第16話甘
「あ、」
字が掠れた
空になったペンを眺める。
すべての空白を埋めるには、あと少しが足りない。
「足らんだろう」
「ううん」
未完成の作品。
足りないのは当然だ。予め空白を計算に入れてコレを書いていた。だからこれで良い。
これは一つの賭けだ。些末な賭けだ。
僕は君に賭ける。応えるか否かは君の自由だ。
まあ、君は賭けられていることすら知らないんだけど。
◆◇
二両編成の黒い列車。
前方車両には席に余る程度の人が揺られていて、響く喧騒が後方車両の空気までもをさわさわと揺らした。
後方車両にたった二人で座っている少年らは、方やうつらうつらと船を漕ぎ、方や窓の向こうをぼんやり眺めていた。
前方車両から時おり届く笑い声にうっすら顔を顰めながら、窓の向こうに漂う白や緑、赤の植物や、悠々と泳ぐ生物を目で追っている。
赤褐色に黄色い尾を揺らしたエイや、ハンマーみたいな頭したシュモクザメの群れ、まだら模様のハオコゼに、シマシマ模様のウミヘビ、真っ赤な珊瑚の隙間から、ちっちゃい橙色のクマノミが大西らの列車を覗いている。
黒い列車は海底を走っていた。
魚は好きだ。食うのが好きだ。
友と時たま釣りに出向いては釣れた魚をその場で捌いて食っていた。
大西は火の扱いはからきしだったが、捌くのだけは得意だったので、友がやりたいと言い出さない限り、釣り場で包丁を構えるのは大西だった。
大抵の魚は釣れた途端に捌いて醤油に浸して食っちまう。天ぷらだって美味いが、やっぱり刺身が一等美味い。
どんなに引きが良い日でも、腹一杯食うとすっかり満足した気になって、早々に釣り場を後にする。
魚を山ほど釣るよりも新鮮な魚を食らうことが二人の最優先任務だ。
だけども大西は、釣り糸を垂らして脈絡のない話に欠伸を零しつつ、ボケっと海を眺めている時間も割合好きだった。
地元には大きな水族館があって、友と大西は知り合い割引きで六百円で入れたから、気紛れに足を運んでは見慣れた顔触れの水槽や水中トンネルの向こうを指差し声を上げ、代わり映えのしないショーに拍手を送った。
大西は一人でも時おり足を運んでいる。すっ転ぶペンギンや水槽のガラスに激突するマンボウなんかを眺めていると、あっという間に陽が沈んだ。
「刺身食いてえな・・・」
大西の呟きに微睡みから引き上げられたシロは、ゆらりと頭をもたげて窓の向こうへ視線をやった。
「・・・エイですか」
「エイっつか、全部」
「全部ですか・・・」
終着点の定かでない列車。前方車両の乾いた喧騒を尻目に、二人は窓の向こうを眺めていた。
「君は、友人の望みがわかったんですか?」
窓には薄らと二人の姿が反射している。
窓に映る大西は、自由に泳ぎ回る生物らを只ぼんやりと目で追いかけていた。
「ぜんっぜんわからん」
「・・・わからないのに取り消せと言ったんですか?」
「そっちのが手っ取り早いだろ」
何食わぬ顔で答える大西を、反射する窓越しに観察する。
シロウは、この餓鬼は自身の行動が友人の望みに反しているのではないか悩んでいるのだろうと思っていた。
手っ取り早いという理由で自身の寿命を差し出せるほど、この餓鬼は生きることに消極的ではなかったはずだ
この餓鬼、本当は気づいているのではないのか。
窓に映る大西は、ぼけっと気の抜けた顔で生物らの成行きを見守っている。
笑顔こそ一度も見せてはいないが、表情の変化や言葉数は外見年齢に相応しているように思う。
どうやらこの餓鬼は、耐え症のない癇癪玉のクセして、顔色を隠すのだけは上手いらしい。いや単に、餓鬼自身が己の内を捉えきれていないのかもしれない。
お陰で、傍から見れば突然キレだすおかしなヤツだ。
何故こんな面倒な餓鬼のお守りをしなくてはいけないのだろう
シロウはこみ上げる溜息を飲み下し、窓の向こうに目を向けた。
「・・・待って下さい」
突然深刻な声色をするシロウに、大西は僅かに身構える。
「なんだよ」
「今、クマノミがいました」
「・・・・・・いたな」
「全部って言いましたか?」
「そこ戻んの?」
一瞬何を言っているのかわからず、怪訝な顔して振り向くと、シロウは出会ってから見たことがないほど真剣な眼差しで大西を凝視していた。
「まさかクマノミは含みませんよね?クマノミを刺身にしたいだなんて思ってませんよね?そもそも食べられないでしょうクマノミは」
「クマノミに食いつき過ぎだろ」
どちらともなく沈黙したその一瞬、パチ、パチと弾けるような音。捉えたその音に大西は音の方向、前方車両の窓に目をやった。
一見、車内で盆踊りでもしてるのか。と錯覚して、遅れて車内を舐めまわす橙色の炎に気が付いて、ようやく彼らが踊り狂っているのではなく、悶え苦しんでいるのだと知った。
海底のわりに、空調設備はきちんと行き届いているようで、車窓は煙に曇ることもなく、くっきりと中の有り様を映してみせた。
炎は見る間に勢いを増し、車窓から覗く橙は車内を散々に舐めまわし次第に大きくなっているようだった。
いつの間に喧騒は叫喚に変わっていたのだろうかと、大西は頬杖着いて窓越しにその様を眺めた。
「こっち来んじゃね?」
バンッ、バンッ、と連結扉を叩く姿に眼を細めて尋ねると、シロウは振り返ることもなく「嵌め殺しです」とにべもなく言った。
「あちらとこちらは繋がっているだけで通じてはいません。開けられるのは外へ通じる扉だけです」
窓の向こうにはシュモクザメの群れが悠々と泳いでいる。見ている分には楽しい光景だ。
「どっちのがマシだろうな」
「さて。僕なら自死を勧めますがね」
しばらくは車内の様子を映していた窓も、次第に叫喚が小さくなっていき、ようやっと沈黙が訪れた頃には、空調も手に負えなかったらしい煤と灰とで、すっかり曇ってしまった。
ぴちゃり、俯くと床一面に黒い液が薄らと見ている。
粘着質なその液は、龍からぼたぼたと滴り落ちたモノにも蛇の身から溢れ出したモノにも酷似していた。
ゆらゆらと、黒い池の中から茎が伸び、蕾が膨らみ、大西の前でゆっくりと薄紅色の花が開いた。
「・・・なんっだこれ」
訝大西の前で誇示するように咲く花を遅れて認めたシロウは、興味深げに花を眺めた後、感心したように一つ深く頷いた。
「どうやら、こちらは浄土のようですよ」
「きったねえ車内で言われてもな」
「蓮華ですよ、この花」
「そんくらいはな、俺だってわかんだよ」
そのうちにも、黒い液の嵩は増していき、比例するように車内のあちこちから茎が伸び、蕾が膨らみ花が開いていく。
海底の車内で満開に咲く蓮華達に囲まれ、大西はウンザリした様子で感想を述べた。
「人によっては地獄だな」
徐々に花弁を黒い池に浮かべ、肥大し顕(あらわ)になっていく花托の郡勢は、人によっては寒気のする光景だと、腕を擦る友を思い出していた。
黒い液が靴を越えて踝(くるぶし)に触れる。じゅう、という音ともにじくじくと痛みを放
つ皮膚に、大西は慌てて椅子の上に避難した。
どうやらこの液、靴やら服やらには優しいようだが、中身の大西に対しては大層悪いらしい。
絶えず嵩を増していく黒い液は、見る間に座面のすぐ下にまで及んだ。
どうしたもんかとあたりを見回して、視界に捉えた少年に、大西は堪らず舌を打った。
「一人モーセかコラ」
「モーセは一人です」
黒い液のせり上がる車内で変わらず呑気に腰掛けているシロの周囲は、まるで見えないガラスでも存在するかのように黒い液から完全に避けられている。
「なんなんだよお前、磁石かよ。反発してんじゃねえよ」
「それでいくと僕の身体のどこかは対極になりますね」
ついに座面にまでせり上がってきた黒い液に触れる前に立ち上がった。僅かに靴底が浸る。
「それで、君はどちらを選びますか?」
窓の向こう、走る列車に付かず離れず泳ぐ生物らは、どうやら餌を求めているようだ。
「外のがワンチャンあるだろ」
右手からずるりと溶けるように形を成す鎖鋸を握り締め、どろどろと溢れて顔を覆っていく黒い面越しに、ふと思案する。
「錆びるか?」
「君次第でしょう」
「なんでもかんでも有料にしやがって」
車窓を薙ぐ。激流となって飛び込んでくる海水に混ざって、小魚が大西に噛み付いてきた。
「おい!クマノミ攻撃的だぞ!!」
「健気に家を護ろうとしてるんですよ」
「痛えんだよ!!」
振り払った小魚はじゅう、と小さな音を立てて黒い液に沈んだ。
海水が混ざった黒は勢い良く嵩を増し大西の膝下にまで達した。
「くっっそが!!」
じゅうじゅうと爛れていく皮膚の音と激痛を身に受けながら、水圧ですっかり吹き抜けになった窓の棧に指を掛け、激流の中に無理くり頭を突っ込み車体に這うようにして海中に出た。
迫る生物らを、こっちが食う側なんだよと悪態吐きながら斬り裂いて、どうしてか襲い掛かってこないサメの方を見ると、方々へ一目散に逃げている。
どういうことだと振り返って、思わず呻き声を漏らした。
車体から溢れる黒い液がどんどん海水を侵し広がっている。
大西が裂いた魚の肉片が次々と溶けている様子を見るに、希釈することで脅威が薄まったりとかはしないらしい。
慌てて海上へと腕を伸ばす。周囲の生物は皆果てたかとうに逃げてしまっている。
右の脛に鋭い痛みが走る。振り返ると黒い液に覆われた何かが大西の脚に噛みついていた。
大西よりも幾分か大きいソイツは四肢を海藻のように力なく漂わせているクセして、頭部だけは大西の脚を食いちぎらんと折れんばかりに歯を食い込ませ、水圧にも負けじと首を強く振った。
激痛と苛立ちに鎖鋸を振り回す。黒いソイツの肩を削いだところで、右腕が何かに掴まれる。見ると緑の蔦のようなものが、とっくに黒に沈んで見えなくなった海底から伸びて大西の腕に絡みついていた。
(・・・蓮華の花)
腹の底からこみ上げる怒りが、痛みを焼いた。
不愉快な感覚がする。見下ろして、足の関節が外れたのだと知った。大西が鎖鋸を手離しちまうと、鎖鋸は忽ち姿を消してしまった。
黒いソイツは壊れた脚に飽いたようで、ついで反対側の脚へと首を伸ばした。
ぱかりと、顔を大きくはみ出した口が開かれる。瞬間、右腕に絡みついた蔦を巻きとるように引き寄せ、ソイツの口に自ら脚を突っ込んだ。膝まで飲み込んだソイツはかまわず牙を食い込ませる。直後、ソイツの頭部から首、胸部までを縦に裂くように真っ黒な刃が飛び出した。
蔦をさらに引き寄せ、のたうつソイツをさらに深く穿いた。結果的に、蓮華は反動を抑える支えになった。
何故、何故、何故、
回転する刃が海中を震わせる。ソイツを覆っていた黒い液が、肉片ごと散り散りになっていく。
(一番理解していた。一番幸せにしていた。一番大事にしていたのに)
黒が晴れ、破片の隙間から覗く亜麻色に再三刃を走らせた。
(なんで選んでくんなかったんだろう)
◆◇
「おばあちゃん、お母さん見つかったよ」
すっかり日の沈んでしまった空の下、街灯に照らされた白い建物。その外壁にもたれ掛かってだらしなく座り込んでいる友がいる。友は白い息を吐き出しながら、眠たげな顔で星一つ見えない空を眺めている。
「ほら、駅から見えるビルでさ、使われてないぼっろいの、覚えてる?そこにいたって・・・・・・え?いやいや。あ、あーそうか。ごめん、ごめん、忘れてた」
青いカバーの端末に耳を当て暢気に話す友の傍らには、膨らんだ白い紙袋が落ちていた。
紙袋の口からは、黒いヒールが覗いていた。
「お母さん、死んでたんだよ」
靴底の赤い洒落たヒールは、幾らか底が擦れていて、それなりに使い込まれているようだったが、そのわりにはアッパー部分の傷や擦れが目立たない。頻繁に手入れでもしているんだろう。
「・・・事故じゃないよ。事件の可能性も、ひくいって、・・・・・・・・・うん。けーさつのひとは、たぶん、・・・」
夜闇の中、街頭に照らされた友は眠たげに首を傾け、細く開いた眼を赤いヒールに向けていた。
◆◇
父親は、友が生まれて最初の夏を迎える前に死んだのだと聞いた。
突然倒れて起きなくなって、それから一月待たずに死んだのだと、祖母が延命治療を拒否したことを、母がいまだ根に持って愚痴るのだと、そう言っていた。
顔も声も覚えてねえのに、別に何とも思わねえよと愚痴っていた。
過去なんかどうでも良いじゃないかと、未来の話ばかりをするヤツだった。
それでも、取り返せない過去の話を何度も聞かされて、あったかもしれない未来を何度も囁かれて、本当にどうでも良いと思ったのか
無意味な思考を無意味だと理解するまで、一度もそれを夢に見なかったのか。
どれだけの時間を捧げれば死にたい人間を生かすことが出来るだろう。
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