Artifact:02 懐古する館(後編)
アヒルチャンと別行動をとってから、ファイはいくつかの部屋を探索した。
キッチンだったであろう一室で、扉の壊れた食器棚の中に埃をかぶった装飾皿やティーカップを見つけた。さすがにこのままでは使えないと思い、皿の一枚を持ってシンクに駆け寄り、蜘蛛の巣が張り固まった蛇口レバーを動かしてみたが、当然水は出なかった。仕方なく皿を手近な場所に置き、今度は汚れで妙に粘着している冷蔵庫の扉を両手で引っ張って開けてみた。中は常温であり、完全な空箱だった。ファイは両手で扉を押し込んで閉めた。
キッチンは食事用の広間に隣接していた。十数人分の椅子が備えられた大テーブルは表面の塗装が剥がれ、ささくれ立った木材が露出している。テーブルの上は綺麗に片付いており、中央あたりに置かれた花瓶の周りには朽ちた花の残骸と思しき欠片が散らばっていた。ファイは椅子の上に立って、その花の残骸に指先で触れてみた。僅かながら花弁の形を残していた残骸は、指が当たっただけで脆く粉と崩壊した。花瓶の花は森の植物たちと本質的に異なるもののように思えた。ファイは指先に付着した花の死骸を振り払い、椅子から飛び降りた。
ここまででおよそ食べられるものが見つかっていないことに、暢気なファイもさすがに焦りを覚えてきた。考えてみれば、この屋敷は何年放置されていたのだろう。もはやここには、食糧と呼べるものなど何も残されていないのかもしれない。だがそうなると、アヒルチャンはどうなる?自分の食事への欲求は、単なる興味だ。だがアヒルチャンは恐らく、生命維持のために食事を必要としている。自分は考えなしにアヒルチャンを連れ歩き、飢えさせてしまっているのではないか?冷や汗が伝う。自分の身体に発汗の機能があることに初めて気づいた。
「絶対に食べ物を見つけないと」
ファイは決意と共に広間を抜け、エントランスホールから続く廊下へと戻った。まだ調べていない部屋は多い。だが悠長にすべての部屋を探索していくつもりはなかった。目を閉じて、頭を捻る。少しでも食べ物のありそうな場所はどこだ。
瞼を落とした暗闇の中、己の深層へと沈潜する。やがて巡らせる思考は追憶となり、彼女は自身が持ち得ないはずの記憶を探り当てた。
その記憶の中では、この館は電気の灯りが煌々と照らす、清潔で生活感のある暖かな場所だった。その光景を見る自分の視界は、今よりもやや高い。自分に近しい誰かが自分を両腕に抱きかかえ、館のどこかへと連れて行っているようだった。
ファイは目を開いた。目の前の寂れた廊下は、記憶が瞼の裏に映し出した情景の面影を確かに残していた。
「今のは……?」
生まれたばかりのファイには、知識はあっても記憶は無い。ならば、自分が生まれる前からあったもの……この
「よくわからないけど……こっちに向かってた……?」
自分のものではない記憶を現実と重ね合わせ、足跡をトレースする。いくつもの部屋の前を通り過ぎ、辿り着いたのは廊下の果ての行き止まり。品の良さの名残だけを残す埃まみれの木製の雑貨棚が壁際に設置されている以外、目立って特別なものは無い……ように見える。
だが、暗がりを障害としないファイの目は、視界の隅にあった違和感、床で煌めいた金属光沢を見逃さなかった。場所にあたりをつけ、しゃがみこんで辺りの床の埃を払う。すると、雑貨棚の脚の前あたりの床に走る、細い枠線のようなものを見つけた。線を辿るように埃を払い全貌を露出させてみると、それは床に一辺2メートルほどの正方形を描いていた。
「床下収納……ううん、違う。確か……地下室があったんだ」
再び沈潜し、先ほどの記憶を辿る。地下室の入り口であるこの場所の手前で、誰かに抱きかかえられていた記憶の中のファイは床に降ろされた。ここには何があるの、と彼女が問うと、誰かが答えた。ここには、もしものときのための、だいじなものがしまってあるんだ。声の主は男だった。彼は雑貨棚の方へ歩いていき、棚に並べられた骨董品や子供の手作りらしい小物を愛おしげに見つめた。そしてその中の一つである、掌に収まるほどの大きさの象牙色の小物入れの蓋を開いた。
ファイはここで目を開いた。時を経て雑貨棚の様相は様変わりしていたが、象牙色の小物箱は変わらずそこにあった。蓋を開いてみると、中には敷き詰められたクッションに守られるようにして、小さな赤い宝石の埋め込まれた指輪が一つ入っていた。
「これが地下室の鍵だ」
ファイはそれを左手の中指に通した。ファイの小さな指に対して指輪はやや大きかったので、落とさないように拳を握りしめた。
再び床にしゃがみこみ、ファイは指輪をはめた手を正方形の枠に近づけた。すると指輪の宝石が一瞬だけ淡い超自然の光を発した。そしてその一瞬のうちに正方形の枠内にあった床が音もなく消滅し、そこには地下へと続く穴と、そこに垂らされた縄梯子が出現していた。
「……びっくりした」
ファイは地下へ通じる暗い穴を覗き込む。暗視の能を持つファイであっても底は見えない。
ファイは記憶の中の男性の言葉を思い出していた。ここには、もしものときのための、だいじなものがしまってある。
「保存食とか、あるかも……」
こんな魔術的な手段で隠蔽された地下室なのだから、何年も放置されたとしても問題のない食べ物の一つくらいあるに違いない。ファイは希望的観測と等しい確信を抱いた。食料などよりも余程価値のあるものを保存しているのでは、という考えには至らなかった。
ファイは長いスカートが邪魔にならないように、いくらか内に折り込んで短くした。そして梯子に足をかけ、下を確認しながらゆっくりと、恐る恐る下っていった。やがて頭上にある正方形の穴が随分と小さく見えてきた頃、下ろした足が突然足場の感覚を失った。
「あっ……」
足が滑ったというわけではなかった。足場が霧散するようにして消えたのだ。同時に、手で掴んでいた側の持ち手も消滅する。ファイの身体は宙に投げ出された。重力に従って落下していく中、ファイは上に目を向けた。正方形の穴はもう見えなかった。
仰向けの姿勢で落下したファイは、石の床に背中を強か打ちつけた。
「ぐえっ……痛い」
だがそれだけだった。痛み以上は何もない。どうやらこの
「あの梯子も
ファイは右手で背中をはたきながら起き上がり、左手の指輪を見つめる。落下中、これだけは失わないように手を握りしめていた。理由はわからないが、この指輪の鍵の効果が途切れたらしいことは間違いないと思った。試しに指輪をはめた拳を突き上げてみたが、指輪が光ることも、梯子が現れることもなかった。
目当ての地下室も、期待に反して殺風景な場所だった。家具は何も置かれていない組み立て式の机と書棚だけで、床には半端に消されて掠れたチョーク書きの紋様の跡。壁際には両開きの巨大な扉があったが、開いてみてもその先はどこにも通じておらず、単なる石の壁があるのみだった。
「食べ物なんてなかった……」
一通りの探索を終えたファイは落胆し床に座り込んだ。床に転がっていた穴の空いた頭蓋骨を拾い上げ、壁際に転がした。森と違って、この館には死んだ命ばかりがある。骨は壁際に落ちていた拳銃にぶつかって乾いた音を立てた。
「帰れないし……ここで暮らすしかないのかなあ……」
地下室はファイが生まれた石部屋とよく似ている。家具が置かれているだけこちらの方が賑やかだと言ってもいい。
「アヒルチャン、食べ物見つかったかな……」
アヒルチャンに連れ回してしまったことを謝ることができないのが心残りだった。アヒルチャンがあの地下への隠し穴を見つけることはないだろう。それに、仕掛けを解くための指輪は今、ファイの指にある。
「また、一人かあ……」
ファイは腹のあたりに手を置いた。何度も
「お腹すいたな……」
「よかった、はいどうぞ」
俯くファイの目の前に何かが差し出された。それは菓子パンの袋だった。そして、それを差し出す手は、鮮烈なまでの黄色だった。
「……えっ、アヒルチャン!?」
ファイは首が取れるほど勢いよく振り向いた。そこに立っていたのは紛れもなく、アヒルチャンだった。
「アヒルチャンですよ?」
アヒルチャンは首をかしげる。何故ファイが驚いているのか理解していないようだった。
「アヒルチャン、どうしてここに」
「私、私を知ってる人の近くに飛べるんですよ。そういう
アヒルチャンはファイに差し出している手と逆の手に持っているものを軽く振ってみせた。ペットボトルに入った、飲みかけのジンジャーエールだった。
「ちょっと知り合いのところまで飛んで買ってきました。便利ですよね、自動販売機って。パンが買えるんですよ」
「アヒルチャン……!」
ファイは立ち上がり、そのまま倒れこむようにアヒルチャンに抱きついた。アヒルチャンはよくわからないといった顔で、自分の腹のあたりにあるファイの頭を見下ろしていた。
机を椅子がわりにして腰掛け、二人でパンとジンジャーエールを分けあった。生まれて初めての食事体験にファイは目を輝かせていた。アヒルチャンは心底美味しそうにジンジャーエールを飲んだ。ファイは最初は炭酸の刺激に驚いていたが、すぐに気に入ったようだった。
「ありがとうアヒルチャン。ごちそうさま」
「はい」
パンを食べ終えたファイは、言いにくそうにアヒルチャンに切り出した。
「アヒルチャン……私、一緒に暮らそうって言ったけど……その、ここから出られなくなっちゃったから……」
「出られないんですか?」
「うん、この地下室から上には上がれないし……だから、アヒルチャンがもし、嫌なら……」
アヒルチャンは地下室の角にある天井の穴……ファイが落下してきた地上への通路のあたりを見た。そして机から下りて立ち上がり、ファイを両手で抱え上げた。
「えっ、アヒルチャン?何して」
「飛べますよ」
「え」
「私、飛べます」
そうアヒルチャンが言った次の瞬間、二人の体がワイヤーで釣り上げられたように宙に浮かんだ。驚くファイを落とさないように強く抱えながら、アヒルチャンは直立姿勢のまま数十センチほど浮遊し、空中を滑るように地下室の角へと移動する。そして穴の真下へと到達すると、そのままの姿勢で垂直に、上へ上へと昇っていった。
「ほんとに飛んでる……!」
「落ちないように捕まっていてくださいね」
上から下へと流れていく代わり映えの無い景色の中、ファイはアヒルチャンに抱え上げられながら、あの記憶の中の自分を思い出していた。誰かに抱き上げられていた自分。自分ではない自分が感じていた安心感が、やっと自分のものになった気がした。
ファイの左手の指輪が淡く輝き、アヒルチャンの頭上に正方形の穴が開いた。二人は地上へ戻ってきた。
「それで、ここが食事用の広間で、この扉を抜けると……」
戻ってきてからのファイは、アヒルチャンに自身の探索の成果を説明していた。アヒルチャンは森の中のときのように、ファイの後について歩いていた。
「ここがキッチン!……あれ?」
ドアを開けてキッチンに入ったファイは違和感を覚えた。なにか、あるはずのものがない。
「……そうだ、お皿が……!ここに出しておいたはずなのに……」
ファイは食器棚に駆け寄る。ファイが取り出したはずの皿は食器棚の中に戻っていた。壊れていたはずの食器棚の扉も、今は壊れていなかった。
「……どういうこと?」
後ろについてきたアヒルチャンが食器棚を覗き込んだのとほぼ同時に、ファイは再び駆け出す。キッチンを抜け廊下へ、エントランスを抜け玄関扉へ。アヒルチャンが壊したはずの玄関扉も、修復されていた。
「……まさか」
追いついたアヒルチャンとともにドアを開け、館の外へ出た。向かうのは館の裏手の塀。たどり着いた二人が見たのは、予想通りのものだった。
「アヒルチャン」
ファイは修復された塀から目を離さないままに、横に立つアヒルチャンに向けて呟く。
「私、気づいたんだけど」
「なんですか」
ファイは大きく息をついた。そして言った。
「アヒルチャン飛べるなら、コレ壊さなくてもよかったよね……」
「そうですね」
懐古する館、それは義体人形と都市伝説がこれから二人で暮らす場所。
このおはなしは、ここでおしまい。
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