第15話待遭





半分に欠けた月の下、庭に面した出窓に、亜麻色の髪の女性が腰を下ろしていた。

黒い液が揺蕩う赤いカップを両手で包み、夜空を見上げている。


「どこに行こうか」


ぽつりと夜を偲ぶように囁いて、腹を撫ぜた。


「遊園地に行って、水族館に行って、プラネタリウムとか、旅行にも行きたいなあ」


女性の隣、寄り添うように黒い影が出窓に腰を下ろしている。影の傍らには、黒い液が満たされた青色のカップが置かれている。


「別に、近くの公園で十分じゃないですか」


呆れているような、宥めるような声に、けれども女性はツンとした声で返した。


「ダメよ。あんまり一緒に居てあげられないんだから、偶の休みくらい家族サービスしなくちゃ」


「サービスする必要なんかないんですけどねえ」


ひっそりと灯すような声を聞きながら、女性は穏やかな笑みを浮かべて腹を撫ぜている。


「それに、沢山驚く顔が見たいじゃない」



◆◇




「なんなんですか、でっかいトゲでも刺さってるんですか?」


俯き左手を凝視する大西を、少年が怪訝な顔して見下ろしている。

とっくに痛みの失せた手を睨みつけていた大西は、少年の声に顔を上げ、こちらこそ怪訝な顔して問い掛けた。


「・・・お前、メッキ剥がれてんぞ」


シロウの皮膚や髪の毛、纏う衣服の所々が、色が剥がれ落ちたように欠けていて、そこからはただ虚ろのような真っ黒が覗いていた。


「なんですかこれは」


「俺のセリフだよ」


自身を見下ろし呟くシロウに、呆れた様子で応えを返す。別段痛痒つうようなんかは感じないらしい。

徐々に人の皮膚を失っていく少年に、大西はしみじみと呟いた。


「・・・お前、本性真っ黒だもんな」


シロウの振り下ろした足が大西の頭頂部に埋まった。




虎が消えた先、灰色の扉の向こうには、照明も窓も存在しないクセに、さも十分な光に照らされているように鮮明に明るい部屋があった。

灰色の壁に囲まれた室内には、白い簡素なベッドが一台、綺麗に整えられた状態で壁際に設置されている。その向かいには天板が木製で出来たデスク、座り心地の良さそうな背もたれ付きの緑のデスクチェアが置かれていた。

デスクの上では、いかにも年期の入ったデスクトップパソコンが真っ黒な画面を晒している。

緑のデスクチェアと向かい合うようにして、黒い小さな回転椅子が置かれていた。


そうした室内の全てを、夥しい数の紫色の花が覆い尽くしていた。


「なにあれ」


「・・・・・・・・・アネモネ・・・ですかねえ」


「言えば良いと思ってるよな?」


花の種類について尋ねたわけじゃない。


そしてそれらの手前、扉から一歩分先には、左右から進入を阻むゲートがあった。

細くて丸い軟弱そうな柱が、左右から板を伸ばして室内に入ろうとする大西を阻んでいる。

よく見ると、右側の柱には、ちょうど手が届く位置に『IC』のロゴマークが見える。


「これってこと?」


「それってことです」


大西は手のひらから水色のカードを現した。

一文字も、そして某かのマークも記載されていない全く無地のカードを、改札機のパネル画面に翳す。


ピッ


間抜けな電子音が、妙に鼓膜に響いた。


途端、室内を埋め尽くしていた紫色の花に、一斉に赤い火が灯った。一瞬で花を焼き尽くした火は忽ち室内全体に燃え移り、まるですべて紙切れだったのではと訝しんでしまうほど、あっさりとすべてを燃やし尽くしてしまった。

手元を見下ろすと、水色のカードがあったはずの手のひらには僅かな灰だけがあり、その灰すら、どこへともなく吹く風に霧散し消え失せた。

一切の物も壁も天井すらも燃え尽きた先、青い海が広がっていた。

足元を見下ろすと、黄色い点字ブロックが大西の前を横切り、そこから数歩先、切り取られた地面の下を、鉄の線路が横断していた。

後ろを振り返る。

青色から橙色に変わった椅子に腰掛けたシロが、退屈そうに欠伸を隠していた。

椅子の向こう側にも、黄色い線が見え、その数歩先から地面が途切れている。おそらく向こう側にも線路がある。

線路が横断している先では、きらきらと海が輝いていた。陸や島は見えず、只々青い水平線が駅を囲んでいた。

穏やかな風に煽られ、大西は頭上を仰いだ。古臭い屋根の先、全く青い快晴の空が広がっていた。


二人は駅のホームに立っていた。




小学一年生の夏休み。何をするのも面倒で、一人部屋に寝っ転がって天井をボケっと眺めていたら、突然部屋の窓が破れた。

見ると、窓にへばりついた幼い子どもが破れた窓の隙間から内側の鍵に手を伸ばしていた。不法侵入である。

窓を開き、大西の目の前で堂々と不法侵入を果たした幼子は、室内を見回した後、大西に向かって宣言した。


『セミ捕りに行こうぜ!!!』


不法侵入に関する言い訳もなく、呆ける大西の応えも聞かずに左手を無理矢理引っ掴んで突っ走る初対面の幼子に、大西は必死の抵抗もむなしく、部屋の外へと引き摺り出されてしまった。

現在の大西はとうに忘れているが、幼い頃の友というのは、とんでもなく破天荒で、かなりに迷惑で、大変に喧しい野郎だった。




夏の間中、無理矢理引っ掴んで散々あちこちへ引き摺り回した友が、駅のホームで手を離した時、何もわからず閉じる扉を見送った後、大西はとてもつまらなくなった。以前よりもずっとつまらなくなってしまった。



◆◇



十脚の橙色の椅子が、背中合わせになって一列に並んでいる。

向かって居並ぶ五脚のうち、一等端に腰掛け脚を組んでいるまだら模様の少年を、大西は見下ろしている。


「口を使う努力はなさらないんですか?」


正面から無言で睨み下ろす大西を、シロウは能面のような無表情で睨み上げ、隣の座席を指差した。


「待機。お座り。です」


「殺すぞテメエ」


だが、実際実力行使に出た場合、敗北するのは大西だ。


大西はシロウの指し示した座席を仇のように睨みつけた後、そこから三つ離れた一番端の席に荒々しく腰掛けた。

ゆっりと視線を逸らすシロウを睨んだ。


「・・・今笑ったろ」


「・・・いえ?」



海に囲まれた駅のホームには、ただ潮の波打つ音だけが漂っている。

屋根からぶら下がる電光掲示板はずっと真っ暗のままだ。電気が通っているかも疑わしい。

シロウが座っている席の側には、シンプルでどこか古臭いゴミ箱が三基居並んでいた。どれもこれも空っぽだ。

大西がシロウから身体ごとそっぽを向けば、時刻表が記載された掲示板が視界に映りこんできた。

駅のどこにも時計はなく、それどころかホームのどこにも駅名が表記されていない。

周囲をぐるりと見回した大西は、妙な駅だと独りごち、再び掲示板に視線を向けた。


掲示板の時刻表は零時に始まり十二時で終わっている。

午前てことはないだろうが、正午から深夜までというのもイマイチ妙だ。

余程過疎なのか、列車はほぼ一時間に一本しか来ない。土休日に至っては一日通してたったの一本だ。


出来れば半日待機なんてのは勘弁したい。

今は果たして何時だろうかと、陽のない空を一瞥したが、相変わらず夏のように濃い青空が広がっているばかりで、全く参考になりそうにない。

大西は時刻表の平日ダイヤに視線を走らせた。

少なくとも、大西がこの妙な空間に落ちる前、廃墟に足を踏み入れたのは平日だ。

時間がわからない以上、ダイヤを知ったところでどうということもないが、待つ以外にすることのない大西にとって、何かを考えるよりはずっと良い暇潰しに思えた。


零時はなし、一時は九分、二時も九分、三時八分、四時八分、五時十三分、六時十三分、七時十三分、八時十三分、九時十三分、十時六分、八分、十三分、十一時空欄、十二時六分・・・


「カモられたって言ったよな?」


突然話を振られた少年は、けれど驚く風もなく相変わらずの乾いた調子で言葉を返した。


「そう言いましたね」


「それってさ、間抜けが奪われたって意味だろ」


「概ねそのような意味として使われますね」


「違うだろ」


静かに振り向いたシロウに、大西は時刻表を見詰めたまま坦々と言葉を続けた。


「アイツが望んだんだろ」


穏やかな風が吹いている。太陽もないのに輝く海は、いっそ不気味でさえあった。


「それを知って、君はどうするんですか」


(どうしようか)


自身の中を開いて見ることが出来たら良かった。言葉の足りない大西には胸に抱いた事柄すら明確に表すことが出来ない。


不意に、背後に人の気配が現れ、諸々の思考は打ち消えた。

大西とシロウのちょうど中間に位置する椅子に腰掛けたその人は、ゆっくりとした調子で語りかけてきた。若い男の声だった。


「望みを言いな、なんでも叶えてやろう」


シロウはふつりと黙り込んでしまった。どうやら大西が答えなくてはならないらしい。


「長生き」


太鼓を打つような笑い声がホームに響き渡る。男は引き攣った声で語る。


「お前さんの一番はそいつじゃあねえだろうよ」


男の声、笑い声、望みを問われるのは四度目だ。シロウは黙りを決め込んでいる。


「お前か詐欺野郎」


「人聞きが悪いねぇ。こっちは正当な取引をしているだけだってのに」


「人の寿命削んのに正当もクソもねえんだよハゲ野郎」


大西は決して男の方を振り向かなかった。

男も大西の方を向いてはいないようだった。


「よく考えてごらんよ。先の長い人生だ。そのうちのほんのすこぉーし譲るだけでお前さんの望みは叶うんだよ?痛くも痒くもねえ、自覚することもなく、只時間が近付くだけさ。お前さんは望みを口にするだけで良い。どうだい?幸せな話だろ?」


安っぽい謳い文句だ。生きることを尊く思う大西には欠片も響かない。

大西は男の声に時刻表を眺める目を眇めた。


「たとえばさ」


土休日ダイヤの時刻表は一つを残して全て空白だ。おかげで十一時の欄に一つきりの六が鬱陶しいほど目に付いた。


「誰かが死んだことを無かったことにしたいって言ったら、叶えてくれんの?」


「お前さん以外のモノの有り様を変えたいってんなら、そのモノの三千時さんぜんどきが必要だ」


さんぜんどき


「現代人にわかる言語で話せ白骨化石爺」


再び男の笑い声が響き渡る。どうやら男には大西のことごとくが偉く面白いらしい。対して男の悉くは大西を苛立たせた。


「通行証のようなもんでねえ、第三者の有り様を弄るにゃあ、ソイツに関する二百五十日分の記録が必要だ」


二百五十日、六千時間、三万六千分、二千百六十万秒


背後から紫煙が漂ってくる。男は煙草を吸っているらしい。鬱陶しげに手で追い払った。

肺の中でザラザラと煙が漂っているような心地がする。


「・・・・・・そんで、無かったことにできんの?」


「その時点の死は帳消しにできる」


いかにも美味そうに紫煙を吐き出す気配がする。何がそんなに良いのか大西にはちっともわからないが。


「それで?望む気にはなったかい?」


大西はちらとも視線をくれてはいないが、男はにたにたと笑みを浮かべているに違いなかった。


「・・・取り消せ」


陰鬱な煙が肺に詰まっているようだった。全てを吐き出すのは難しいだろう。


「アイツの望みを取り消せ」


男の笑い声はホームによく響き渡る。


「言ったろう、坊主。三千時だ。お前さん、全然足りねえじゃねえか」


わかっている。

友人の有り様を変えられるほど大西は友人のことを知らない。友人の望みを否定する権利はない。


「じゃあ、アンタ、死んでくれよ。そしたらアイツの望みは叶わないだろ?」


(今さら、言われなくても知ってんだよ)


立ち上がりざまに鎖鋸を出現させた。躊躇なく刃を薙ぐ。


友であれば、他の解決方法を見つけられたんだろうか。


薙いだ先に男の姿はなく、ただ煩わしい紫煙ばかりが漂っていた。


「まあ良いさ。儂はいつでも構わんが、先の時間が多いうちをおすすめするよ」


煙の紛れて届いた声が、煩わしくて頭を掻いた。


「死んでくれって望みは無視かコラ」


たち消えた紫煙から顔を背けると、先刻からちっとも動いた様子のないシロがいた。


(マネキンかこいつは)


眠たげな面しながら、呑気に海の先を眺めているので、つられた大西も海と空の境を探した。

延々と広がる空は鬱陶しいほどに青く眩しく、輝く海と果てを共にしていた。



◇◆


駅のホームのベンチに座り、友人と下らない話をする。


昨年買ったゲーム、なんでかオープニングの途中でやる気が失せちまって、電源ボタンを押したまんま放り出していること。

追い掛けている漫画、三巻から始まってたり九巻の次が十五巻だったり、はたまたなんでか下巻しかない小説があったり、神経質な人が見たら発狂するような本棚になっていること。


自分でもさして気にも留めていない話、家族の前では言わない話をぶちまける。


僕に喧嘩する気がなけりゃ、友人はいつも大人しい。

ホームに到着を告げるアナウンスが鳴り響いた。

奴がぽつり言葉を落とした。


『帰るのか』


『そりゃあね』


何もかも上手くいかないことばっかりだ。

けれども、そのぜんぶは自分のためだ。

そう思うと、面倒臭いことばっかりだが、まあしゃあねえかと、案外あっさりと立ち上がることができた。

あんまりつまらなそうな顔をするので、うっかり笑って友人の頭を掻き回す。懐かれたもんだなあ。


『大丈夫だって。来年も来てやるからさ』


『頼んでねえよカス』


心底鬱陶しそうに手を払われる。拗ねたように目を逸らした友人に、いつものように右手を差し出した。


いつの間にやら習慣化した駅の挨拶。いい加減いらないんじゃないかと思うんだが、此奴が相も変わらず問い掛けるので、僕はケジメのように手を握る。

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