第7話求模

 濡れたように光を含んだ望月が、小さな庭に屈む女性の、亜麻色の髪に光を垂らしていた。


 ひっそりと静まった真夜中だ。女は月に見守られながら、花壇に球根を植え付けている。


「花が咲いたら、この子は笑うかしら」


 月の光に照らされた女性の隣に、黒い影が寄り添っている。


「花の価値なんてわかりませんよ」


 夜を包むような小さな声で話す女性に、壊れものに触れるような、柔らかくて、ほんの少し震える声が応えた。


「いいのよ、わからなくても。笑ってくれたら、それで満足だもの」


 静寂を守るような、小さな笑い声が零れる。

 穏やかな風が女性の髪を撫でていった。


「僕も、それで良い」


 震える声がそっと空気を震わせた。

 女性は顔を上げ、姿のない誰かに優しい笑みを浮かべた。



 ◆◇



「いっっ・・・・・・てえぇー・・・・・・」


「何がそんなに痛いんですか?」


「いや、もう痛くねえんだけどよ」


「なんですかそれは」


 己の左手首を握り締め頭を臥せる大西に、シロウは首を傾げ、けれども次の瞬間にはあっけらかんとする大西に、益々困惑する。


 左手を忌々しげに睨む。痛みは一瞬だった。

 けれども骨が折れるほど強く握りしめられるような、痛めつけられるような嫌な感覚だった。


 苛立ちを払うように空を見上げた。月なんてどこにも出てやしない。緑白色の光がたなびいていた。


 ふと気付いて目を剥く。


「おま、その手どうしたの?」


 シロウの全身は以前薄らと光に包まれていたが、両手首から爪の先までが、光を吸い込むような真っ黒に染まっていた。

 シロウは今気付いた、という顔で手のひらを見つめると、握ったり開いたりを繰り返す。

 どうやら痛みはないらしく、只々不思議そうに首を傾げた。


「・・・・・・実害はありませんが」


「じゃあインクか?きったね触んな」


「頼まれても触りゃしませんよ馬鹿が」


「はああぁん?」


「それで、なんて言っていたんですか?」


 シロがどう思っているかは知らないが、大西としては油断していた隙を突かれたような心持ちだ。舌打ちどころか表情にも出さなかった自分を内心褒めたい。


「・・・・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・・・・さみしいってさ」


 シロウの様子を窺うと、大して動じた様子もなく、ただゆっくりとまばたきを繰り返していた。


「何故方法がわかったんですか?」


「偶然。適当。さ、鍵はどこだー」


「・・・・・・・・・」


 あからさまに話を逸らす大西に、シロウのじっとりとした視線がつきまとった。




 それは歯車でも鍵でもなかった。


「鍵穴じゃん」


「鍵穴ですね」


 赤い金具で縁取られた小さな鍵穴が、子牛が潜んでいた氷塊の隙間に隠れていた。


「おめでとうございます。一つ目です」


 その言葉は、鍵が一つだけではないことを示して、大西は深く頭を垂れた。一体いつになったら帰れるのか。


「つまり・・・繰り返しか・・・・・・俺達の旅はまだまだ続くのかぁ・・・」


「打ち切りますか?」


「バーーーーカ!!」


 心做しか嬉々とした声色で尋ねるシロウに罵倒を返す。

 赤くて小さな鍵を穴に差し込むと、それはピッタリおさまった。

 右に回す。かちゃん、小気味良い音が響いた。



 直後、地面が崩れた。数多の硝子を硬い地面に叩きつけたようなけたたましい粉砕音と共に、足場の氷は散々に砕け、細かな塵と化して空へと昇っていった。


 足場のなくなった大西は下に落ちていく。



「あああああああぁぁああああああ!!」


 底が見えない。

 ただ暗闇の中に、塵と化した氷の破片が遠ざかるオーロラの光を僅かに散りばめて、大西はその最中を落下していた。



「ところで、蜘蛛の糸をご存じですか」


 絶叫する大西に、遅れて続くように落下しているシロウは、器用に宙で足組みをして、まるで休日に公園のベンチにでも腰掛けてるような穏やかな面で、共に落ちていく大西に語りかけた。


「蜘蛛を助けた男が地獄に落ち、それを知る釈迦が男のもとへ蜘蛛の糸を垂らすお話です」


「おまえぇえ!他に言うことあるだろ!!?」


「五月蝿い。君の無意味な絶叫よりは有意義でしょうが」


 穏やかな目だが、口調はかなり辛辣だ。言われてみれば、それが正しいような気がして、大西は現状をかんがみる。



「いや、俺悪くないじゃん?」


「君、釈迦はどうして糸を垂らしたと思いますか?」


「聞いて?」


 うっかり冷静になったせいで、騒ぐ気力も失せてしまった。

 底はまだまだ遠いので、仕方なし暇潰しにシロウの話を反芻はんすうする。


「・・・男が蜘蛛を助けたからだろ。知ってるよそれくらい」


「ハッ」


「ああん?」


 大西が答えた途端、失笑が返される。物理的にも精神的にも見下した顔で笑うシロウに、下がった血の気がちょっとだけ戻ってきた。

 この状況落下中でなければ迷いなく殴りかかっている。


「たった一度の善行で赦しの機会を与えられるなら、今頃地獄なんてありませんよ。善行なんて、全くやらない方が余程難しいんですから」


「そもそも俺は天国も地獄も信じてねえ」


「おや、そうですか」


 なにがおかしいのか、愉快気に笑うシロウは、一瞬、どこかあの猿達と重なって見えた。


「お前はどう思ってんだよ」


 不快げに目を細める大西に、シロウはずっと笑みを湛えていた。


「想像して下さいよ。

 見えるかもわからないくらい細くて脆い糸です。彼は救われる期待すらしていなかったから、その一縷を見たとき、思わず笑みが浮かんだはずです。無様に縋りついて、救われたいと願って必死にたぐりのぼったところで、ぷつん。切れたことが理解できなくて、救いが絶えたことが認識できなくて、それでも笑顔にゆっくりと焦燥が滲んでいくんです。とっくに絶えた糸を尚も強く握りしめながら、地獄に戻っていく姿。

 ねえ、かなり面白いでしょう?想像しただけで笑えてくる」


 既にオーロラは遠くなっていた。すっかり暗闇に包まれた空間には、にっこりと笑う少年の姿だけが薄らと浮かび上がっている。


「情けをかけたと思いますか?

 釈迦は男が自分だけ助かろうとするような人格であることなど最初から知っていたんです。それでも敢えて糸を垂らした。

 僕がもしも釈迦の立場だったら、きっと男の喚き声を聞ける瞬間を待ちわびていますよ。そうして糸が切れた途端、腹を抱えて笑うでしょうね」


 笑顔で己を見下ろす少年を、大西は静かに見返した。


「・・・なんで今その話をした?」


「頑張る君を励まそうと思って」


「本音は?」


「ご馳走様です」


「ハッゲッろ!クソネズミ!!」


「シロウですよ」


 小槌を軽く打ち鳴らすような、小気味よい笑い声が響いた。



 暫く落ちていると、ずっと下の方から僅かな橙色の光が見えてきた。けれども底はいまだ遠いようで、目を凝らしても着地点は見つからない。大西は既に脱力して落ちるままに身を任せていた。


「てかいい加減どうすんだよこれ、落下死じゃん」


「心配せずとも、死にゃしませんよ」


 適当なこと言ってんだろうなと、シロを睨むが、当のシロは大西のほうを見てはいなかった。真っ黒な両手を口元に寄せ、緩く組んだ両手の隙間からふっと息を吹くのが見える。


「・・・なにしてんの」


 大西の問いに、シロウはゆるい笑みを返して、両手を開いた。

 瞬間、開いた両手から一斉に、赤い何かが洪水のように溢れ出した。

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