第21話已

 





 いつの間にか、真っ白な空間にいた。

 いつからここに居たのか、どうしてここにいるのか、皆目検討もつかない。

 着の身着のまま、端末どころか家の鍵すらない。ここがどこかわからないので、帰り道もわからない。


 果たして今は何時だろうか。

 母が帰ってきたとき、玄関に靴が無かったらきっと心配するだろう。


 立ち止まっていても仕方がないので、あてどもなくそこらを彷徨ってみる。

 地面には白い灰のようなものが積もっていて、歩くたびに少しだけ舞い上がった。


 延々と殺風景な空間を歩き続けていると、一人の少年が地べたに座り込んでいるのを見つけた。


 黒い髪の少年は、膝の上に乗せた両腕の中に顔をすっかり隠しているので、寝ているのか起きているのかわからない。僕がすぐ傍まで近付いてみてもピクリとも動かない。気付いているのか、気付かないふりをしているのかもしれなかった。


「こんにちは」


 声を掛けると、少年はゆっくりと顔を上げ、眠たそうに眉を顰めて僕を見た。


「ごめんね、ちょっと聞きたいんだけど、君はここがどこか知ってる?」


 少年は僕の顔をじいっと見つめ、それから自分の隣を顎で示した。


「まあ座れよ」


「え、いや、」


「座れよ、いいから」


 有無を言わさない圧がある。

 他にあてもないので、仕方なく僕は少年のとなりに腰を下ろした。


「あの、君はここで何してるの?」


「別に」


 あからさまに素っ気ない。

 まあ他人の僕がわざわざ知ることでもない。


「ねえ、君はここがどこか知ってる?知ってるなら教えてくれないかな。僕、道に迷ったみたいでさ、早く帰らなきゃいけないんだ」


「なんで?」


「え?」


「なんでそんな急いでんの?」


 気付けば少年の黒い瞳が僕を凝視していた。

 その目は何故か僕を責めているようで、身に覚えがないのに、僕は少しだけ言葉に詰まった。


「・・・家に、帰らないと。親が心配するんだ。君の親だって、いつまでも帰らなかったら心配するでしょ?」


「しないぞ」


 にべもなく少年は僕の言葉を否定した。それは少年自身のことではなくて、僕自身についてのことだと、理解が遅れるくらいにすっぱりと、少年は僕を凝視したまま動かない瞳で言った。


「お前の親は、お前が帰らなくても心配しない」


 まるで僕の全てを理解しているかのようた。

 家のことを他人にとやかく評価されるのが不愉快で、また不気味で、僕は少しだけ距離をとった。


「そんなの、他人の君には分からないだろ」


「分かるさ、俺はお前を知ってるからな」


 少年は平然と宣った。何故。僕は知らないのに。何故少年は知っていると言うのだろう。

 万が一どこかですれ違ったりしていたのだとしても、僕の家のことなんてわからないはずじゃないか。


「お前の親はお前の心配なんかしないし、帰ってないことにすら気付かない。お前のことなんかどうでもいいんだよ」


 流石に腹が立った。何故他人にそんなこといわれなきゃならないんだ。薄らと外面(そとずら)が剥がれそうになる。


「そんなの、君には分かんないだろ」


「分かるさ、お前、誕生日祝われたことないんだろ」


(・・・誕生日?)


 不思議と、誕生日の記憶が思い出せない。まるで剥ぎ取ったみたいに真っ白だ。


「おめでとうって言われたことないんだろ」


 覚えていない。だけど言われたことくらいはあるはずだ。

 何故少年はこんなに失礼なことを言うのだろう


「なんでそんなヤツのトコに帰りたいんだ?」


 正直、もうあまり話したくないなと思った。

 けれども、少年以外に人はいない。家に帰る方法もわからない。

 どうしようもないので、僕は少年の問いについて考えた。真っ白で何の時間潰しにもならない空間に目を凝らして考える。


「・・・好きだからかなあ」


「酷いヤツなのに?」

 

「酷くないよ。うちの親は優しい人だよ。優しくて不器用な人なんだ。あとちょっとひねくれてる。仕事は器用なんだけど、家のことは不器用なんだ」


 こんなにバカにされてしまえば、いっそ気楽なものだ。なんだか逆に気楽になって、家族や友人にだって言わないようなつまらないことを話してしまう。


「本当に駄目駄目だよ。料理はからっきしで、味噌汁一つ作れないし、掃除も下手で、僕の倍時間が掛かるし、終わったあとは大体何かしら探すんだ。洗濯はタオルをネットに入れないで服と一緒に回しちゃうし、大きな毛布も平気で洗濯機に入れちゃうし。なのに仕事はバリバリ出来て、色んな人から慕われてて。職場の人は沢山叱るのに、僕のことは何したって叱れないんだ。おかしいよね?だって自分より大きな男を叱り飛ばす人が、こんな子どもの僕を叱れないんだ」


「興味ないだけじゃね?」


「違うんだよ、母さんはね、嫌われるのが怖いんだ」


 自分から聞いたクセして、少年はつまらなそうだ。

 僕はそんな様子にも構わず話を続ける。

 家族のことを誰かに話すのなんて初めてだ。なんだか楽しい。


「怖がりなんだよ。怖がりで強がりなんだ。その上臆病者の泣き虫で、毎日何かしらを後悔してばかりいて、あるかもわからないもしもに怯えてばかりいて、」


「メチャクチャ面倒くさいな」


「そうだね、メチャクチャ面倒くさい。一緒にいるのが嫌になって、散々酷いことをいったこともある。与えられるものを拒んだりもしたよ。だけどさ、親は結局許してくれるんだよね。僕がたくさん間違っても、嫌な奴でも、結局は離れないでいてくれるんだ」


「保護者の責任だろ」


 堪らず声を上げて笑ってしまう。

 なんでだろう。どこかで似たような言葉を何度も聞かされたような気がする。

 厳しいけど優しい誰かが、言い訳みたいに何度も言ってた気がするんだけど、誰だったか。


「そうかもね、だけどそれってすっごく大変なんだよ。大変なのに当たり前みたいにやっちゃうから、なんだか別のそういう生き物なんじゃないかと思うときがあるよ。多分、僕には一生わかんないんだろうなぁ」


 当たり前だと思えるようになったら、そうやって与える人になれたら、母を幸せにできるだろうか。今まで与えられた幸せを返してやることができるだろうか。

 今までしてきた酷いことは、いつか償える時が来るんだろうか。


 つまらないことを覚えている。些細で下らない思い出ばかりが、どうしてかいつまでも消えずに残っている。

 初めてホットケーキを焼いた時、ぐしゃぐしゃの黒焦げになったソイツを、母は笑って全部平らげてしまったこと。

 学校で熱を出した時、迎えに来た母が保健室で大号泣して、先生に慰められていたこと。

 一緒に出掛けた遊園地、まだ小さかった僕は乗れない物が多くて、母は徹夜明けで疲れていて、結局殆どをベンチで過ごしたこと。しょげかえって謝り倒す母に、下らない作り話をして、笑ってくれたこと。

 ヒーローごっこを強請って、よくわからない母がよくわからないままに悪役を演じて、いつの間にかヒーローの仲間になってしまって、そんなことに腹を抱えて笑い倒したこと。

 母は覚えているだろうか。

 あの遊園地、今の身長なら全部網羅できると思うんだけど。


「もういい」


 気付くと、少年は来た時のように顔を腕の中にすっかり隠してしまっていた。


「わかった、もういい、うんざりだ」


「・・・ごめんね?」


「謝んなやボケ!!」


 何故か、随分怒らせたらしい。少年の怒声は空間に広がりどこにもぶつからないまま溶けていった。


「泣いてるの?」


「泣いてねえよ、見りゃわかんだろが」


 見えないよ、隠してるもの。

 なんだか小さい子どもを相手している気分になってきた。何で怒っているのか知らないけれど、仕方がないから、隣に寄って、俯く頭を撫でてやる。少年が、小さな声で何かを呟いた。


「・・・え?」


 きょとんとして真っ白な上を見上げると、強かな舌打ちが響く。短気だ。

 少年は、今度は聞こえる声で呟いた。


「幸一」





 彼は至極安堵した様子で、僅かに眉を下げて微笑んだ。


「ありがとう」


 音もなく崩れ落ちて灰へと消える少年に、大西は再び舌打ちをする。反して、弱々しい声で囁いた。


「呼ぶなっつったの、お前だろうが」





 ◇◆






 とっくの昔に忘れているものだと思っていた。

 子どものいい加減なおまじないだ。

 僕だって気にしてなんかいなかった。


 薄汚れた紙片を握り締めた手に頬を寄せる。冷たい現実が皮膚に滲んで溶けていった。




 冷蔵庫を開くと、入れっぱなしだったケーキが一切れ欠けていた。

 一瞬、帰っきたのか、なんて考えて冷蔵庫に頭を打ち付ける。


 あの日。ずっと泣き声に耳をすませていて、だけどいつの間にか眠ってしまっていて、玄関の扉が閉まる音で目が覚めた。だから、きっと出ていく前に気付いたんだ。


 ケーキが乗った皿を冷蔵庫から取り出した。

 格子模様、思ってたより綺麗に出来てたんだ。

 ゴミ箱はあの日からそのまんま。

 中を覗きこんで、残骸が見当たらなくて、その場に座り込んだ。とても眠かったのだ。


(全部、食べてくれたんだ)


「感想、教えてよ」


 残ったケーキは皿ごとゴミ箱に捨てた。



 暫くの間、祖母が家に泊まっていた。

 引越しの日まで居座ると言う祖母を、大丈夫だからと何度も説得した結果、年明けには帰っていった。



 いつも通りの日々だ。

 毎朝、日が昇る頃に起き出して、走って、家に帰って、汗を流して、身支度を整えて、テレビを見ながらパンと珈琲を腹に詰めて、歯磨きをして、学校に行って、授業を受けて、購買でパンを買って、クラスの仲間と食べて、授業を受けて、家に帰って、庭の様子を見て、夕食をつくって、端末を見ながら腹に詰めて、歯磨きをして、風呂に入って、課題をやって、ゲームをして、布団に潜る。

 繰り返し。繰り返し。繰り返し。

 同じことを延々繰り返した。


 いつの間にか春休みだ。

 家中の時計から電池を抜いて、端末の電源を切った。


 布団に潜って、夜になるのを待って、日が沈んだころに、カーテンを開いて、出窓に座って。

 藍色のオルゴール。いつものように鍵を巻いた。

 メロディが流れて、ぼんやり聞いているうちに、いつの間にか止んでいて。

 繰り返し。繰り返し。繰り返し。

 終わる度に巻き直した。そのうちに空が白んできて、太陽が空を染めた。

 外を走って、帰って汗を流して、腹を満たして、歯を磨いて、布団に潜って、夜になるのを待った。延々繰り返した。


 幾度目かの朝、雨が降った。

 手持ち無沙汰になって、窓辺に寝転んで、クリア済みのゲームをもう一度。イヤホンでエンディングを聞き流しながら雨を眺めた。

 水遣りなんてしてなかったのに、庭には沢山の蕾がなっていた。


(荷物、纏めなきゃなあ)


 立ち上がると、イヤホンに引っ張られたゲーム機が床を離れて、けれどすぐに耳から外れて、床に落下した。


 いるものを探したけど、なかなか見つからない。案外、必要なものってないもんだ。

 何かあるかと漁ったら、食器棚の奥に追いやられた白のカップを見つけた。

 とっくの昔に使わなくなった僕のカップだ。

 物心ついた頃から家にあった、家族三人揃いのカップ。二人のカップは墓前に供えた。


 残ったコイツはどうしようか。考えていたら、うっかり手を滑らせて床に落としてしまった。

 考えてみれば、コイツも要らないものだった。

 だってコイツはもう何年も前から使っていない。




 夜になったから、いつものように鍵を巻いて、太陽がくるまで繰り返した。


 また幾度目かの朝、いつの間にか、庭の花が全て綻んでいたことに気が付いた。


 花は、母が好きだったから世話をしていた。善し悪しなんて分からなかったが、子どもの頃は綺麗に咲けば喜んでもらえると思っていた。

 花の品種や花言葉なんかに興味はなかったが、子どもの頃は覚えたら喜んでもらえると思っていた。

 今になって気付いたが、喜んでもらう、なんてのはぜんぶ建前で、本当はただ褒めて欲しかっただけだ。認めて欲しかっただけだ。

 建前でも構わないから、頭を撫でて抱きしめて欲しかっただけだ。


 夜になった。鍵を巻いた。太陽が来るまで繰り返した。



 引越しの当日。クラスの仲間が駅まで見送りに来た。餞別だと言って大量の菓子と色紙を渡された。改札を通って手を振り返して、ホームに降りてから日が沈むのを待った。

 日が落ちてから改札を出て、駅近くの廃ビルに向かった。真新しいバリケードを乗り越え、ところどころ崩れ落ちた建物の傍を歩いて、他に比べて綺麗になったその場所に座り込んだ。

 鍵を巻いた。暫くメロディが流れて、音が止んで、壁にぶつかって、音を立てて砕け散った。


 期待してなかった。信じてなかった。最初から、夢だとわかっていた。

 夢を見た。夢を見ていた。馬鹿馬鹿しい。



 僕だって、本当は愛してなんかいなかった。

 自分を認めて欲しかっただけだ。自分を褒めて欲しかっただけだ。愛してほしかっただけだ。

 嘘でも構わないから、本音が良いなんて言わないから、一度きりで十分だから、僕を生んだことを「良かった」と言って欲しかった。

 今になって知った。すべて手遅れになってから気付いた。

 否定の言葉には慣れっこのつもりだったが、本当は、僕はそれが嫌になって逃げたんだ。


 結局僕は、自分可愛さに母を殺したのだ。

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