第4話 天伝ふ気褄を合わす日盛ったの

      1


 先生に教えられた数字。一つだけ違っている。知っている。

 ようじのケータイ番号くらい。

「よお」

「ことと次第によっちゃ追い返すが」

「暇?」

 突然押しかけても絶対いると思った。親父にはここしかない。お袋のとこじゃないのはもうどうでもいいとして。

「ひとり?」

「悪いか」

 じゃあ、まだ。帰ってきてないんだ。

「あづまがさ」

「知らないとでも思ったか」

「今日はそのことじゃなくて」

 俺は親父の息子だけど、あきとは。親父とは。

「なんだ。用がないなら」

「ようじに会った?」

「会いたいとも思わないな」

「知らない?居場所」

 雑巾がバケツに放られる。水が飛ぶ。土が湿る。

「なんか、あったか」

「あづまは、元気なんだけど」

「お前は元気じゃないみたいだな」

 親父が手を洗ってくる間、リビングで立ち尽くしてた。本が出しっぱなし。親父が読んでるんだろうか。裏返し。タイトルを見ようと思ったら、声。ちょうど戻ってきた。タイミングのいい。

「俺のじゃないから、勝手にいじられると困る」

「さっき、ひとりって」

「知ってるんだろ。お前のおかげみてえなもんだから、礼を言っとくよ」

 ああ、そうか。帰ってきてる。

 じゃあ、親父は幸せなんだ。

「邪魔してごめん」

「留守んときでよかったな。命拾いだぞお前」

「いないの?」

「いろいろとな。あいつもやることがある」

 俺の。やること。

「で、なんだって? ようじがどうかしたか」

「あづまはいいのかよ」

「元気なんだろ。それに越したこたねえよ。お前のほうが心配だ」

「あきとがさ」

「ああ、あづささんの。そいつが?」

「診てくんねえ?」

「俺にか? どうして。主治医がいるんだろ?」

「えとりってわかるか。北廉ホスガ先生の息子の」

「まあ。見たことはある」

「あいつの主治医だから、なんつーかあんま信用できないっつーか」

 座れ。と言われて腰を下ろす。ソファ。親父が丁寧に本をどかす。

 あの人は、あのときも本を読んでた。

 えとりそっくりな。ようじにもどことなく似てる。親父の好きな奴。俺のお袋じゃなくて元患者。ここで治療をしてた。療養かもしれない。

 治らない。あの人はそう言ってた。無表情で。

「ここに転院させたいとか抜かすんじゃねえだろうな。駄目だ」

「じゃあ親父が診てくれれば」

「俺は引退したんだ。いまはただのじじいおまけにもーろく」

「治らないって言われた」

「主治医にか。そりゃひでえ医者だ」

「暇だろ? あの人いねえんじゃ」

「留守番してんだよ。忙しい」

「どうすりゃいいのかわかんねえんだよ。なあ、なんとか」

「主治医がひでえのは理解できなかねえが、俺には何ともな。ようじが絡んでんなら余計遠慮しときたい。懲り懲りなんだよ、あいつの顔見るの」

 食い下がっても無駄だ。親父は心底ようじに苦しめられたから。ようじが一枚噛んでるだけで尻尾巻いて逃げる。ようじを弁護する気はない。賛成も否定もしない。ただ、助けてほしいだけなのに。俺一人じゃもうどうにも。

「あづささんにゃ言ったのか。まあその様子じゃ言ってねえだろうがな」

 電話。できない。放任されてるから助かってるけど。もし、何かの拍子に連絡でもされたら。どんな顔して返事すればいいのか。ところであきとは元気でやってる?なんて。聞かないでほしい。答えられない。

「俺も人のこた言えねえけど、あづささんとどんくらい連絡とってねえかわかんねえくらいだしよ。顔も忘れたよ。ひでえ旦那だ。向こうも忘れてんだろ。あきと。だっけか。実は顔見たことねえんだ。似てるか」

「いや。父親似じゃねの?」

「会ったことねえのか。てっきり四人で仲良くやってんだと」

「まさか。あきとも知らねえんじゃねえ?」

「はあ?なんだそりゃ。どっから種拾ってきたんだよあいつは」

 そういえば。あきとの父親。知らない。知ってどうするでもないから。あきとは何も言わないし。俺も何も聞かない。

「あづささんは?ひとりか」

「わかんない」

「ますますひでえことんなってんな。息子も音信不通。あ、そうか。そうだな。俺の息子じゃな、要らねえわな」

「それさ、息子の俺の前で言うなよ」

「悪い悪い。俺の息子はお前じゃねえから。言いたいこと言えんだよ。クズみてえな父親のこたあ、さっさと忘れるこったな」

 クズみたいでも。俺の親父は親父なのに。

 本人がそう思ってないから言わないが。俺はどっちかと言わなくても、どう考えてもいないほうがいい。お袋にとっても親父にとっても。たまたま間違ってデキたガキだから。おかげで親父もお袋も不幸になった。俺がいたから。

「昼過ぎてんな。なんか喰うか。セルフサービスでよけりゃ」

「作ってくれんじゃねえのかよ」

「なんで俺がんなことしなきゃなんねえんだよ。アポなしな上にみやげもなし。しかも会ったこともねえ種違いのガキを診ろだ?知るかよ。帰れ」

 親父の言い分は最もだ。あきとは親父にとって他人でしかない。しかもいないほうがいい俺なんかの頼みじゃ。天敵のようじも関わってると来たら。応じてもらえると考えるなんて虫が良すぎる。

「ごめん。やっぱ邪魔だった」

 どうするか。これから。結佐と話。

 気が重い。

 渡り廊下。呼び止められる。なにを今更。

「同情なら別に」

「言い過ぎたな。どうもお前見ると思ったことゆっちまう。反省してるよ」

「いいよ。ホントのことだし」

「あきとってのは、どんななんだ」

「いいってもう。引退じじいに頼った俺が馬鹿だった」

 歩くのを。止める。

 遮る。親父が前に。

「帰るって」

「あいつがさ、ここにいたらどうすっかなって。いまここでお前を見捨てたらたぶん俺も見捨てられる。あいつさ、お前のこと気に入ってんだよ。お前とさ、俺を比べてとしき君ならそんなこと言わないのに、だの。としき君ならそんなことしないのに、だの。ったくよ、嫉妬すんだよな俺だって。なんで俺がお前と比べらんなきゃいけねえのか。でもまあ、親子だからさ。都合いいこと言ってるけど、あづまだってお前のこと気に入ってるし。やっぱ、お前のおかげなんだわ。恩人に冷たいこと言って追い返したなんざ、あいつに合わせる顔がねえしな」

「要は、あの人に嫌われたくないだけだろ」

「そうだな。ショウジに嫌われたら俺は」

「元気なの?」

「俺よりはな」

「親父も元気ねえんだ」

「だって一週間留守にされたらな。淋しいだろうが」

 へえ。そこそこ。

 仲良くやってんじゃん。

「うし。久々に運転すっかな」

「は?俺の車」

「お前の運転じゃ日が暮れちまうよ。おーら、乗った乗った」

「俺の車だっつって」

 いおらさん。ありがと。

 俺も元気出たよ。


      2


 主治医が外に出してくれた。俺だけ出されたって。えとりは。

 残念そうな顔で手を振る。

「しょうがないよ。先生が駄目っていうなら」

「でも」

「大丈夫。僕はいますっごく幸せだから」

 俺ひとりで出掛けても。どこ行っていいのかわかんないし。何していいのかもわからない。追い出されたのかも。えとりは俺と一緒だと嬉しいはずなのに。なんで。主治医が追い出した?のかもしれない。また具合悪くなったとかで。

 俺はえとりの幻覚なんだから。一緒にいるのが。

 本当の幻覚がえとりのそばにいるから。別に俺がいなくても。そうゆうことだろうか。そうゆうことなんだろうな。じゃあ今頃えとりは、幻覚の俺と。悔しい。なんで。俺がホンモノなのに。なんでニセモノの幻覚なんかに。

 図書館。なんとなく。えとりが通ってるみたいだから。学生じゃないと借りれない。わかってる。見に来ただけ。

「あ」

 向こうも気づいた。えとりと一緒にいた奴。なんでこんなとこで。

「なんか用?」

 えとりと一緒に住んでる奴。なんでそんな。

「用ないの?」

「そっちがあるんじゃ」

 そいつは持ってた分厚い本を机に置く。付いてこい。みたいな雰囲気で。階段を上がる。何階建てだっけ。壁際の部屋。空室、を、使用中、に変えて中に。鍵。そんなことしなくても逃げない。

「北廉は?入院?」

「ホスガ?」

「北廉は北廉。知らないの?」

 名字。そんなだっけ。

「泊まったって聞いたけど」

「悪いかよ」

「やっぱ泊まったんだ。なんで?」

「いいだろ、別に」

 向こうが座らないから俺も座らない。椅子も机もあるけど。敵意。そんなの俺だって。なんでこんな奴がえとりと一緒に住んで。

「幻覚じゃないっぽいけど」

「違う」

「どうゆう関係?」

「恋人」

「ジョーク?」

「本気だ」

 バカにした笑い。えとりに相手にしてもらえないからって。ひがみ。

「ヤったの?」

「恋人だから」

「おめでたいアタマ」

 腹が立ったけど我慢した。ただのやっかみだから。

「お前は?どうゆう関係だよ」

「ただの友だち。警戒してんの? 意味ないし。北廉はあんたのことしか見てない」

 あれ。認めてくれた?

「俺がいるのに。幻覚のほうがいいってさ。下らない」

「好きなの?」

「あんたよりもね」

「俺のほうが」

「押し倒したことあんだけど駄目だった。あんたがいるから、あんたが見てるからやめろって言われた。どうゆうことだと思う? あんたの勝ちだよ」

 あれ。調子狂うな。

「北廉笑ってる?あんたと一緒だと」

「うん。まあ」

「じゃあそれでいい。俺と一緒だと笑わないから」

 座る。向こうが座ったから座る。

「いくつ?」

「わかんない」

「いつ北廉と会ったの?」

「だいぶ前」

 そいつはまじまじと俺の顔を見る。

「なんだよ」

丘槻オカヅキ。あんたはあづまだっけ。呼び捨てされるとやだ?」

 えとりは君付けしてくれるから。君が付いてるとどきどきする。えとりに呼ばれてるみたいで。ちょっと思い出す。風呂のときのこと。

「なんか顔紅いけど」

「気のせい」

「名字は?」

東海林ショウジ

「そっちでいい? 下の名前だと北廉に怒られるかも」

「なんで一緒に住んでるの?」

「心配だから。発作とか。知ってる?」

「お前が助けてくれてたの?」

「主治医に電話するとか救急車呼ぶとかしかしてないし」

「ありがと」

「東海林に言われても」

 えとりは。

「言ってくんないの?」

「放っといてとか。文句あるなら出てけって。北廉の家だから」

「居候?」

「そうゆうことになる」

「部屋別だよな」

「北廉には東海林がいるから。風呂のぞいても怒られないけど」

「のぞくなよ」

「そんくらいはいいじゃん」

「お前、えとりで」

「おかずにするくらいならいいって言われたけど」

 複雑だ。えとりは俺のなのに。

「いいじゃん。触れるんだから。キスもできるし、そこから先も。なにが不満なの?」

「別に不満じゃねえけど」

「幻覚でも、北廉に好きだっていってもらえるんなら、俺は幻覚になりたい」

「なればいいだろ」

「わかんない? 北廉は東海林が好きなんだから。俺なんか眼中にない。東海林が幻覚って思い込んでるから北廉はああやってフツーに生活できてる。会ってちょっと経ってからいなくなったんだって? そのときの北廉、知らないよね」

 飛び降りた。父さんの研究所から。

「俺も詳しくは知らないけど、北廉、ほんとうに東海林のこと好きなんだと思う。だからさ、もういなくなるなよ。次にいなくなったら、俺、お前捜し出して殺すかもしんないから」

 いなくなる。どうなんだろ。今回は。父さんの都合は。

 俺だってずっとえとりと一緒に。

「約束だから」

 指きり。なんでこいつと。

 オカヅキ?とかいう奴は図書館で調べものしてるみたいだったから、そこで別れた。どうしよう。行くとこないから帰ろっかな。

 建物の入り口に。白衣と普段着。白衣は親父だとして。親父?

「先生!」

「あづまか」

 老けた。言わないことにしよう。気にしてるから。

「どうした?こんなとこで」

「先生こそ」

「俺が連れてきたんだよ」

「親父が?」

「おいおい、俺が親父だろ。こいつは兄貴じゃねえか」

「でも」

 先生は先生だし。親父は親父だし。

「お父さんて呼んでくれよ」

「うーん」

「躾の問題だな」

「お前に言われたかない。なんでお前が親父って呼ばれてて、本当の親父の俺が先生のまんまなんだ。なあ、頼むよあづま。俺がお父さんなんだから」

「のるとって人は?」

「お母さん、だろ。そいつも俺のこといまだに先生だしな。二人揃って」

「そうゆうのはあとでやれよ。いまは」

「あーそうだった。じゃあな、あづま。ちょいとお父さんはお仕事だ」

「なにするの?」

「お父さんの職業言ってみろ」

「医者」

「当たり。つまりそうゆうことだ」

 全然わからない。親父もなんかこそこそしてるから聞かないどいてあげるけど。

「あれ、そっち行くの?」

 地下にえとりが入院してる。まさか。

「えとりの?」

「ここにいんのか」

 違う?みたい?

「悪い、あづま。あとでな」

 隠してる。えとりのことじゃないならいいけど。ここにほかに。

 誰かいるんだろうか。

艮蔵カタクラ先生の弟だよ」えとりが教えてくれた。

「弟?いるの?」

「あ、じゃあ君のお兄さんてことになるね。三人きょうだいだ」

 ここに、いるってことは。

「入院だよ。僕は会ったことないけど」

「具合悪いの?」

「具合っていうより、ううん」

 えとりもわからないらしい。えとりにわからないんじゃ俺にも。

「案外早く戻ってきたんだね」

「つまんなかった」

「うれしい」

 丘槻のこと。話そうか。

「え、会ったの?どこで?」

「図書館」

「レポートかな。まったく、寸前にならないとやらないんだから」

「お前のことよろしくってさ」

「そんなこと言ったの? どうゆう風の吹き回しかな。丘槻、僕のこと好きなはずだから君なんかにっくきライバルってことになるんだけど」

「俺の勝ちだって」

「へえ、踏ん切りがついたのかな。家から出てく理由付けかも。そうしたら一緒に住めるね。あ、迷惑じゃないならだけど」

「ううん。迷惑なわけ」

「ほんと? 嬉しいことの連続で嘘みたいだけど」

「ホントだよ」

 俺はここにいるし。えとりと一緒だし。

「さっきなんかしてた? 俺がいないとき」

「あ、うん。診察」

「まだ入院?」

「早く帰りたいよ」


     3


 親父はあきとを見て一瞬怯んだ。当然と言えば当然。俺だってそうだった。

 せっかく戻ってきたのに。俺は。受け止めてやれなかった。あんまりにも、あきとじゃなくなってて。玄関に座り込んだあきとに呼び掛けることも、部屋の奥に連れてくこともできずに。朝。あきとはずっと笑ってた。

 いまも、笑ってる。俺を見て。滑稽な兄だと。

「一人で面倒看てたのか」

「俺がやらないと」

「ちょっとひどいことするかもしんねえから、外」

「いんや、これ以上悪くもできねえし」

「そうか」

 俺と親父は似てる。俺にはわかんないけど、いおらって人がそう言ってた。だから似てるんだろう。顔も仕草も口調も。あきとは笑う。俺だと思ってるのかもしれない。急に俺が老けたもんだから、可笑しいのだ。おかしいよな。役立たずな兄貴で。

「俺じゃないほうがいいかもな」

「匙投げんのか」

「違うさ。俺よか頼りになる人がいるんだよ。ちょっと待ってろ」

「あ、ここケータイ」

 つながらない。えとりの部屋なら通じるが。もう一個下だから。

「わかるか? さっきのな、俺の親父」

 笑う。

「似てるって? そうか?」

 笑う。

 頼むから、ほかの反応を返してくれ。

 親父が戻ってきた。不発だといわんばかりに首を。

「留守?」

「またあとでやってみるよ。もしかしたら直接行ったほうが早いかもしんねえが」

「どこ?」

「まあ、任せろって」

「俺に会わせたくないってことか」

「いちいち突っかかるなぁ。会わせたくねえって、お前、会ったことあんぞ。俺をぶん殴りに来たときあったろ。あんときに」

万里マデノ先生?」

「そう。よく憶えてたな。あの人、ようじの育ての親だよ」

 部屋を出る。あきと。また来るよ。

「期待していいか」

「どうかな。先生本人つーよりは、先生の知り合いがすげーんだけど」

 エレベータ。俺は階段で。

「若い奴はいいな」

「止まったら困る」

 地上。エレベータ。上がってこない。

 あれ?地下一階。おい、勝手に。

「なにやってんだよ」

「いるんだろ」

「いるにゃいるが」

 俺は。会えない。

「ついでだから」

「いい。よけーなこと」

 俺は。会わせたくない。

「突き当たりか?」

「駄目だって」

 腕。摑む。

「似てるから、やめたほうが」

「知ってるよ。でも似てるんなら何とかできるかもしれねえだろ」

「俺は」

 なんもできないのに。ずるい。親父は。

「あのひでえ主治医になんか言われたら、俺のせいだって」

 ドアノブ。

 まずい。これだけ騒いで気づかれないわけが。

「なにやってんの」

 あづま。じゃあ奥に。

「悪い悪い。えとり君、いるか」

「いるけど」

「邪魔して悪いな。お楽しみ中か?」

「なに、お楽しみって?」

 ケータイ。正直、有り難い。でも。

 誰だ。

「親父、ごめん。ちょっと」

「おう」

「あんま好き勝手すんなよ。引退じじいなんだから」

「大きなお世話だ」

 三仮崎ミカサキ。じゃない。この番号は。登録はあいつが無断で。俺はアドレス帳の使い方がいまいちわからないから。憶えてる。ようじも。あづまのも。えとりはケータイを家に置いてあるが。結佐でもない。

 先生? 第一、ケータイの番号じゃない。

 切れた。これだけ渋ってれば。

 かけ直すか。知らない番号だと怖いな。

 掛かってきた。さっきと同じ。

「もしもし?」

「今日は非番なんですってね」椎多シイタ先生。

「どうしたんですか」

「急に声が聴きたくなって。勿論私じゃないですよ。ほら」

 声になってない。口に何か。

 三仮崎?

 なんでそう思った?なんで。三仮崎が先生に会いに行ったから。

「いまどこですか」

「どこでしょう。捜してください。私にもよくわからなくて」

「からかってるんですか」

「ええ、からかってますよ。私は先生が憎い。憎くて憎くて仕方ない。先生が苦しむところが見たいんです」

「だったら俺本人に」

「それじゃ駄目なんですよ。先生は優しい方なので、先生の知り合いをいたぶったほうが先生はおつらい。手始めに」

 悲鳴とも嗚咽ともつかない。

 なに、

 して。

「早く私を見つけてくださいもしかしたら気が変わるかもしれませんねはははははっははははははあっはあっはははははっははははははっはははははははっははははっははははっはっはっはっははhははっはははh」

 先生の家。

 どこだ。誰に聞けば。大学。個人情報?んなもん知るか。こっちは一刻を争う。粘っても、認められておりませんの一点張り。

 ほかに。北廉先生がいれば。学生。ゼミ。えとりは?

 イチかバチか。

「えとりに代われ」

「え、どうしたの?」あづまはすぐに出た。

「いいから」

 この時間が惜しい。何キロ進める。

「どうしたんですか」

「椎多先生の家、知らねえか」

「どうしたんです?」

「いいから。知ってるか知らねえかだけ」

「ごめんなさい」

 駄目か。

「家知ってどうするんです? 先生なら研究室に」

 話すか。えとりなら。

「三仮崎が死ぬかもしれない」

「椎多さんが絡んでるんですね?」

 さすが。死ぬ、に動じない。先を考えてる。

 顛末。

「僕なら家にいませんね。そんなわかりやすいところに三仮崎先生を監禁しようだなんて思いません。でももし、艮蔵先生に見つけてほしいんだったら」

「家か」

「椎多さんに怨まれるようなこと」

 わかれ。きっと、えとりはわかった。

「うまくやらないと、先生も」

「わかってる。でも見殺しには」

「時間指定はないんですね? なら、一人で行かないでください。僕が、て言いたいのは山々なんですけど、あ、でも僕のほうがいいかもしれない。指導教官だし」

「連れてけってか。無理だ。なんでお前を」

「僕がいたら椎多さんは何も出来ません。僕がいるから艮蔵先生は死ねません。どうです? 連れてきたくなりませんか」

「出ていいのか」

結佐ユサ先生に怒られるのは僕です。発作が出たらそのときはそのとき」

 階段。駆け下りる。突き当たり。

「どこ行くの?」あづまが聞く。

「悪い。絶対、連れ帰るから」

 手。冷たい。

「なんで?」

「ごめん。あづま君。結佐先生来たら誤魔化しといて」

 親父はわかってくれたと思う。あづまに説明しといてくれる。

 俺はえとりを死なせる気は更々ない。

「しっかり締めろよ」

「久しぶりですね。先生の車」

 先生の家。

「ホントは知ってんだろ?」

「父さんが頼りにしてましたので」

「理由になってないぞ」

「父さんが頼りにしてるイコール僕が頼りにしてる、にはなりません。それだけです。行きましょう」

 そう言ってえとりは笑った。楽しそうに。

 その顔が見たかった。

 ずっと。あづまと出会う前から。


      4


 三仮崎が死んだらやっぱり俺のせいだ。蘇生可能な範囲でぎりぎり生きててくれればいいが。念のために救急車も呼んでおく。えとりの発案。天才だよお前は。

「三仮崎先生には悪いですけど、ちょっとどきどきしますね」

「不謹慎だな」

 マンションの十二階。えらい高いな。飛び降りられたら困る。そっちの手配もすればいい。さすがは天才少年。

「ね? 僕を連れてきて正解でしょう」

 オートロック。どうやるかわからなかったが、えとりは手馴れたもので。

「先生?僕です。えとり」

「ひとり?」椎多先生。

 居た。すげえ。

 なんでわかった?

「まさか。浮気中です」

「あづま君じゃないのね、お付は。誰かしら」

「三仮崎先生は無事ですか」

「なんのこと?」

「入れてください」

 インタフォンが唐突に切れて。ドア。開く。

「早く」

 勝手に閉まった。なんだこのホラーゲームの洋館みたいな造りは。

「エレベータでいいですか」

「速さには変えられない」

 到着音。

「銃とかあるといいんですけど」

「映画の見すぎだ」

「説得は僕がしますので黙っててください。先生がなにを言ってもマイナスにしかなりませんので」

 確かにそのほうがよさそうだ。えとりはこうゆう職業に向いてるんじゃなかろうか。なんつったかな。専門用語で。

 チャイム。

「えとり君?」

 ドア越し。先生の声。

 思わず口を押さえる。

「入れてください」

「艮蔵先生の声が聴きたい」

「怒鳴りすぎて声を痛めたようです。僕が代わりに」

「喘ぎすぎて、の間違いじゃないの? 先生?いるのなら返事してください」

 えとりが首を振る。

「ぜんぶ見えてますよ。いいでしょう?カメラもあるんだから」

 駄目じゃないか。えとりは首を振る。

 姿が見られたところでどうってことはない。むしろ先生が来たってことがわかったほうがいい。えとりは小声で。とにかく喋るな。

 了解しました隊長。

「立て篭もりなんて、一番愚かな方法を採りましたね。椎多さんにしては。それだけ切羽詰ってたってことですか」

「えとり君からもなんとか言ってやってくれない? 騙されてたのよ私。可哀相でしょ。旦那は大学のときから男に惚れてて、そうとは知らずにお付き合い。彼も彼よ。想ってる人がいるんならどうして。ノンケだってこと確かめたかったのかなあ。どうなの、おとひささん?」

「生きてますか?」

「殺すわけないじゃない。私の旦那よ。艮蔵先生?死んでください。私たちの幸せのために」

 あんまり逆撫でしないほうが。えとり。頼むから、眼を合わせて。

「部屋に入れてくれませんか」

「艮蔵先生だけならいいよ。どうぞ。いま、開けるから」

 がちゃ。鍵が。

 えとりがドアノブを引っ張る。玄関に。

 だれだ。

 先生じゃない。先生はもっと。もっと?

 どこかで、

 おぼえが。

 何も持ってなくてよかった。えとりが銃とかいったのは。

 完全なジョークで。

 押さえつける。床に。

 暴れ。させない。体格ならこちらの勝ちだ。

 表情を。見ないように。

 誰なのか。いまここにいるのが。

 誰なのか意識しないように。

 えとりが土足のまま。

「三仮崎先生!」

 いるんだろ。

 無音。

 いるんなら。

「先生!返事してください」

 せんせい

 せんせい

 せんせい

 救急。間に合うだろうか。

 間に合う間に合わないじゃない。間に合わせろ。

 早く。運べ。はやくはやくはやくしろ。

 手を。

 力を抜いて。気づく。

 こいつを。

 置いて。俺が救急車に乗ったら。

 えとりが。

 えとりも連れて?いや、こいつをひとり置いていくのは。

 こいつも連れて?

 だれが。どうやって。

 先生じゃない。先生はもっと。

 心停止。

 三仮崎を見殺しに。

 あのときと同じ。切って貼って繋ぎ合わせようが意識が。

 できない。

 戻ったじゃないか。でももし今度。

 できない。できるわけが。

 心停止。

 どちらかを採るんじゃなくて。どっちも。

 両方。

「行ってください」

 えとり。本当に俺は。

 お前になんにも。

「言ったでしょう?説得は僕がするって」

「頼む」

 椎多先生を見つけてくれ。


      5


 笑ってる。僕はたぶん、大笑い。

 椎多さんも笑ってる。つられて笑う。

 わらうわらう。

 僕は、艮蔵先生の弟が艮蔵先生を見て笑う理由を知っている。

 僕は、椎多さんが艮蔵先生を怨んでいる理由を知っている。

 僕は、艮蔵先生が椎多さんの妹に対して抱いている怒りを知っている。

 僕は、椎多さんの妹が艮蔵先生の弟に何をしたか。

 しらない。

 しりたい。

 おしえて。

「やめとけ」

 とめるんだ。

「とめるだろ」

 やめないよ。

 はじめまして椎多さんの妹。お名前は。

「ヒグチ」

 椎多じゃないんですか。

「椎多はおねーちゃん。わたしはヒグチ」

 僕はえとりといいます。よろしく。

「メガネっ漢だあ」

 なんですか、それ。

「ちかおには敵わないね。惜しいなあ」

 ちかお、とは。

「アウトロー白衣先生の弟さん。最高のメガネっかん

 そうか。アナグラム。

 椎多さんを捜してるんですが。

「おねーちゃん?さっきお見舞いに来てくれたよ」

 そのあとは。

「デートがあるって。帰っちゃった」

 日口ヒグチさんが、どこぞへ。

「わかんない。久しぶりにアウトロー白衣先生に会えてどきどきしたあ」

 知らないんですか。

「知ってても教えてあげない」

 ようじさん。いるんですよね。

「さすがはえとり君。随分楽しそうだね」

 椎多さんをどこにやったんですか。

「どこって、そこにいるのは違うの?」

 日口さんです。全然似てない。

「胎も種も違うきょーだいじゃね。他人だもん。真似、じょーずだったでしょ?」

 駄目だ。この人に訊いても。答えてくれるわけない。考えないと。椎多さん。行きそうなところ。じゃなくて、行かざるを得ないところ。

「泣いて頼んだら瞬間移動させてあげる」

 黙っててください。

「いいの?死んじゃうよ」

 どうせ死んでる。

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