第9話催花雨


小学三年の夏。薄茶色だった友の髪が、突然真っ黒になって帰ってきたから、大西は大いに驚いた。


「イメチェン。コッチのがカッコ良くね?」


とんでもない違和感に顔を変にする大西に、友はゲラゲラと笑い転げた。



◆◇


暗い室内を、雲に翳った光が薄青く染めていた。


雨の音がする。

カーテンのない地窓の向こうで、庭の花壇に膨らむ蕾達が、雨に開花を急かされていた。


地窓近くの床に、黒いイヤホンに繋がれた小型のゲーム機が投げ出されている。

小さなスクリーン画面が光を放っているので覗き込んでみたら、白抜きの背景に黒のクレジットが延々と流れていた。

エンドロールを待てないせっかちを探して室内を振り返る。

床一面を覆うように、無色と透明の破片が散乱している。よく見ると、それは食器やグラスの破片だ。

奥にキッチンが見える。大きな棚がうつ伏せに倒れていた。

ひっくり返ったテーブルは、四隅の脚がすべてへし折れている。椅子はおそらく二脚だった。

どれも壊せるだけ壊されたような残骸が、室内にばら撒かれている。


そうした散々な破片の中に、友は跪いていた。俯く顔を両手で覆い、丸まった背中を小刻みに震わせている。薄暗い光に染められた友の背中から目を逸らし、雨に紛れた囁きに耳をすませた。


言葉としての形を成さない、破片のように千切れた音を、友は愛おしむように囁いていた。


「お前・・・・・・どっちだよ」


嗚咽のように痛ましくも聞こえる声。泣いているかはわからない。

震える背中に近づけば、薄青の光に隠れて、床に赤い液が点々と落ちているのに気が付いた。


虐められたのだろうか。

己とは違い、友は並大抵のことでは手を上げない。

そのために、頭の悪いヤツらに舐めて掛かられたのかもしれない。


うっかり拳を握り締め、けれども、そういやこれは過去の話だと、固めた拳を振り解いた。

大西が知らないってことは、友は一人で解決したのだろう。つまんない野郎だ。


きっとこれも、忘れた頃にネタにして、誰かを笑わせて。それで救われた気にでもなるんだろ。


雨が降っている。

窓から射し込む薄青い光は、大西の影を越え、小さく蹲る友の背を染め上げていた。



◆◇




シロウは、茜の中を漂っていた。


宙に浮かぶ異様に大きな彼岸花に腰をおろし、呑気に空を眺めていたシロは、ふと気まぐれのように手を伸ばすと、いかにも正しい速さで落下してきた大西の首根っこを捕らえた。


「ぐっうぇげっ」


首がへし折れたような声を上げ、大西は目を回している。


再会をさして喜ぶような間柄でもないが、出会い頭に締め上げられるような犬猿でもなかったはずだと、大西は頭をぐらつかせながらシロにガン垂れる。


けれども体格の勝る己を片手で持ち上げ、じっとりと沈んだ眼を向けられれば、ともすれば寝起きに蛇に見つかったカエルの気分にもなる。


「飛ばさないで下さいと、言いましたよね」


「な、なんのはなしだ」


「鍵」


「あ」


愛想尽かしたように頭を振るシロに、弁解したいのは山々だが記憶になく、それ以前に首が締まってそれどころでもない。

大西の決死の訴えを、シロは目蓋を閉じて黙殺する。


「おい・・・・・・おい、首締ま・・・おぅい」


「よし」


呟きと同時、首根っこを掴む拳に力が籠り、いよいよ呼吸が困難だ。

目蓋を開いた少年は、赤黒くなった大西を大きく振りかぶった。


「取ってきて下さい」


瞬間、ねじ切られたと錯覚するほどの圧が首にかかる。


一寸気を失った大西は、気が付いた時には空を斜めに上昇していた。

どうやらシロによって空に放り上げられたらしい。


なす術なく空へ浮き上がり、緩やかに上昇が止むのを感じながら、恐る恐る首を摩り、何事もなく首が繋がっているのを確認して弱く息を吐いた。


「ばけもんかよ・・・」


昔、受け身を知らないまま友から背負投げを受け、頭から垂直落下した時よりも生命の危機を感じた。


とはいえ、今だって立派に危機的状況だ。

とはいえ、それは今に始まったことでもないのだが。


空に身を投げている。

嗚呼、全く見事な茜空。


視界の端を青が横切った。






 ◇◆



 茜色の最中さなか、真っ赤な彼岸花に腰掛けている。


 ふらりふらりと足を揺らして、手持ち無沙汰に空を眺めている。

 真っ黒な手。人差し指と親指で輪っかをつくる。出来た輪っかにふっと息を吹き込めば、ほわり、真っ赤に綻んだ彼岸花が零れる。

 そうして、一つ、二つ、三つ四つ、ふわふわと、気まぐれのように生まれた小さな赤が、いくつもふわふわ、ふわふわと空に浮かび上がる。


 ふっと、また一つ赤を零して、少年はぼんやり呟いた。


「何故、捨てられたのか」


 疑問一つが脳裏に居座る。

 悩んでいるのとは少し違う。

 不思議。

 単純に簡潔に素朴な疑問。


 僕はなぜ捨てられたのか


 これによって、悲しんでいるのかはわからない

 だからといって、怒っているのかもわからない

 けれども、喜ばしくないのは確か

 何せ、


「僕は、一緒が良かったのに」


 捨てられてしまった


 脳裏に沸きでる言葉のうち、上澄みだけを掬ってみせることができたなら、そこには只『がっかり』だけが浮いている。

 少年は、少なくともがっかりしている。


 ずっとずっと守ってきたけれど、全くちっとも報われない

 別に、期待なんかはしてなかったけど

 だけど、


「何故、連れて行ってくれなかったのか」


 物事のどれもこれもは、次第に少年の内を通り抜けていってしまうのに、その疑問だけはずっとずっと居座り続ける。


 ふっと、また一つ赤を咲かせる。


「どうしてか」


 嘘を吐いたから


「嘘ではない」


 嘘を吐きたかったんではない

 ただ笑ってくれりゃ、それで良かった

 泣かないでくれりゃ、それで良かった


「本当だけでは、泣くでしょう」


 笑っていてほしかった

 もう泣かないでほしかった


 話がしたかった


 ふっと、また一つ赤を咲かせる。


「選択肢を、間違えたのだろうか」


 どうして間違えたのか


「望みすぎたか」


 如何して間違えたのか


「奢りすぎたか」


 ふっと、また一つ赤を咲かせる。

 ふわふわと、ふわふわと、次第、彼岸花達が点、点と列を成していく。徐々に上へと連なるそれを、少年はそれをぼんやり眺めている。


「僕はただ、二人で幸せになれたらと」


 思っていたんだが


 間違えたんだろうな



 傍に浮かぶ彼岸花に足をかける。

 まるで何も存在しないかのように、花は咲き誇り、少年はそれの上に立った。

 少年の離れた彼岸花は、たちまち黒に染まった。

 灰のように脆く崩れ落ちていく花を見送っている。




 ◇◆


 秋の夕暮れのような空にあって、夏の入道のような雲の上。


 そこに居た男は、目が覚めるほどの青い三つ揃いに、人であれば両腕が伸びる部位から、全く同じ色した青い翼が生えている。

 頭からは髪の代わりであるのか、これまた同じ青の羽根がまるで鬣のように靡いている。

 真っ黒な眼には白目がない。


「ごきげんようライアー!きっと来るだろうと思っていた!」


 濃紺色のシルクハットを羽根の先で器用につまんだ男は、高らかというべきか、清々しいほど喧しく尊大な声を上げ、そうして優雅にお辞儀をしてみせた。


「・・・・・・どうも。ところでそこの能無し君は、お使いもせずに居眠りですか」


 出迎える男を迂回し歩んだ先、雲の隙間に隠れるようにして背中を丸め蹲っている大西を覗き込む。

 見ると、随分と血の気の失せた顔に、大量の汗を滴らせている。

 目蓋を固く閉ざし、指先が白くなるほど耳を塞いだ大西は、目の前にいるシロウにすら気付いちゃいない様子だ。歯を剥き出しにして、ぎりぎりと食いしばっている姿に、大西に興味のないシロウだって眉をひそめた。


「なんですこれは?」


 シロが指差し尋ねると、鳥男はおどけたように肩をすくめてみせ、歌うように知らんと答えた。


「拾った時からこんな様子だからね!これが平常だと思っていたくらいさ!」


 曰く、偶然見かけて拾ってみたが、ちっとも動かないのでつまらない。帰ってよし。

 まるで玩具のように語る男に、シロウは僅かに目を細めた。


 扱いについてはどうでも良い

 仕草と喋り方がどうにも癇に障る


「君の声が五月蝿過ぎるんでしょう」


「なんと!私の美声が彼を苛んでいるというのか!?」


「ちょっと声量落として頂けますか?」


「ハッハッハッハ!面白いことを言うじゃないか!我々にトーーン!!は決められない!」


 時間の無駄


 シロウは鳥男から目を逸らし、少年の前に跪いた。進むにしろ戻るにしろ、決定権は彼にある。彼の友人がそう定めたのだ。


「聞こえてますか、脳無し君、お使いもろくにできない能無し君」


 手を伸ばせば音を立てて弾かれる。こちらの声は欠片も届かんらしい。

 はて、どうしたものかと首を傾げたシロに、鳥男が揚々と謳い出す。


「ヘイ!ライアー!悩んでいたって仕方がない!一先ずブレイクタイムといこうじゃないか!」


 駄目だなこれは

 ちょっと現状に耐えられない


 頭を後ろに振りかぶり、勢いよく振り下ろした。ガツン、衝撃が頭蓋に重く響く。

 ぐらりと傾ぐ頭から、耳を塞ぐ両手を無理やり引き剥がし、不安定に揺れる瞳を睨み据えた。



「壊しなさい」



「おや!!ブレイクなのかい?!」


「君には黙っていて欲しい」


「なんというナンセンス!私は争いを好まない!アイ!ラヴ!ピーース!」


「利害の不一致です」


 こめかみを抑える。


 美声の基準てなんだ

 少なくともシロウには騒音でしかない


 男の声を黙殺して、虚ろな瞳を逃さぬよう瞬きを堪えた。


「腹立たしいでしょう。煩わしいでしょう。鬱陶しいでしょう。全く同感ですよ。喧騒は害悪です。

 構わない。止めはしません。好きなだけ壊せば良い。君は、ゆるされているんですから」


 瞳は、以前虚ろなまま。

 けれども少年は片手を伸ばした。

 寒気すら抱かせる駆動音が空を震わせた。

 駆け出した少年が、指が白むほどかたく握り締めた回転刃が、鳥男の胴へと走る。


 しかし男は飄々と躱して空へと逃げる。舌打ちが零れそうになるのを堪えた。


 庭鳥ではなかったか


 追って跳躍する大西の脚力は、些か常軌を逸している気もしないではないが、それでも人は空に逃げられては叶わない。


「いやはや困った!私は鋭い爪も硬い牙ももたないのだが!」


「ではおとなしく壊れて下さい」


「ところがどっこい!わっしょい!」


「普通に会話出来ませんね?」


「これを見よ!!」


 鳥男はヘディングするようにシルクハットをひょいと浮かせ、中から転げ落ちた黒い何かを口で銜えて掲げてみせた。

 小さな櫛形の何か。よく見ると、歯が幾つか欠けている。


「あ」


 鍵だ

 おそらく蛇であった鍵

 鳥男に拾われていたらしい


 鳥男は空を仰ぎ、口を開いてゴクリと飲み込んだ。


「え」


 男の顔が黒に染まる。バキリバキリと翼が肥大する。

 青い羽がみるみる抜け落ち、下から黒い皮膚が剥き出しになる。

 青い三つ揃いから黒い羽毛が突き出した。眼の縁から泥のような金色が生まれ、虹彩の奥、水晶体の一点を残して覆い尽くした。

 翼の先から鋭い爪を伸ばした姿は鳥というより蝙蝠に近い。


「ハッハッハッハッハッ!!!これは痛快!!」



 ・・・中ボスっぽい



 大西は常軌を逸した跳躍力で蝙蝠男に飛び掛った。

 ホッケーマスクに鎖鋸を振り回す大西を勇者側として捉えるのにも無理がある。シロウは茜空を眺めた。


 悪者同士の領土ナワバリ争いかな





 ◆◇





「格好悪い」「親の都合で」「可哀想に」「ごめんなさい」「貴方のせいで」「みっともない食べ方」「教育が悪い」「私ばっかり」「汚い喋り方」「親の責任」「貴方がいなければ」「派手な頭髪」「生まれの問題」「貴方さえ生まれなければ」「発育が悪い」「劣悪な環境で」「喋らないで」「気持ち悪い」「可哀想に」「頭が痛くなる」「平均よりも劣っている」「不衛生な子」「なにもしないで」「欠陥がある」「周囲に悪影響」「迷惑なの」「盗んだのは」「やっぱり」「不愉快よ」「乱暴な子」「片親だから」「気持ち悪い」「苛つく態度」「不快な声」「どうして」「また癇癪」「頭がおかしい」「ごめんなさい」「また泣いている」「ああ可哀想」「どうして貴方が」「表情がない」「きっと病気」「どうして貴方が生きてるの?」

「生まなければ良かった」



「生まれたいなんて、言ってない」



 髪を乱雑に混ぜられる。

 大嫌いな人の中、呑気に笑う彼がいた。


「大丈夫だよ」


 触れる手は温かい。頬を涙が伝った。


「我慢出来ない」「大丈夫」


「聞きたくない」「大丈夫だって」


「なあ、もうやめよう」「大丈夫だから」


「わらうな」


 なんにも大丈夫なんかじゃない。だけど友は過ぎたことだと顧みない。とうに克服したのだと、じくじくと爛(ただ)れる胸に気付きもしない。


「気にすることなんかないんだ。笑い飛ばしちゃえば、なんでもないんだよ」



 バキリ、遠くで、あるいは近くで、何かが壊れる音がした。


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