第20話俑
バタン、扉が閉じる。真っ暗闇。
大西は目を凝らしてあの貧弱な光を探したが、一向に見えてこない。
もしや扉を潜らなかったのではないかと、振り返って手探りにドアノブを伸ばすが、いくら両手を彷徨わせても、前に歩いてみても、ノブにも扉にも当たらない。
(あの野郎、言ったそばから消えやがる)
仕方が無いので、暫くそこらを歩いたり跳ねたり走ったりしてみたが、どこかに行き当たる様子もどこかへ落ちる様子もない。
どうしたもんかと首を捻り、大西は地面に胡座をかいた。
「・・・・・・・・・シーロー」
ぽつり、呟いても返事はなし。声が反響することもなく。沼に沈み込むように溶けていった。
「ホンット肝心なとこで使えねんだよなあのハゲネズミ」
「失礼な」
隣に居た。
平然と応えするシロウに、大西は、コイツとは血管がいくらあっても足りないと理解した。
「居るなら返事しろよボケ」
「今したでしょうが。大体君がだんまりしたままあちこち動き回るのがいけないんですよ」
声のしたあたりに手を伸ばせば、たしかに人らしきものに触れた。直後すぐに弾かれる。
「首を掴む奴がありますか」
「見えねえんだよ」
役に立たない視界の中で、これ見よがしにでっかい溜息が響く。
妥協案として、手を繋ぐことにした。
お互い不満なもので、手を繋ぐというより、指先を引っ掛けあっているというのが正しい。ついクセで手を揺らしていると、指先から隣の肩が震えるのを感じた。
「・・・・・・お前、笑ったろ」
「・・・・・・、いいえ?」
何の目印もないので、大西には進んでるようにも回ってるようにも、足踏みしているようにもおもえたが、シロウの足は戸惑う風もなく、ゆっくりとした歩調で大西を導いていた。
「お前、もう光らないのか」
「君には光って見えたんですね」
「灯りにもならねえくらいヘボかったけどな」
「何にも使えませんね」
暗闇の中に目を凝らして道標を探すが、見つかるよりも先に目蓋が下がる。手を引かれるばかりで手持ち無沙汰な大西は、そんなことを繰り返していた。
「何にも使えなかったけどよお、ちっとは役に立ってたっぽいなあ」
「おや、それはなにより」
大西の友人に瓜二つな声は、まるで他人事のような感想を洩らす。
「今なら一番役に立ったのになあ」
「全くですよ」
「お前、生きてんだなあ」
触れる指先はあたたかかった。シロウは、途端に声を硬くして言った。どこか責めるようだった。
「君は何のためにここに居るんですか?」
「はあ?」
「諦めるのは君の勝手ですがね、目的を忘れるのはいけませんよ。諦めても目的は覚えたままでいなさいよ」
「なんか意味あんの?」
「さあね。わかりませんね。ですが探し物ってのは、大抵すっかり諦めちまったころにひょっこり出てくるものでしょう。ひょっこり出てきた時に、うっかり捨ててしまわないよう、ちゃんと覚えておきなさい」
「説教臭くてムカつく」
上から目線な言いようが不満で言い返した言葉は、思っていたより幼稚に響いた。
くすくすと、指先無効の肩が震える気配がする。
「そうですねえ、中々上手くいきませんね」
「大人ぶってんじゃねえよ」
「そういうお年頃なんですよ」
一時間だか、三十分だか、或いは三分かもわからない。指先が離れた。
「シロ?」
「しゃがんでみなさい。君の目の前にありますよ」
言われるままに跪いて、手探りにソレを探す。指先に何かが食いついた。
「いぃっってえぇ!!?」
「安易に手を伸ばしましたね。愚かな」
「お前が!言えよ!?」
慌てて振り払った手をなぞれば、触れた指先にピリピリと痺れる感覚がした。
(コノヤロウ)
対象は噛み付いたきりで飛び出してくることも、鳴き声を上げることもなかった。
それでも、なんにも見えない空間で、よくわからん生物と向き合っているのかと思うと良い気はしない。
どうすんだと問掛ける前に、聞こえてくる音色があった。それは黒い蛇と対峙した時に聞こえていたものと同じものだった。
「壊すのか」
「よく出来ました」
(餓鬼に餓鬼扱いされて喜ぶヤツはいないんだからな)
胸の内で小さく毒吐いた。
何にも見えない視界に、それでも眉間に皺を寄せて目を凝らしながら、大西は鎖鋸を握り締めた。
「離れてろよ」
真っ暗闇だ。自身の声に、シロウがぎゅっと顔を顰めたのには気付かなかった。
ソレは伸ばした手に噛み付いたきり、何もしてはこなかった。回転する刃の感触からいって、避けることもしなかったようだ。まるで置物のようだと、音に鳴らさず呟いた。
◇◆
別に、直前でも良かった
言い逃げしてしまえば良かった
許しが欲しかった
アナタから逃げる僕を許してほしかった。
◇◆
パチン、スイッチの音。真っ暗な室内に白色の光が灯る。
白い壁紙、ペールグリーンのカーテン、ミルクティ色のソファが置かれたリビング、その向こうには、四人掛けのテーブルとキッチン、キッチンのとなりの扉を開き照明のスイッチを押したのは、黒いスーツを身にまとい亜麻色の髪を引っ詰めた女性だった。
「コウくん?」
女は、椅子に座ってテーブルに頭を突っ伏している少年を発見するや目をまん丸に見開いた。
肩に鞄を掛けたまま、近付いた女が少年の肩に触れた瞬間、少年はびくりと大きく痙攣して、女はすぐに手を引っ込めた。
ゆるゆると起き上がった少年は、殆ど閉じた眼で女を認めた。
「・・・・・・・・・おかえりー」
寝ぼけ眼でへらりと笑う少年に、女も困ったような笑みを浮かべる。
「ごめんね」
テーブルの端に追いやられた料理に女は顔を俯かせ、少年はひらひらと片手を振った。
「いやいや。こっちこそ無理言ってごめんね。年末は忙しいって分かってんのに」
少年はぞろぞろと酷く緩慢な動作で手を伸ばし、テーブルの隅で落ちかかっているリモコンを掴んだ。
ピッ、どこか気の抜けた電子音が部屋に響く。
「ごめんなさい」
「あ、もしかして食べてきた?そんなら別にいいんだよ。むしろ当分作る手間省けるからラッキー。てか外寒かったよね。部屋あっためときゃよかったね。今風呂ためるから、座ってて」
のろのろと立ち上がった少年が、白い壁と完全に同化したモニターのボタンを押すと、ピッという音の後に機械音声が喋り出す。大根役者にも劣る棒読みで風呂を沸かす旨を告げた。
振り返った少年は、立ち竦んだままの女に微笑んだ。
「座ってて。珈琲淹れるから」
鞄を置いて椅子に腰掛けた女は、それからじっと少年の様子を窺っていた。とぽとぽと珈琲を淹れる音が零れる。芳ばしい香りが二人の間を繋いだ。
少年は湯気の立つ赤いカップと水の入ったグラスを手に戻ってきた。
「寒くはないの?」
女の前に赤いカップを置き自身の前にグラスを置いた少年に、女は気遣った様子で尋ねた。
「いやあ、爆睡してたからさー。眠気覚まし」
「ごめんね、待っててくれると思わなくて」
「いやいや、ちゃんと連絡くれたじゃん。どうせ明日から冬休みだし、折角だから起きてただけだよ」
少年はへらへらと気の抜けた笑みを見せて、グラスを一息に呷った。
「ふぇー、目ぇ覚めるわー」
「・・・・ごめんね」
「違うって」
花を模したアナログの壁掛け時計は、短針が十二時を通り過ぎていた。少年は時計を見上げ、思い出したように音を零した。
「ありがとね」
「・・・・本当にごめんなさい」
背中を曲げて俯き続ける女に、少年は眉をへにゃりと下げて笑う
「違うんだよ、言えるときに言っておきたかったんだ。今まで育ててくれてありがとうって」
ふつりと音が止んだ。針の音を落とさない時計は沈黙を隠してはくれなかった。
女の声は、先の懺悔するような声とは異なり、硬く細い針のようだった。
「最後みたいに言うわね」
こつん、女と少年の間に無色で透明な空のグラスが降りる。
「僕の話、聞いてくれる?」
少年の薄い笑みは、ずっと俯いたきりの女には届かない。
「おばあちゃん家に行こうと思うんだ」
静かな声だった。大西に向けるよりもずっと冷たくて、友によく似た少年よりもずっと人じみた声だった。
「今すぐってわけじゃなくて、中学を卒業したら。志望校が近いんだよ。早いかもだけど、先生には今でも十分圏内だって言われてるし。ほらぁー僕って賢いからさぁー」
頭上から、黒い液が降り注ぐ。少年の白いワイシャツがみるみる焦げ茶色に染められていく。
「どうして貴方は、自分のことばかりなの?」
立ち上がった女が喉を痙攣させて囁きかける。熱い液の滴る少年は、突然停止ボタンを押された機械人形のように、薄い笑みを浮かべたその眼でグラスをそっと見詰めている。
「どうして分かってくれないの?どうして助けてくれないの?どうして!?」
がつん、赤いカップが少年の額にぶつかり、膝の上に落下する。転がり落ちるすんでのところで、少年の手が拾い上げた。
「どうしてそんなふうになっちゃったの?」
少年はまるで穏やかな風であったが、黒い液の滴った皮膚はじわじわと赤い跡を浮かせていた。
「私が悪いの?私が育て方を間違えたの?どうしてっ、私はこんなに頑張ってるのにっ、どうして助けてくれないの!!この役立たず!!どうしてっ、あの人じゃなくて、貴方が死ねば良かったのに。どうして貴方がっ、どうして貴方が生きてるの!?」
ピーッ、間抜けな電子音が空気を裂いた。
機械の声が、残り五分で風呂がたまる旨を告げる。
「疲れてるのにごめんね、話、また今度にしよう」
少年は笑みを浮かべたまま立ち上がる。何事も無かったような声をして、先と変わらぬ笑みを浮かべた。
「あの人なら、獅郎さんならきっと・・・ねえ、なんで貴方は生きてるの?どうしてあの人が死んでしまったの?なんで、貴方じゃなくてあの人がっ」
たんっ、僅かに音を響かせて、透明のグラスのとなりに赤のカップがい並んだ。少年の黒髪から滴る黒い液がテーブルを汚していく。
「お風呂、もうすぐ沸けるよ」
女の頬を無色の液が伝った。憮然に眼を見開いたまま、女は少年を睨んでいた。
「貴方が死ねば良かったのに」
どこか間抜けで暢気な電子のメロディーが流れる。機械音声が、風呂がたまった旨を告げた。
ガタンッ、椅子を引いて立ち上がった少年は、凛と伸びた背筋で闊歩して扉の前で立ち止まると、女に振り返ってへらりと笑った。
「おやすみ」
少年の声は嗚咽に掻き消されていった。珈琲の深くて苦い香りが満ちていた。
◇◆
本当はずっと前から気付いていた。
お母さんは僕を望んでない。
何度目かもわからない、病院の待合室で、最良の終(エンド)を考えた。
望ましいのは、二人分の幸福だ。妥協案はどこだろう。
僕は自分が可愛いので、アナタの幸せばかりは望めない。
僕はアナタが愛おしいので、自分の幸せだけを望めない。
不幸と幸福の境界線はどこにあるんだろう。
僕とアナタに、妥協点(ハッピーエンド)はあるのかな。
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