第3話深底





 澄んだ水が穏やかに流れている。

 大きな河の上を少年はまるでガラスでも張ってある様子で歩いていく。

 そういうもんなんだろうか。試しに大西も水面に足を乗せると容易く落ちた。どぼんと勢い良く川に沈んでいく大西を振り返ったシロウはきょとんと首を傾げた。


「なにしてるんですか?」


(お前ほんと案内向いてないわ)



 水の中を落ちている。足が着かない。

 泳ぎは嫌いでなかったはずなのに、何故か身体はどんどん沈んでいく。

 がぼがぼ、肺の中がカラになる。水が中を満たした。


 やがて、視界が鮮明になる。気付けば、気道が楽になっていた。


『望めばなんでも叶う』


 首に触れてみると、裂けている。首の左右に出来た切れ目が、開いたり閉じたりを繰り返していた。


(エ・ラ!!)


大西は魚類になったらしい。両生類かもしれない。

もがくのも忘れて項垂れる。

 望めば叶うのは便利だが、だからといって一番の望みである友達は自力で探さなくてはならないし、よほど強く望まなくては受理されないようだし、うっかりするとこの有様。


(素晴らしくもなんともねーよ。悪夢だよ)


 不意に、視界に光るものがあった。

 川はよほど深いようで、沈んでいる今も底は見えない。光はその下のほうから届いている。

 衝動のままに水を蹴り、下へ下へと潜っていった。

 どうしてか、その薄く青い光が気になったのだ。


 水の中は随分清く、けれども小魚1匹水草一つ見当たらない。寂しい川だった。


 深く深くに潜るにつれ、一つだった光が二つ三つ、四つ五つと増えていき、ようやく水底へ辿り着いたころ、そこは星空を一面に敷いたような有様だった。


 水底に跪く。それはガラスの破片だ。綺麗な藍色のガラス片が、水底一面に散らばって、内から淡く澄んだ光を放っていた。


 美的センスはからっきしだが、これは美しいと思えた。水底にあるなんて勿体ない。


(貰っていこう)


 落ちているのだから、きっと誰のものでもないのだ。

 せっかくだから、貰ってしまおう。


 美しい光に手を伸ばした。

 するとじわりと赤い液が水中に滲んだ。見ると、指先がぱっくりと切れている。

 触れてもいないのに。まるで拒まれたような。

 じくじくと広がる痛みに、ふつり、はらわたが煮えた。


 薄赤く濁った水底で、ガラス片はいまだきらきらと眩い光を放っている。

 大西は再び手を伸ばした。ぱっくり裂けた左手で、ぶつぶつと傷が広がるのも構わずわし掴む。

 ぶつり、ぶつり、水中に薄紅が広がっていく。ずたずたになっていく手でガラス片を強く握り締め、水底を蹴った。


 直後、周囲が閃光のような強烈な光を放ち、目が焼かれる。

 視界が奪われる寸前、水底に取り残された破片達がまるで手元の破片に共鳴するかのように一斉に襲いかかってくるのが見えた。


「・・・・・・・・・っ、」


 激痛を覚悟し構える。

 一向にチクリともしない。しばらくして、恐る恐る目蓋を開くと、そこには、只深くて大きな暗闇が広がっていた。

 いまだぼやける眼を眇め、左手を撫でる。

 ぼろぼろなはずの手のひらは、傷一つもなく、全くもとの姿に戻っていた。


 ◆◇


 ざばり、水面を突き破って顔を出す。途端に気道が詰まって激しい咳を繰り返した。

 身のうちを一杯に満たしていた水が、呼吸器官にずきずき痛みを与えながら、後から後からせり上がり零れていった。

 随分長く咳をして、肺の中の水を全て吐き出し、かわりに冷たい空気を一杯に吸い込む。何度も呼吸を繰り返し、それから首元に触れる。エラの感触がなくなっていた。

 腹の底から溜息を吐き出した。安堵の溜息だ。

 確かめるように首をさすりつつ水面を見回せば、シロウは割合近くにいた。

 何故か三角座りをして、大西が必死こいて帰ってきたというのに、頭を俯かせたままピクリとも動かない。


「おい。おいシロ、コラおい」


 シロウはのろのろと顔を上げた。眼が半分以上落ちている。


「お前、寝てたろ」


「・・・いえ、いえ・・・・っ、・・とても心配、してました」


「欠伸してんじゃねえか」


 水面に手を這わせてみると、波紋が広がり岸辺へと広がっていく。

出来る出来ると念じながら手に体重をかけると、そのまま身体を引き上げ、水面に乗り上げた。

 波紋を生みつつも水面の上に立つ大西を、感慨の欠片も無い顔でぼんやり眺め、再びこみ上げる欠伸を噛み殺したシロウはようやくのろのろと立ち上がった。


 自身の、ずぶ濡れになった身体を見下ろす。

 出来る出来る乾け乾け俺は出来ると念じていくうち、まとわりついていた水が、まるで意思を持っているかのように水中へと逃げていった。


「風呂いらずじゃん」


「怠け者の発想ですね」


 至極どうでも良さげな声。シロウは既に歩き始めていた。


「お前、浮いてんの?」


 シロウの後を追いながら、大西は足元を見比べた。


 大西の足元は歩くたびに波紋が生まれるのに、シロウの足元には一つも生まれない。


「僕は嫌われてますからね。触れないんです」


「嫌われてる?誰に?」


「さて、君の友人でしょうか」


 深く頷いた。


「お前、ノリ悪いもんな」


 流れるような足払いを食らい、大西は水上で綺麗な受け身をとった。



 (なんか悪いこと言ったか?)




◆◇




 川の上を歩いていく。流れる水は綺麗に澄んでいるのに、その先は深くて暗い。奥を見通すことができない。


 足元を強く蹴ってみる。

 波紋が広がり、たちまち消えた。


「なあ」


 振り向きもしない。少年は大西の数歩前を行く。

 前方に見える岸辺は、雪を無惨に溶かした此岸とは異なって、まだ純白の雪に覆われていた。

 ずっと彼方に薄らと山の陰影が見える。


(登るんじゃねえだろうな)


 諦める気はないけれども、滅入めいる。


 岸の前に辿り着く。雪が高く積もっている。

 胸のあたりまで積もった雪を、シロは助走もせずに一つ跳びで乗り上げた。

 その背中を、大西はぼけっと眺めている。


「夢だ」


 ぽつりと呟いた声にシロウが振り返る。大西はその目をじっと見詰め、縋るように問い掛けた。


「夢なんだよな?」


 ありえないことが続いている。叶いっこないことが叶っている。現実ではない。

 だがこれを夢というなら、どこまでが夢で、が現実だ。


「君がそう望むなら、夢にできますよ。今すぐにでも」


 観察するような目だ。まるでお前のことなんかどうでも良いと言わんばかりだ。あながち間違いでもなさそうだが。


「・・・ユキを、殺す夢を見た」


 呟いて自覚すると、ざくり、血をすっかり抜かれたような錯覚がした。平衡感覚がどろりと狂う。眉を顰めて四肢に力を込めた。結果的にシロウを睨みあげるような面になってしまったが、彼はどこまでも他人事のようだ。


「君がそう望むなら、それは夢です」


「・・・・・・それは」


 二の句が浮かばない。なんて言おうとしたんだったか。


 大西は不器用な性分だ。その気はなくても血を流させたことが幾らもある。意図的に傷つけたことなんか数え切れない。

 それでも彼は“友達”のままで、大西を嫌わないでいてくれた。


大西は自分に自信がもてないでいる。いつも誰かと自分を比べてはやっぱり俺なんか、なんて言い訳して家の中を転がっている。

 だから大西は、こんなに粗悪な自分を見捨てないでいてくれる友が不思議で仕方がない。しばしば神経を疑っている。

他の誰にも嫌われても、いつも彼は味方をしてくれたので、だから彼に嫌われることだけは我慢がならなかった。彼に嫌われてしまえば、きっと大西は誰にも許してもらえない。

 そしたら大西は、きっと本当の悪者になってしまうのだ。


 思考に埋没する大西を、シロウは眉を眇めて監察していた。


(・・・餓鬼の考えることはよくわからんな)


「君がそのユキとやらを望むなら、そうなるように案内しますよ。それが僕の役目です」


 安心させるためでも言い聞かせるためでもない。アナウンスみたいな一方通行の声。

 顔を上げると、淡い瞳が相変わらず冷たい温度で大西を見下していた。


「呉々も、望みは忘れないで下さいよ」


 答えにならない答えを並べ少年は大西に背を向けた。そのままさっさと歩き始めてしまうので、大西もぷつりと思考を千切った。


「・・・・・・わかった」


 少年の言葉はあやふやでちっとも頼りにならない。

 しかしそれを素直に信じてしまう。まあそっくりだから仕方ない。



 背中が遠ざかる。急ぎ雪に手をのせた。


 ずぶり、雪中に腕が沈む。



「・・・・・・だあああっ!めんどくせえなあもー!!」




 雪ばっかりの一面に、大西の怒声はよく轟いた。

 失笑したきり、シロウは歩みを続ける。

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