Artifact:02 懐古する館(前編)

 ファイとアヒルチャンが館に帰り着くまでには、時間にして行きのおよそ三倍を要した。というのも、ファイは帰り道を探すというより、「こっちだ」と思う方向に当たりをつけるや、進むのに飽きるかその方向に進めなくなるまでひたすら歩き続け、また方向を変え……それを飽きることもなく何度も繰り返していただけだったからだ。夜の世界の強靭な草木は二人が踏み荒らしてもすぐに立ち上がり、元のように戻ってしまう。先導するファイの視界には常に変わり映えのしない光景が映し出されていたはずだ。だが彼女は謎の自信に満ち溢れ、臆すことなく次々と道を決めていった。アヒルチャンはその後ろを、ただ無言でついて歩いていった。

 そうしてようやく彼女たちが辿り着いた場所は、館の門の真反対、裏手にあるヒビの入った煉瓦塀の前だった。

「どうしよう」

 ファイはアヒルチャンの背丈以上の高さを持つ塀を見上げ、考える。塀の上部には泥棒除けを兼ねると思しき鋭利な槍形の金属装飾が列を成して突き出している。年月の流れに屈したか、何本かは折れていたり、根元から曲がっていたりと破損しているものも見られるが、それらが描く不規則な影がかえって塀を不気味な様相に演出し、ここを乗り越えることは困難であると嘲笑っているようだった。

「この塀を壊せたらなあ……」

 物は試しと、ファイはえい、と気合をこめて掌で塀を叩いてみる。ぺちん、と情けない音が森に響き、消えていった。

 少し痛む手をさすりつつ、ファイは助けを求めるように後ろに立っているアヒルチャンのほうを振り向いてみた。アヒルチャンは今までと変わらず、何を考えているのか掴みがたい曖昧な微笑のような表情を浮かべながら首を傾げてみせた。そして塀の前に移動し、ファイと同様に平手を構え、

「えい」

 と言いながら、手を押し付けるようにして、難なく塀を突き崩した。


「アヒルチャン、力強いんだね」

 突き出した釘や槍飾りの先端を踏まないよう足元に気を付けながら、ファイは瓦礫と化した塀を踏み越える。声をかけられたアヒルチャンはいつの間にか、既に屋敷の敷地内にいた。先ほどと同じように首を傾げるようにしてファイを見つめ、姿勢良く待機している。

 待たせては悪いと、ファイは瓦礫の山から飛び降りる。着地にやや失敗してつんのめりバランスを崩しかけながらも、腕を振り回してなんとか姿勢を持ち直し、そのままアヒルチャンに向き直って胸を張った。そして片手で古びた館を指し、自慢げな表情を作る。

「じゃーん、これが私たちのおうちです!」

「おー」

 アヒルチャンは抑揚なく感嘆し、黄色の手をパチパチと打ち合わせた。

「ここでずっと暮らしているのですか」

「ううん、ここで生まれたの。ついさっき。見た感じ、誰も住んでないみたいだから、貰っちゃおうと思って」

 ファイは苔むした館の壁面を払いながら言う。長年放置されていたらしい館だ。この中はどうなっているのだろうか。過ごしやすい場所でもあればいいが。ずっと硬い石の床に寝ていたのだから、よほど悪い環境でもない限り休む場所に文句をつけることはないだろう……。そんな思いを巡らせてみた。

「じゃあ中に入ってみようか、アヒルチャン。……アヒルチャン?」

 振り返って見ると、アヒルチャンはファイを見つめたまま固まっていた。表情は例によってあまり変化がない。だが、まじまじとアヒルチャンの顔を見つめていたファイは、彼女の目が僅かに見開かれているような印象を受けた。

「アヒルチャン、ここに住むの嫌だった?」

 心配げに問いかける。ファイはここ以外に、住むのに適した場所を知らない。もしアヒルチャンがここを気に入らないなら、他の場所を探さなければいけない。そうなればまた森の中に繰り出さなければならない。森を抜けるには何日かかるだろうか。

 そんなファイの焦りと戸惑いの表情を受け、アヒルチャンはやや慌てた様子で首を横に振った。

「それは違います。私は……」

 しかし言葉は続かない。アヒルチャン自身、自分の抱いている感情を掴みかねているようだった。先ほどのファイを真似て腕をぶんぶんと振り回し、ようやくアヒルチャンは続きの言葉を発した。

「中に入ってみましょう」

 前後で文章は成立していなかったが、ファイはアヒルチャンの表情が先ほどまでの、不気味なほどに揺らぎのない穏やかなものに戻っていることに安堵し、

「うん」

 とにこやかに頷いた。


 経年により変形したのか、異常に重くなった正面の扉を、アヒルチャンが無理矢理こじ開けた。二人は開いた扉から中を覗き込む。

 館の中には当然人工的な灯りなど無く、厚く堅牢な壁は微かな月明かりさえ通していなかった。

「アヒルチャン、前見えるよね?」

「見えますよ」

「私も見える。じゃあ大丈夫だね」

 二人は人間であれば一寸先も見えないほどの暗闇を、意に介さず先へ進む。人ならざる目が持つ暗視の能のおかげだ。

 かつては荘厳な威容で客人を出迎えていたであろうエントランスホールは、今やまさに廃墟の様相だった。絢爛なシャンデリアは床に落下して無数の破片と化している。入り口から見て正面にあり、突き当たる壁際でT字に分かれる装飾階段は、中途で崩れ大穴を空けていた。正面の壁に掛けられた肖像画らしき額縁は、描かれている人物の性別すら判別不能だ。壁紙や絨毯は腐敗し破れ、露出した床や壁が寒々しい印象を駆り立てる。格調高い彫像や家具の類はどれもひび割れて埃を被り、放置されて久しい蜘蛛の巣が固まっていた。

 ファイは蜘蛛の巣を指先で突いて壊し、不思議そうにしばらく観察してから振り払った。

「あの石の部屋よりは賑やかだね」

「雨風がしのげるのはいいですね」

「アヒルチャンは今までどこで暮らしてたの?」

「色々ですね」

「そっかー」

 ファイは階段を軽快に駆け上がり、大穴の前で止まった。穴の向こう側までの距離はファイの身長二人分程度。飛び越える自信はない。

「二階はダメだね、一階から探検しよう」

 後ろをついてきていたアヒルチャンに告げ、ファイは階段を駆け下りる。アヒルチャンもそれに倣った。

「さて、何から探そうかな。アヒルチャンは何から探したい?」

「お腹が空いてきました」

 アヒルチャンが立ち止まり、腹部を片手で押さえる仕草をした。

「そっか、ずっと歩き続けてたもんね……」

 空腹という感覚をファイは理解していなかったが、それが時間の経過とともに訪れるものであることは知っていた。そして、空腹を解消する手段である『食べる』という行為について、実践してみたいという欲求も生まれた。このとき既に、この館がどれだけの長い時間放置されていたかということは、ファイの頭から抜け落ちていた。

「よーし、じゃあ食べ物を探しに行こう!早く見つけたいし、二手に分かれて……私はこっち!」

 ファイは森で迷子になっていたときと同じように適当な方向を定め、その方向に見える部屋に向かって小走りで向かっていった。取り残されたアヒルチャンは相変わらず、なんとも名状しがたい無表情のまま首を傾げていた。

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