第22話寝不子

 






「ぅうううぅううっ、ゴウぢゃあぁあん」


「うるさい、眠い」


 幼子が眠るベッドに、女が頭を突っ伏し泣き喚いている。


「ママが嫌いになっぢゃっだのおぉおっ?」


「うんうん、嫌い嫌い。泣き虫な安眠妨害ママは大っきらいですよー」


「うぞづぎぃいいっ」


「あーもー!うるさいなあっ!」


 薄い毛布を蹴り上げ身を起こした幼子は、どすんと音を立ててベッドから降りると、おいおい泣き喚く女を無視してランドセルをまさぐった。


「・・・ごうぢゃん?」


 自由帳にマジックで何かを書き込むと、そのページを切り離してぱたぱた折り畳んでいく。完成した不格好な鶴を、きょとんと見下ろす女の手に押し付けた。


「コウちゃん・・・?」


「僕の一(いち)を貸したげる。これは、お母さんの辛いを幸せにするための一だから。僕がいない間も、お母さんが幸せでいられるように。ちゃんと持っててね!無くしちゃ駄目だからね!」


 女は泣き腫らした目蓋を眩しそうに細めて笑った。



 ◆◇



 東に覗く太陽が空を暁色に染め上げていた。

 跪き陽射しを見上げる大西を影が遮った。


「御尽力、感謝します」


 幸一の姿を得た鼠が、気色満面の笑みを湛えて大西を見下ろした。


「君が全てのバグを取り除いてくれたお陰で、無事にTrue Endを迎えることが出来そうだ」


「・・・True?」


 酷く喉が乾いていた。無理に絞った声は無様に震えていた。


「自分勝手に書き換えた結末が?真実?」


「気に入らない?それは失礼。正直位置付けはどうでも良かったもので。君のお陰でHappy Endです。どうもありがとう」


 鼠は陽射しを一身に受けながら、全く紳士のように完璧なお辞儀を跪く大西に向かってしてみせた。


「俺は干渉出来ないって、言わなかったか?」


「お前さん、受け取ったろう?そら、それで丁度三千時だ」


 背後から紫煙が烟(けぶ)る。褐色の着物を纏った青年が緋色の煙管を吹かして笑う。

 大西の手には金色の小さな鍵があった。ゼンマイの巻き鍵のようなそれは、取り落とす間もなく皮膚に沈んだ。


「君に賭けて本当に良かった。御老体にも、心から感謝します」


「なあに、お前さんの執念が勝ったのさ。まさか足りねえ分を他所で賄うとはなあ」


 鼠は朝日を浴びてくるくると回る。全身で生を謳歌しているような明るく晴れやかな声で言った。


「不思議ですねえ。あんなに憎らしかった朝日が、今では名残惜しいくらいに温かくて、とても美しく見える」


「最初から、このつもりだったのか」


 大西の言葉に振り返った鼠は、まるで劇を演じているような大仰な身振り手振りで語った。


「お気持ちはご最も。ですがご安心を!以前の僕、つまりバグだらけの君のご友人は、なんと君のことも考えていたのです。まあ、僕としてはそういう詰めの甘さが最悪を招いたのだと思うのですがね。ともかくとして、この結末には、ちゃんと君の勝手も含まれています。御尽力下さった対価にきっと見合うことでしょう」


「だけど結末は変わらない」


「嗚呼それは仕方がない。死した誰かを生かすには代わりになる誰かが必要だ」


 鼠はまるで友人のように朗らかな笑みを浮かべて空に手を伸ばした。身を大きく仰け反らせ、まるで太陽にも届くと本気で信じているようだった。


「・・・・・許すよ」


 音を出すと、渇いた喉がひりひりと痛みを訴えた。ぱさぱさになった唇は動く度にぴりぴりと薄皮が避けていった。


「許すから、一緒に連れてってくれよ」


「・・・或いは、君の友人は、只この瞬間を望んだのかもしれない」


 真っ直ぐに空へと伸ばした指先がゆっくりと光に落ちていく。


「止まない時間が、こんなにも」


 東に浮かぶ太陽に幸一の指先が重なり、そうして離れていった。


 揺らぐ紫煙と遠い陽射しがその身を焦がして搔き消した。





 ◇◆





 僕には夜の時間がありました。

 アナタと二人きりで過ごした夜の時間が僕の全てでした。


 アナタを泣かせてしまった日の夜のことです。

 渡せなかった贈り物を気紛れに鳴らしていると、音に誘われるようにアナタが現れ僕の隣に座りました。

 アナタは決まりの悪そうな顔をして、また謝って、僕にホットミルクを渡しました。

 お詫びのつもりだったのでしょうが、それは火傷するくらい熱くて馬鹿みたいに甘くて、笑いが止まりませんでした。


 アナタが泣いた日や僕が酷かった日には、夜の窓辺で鍵を巻いて誘われるアナタと沢山のお話をしました。

 悲しくも辛くもない昔噺は幸せに満ちていて、僕は寂しくなった。

 次第に過去を再演するアナタに、僕は当てずっぽうで返事をしました。

 アナタは笑ってくれましたがね、果たしてどれか一つでも合っていたんでしょうか。


 未来のことばかりを話す過去の再演に僕は寂しくなったり苦しくなったりして、それでもアナタは楽しそうに笑うので、僕は幸せでした。


 いつからか、差し出されるカップが白から青に変わって、白いミルクが黒い珈琲に変わって、馬鹿みたいに甘かったのが痛いくらいに苦くなりました。


 構いませんよ。夜は夢を見るものですから。


 何度目かのお芝居を演じた夜のことです。カフェオレで満ちた赤いカップを両手で包み、アナタは幸せそうに言いました。


「この子が大人になったらさ、そしたら家族皆でお酒飲もうよ。ぜっったい楽しいよ」


「先の長い話ですねえ」


「あっという間だって」


 知ってるんですよ。お酒なんて、どうせすっごく不味いんだ。

 考えてもみて下さいよ。大の男が恥ずかしげもなく大好きだなんて言えるのは、大抵とっても苦いかとっても辛いに決まってるんだ。

 飲みたいわけないでしょう。そんなもの。


 だけど、まあアナタがどうしてもって言うんなら。叶えたいと望むなら。ほんの一杯くらいなら。いえ、やっぱり一口で結構です。一度っきりで十分満足です。

 僕もアナタとお酒が飲みたい。


 アナタと杯を交わして、下らない話をして、つまらない過去を幸せに語ってみたいです。話に花を咲かせて、たまに古傷を二人で舐めてみたりして、アナタは泣いたりして、僕は弱音を吐いたりなんかして、いつか、そんな夜を過ごしてみるのも、悪くはないんじゃないですか。


 叶いますかね。どうでしょうね、わかりませんね。

 アナタはあっという間と言いますが、僕にとっては途方もないくらい先の長い話だ。

 まあ僕は我慢のできる大人ですからね。気長にお待ちしてますよ。

 いつか大人になったその日に二人で祝杯を掲げれば、辛く苦しい道程もきっと優しい過去に変わるのでしょう。





 ◆◇



 弟は大人しい奴だった。

 人見知りというのではなく、単純に人と関わるのが煩わしいという奴だった。

 その気になればいくらでも打ち解けられるはずなのに、いつまで経っても俺の後ろに控えているような奴だった。


 双子というには、あんまり似ていなかった。

 二卵生だからかもしれないが、何もかもが真逆をいった。

 俺は父親に似て髪が黒かったが、弟は母親に似て髪が茶色かった。

 とかく外で遊びたがった俺と違って、弟はとかく母親の傍にいたがった。

 そのクセ、母親のもとを離れて祖母の元で暮らすことになったとき、俺は大泣きしたのに、弟はこれっぽっちも泣かなかった。


 沢山の友達と校庭を走り回る俺を、輪に加わるわけでもなく、羨ましがるわけでもなく、ただ眠たそうな目をして、微睡んでいるような顔してぼんやり眺めていた。


 常に飄々としていて、どこかつまらなそうで、大人ぶってすました態度が嫌いだった。


 祖母の手伝いばかりをする弟を、女々しいことばかりしたがる奴だなとからかえば、そんなら夕飯はいりませんね、なんてあくどい事言って、そんなときにばかり笑う奴だった。


 根っからのお母さん子で、何かしらの記念日の度に電話して、母親の休みが取れた日には必ず会いに行く奴で、その時だけ、弟は俺の手を引いた。


 十三歳の誕生日、母親と家族三人で祝ったその翌日に弟は死んだ。



 気付けば廃墟の屋上にいた。

 何をしていたんだったか。

 手には使い古したボストンバッグとお土産の詰め込まれた紙袋。

 確か、今は春休みで、母の家に帰省していて、俺は祖母の家に戻る途中で。

 朽ちた屋上にぽっかりと空いた穴。見下ろせば、遠くに荒れた広間が見える。その広間の真ん中に、花のように中身を散らした弟の姿が重なった。

 俺は弟が死んだ場所に来ていた。


 陽は既にかたむいていて、空は茜色に燃えている。遠い西陽に眼を細めた。

 弟が死んで、およそ三ヶ月。熟れた傷は塞がらず、もしかしたら、このまま一生血を流し続けるのではないかとも思う。

 それでもいつかは忘れるだろう。みんなそうやって、傷を抱えて生きている。

 ぼたぼたと爛れた肉が身の底に溜まっていくような、日に日に鈍重になっていく身体に言い聞かせる。


(いい加減、帰らないと)


 常に毅然とした態度でいる祖母は、弟の葬式でも凛と背筋を伸ばしていて。ついぞ泣くことはなかった。

 俺も、泣きはしなかった。棺の中で綺麗に整えられたその姿を見下ろしても、焼かれて残った骨を摘んでも、あれが死んだのだという実感が得られなかった。

 ともすればひょっこり出てくる様な気がして。当たり前のように俺の後ろに控えている錯覚をしたりして。

 いい加減にしろよと、自分自身に舌を打つ。


 ぽっかり空いた穴から振り返ったちょうどその瞬間に、上空から一枚の羽根が落ちてきた。真っ黒なそれは、おそらく鴉のものだろう。ゆっくりひらひらと目の前を落ちていく羽根を、なんとはなしに掴んでみる。何でも触ってみたくなる年頃だ。


 それは黒い端末だった。


(なんでだよ)


 平たくて固くて、羽根よりは重い。寝不足が祟って、見間違いをしたのだろうか。それにしたって、ここは廃墟の屋上だ。


 突然、画面が明るくなる。そこには発信画面が表示されていた。

 どうやら、この端末が勝手にどこかへ掛けているらしい。ホラーじみてきた。


 捨ててしまおうとして、ふと既視感に気付く。

 画面に表示されている呼出番号を、どこかで見たことがある気がした。

 画面が切り替わる。電話の向こうから声が響く。


 《モッシー♪》


「誰だテメエ」


 《かけてきといて》


 ずば抜けて陽気な声だ。聞いてる此方が心配になるほど気の抜けた能天気な声が、電話の向こうから響いてきた。


 《ユキだよユキ。そんなに声変わってる?》


(・・・ユキ?)


 聞いたことがない名前だ。当たり前だ。知らない端末が勝手に掛けた番号なのだから。



 “はっはっはっはっは!我が名を畏れよ!”



「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 《マコト?どした?》


 長く沈黙する俺に、電話の向こうのユキが怪訝そうな声で名前を呼んだ。



 “マーくーん、マーボー、マー・・・・・・麻婆茄子”



「うるせえよ」


 《かけてきといて》


 ばらばらに砕けていた破片を噛み合わせていく。もう二度と離れないよう、固く強固に繋ぎ縫い合わせていく。“バカめ・・・・・・残像だ!!”腹立つ記憶ばかりが先立って思い出されるのは何故だろうか。


 空を仰げば、西に陽が傾いていた。成程確かに美しい。だが、温かいとは到底思えない。

 胸の内が熱く煮え滾っているからだろうか。



「どうしようもないな、お前」


 《あ?》


「迎えに行くから、待ってろよ」


 《・・・はあぁ?》


 握り締めた端末が、ざらざらと灰に変わって零れ落ちる。


 鳥男に渡された、黒い羽根を思い出した。

 あのクソネズミが俺に賭けたように、鳥男も俺に賭けたのだ。


 それってつまり、お前も本当は、生きたいって思ってるんだろ。



 劣化し所々が崩れた階段を三段飛ばしで掛け下りる。時々つまづいて危うく転落死しそうになりながら、それでも足は止めずに駆け下りた。

 男を見つけたのは、でかい穴の空いた真下の広間だ。もう随分昔のことのようだ。


「おい!!クソジジイ!!」


 返事はない。広間の中に散らばったゴミを漁る。

 人ではない何かなら、きっと本体があるはずだ。オカルトとか大体そうだし。


 文字の掠れた書類の山、破れたボールペン、積み重ねられた事務机、空のスプレー、潰れたボール


(あの野郎が、妖だとか鬼だとか、人じゃない何かだとして)


 薄汚れて曇った小さな丸い鏡を拾い上げる。年代物にしたって古すぎるシロモノだ。

 服の袖で拭っても鏡面は曇ったままだ。やけくそ気味に手の甲で擦ると、つるりと傷一つないおもてが姿をあらわした。


 土と埃に塗れたその隙間から、薄茶色の髪が写り込む。瞬きをした一瞬の間にそれは掻き消え、鏡の向こうには、金色の眼を弓なりに歪めた老人が現れた。


「望みがあるな。叶えてやろう」



(さよならだ兄弟)





 待ちわびた旋律が廃墟に訪れる。

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