アヒルテイルズ・ドールハウス
Φ
Artifact:01 義体人形
それは元々、透き通るような白だった。
苔生した石壁に囲まれた灯りの無い部屋、その中心に横たえられた、少女の形の《人形》。本物の人間のように精巧に、大きさや質感まで再現されたその人形は、この名も亡き洋館の傍に造られた古さびた石小屋において尚、尋常の者には不可侵とさえ思わせる清廉さを保っていた。
だがそこには尋常ならざる《常夜》があった。明けない夜を幾日も重ねて、漸く夜はその人形につけいる隙を見出した。長い時をかけ、夜はまず人形の纏う柔らかな白の衣を暗く染め上げた。壊れて崩れた天井は、その穴から絶え間ない夜空を覗かせ、抱く無数の星々の煌めきを人形に投げかけた。人形の長い髪が完全に星空の色に染まるまでには二倍の時を要した。その達成を見届けると、夜は人形の首にかけられていた魔除けの祈りが込められた十字架の首飾りを、嘲笑うかのように小さな十字飾りのついた黒いチョーカーへと変貌させた。これは夜が人形を征服した証であった。最後に、月が淡い光を与え、人形の肌は淡い黄色に輝いた。
それからさらに時を経たある日のことだった。夜を全身に得た人形はついに、ここに置き去りにされて以来ずっと閉ざされたままだった瞼を開いた。瞼の下は既に、夜によって真っ黒に染められていた。天井の穴から円かなる月が生誕を祝福するように人形をまなざすと、漆黒の目に月の光を帯びた瞳が浮かび上がり、人形は《彼女》となった。
上体を起こし、試すように首を左右に動かす。深い夜の色の長い髪が揺れ、髪に点々とばら撒かれた星々が淡く明滅した。薄く黄色味の差した小さな手をゆっくりと握り、またゆっくりと開いてみる。これが彼女が初めて得た体の感覚だった。思わず笑みが零れ、彼女はその感情を味わってまた歓喜した。
ひとしきり上半身の感覚を楽しむと、次に彼女はゆっくりと立ち上がった。当然初めての試みだったが、不思議と立つこと自体に難は無かった。硬い床を靴越しに踏みしめる感覚。足を踏み出す。歩ける。何処かへ行ける。ならば行こう。こうして彼女は、幾星霜を共に過ごした部屋を後にした。
小屋の扉から外に出ると、彼女の目の前には古びた洋館が聳えていた。煉瓦造りの洋館は建築者の腕が良かったのか、彼女の安置されていた小屋同様に僅かに崩れている箇所こそあれど、概ね屋敷としての外観を留めているようだった。
彼女は屋敷の中に入る前に、庭を探索することにした。庭といえども、長い間手入れがされていないために、ほとんどただの荒地同然の有様だった。無造作に伸びたみすぼらしい草木は、薄く灰色に濁っているようにさえ見える。この夜に閉ざされた世界に、庭を賑わすような華美な生命は息づいていないようだった。
少し歩き、彼女は石小屋の傍に寄り添うように建てられた一つの墓石を見つけた。ここまでで歩くことに特に苦の無いことに気づいた彼女は、小走りでそれに近づいてみた。生まれたばかりの彼女にとって、目に映るものすべてが止めどない好奇心の対象だった。手で墓石に着いた土や苔を払うと、石に刻まれた名前らしき文字列が現れた。彼女はその文字をゆっくりと、一文字ずつ読み上げていく。それは初めて聞く自分の声だった。
「P……H……I……」
それ以上は、墓石に入った亀裂で文字が潰れており、読むことはできなかった。だが彼女は文字が読めたこと、そしてそれを口に出すことができたことに満足した。彼女は墓石から離れた。
その後、館の周りを一周ぐるりと歩いてみたが、特に興味を惹かれるものは無かった。館の正面の門やその柱も確認してみたが、この館の持ち主のことは何も分からなかった。館の方に目を向けるが、中に誰かがいる気配もしない。それなら、ここに置かれていた自分が貰ってもいいだろうか。そんなことを考えていると、彼女の視界の隅に何かが映った。
それは黄色……彼女の肌よりも鮮やかで眩しい黄色の人影だった。屋敷の外に広がる深く暗い森の中、その木々の合間に、黄色い人間が立っていた。彼女は好奇心の赴くまま門を抜け、その人影の方へと歩き出した。
日の差さなくなったこの世界においても、この森の草木は不気味なまでにうっそうと生い茂っていた。その得体の知れない植物の識別ができるほどの知識を彼女は備えていなかったが、それが草木というものであることは知っていた。長いものは胸元ほどまである雑草を掻き分け、彼女はその影に近づく。だが草木の向こうにいたはずの黄色の存在は、いつの間にか闇に溶け込むようにして消えてしまっていた。彼女は慌てて周囲を見回す。視界の隅、木々の狭間に黄色い光が見えた。小走りで近づく。また消えた。見回す。黄色い光。追いかける。また、消えた。
何度繰り返しただろう。気付くと彼女は森の中でも少しひらけた場所に辿り着いていた。見上げれば円形にくり抜かれた星空が見える。彼女はふと、周囲を見渡した。高い木々に阻まれ、彼女の身長では館の位置はわからない。……迷った、ということになる。
どうする。来た道を戻るなどという器用なことはできない。そもそも来た道を覚えていない。黄色の光を追っていただけなのだから、それ以外は眼中になかった。どうしたものかと思考を巡らせる。
「すみません」
そのとき突然背後から声がした。彼女はゆっくりと振り返った。
「道に迷ったのですが」
そこには黄色の肌の女性、らしき者が立っていた。身長は彼女よりも遥かに高い。長い髪は夜に溶けこむ暗い青。大きく開かれた目はヒトのもののようでありながら、その虹彩は底のない、塗り潰されたような漆黒だった。身に纏う白と青を基調とした給仕服のような衣装は、森の中を駆け回っていたにしては不自然なまでに小綺麗で、それがかえって人ならざる印象を強調している。そして、背からは体格からすれば飾りにしか見えない大きさの蝙蝠のような羽が、不可思議に衣装を貫通して広がっていた。これだ。これを追っていたのだと彼女は気付いた。
「すみません、道に」
「私も」
表情を変えずに同じ言葉を繰り返す黄色の女性に被せて、彼女は言った。月の光を抱く目で、その漆黒の目を見上げながら。彼女は何故か高鳴りを感じる己の胸に、鼓動を押さえるように手を当てて続ける。
「私も迷子」
「あら」
黄色の女性は僅かに目を見開いた。そして、互いに発すべき言葉を失ったようにそのまま固まった。
数秒間無言で見つめ合う。綺麗な顔立ちをしている、と思った。他の
「貴女は誰?」
意を決して沈黙を破り、彼女は質問してみた。初めて出逢った他の生命だ。仲良くなれればいいと思った。
問われた黄色の女性は、少し悩むような表情を見せた。そして口を開いた。
「黄色いからアヒルチャン、と言われました」
「アヒルチャン」
何度か口の中でその言葉を繰り返す。その名前を頭に刻みつけるように。
「素敵な響きだと思う」
抱いた率直な感想をアヒルチャンに述べた。その名が抱く意味も経緯も知らず、比較するものもない。心に湧いた純粋な想いだった。そして続けて自分も名乗ろうとして、彼女は思い至った。自分の名前を彼女は知らない。だが、このアヒルチャンと名乗る女性と接するにおいて、自分の名前がないというのは不便だと思った。何か、今ここで名前を考えてしまおう。
そのとき脳裏によぎったのは、あの石小屋の傍の墓石だった。生まれたばかりの彼女が見たことのある唯一の文字列。
「PHI……ふぁい。そう、私の名前はファイ。宜しくね、アヒルチャン」
「ファイ」
アヒルチャンも彼女、ファイと同様に繰り返す。
「素敵な響きだと思います」
アヒルチャンは僅かに微笑んだ……ようにみえた。そうあって欲しいとファイは思った。
雲間から差す月明かりが二人を照らしていた。生まれたばかりのファイにとって、目の前で月光を反射する鮮烈なまでの黄色の光こそが、夜に閉ざされたこの世界において最も明るく、美しいもののように思えた。そしてアヒルチャンは、目の前の夜の具現めいた少女を、ただ不思議そうに見つめていた。
「……さて、どうやって帰ろうかな」
「どうしましょう」
「……アヒルチャンは何処に帰るの?」
「さあ……」
「……一緒に来る?」
「そうですね」
夜に生まれた小さな少女、意思持つ義体人形の物語。
はじまりはじまり。
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