の問題ではなく、家具の劣化や損傷など、本来不可逆であるはずの変化が逆行していることにより生まれた、不自然な印象だった。

 この館はファイたちが住み着いた三日前から、緩慢に時間を遡行している。壊れた家具や壁や床の傷が修復され、出しっ放しにしていた日用品が元の場所へ戻る。部屋のゴミや埃、蜘蛛の巣なども減っている。場所によってその遡行の速度には差があるようだった。あの書斎の本も、部屋の発見当初は傷みが激しかったが、館の探索を終えて再び訪れてみると、読める程度にまで本の状態は回復していた。まるで館自身がかつての栄光を懐かしみ、その威容を取り戻そうとしているかのようだった。

「こっちこっち」

 ファイはシンクのそばで手招きしている。アヒルチャンが近づくと、ファイは蛇口レバーを動かした。すると次の瞬間、蛇口からは勢いよく透明な水が吐き出され、跳ね返った飛沫が二人の顔と服を濡らした。

「ね?水が出るようになったんだよ」

 ファイは嘘でないことを証明するように自慢げに何度もレバーを上下させ、何度も水を出してみせた。アヒルチャンはそれを興味深げに覗き込んでいた。

「よくわからないけど、このまま館がどんどん時間を巻き戻していったら、火とか、電気とかも使えるようになるかもしれない。そしたら、アヒルチャン、料理ができるようになるよ」

 ファイはようやく水を止め、アヒルチャンに自分の手柄のように胸を張ってみせた。そんなファイに向き直り、アヒルチャンは言った。

「ファイ」

「なに?」

「水ならトイレでもよかったんじゃないですか」

「……あっ」


 折角出るようになったんだし、水を飲んでみよう、とファイが言い出した。ファイは食器棚から汚れで霞んだグラスを一つ取り出した。アヒルチャンはどこからか私物のアヒル柄のマグカップを取り出していた。

 ファイは小さな手で直接グラスを拭うようにして、流水で汚れを洗い落とした。ファイは手に当たる冷たい水の感覚を楽しんだ。洗剤などは無かったが、しばらく洗っていると、くすんでいたグラスはもとの透明度を取り戻した。

 備え付けられた浄水器はまだ稼働していなかったので、二人はただの水道水をそれぞれのコップに注いだ。ファイはグラスの中で揺れる無色透明の水をしばらく観察したあと、グラスを傾けて一口飲んだ。そして不思議そうな顔をして言った。

「味がしない」

「それはそうですよ、ジンジャーエールとは違います」

 アヒルチャンはマグカップを両手で持って水を飲んでいる。アヒルチャンは地下室の一件以後も、何度かジンジャーエールを持ち帰ってきた。

「アヒルチャン、アレ好きだよね」

「おいしいですからね。甘くて辛い命の味です」

「命の味かあ」

 ファイは残りの水を飲み干した。ジンジャーエールが命の味なら、この味気ない水は死人の味だろうか。

「アヒルチャン、ほかには何が好きなの?ジンジャーエールと、パン以外で」

「そうですね……よく食べるのは……」

 そこまで言うとアヒルチャンはファイの方を見つめたまま固まった。

「どうしたの?」

 ファイはアヒルチャンの目の前で淡い黄色の手を振ってみる。アヒルチャンの表情は相変わらず変わらない。

「アヒルチャン?」

「お腹が空きました」

 アヒルチャンは呟いた。これまでの生活でファイには薄々わかってきていたが、それはアヒルチャンがどこかに転移する前の合図のようなものだった。

 たちまちアヒルチャンの周囲に、どこからか超自然的な濃青色の霧が渦巻くように立ち込めはじめた。そして霧の色に溶け込むように、アヒルチャンの輪郭がぼやけ、姿が薄くなっていく。

「アヒルチャン、ちょっと待っ……」

 ファイは霧の中に手を伸ばそうとして一瞬躊躇した。結局遅れて手を伸ばしたが、そこにはすでにアヒルチャンの実体はなく、ファイの手は霧に浮かんだ輪郭を揺らした。すぐに霧は晴れた。アヒルチャンは消え、その場所には水に濡れたマグカップが一つ転がっていた。


 ファイは書斎に戻っていた。

 書斎のソファで挟まれたテーブルの上には、アヒルチャンが持って帰ってきた目覚まし時計が置かれている。書斎の壁にある掛け時計は壊れているため、目覚まし時計がこの館で唯一の時を刻むものだった。

 ファイは時計を見た。針は一時五十分を指している。この館がどこにあるのかも、この時計がどの国の時間を示しているのかもわからない。ただ、昨日ファイがこの部屋のソファの上で丸まって眠りについたのも、このくらいの時刻だった。

 ファイにとって睡眠は単に時間を潰す手段だった。時間に縛られるような生活はしていないし、そもそも自分に睡眠が必要なのかも定かではない。人間の最も根源的な欲求は食欲・睡眠欲・性欲の三つだというが、今のファイは食欲を浅くしている程度だった。いずれ他の欲求も同じように獲得していくのかはファイ自身にもわからなかった。

 まだ眠る気にはなれなかったので、ファイは適当な本を取り出して読もうと思い、書棚の方へ向かった。どの本を読もうかと棚に並べられた大小入り混じる本の背表紙を眺めていたとき、ファイは唐突に、あの地下室のことを思い出した。

「そういえば、あの部屋にも本棚があった」

 本棚があったということは、あそこにも本が置かれていたはずだ。だがファイがあの部屋に訪れたとき、本は一冊として存在しなかった。

「そもそも、あの地下室は何のために使われていたんだろう」

 もしものときのための、たいせつなもの。ファイは書斎のあちらこちらを歩き回りながら、記憶の中の言葉を反芻する。魔術的に隠匿された部屋であるにもかかわらず、あの部屋は驚くほどに殺風景だった。たいせつなものなど、どこにも見当たらなかった。

「ってことは……たいせつなものは、どこかに移動させた?」

 ファイは歩くのに飽きて、手近にあったソファに跳び乗った。移動させたとすれば、いずれあの地下室に戻る可能性がある。どの時代を懐かしんでいるのかはわからないが、この館は確実に、ファイたちが訪れる以前へと時間を巻き戻している。この館が打ち棄てられる以前の、まだ人の営みがあった時代へ。

「いや」

 ファイはもう一つの可能性に思い至った。立ったままソファの背もたれに体重を預けてずるずると背中でずり落ち、深く腰掛けた姿勢になる。

「たいせつなものが、移動させられないもの、だったとしたら」

 思い出すのは、あの地下室の壁に据え付けられていた、巨大な扉。その扉の向こうに部屋はなく、ただ石の壁があるのみ。あからさまに無意味だ。こういう場合、無意味には意味があるはずだ。好奇心がそう叫んでいた。

「あの扉にも、何か仕掛けがあるんだ」

 腰を落ち着けたファイは、地下室を見つけたあのときのように、目を閉じて己の内面に沈潜し、自分のものではない記憶へのアクセスを試みた。だが、どれだけ時間を重ねても、地下室に関しての記憶はおろか、どんな些細な他の記憶にすら辿り着かない。あのときだけが特別だったのだと言うように、視界は瞼に閉ざされた暗闇だけを映し出している。

「……だめかあ」

 そう都合よく使えるようなものではない。そんな気はしていた。

 ファイは身体の力を抜き、倒れこむようにソファの上で横になった。腕置きを枕がわりにして仰向けになる。答えは出なかったが、ファイは頭を使って考えたという行為自体に、それなりに満足していた。

 今日は館を探索し、水が出るようになっていることも見つけた。頭も体もたくさん使った。アヒルチャンともっとお喋りして、もっと遊びたかったというのが本音だが……。

「うん、私頑張った」

 嬉しげに口に出した言葉は、一人の部屋にどこか空虚に響いた。

「……」

 ぼんやりと考える。アヒルチャンはいつもどこに行っているのだろう。アヒルチャンは、ここではない何処かにも居場所があるに違いない。

 だから、アヒルチャンがずっとここにいてくれる保証はない。

 アヒルチャンは気ままだ。それがアヒルチャンの魅力だ。それを冒したくはない。だから、恐ろしい。

「……寝ようか」

 頭を使うことも善し悪しだ。ファイは目を閉じて、ただの人形に戻るように眠りについた。

 アヒルチャンはまだ帰ってきていない。

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