第3話 廓しい手飲み敬虔血に飢える

      1


 あづま君が見てるからやめてよ。そう言ってホスガは顔を背ける。

 発作が心配だから、と看病人面して一緒に住むことにした。やめておくんだった。楽しさの欠片もない。想いが届かないのは知っている。過去に二度ほどフラれている。もっと沢山だったかもしれない。

 ホスガには好きなヤツがいる。出会いだけなら俺のほうが早かった。小学校一年。ヤツとは中学一年。六年も早い。裏を返せば六年も何をやっていたのだと。そうゆう対象として見られてはいなかった。俺だって最初は嫌な奴だと思った。ホスガがいるせいで万年学年二位。不名誉なレッテル。

 一緒に住んでいるといっても私生活垂れ流しではない。相手の部屋には勝手に入れないし勝手に入らない。緊急事態をのぞけば。鍵はかかっていない。内側からはかかる。いまはかかっていない。中に誰もいないから。

 ホスガの部屋。ホスガのにおいがする。当然だ。ホスガの部屋なんだから。気味が悪いほど物が整頓されている。エントロピィの法則はここでは無効。温度のない部屋。窓がないせいかもしれない。飛び降りたくなるからね。ホスガはそう云っていた。

 なくたって飛び降りるくせに。窓を探して手すりから身を乗り出すくせに。落下した先に桃源郷が見えるのかもしれない。幻覚に名前なんか付けるくらいだ。俺には見えないものが見えている。ホスガに見えて聞こえてさわれるもの。

 着替えを紙袋に詰める。洗濯してもホスガの部屋に収納すればホスガのにおいが付く。無生物のにおい。これを嗅ぐと死にたくなる。首を振ってにおいを振り払う。口から吸っても意味がない。口と鼻はつながっている。息を止める。ベッドが眼に入る。掛け布団が半分に折り畳まれている。シーツにホスガの型が残っているような気が。早く着替えをもって行かなければいけないのに。違う。たまたまホスガがいないからであって。入院するなら留守になるから。ホスガの部屋は無人になるから。

 病院に着替えを持っていって帰ってくるまでの記憶がすっぽり抜け落ちている。それどころではなかった。いい加減の具現の主治医に今日こそがつんと言ってやろうと思ったのに。思っただけ。思ったところで実行しない。俺はホスガにとってなんでもない。ナースコールのボタン。ケータイのバッテリィ。近くにいれば頼ってくれると思ったのに。

 あづま君が見てるから。いつもそれだ。見てる?どこで?いないだろ。俺には見えない俺にだけ見えない。ホスガには見えているし聞こえているしさわれる。幻覚だか幻聴だかに惚れた腫れたもない。ない。おかしい。受け入れられない。認めない。そんなヤツはいないだからこっちを見てほしい。俺はここにいるし見えるし話せるしさわれる。幻覚なんか好きになったって。

「君は親友だから。そうとしか見れないよ」

 親友になりたいわけじゃない。友だちなんかご免だ。だったら嫌われたほうがいい。嫌われるには、嫌われるようなことをすればいい。簡単だ。方法なんかひとつしか。

 水の音。バス使用中。きれいに服が折り畳んである。メガネは部屋に置いてきたらしい。脱衣場には見当たらなかった。

「何か用?緊急?」

 ホスガの声。響いている。

「辞書貸してほしいんだけど」

「まだ買ってなかったの? 仕方ないな。場所わかる?」

「図書館よりわかりやすいし」

「それは光栄だ。じゃあね」

 水の音。

「ホントはのぞきにきたんじゃない?」

 一緒に。

「見たいなら見ればいいよ。面白いかどうかはわかりかねるけど」

「入っていい?」

「裸じゃないならね」

 メガネがない分有利かと思ったけど、甘く見てた。メガネがなくたって脳がある。脳を取り出さない限りホスガには勝てない。脳がなくても勝てないような気がしてくる。顔を見たら負けだ。首から下。腰より下。足よりは上。

 水の音。聞こえない聞かない。バスタブ。白い肩。石鹸を踏んづけてうっかり。なんて天文学的な確率。馬鹿馬鹿しい。ホスガの口が動く前に塞ごうと思った。音声のほうが早い。

「あづま君が見てるからやめてよ」

 またこれだ。

 顔を背ける。白い首元。

「君とはしたくない」

 キワイとはしてたくせに。あのとき俺も誘ったくせに。

「洗えないからどいてくれるかな」

「俺が洗う」

「面倒だよ。望んでない」

 顔に近づいたら手を。顔の間に挟みこむ。瞬きもせずに。

「僕にはあづま君がいるから。悪いけど」

 いない。そんなヤツ。

「こうゆうことを求めるのなら出て行ってほしい。ここは僕の家だ」

 誰とでも寝てたくせに、今更。主治医とも担任ともカウンセラとも父親とも寝てたくせに。なんで俺だけ。

「なんで」

「もう言わないよ。物分かりが悪くなったね」

 ホスガが上体を起こす。全部見える。隠さないし見られたところでなんとも思っていない。いない幻に弁解する。大丈夫だと、何もされていないと。

 何もできなかった。さわってもいない。肩なんか、親友じゃなくてもさわれる。

 濡れた服を洗濯機に放り込む。ホスガが水滴をぼたぼた垂らしながら手を伸ばす。バスタオル。手渡す。

「ありがと。君も入っておいでよ」

「拭いといて」

 雑巾を落とす。初速度が異常。

「八つ当たり?」

「人に当たらないだけマシ」

「物に当たるほうが陰険だと思うけど」

 人に当たったら、ここに他人はホスガしかいないんだから。ホスガを痛めつけるしかない。大したことないと思っているのか。俺の八つ当たりくらい。口では敵わない。力でも勝ち目なし。白い背中。

「おかずにするくらいなら許すよ」

「別に」

「部屋が隣じゃなくてよかったね」

「してないし」

 あのときの白いカラダを思い出して息を吸う。ホスガのにおい。シーツも布団も。空間自体がホスガの。粒子とか大気とか。入ったまま出られない。入院は長引くかもしれない。嬉しくないはずなのにいまは帰ってきてほしくない。見られるとか知られるとか、それは構わない。ホスガのことだ。とっくにわかってる。

 起きたらホスガの部屋だった。なんのことはない。瞬間移動ができないのなら、昨日はあのままここにいてそのまま眠ったのだ。ホスガのにおいに俺のにおいがほんの僅かだけど混ざった気がする。息が上がる。起き抜けだというのに。抜かないと。

 だるい。見舞い。そうだった。気が進まない気がするのは気のせいで。どうせ何も口にしてないだろうから何か買っていこう。ホスガの好きなもの。わからない。食べ物には執着しない。下手をすると何日もまともに食べなくても平気な顔で。果物がいい。

 せっかく行ったのに、主治医は忙しいとかで。見舞いは叶わなかった。主治医しか入れないとかいう怪しい病棟。渡しておいてくれ、も断られる。イチゴ。俺は食べたくないから誰かに。ひとり。思いつく。

 研究室。ノック。返事。

「あれ? 珍しいね」

 俺が一人で来ることはそんなにない。むしろ、ない。用がない。

 ホスガのゼミの指導教官。

「あの、よかったらこれ」

「ちょっと待ってね。当てるから。もし当たったらちょうだいね。えーっと、えとり君のお見舞いに行こうとしてそれを買ったんだけど、主治医の先生が忙しくて会えなくて、泣く泣く処分係として私に白羽の矢を立てた」

「ほぼ正解です」

「やったー。ありがとね」

 先生は嫌いじゃない。ホスガのことを考えてくれてるし。講義も面白い。履修登録のときホスガに念押しされた。シイタ先生の講義は最優先で取るように。

 先生はいそいそとパックを水道に持っていく。流水で洗う。眼がイチゴに釘付けだ。

「いっただっきまーす」

「ホスガには」

「ううん。てゆうか、入院になったのをいま知ったとこ」

 イチゴはあっという間になくなる。もっと味わって食べればいいのに。俺は取らないし要らないし。そう言ったら、証拠隠滅だそうで。

「ホントは駄目なんだよ。学生からこうゆうのもらっちゃ」

「??なんで」

「事情が事情だから今回はしょうがないけど、次からは駄目だよ。教授も最近肩身が狭いからね」

 それでわざわざクイズの景品にしたのか。理由付け。からになったパックをどうするのかと思ったら、あとでこっそり捨てに行くらしい。

「入院かあ。発表会来週だってのに。あ、そのために休むのか。ふむふむ」

「先生は」

 あづま君とやらに。

「会ったり」

「幻覚じゃなかったね」

 幻覚じゃない。本当にいるということ。俺も、そう思うしか。

「図書館騒ぎのとき、オカヅキ君が救急車呼んでくれたんだってね。吃驚したでしょう。えとり君の発作見たの、初めて?」

「そっちより、幻覚がホントだってほうがビックリで」

「私も吃驚だよ。もうアタマん中ぐっちゃぐちゃで。印象はどう?あづま君の」

「嫌いです」

「そうじゃなくて。雰囲気とか。私はなんか変だって感じたんだけど、なにが変なのかいまいちわかんなくて。変だってのはわかるんだけど。言ってることわかる?」

 電話が鳴る。追い出されないので待つことにした。

 なんか変だけどなにが変なのかわからない。どうゆう意味だ。幻覚についてあんまり思い出せない。どんな顔でどんな服装だった。見てなかった。倒れたホスガをどうにかするのに必死で。病院で会ったとき。それも微妙。一言二言喋った気がするけど。どうでもいいことだったと思うし。いてほしくない存在。幻覚でも本物でも。消えてなくなってほしい。そうすればホスガだって。

「ごめんごめん。聞いてた?」

「いえ」

「忘れてね。イチゴも含めて。もらっといてあれだけど」

 断片的に拾えた単語。それを組み合わせて推測するに。ホスガは。

 幻覚と一緒に入院して。

「あ、いけないいけない。ごめんこれから用事あって。ここ空けるから外出て」

 ホスガについてだ。ずっと前から決まってた用事じゃなくてついさっきいましがた決まった急な。白々しい。そうならそうと言えばいい。邪魔しないし探ったりもしない。俺にはなんにも出来ないことくらいわかってる。

 どうせこれから講義。試験だけど。


      2


 あづま君がここにいてくれてうれしい。そう言ってえとりは。

 俺もうれしい。はずなんだけど、なんで。なんでこんなに厭な。夢で父さんに叱られたから? 叱られた夢なんか見ただろうか。あれが父さんだったてゆう証拠も何もない。それに俺は幻なんだから、夢なんか見るはず。

「あきちゃった?」

「そうじゃなくて」

「ごめんね。僕だけ楽しくても意味ないよね」

 そうじゃないのに。哀しそうな顔。しないでほしい。そうじゃないんだから。えとりは悪くない。悪くないってことを伝えるために抱き締める。冷たいカラダ。

「もうすぐ先生がくると思うから、そうしたら外、出させてもらおうね。行きたいところがあるんだ」

「どこ?」

「秘密。行けばわかるよ」

「気になる」

「大したところじゃないよ。あんまり期待しないでね」

「どこ?」

 カラダは冷たいまま。なんで。

「ちっとも大きくなってないね」

 タイムマシン。

「老いないんじゃない?」

 だったらどうしよう。

「トイレ行ってくるね」

「ああ」

 ドア。開いた。え、外。

「ここは出れても地上に出られないんだよ」

 顔が洗いたかったので付いていく。薄暗い寒い廊下。壁にさわったらひんやりどころじゃなかった。えとりの次に冷たい。えとりのほうが冷たい。

 なんで。

「見ないでね」

「顔洗うから」

 眼を閉じる、と言いたかったんだけど。通じたかな。

 水が冷たい。待っていたらお湯も出た。向こうの扉が浴室っぽい。タオル。眼がちかちかする。

「シャワー浴びよっかなあ」

「いいよ」

「一緒に入る?」

「狭いだろ」

 笑う。

「なんで笑うの?」

「確か前にもこうゆうことあったよね」

「そうだっけか」

「忘れてるね。僕の宝物の記憶なのに」

 たからもの。どきっとする。

 えとりのほうが大きい。えとりのほうが高い。えとりのほうが。冷たい。なんで。やっぱりタイムマシンのせいで。俺だけ置き去り。時間がねじれてよじれて。また会えたのは奇跡じゃなくて、父さんの計画。

「ねえ、一緒にさ」

 そんな顔で言われたら。なんて言っていいのか。

「駄目かな」

 頷く。


      3


 あづま君が。そう言ってえとりは。

「入院ですか」

「したくないよな」

「そう言ってくれるの、先生だけです」

 そんなことくらいしか言えない。

「先生が主治医ならよかったのに」

 何度もそう言ってもらってる。喜ぶべきなのか。頼ってもらうのは嬉しい。けど、俺はなんにも。

 寝不足で頭ががんがんする。コーヒーのにおい。これがさらに助長して。コーヒーなんか飲むな。知ってるだろうに。忘れてるなんて言わせない。

「待ち合わせ場所を間違えましたね」

「移動だ」

 飲み終わってない。知るかそんなこと。

 駐車場。一発でわかる。あの趣味は。

「乗りたくない」

「久しぶりですね。その反応」

「お前これで高速」

「ええ。快適でしたよ」

「わざとやってねえか。俺に嫌がらせするために一台余分に持ってて」

「誠に申し上げにくいのですが、全部で三台です」

「うわ、これだからボンボンは」

 元気そうで。よかった。その分切り出しにくい。何のために呼んだのか。ミカサキもわかってるだろうから、そっちから言ってくれれば。

 壊れたのは俺のせいだと。

「この時間からあれですが、素面で平気ですか。どこかに」

「飲んだら寝ちまうからな。お前が運転しながらできついんならどっか」

「先輩の家がいいんですが」

「ずうずうしいな」

「散らかってるなら片付けますよ。ご希望ならお食事も」

 あすこは。

 あんまり帰りたくない。思い出す。あきとが戻ってきたときの。

 引っ越せばいいのに。引っ越すだけの気力がない。

「痩せましたね。やつれたって言ったほうが近いんですけど。さっきロビィで見たときなんですけど、正直に言いますと、その」

「命を救う医者にゃ見えないってか。ユサにも言われてる。もう限界かな」

「辞められるんですか。そんな、先輩の腕でどれだけの人が」

「ミスっちまう前に、なんとかしたほうがいいだろ。オペんときの記憶がねえんだよ。気づいたら死んじまってた、なんて洒落になんねえ」

「先輩がお決めになったなら、私にはなんとも。残念です」

 遅い。法定速度。そういえばそんなものあったな。景色の流れがゆっくりすぎて。よく見える。建物も人も。見たくない。眼を瞑る。見える。あきと。

「弟さんは」

「ちょっと黙ってろ」

「すみません」

 いまは忘れたい。あきと。ごめん。悪いのは俺なのに。お前から解放されたいなんて。思ってる自分が一番情けない。

「私に当たってすっきりされるのでしたら、いくらでもお付き合いします。いつでも馳せ参じますので。遠慮せずに」

「言わねえんだろ、そうゆうこと」

「言いませんね。言ったことないです」

 眼を開ける。瞼が重い。眠ってしまいたい。死んでしまいたい。同義か。えとりには死ぬなと言っておいて。自分はさっさと死にたいと思ってる。

「言いたくないことは言わないんです。嘘はつきますけど、基本的には正直に生きてるつもりなので」

「もう、心残りはねえんだな。あんときは確か」

 好きだと。

「付き合ってわかったんです。やっぱり私は」

「あんときからか」

「ええ、一目惚れですので」

「どうするんだ」

「それもどうにかしようと思って。夜にまた、命があったらの話ですけど、会ってもらえますか?先輩の予約をしたいので」

 今日一日くらい。いいか、と思ってしまう。あきと。朝に顔見せたし。

「命があったらって、不吉だな。話せばわかってくれっだろ」

「本人がいないので言いますけど、彼女、結構恐ろしい方で。先輩はご存じないでしょうけど。ところで先輩、交流が? あ、えとり君の」

「そいつもお前の耳に入れとくよ。あづまがな」

「え、彼って」

「いるんだよ。お前までそんなんでどうする」

 ただし、一回死んだ。からいまいるあづまは。

 ようじがリセットボタン押した。

 大きくもならないし、小さくもならない。死ぬ直前の姿のまま。

「いるって。どういうことですか。まさか博士が」

 さすがは。

「博士なんですね」

「それでちょいと頼みがあんだが」

 先生を。

「私にしか出来ないことでしょうが、これからやろうとしてることに支障が」

「無理にとは言わない」

「そんな、先輩に頼まれて断れるわけ」

「悪い。ホント、頼む」

 ようじの居場所知るには。なりふり構ってられない。

 しばらく無言で走った。俺が寝た振りしたからかもしれない。目的地。あったらとっくに着いてる。速度の問題じゃなくて、本題までの時間潰し。さっさと言え。気を遣うな。遣うくらいならさっさと終わらせてくれ。

「お願いがあるんですけど」

「断る」

「まだ何も言ってませんよ」

「厭な予感しかしない」

 風の音。手探りでウィンドウ下ろした。思いの外、速度が心地いい。

「憶えてます? 私が学会でこっちに来たときに泊まらせてもらおうと思って、ちゃんとアポとって行ったってのになぜか先客がいて。逃げ帰ったこと」

「んなことあったか?」

「ありましたよ。その何ヶ月かあとに、たまたまオオギ寄ったら講義サボってる不良の医学生がいて、相談受けたんですよ。俺は解剖がしたいわけじゃないって」

「誰だよ不良って」

「おや、身に覚えが? 私は不良の医学生としか」

「あったな。んなこと」

 言いたいことがわかった。遠回りだけど着実に順序を踏むのがらしいというか。運転中だから実力行使にも出れないか。

「憶えてます?」

「なんもしてねえだろ」

「できなかったんです。そこに先輩がいたのに、なにも。とんだ赤っ恥ですよ」

 酔ってた。二日酔い。憶えてないんだから好き勝手やりゃいいのに。

「博士のこと、憶えてても構いませんから」

「無茶だなそりゃ。あいつに敵うとでも思ってんのかよお前」

「白旗です。だからこそ、先輩の許可が」

「そっちをはっきりさせないうちに」

「わかってます。わかってるんですけど、彼女に立ち向かう勇気みたいなものがもらえたらなあ、と」

「は?立ち向かう? バトルじゃねえんだから」

「戦いですよ。やる前から負け戦とわかっていて挑むんですから。当たって砕けろじゃなくて、砕けるためにぶつかってくんです。なにが目的かわかったもんじゃ」

「どっか停めろ」

 大型ショッピングモールの地下駐車場。地下。立体駐車場とどっちがいいか。どっちも変わらない。降りればいい。乗ったままいなくても。

「あきとだが」

「想像はつきます」

「あのまんまか」

「主治医は何と?」

「頼りにならねえ」

「転院をお勧めします」

「口利けるか」

「先輩のためなら」

「怨まれねえかな。傍に置いときたくないからどっか遣るみてえに」

「つまらない慰めで恐縮ですが、先輩のせいではありません。先輩が傍にいることで治るのなら外科医なんか辞めてどこか静かな田舎での療養を勧めます」

「親父がさ」

 精神科医。引退してないとは思うが。

「なんとかならねえかな」

「ご連絡は?」

「なんつっていいかわかんなくて」

「送りましょうか」

「いねえかもしんねえ」

「転院させたいけどできればお父上のほうが、ということですか」

「わかんねえ。どうすりゃあきとにとって一番いいのか」

「やはり主治医に相談されたほうが」

「駄目なんだ。怒鳴り散らして終わりだから」

 ユサが悪いわけじゃない。あきとが治らないのは俺のせい。それを指摘されたくなくて当り散らすしかない。ユサが口を開くのが怖い。俺への非難。兄貴がそんなんだから弟がそんなことに。

「突き放すようですみませんが、私にはなんとも」

「だよな。いい。わかってる。俺が話すしかねえんだよ」

「お母上には?」

「忙しいだろうから」

「お話になられることを勧めます」

「できっかな」

「先輩がやろうと思って出来なかったことなんかありません。まともに中高通ってらっしゃらなかったのに必死で勉強して見事立派な医者になったじゃないですか。瀕死の私を救ってくださったのはどこのどなたですか。私がこうして生きていられるのはどこぞの河川敷で大安売りの喧嘩を片っ端から買っていらっしゃったあの方です。よろしければご紹介しましょうか」

 あれは。ミカサキが死にそうだったのも。俺の。

「まだ責めていらっしゃるんですか。私は生きています。ここで、先輩の眼の前で。見えますか。聞こえますか。それが先輩の成した偉業です。誇ってください。胸を張ってください。どうかそんなお顔はなさらずに」

 手。体温。これだけあったかいなら。

 生きてる。

 絶対駄目だと思った。俺が殺したと思った。でも生き返った。俺がやったんじゃない。俺は、なんにも。こいつのベッド脇でぐだぐだ鼻水垂らしてただけ。

 だれの、せい。

 わかってる。先生の妹。ようじが。

 匿ってる。俺が殺さないように。俺が殺しに行ってしまう。場所さえわかれば。眼の前にいれば。オペなんか患者なんか。ぜんぶ放っぽりだして先生の妹を殺しにいく。それをさせないために、ようじは。どっかに潜伏してる。どこだ。どこに。

 ようじ。頼むから復讐をさせてくれ。

 あきとの。ミカサキの。俺の。


      4


 あづま君。えとり君の幻覚。博士と先生の愛の結晶。

 妹にも幻覚がいる。マゼンタとかいう男。妹の後頭部のあたりに立ってるらしい。私には見えない。

 新作を斜め読みした感想を告げる。妹は嬉々として制作秘話を語る。私が太鼓判を押すと自信満々でサイトにアップする。私が難色を示すとアップを渋る。でもしばらくすると展開やラストをガラッと変えてアップされてたり。修正後のほうが格段に面白いので、私は正直に感想を述べることにしている。

「おねーちゃん、最近会ってるの?ええーっと」

 私の彼氏の名前。妹はちっとも憶えてくれない。

 かくゆう私も忘れかけてきてる。

「遠距離になっちゃったからね。なかなか」

「ぼやぼやしてると浮気されちゃうよ。あ、してるんだっけ」

 妹に悪気はない。

「そう。出会ったときからね」

「好きな人がいるのにおねーちゃんと付き合ってしかも結婚までしちゃうんだからね。とんでもないよね。ひどいよね。だから」

 殺してやったのになんで生きてるんだろう。

「アウトロー白衣な先生はやっぱすごいね。元気してる?あ、ちかおがあんなんだもんね。元気なわけないか。私のこと」

 怨んでくれてるといいな殺しに来てくれればいいのに。

 妹じゃない低い男の声が聞こえたらそれは、マゼンタ。マゼンタの声のほうが妹の声より多くなってきたら退散の合図。私は妹の見舞いに来てる。マゼンタとかいうわけのわからない男に会いに来てるわけじゃない。

 博士と眼が合ったので会釈をする。眼を合わせないために頭を下げる。

 どうしてこの人は歳をとらないのだろう。というよりは外見年齢を自在に変えられる。最初に会ったときは十代になるかならないか。三ヵ月後にいきなり二十代になって、いまは。

「気をつけてね。先生が死んだら哀しい」

「手駒が減りますものね」

「報告。楽しみにしてるよ」

 だれが別れてやるものですか。慰謝料いくら積んだところで。

 妹が手を振っている。両手を大きく。私も振り返す。片手を小さく。

 なにもおかしくないじゃないか。入院の意味はない。先生に殺されないため。博士はそう言うけど、つまるところ、先生を苦しめるため。

 彼らは本当に深く深く愛し合っている。羨ましい。妬ましい。壊してやりたい。

 昨日の深夜、彼からメールが届いた。電話じゃないところが彼の気の遣い方。

 大事な話があります。急で悪いのですが。

 きっと、先生に会いに行くついでに私のところにも寄っていこうか、みたいな流れ。ついで。その程度。私の優先順位は先生には遙か及ばない。悔しくて仕方ないから無理矢理時間を作ってオーケィした。会議なんかどうとでも。あれだけ時間を無駄にして何も決まらないのだ。

「先生に会いたい?」

 先生とは、ホスガ先生のこと。私は頷く。

「会ってどうするの?」

「えとり君が幸せの絶頂にいることを伝えます」

「ふうん。言伝とくよ」

 会釈して車に乗る。博士は発進まで見送ってくれた。

 今日も叶わなかった。貴方はいったいどこに。死んでいるのかもしれない。そのほうが先生に相応しい。あの人は強烈な死のにおいを放ってた。えとり君そっくり。希死念慮は遺伝する。近くにいれば感染する。私にも感染した。ワクチンはひとつ。

 飛び降りること。だから、えとり君は繰り返し自殺未遂を図った。

 信号の色がよくわからなくなる。白線か黄色い線なのか。歩道なのか車道なのか。横断歩道と歩道橋。交差点とT字路。スクランブルと時間差。一方通行と中央分離帯。ニュートラルとバック。助手席とシートベルト。

 見間違えるわけがない。

 メール。早く着いたのでコーヒーを。その背中目掛けて凶器を突き刺す幻想。貫通する前にぐりぐりと捻る誘惑。生憎と鋭利な刃物はない。あるのはつながらない通信機器。番号とアドレスがあったところで。

「お久しぶりです」

 どうしたシイタラダム。いつもの可愛らしい美声は。

「何かお飲みに?」

 お前が飲んできたものをいますぐここで吐き出せ。一滴残らず。

「出ましょうか」

 車。私の車がいい。お前の車には乗りたくない。先生のにおいがこびりついた助手席なんか乗ったら。ステアリングを狂わせて崖に真っ逆さま。

「よろしければ運転代わりましょうか?」

「私の運転が信用できないと?」

「すみません。お疲れのようでしたので」

 ひどい顔だろ。そう言え。不細工だと。嫉妬に塗れた醜い女の。

 指輪。してない。私も。

 どこかに捨ててきた。

「渡すものがあるんじゃないですか?」

「あとにします。物事には順序がありますからね」

 完璧な笑顔。私はこれに惚れたのに。いまは。

 憎らしくて死にそうだ。

「さっきまで一緒だったんですよね」

「どなたと?」

 とぼけやがって。完璧に隠そうが私にはわかる。

 先生のにおいが漂ってくる。

「そっくりそのままお返ししますよ。博士と面会をされてきたのですね?」

「だったらなんですか」

「妹さんはお元気ですか」

「ええ。おかげさまで」

「博士に会いたいという方は世の中にそれはそれはごろごろしています。僕の師匠も同僚も、僕の属する業界のそれこそ教祖様ですからね。僕も是非」

「私を拷問して吐かせればいいじゃないですか。それとも監視カメラや盗聴器でも仕掛けますか。そのためにいらっしゃったんでしょう。わざわざご足労を頂いて。ええどうぞ。これから私のマンションに向かいますから。煮るなり焼くなりご自由に。私が席を外したらご持参されてる機器を」

 彼は何も言わない。企みがあっさりバレて困っているのだろう。ざまあ。

「先生となにをなさっていたんですか。さっきまで。私に話し掛けるその口で、私に触ろうとするその手で、私を。受け取りますよ。離婚届でしょう? いま私、すっごく機嫌がいいんです。朝一番で学生からイチゴもらったんですよ。すっごく美味しくて。一パック丸々食べちゃいました。だってすっごく甘くて美味しくて。でも久しぶりに会った貴方からのプレゼントはつまらない紙切れ一枚。なんですか、この待遇。私を不幸にするためにいらっしゃったのでしょう?」

 帰れ。帰れよ。とっとと先生のところにでも行って。

 優しく抱いてもらえばいい。

 着いた。どこ。ここ。どこでもいい。彼を先生から離せるのなら。彼の手が先生に届かない距離ならどこでも。

 彼は動かない。

「降りてください」

 動かない。

「降りればいいでしょう? 紙切れ一枚持ってくるためになんでこんな」

 動かない。

「降りてよ」

「別れてはもらえないのですね」

「なによ。私が悪いみたいに。先生が好きなら最初から私のこと」

「ごめんなさい。全面的に僕が悪いんです。あなたは」

 あなた?なにその他人行儀。

「悪くない」

「したんですか?」

 何も言わない。何か言え。

「したんですよね? しかもついさっき。どうやったんですか?教えてください。同じことを私にもしてください。どっちが抱かれるほうなのか知りま」

 私が彼ならはたいてた。頬を思いっきり。でも彼は。そんなことしない。

 優しいから。だから腹が立つ。

「触らないで」

 離れる。彼は優しい。微笑まないで。

 私が哀れなだけだから。

「取り乱しました。ごめんなさい」

「いいえ、悪いのは僕です」

「寝たんですか」

「お答えできません」

「私のこと怨んでるでしょう? 私の妹がしたことですものね」

「あなたは妹さんと別人です。先輩は」

 先輩?もうそれをやめて。彼のほうが年上なのに。

「先輩なら、あなたではなく、妹さんのほうを殺しに行くでしょう。迷わず。だから絶対に居場所を教えないでください。先輩の気持ちもわかります。でも僕は先輩にそんなことをしてほしくない。つらいだろうけど、弟さんのことだけ考えてほしい。弟さんの過去じゃなくて弟さんの未来を」

 彼は深々頭を下げる。なにこの茶番。

「愛する人に罪を犯してほしくない。殺人なんて。そうゆうことですか?莫迦莫迦しい。自分だけいい格好しないでください。私の妹なんかそれこそ何人も殺してる殺人鬼ですよ。その姉がどれだけ惨めか非道か。私にも同じ血が流れてるんです。殺人鬼のですよ。いまここであなたを殺そうが何食わぬ顔で教壇で講義できます。あなたを殺したら次は」

「殺させません。やめてください。僕を殺して気が済むのであれば」

「済むわけがないでしょう? 私は先生を殺したい。なぶって苦しめて。すぐには殺しませんよ。頭がおかしくなったって狂ったって、繰り返し繰り返し苦痛を与えてやるんだから。あなたにも見せてあげましょうか。いい席をご用意できますよ。なにせ私の」

「僕が先輩を好きなのは、先輩のせいじゃない。同様に、あなたが僕を好きなのは、僕のせいじゃない。おわかりになりますか?」

「ええ、とてもよくわかります。あなたの講義はとてもわかりやすいって、学生にも評判でしたもの。先生と寝たんでしょう?正直に仰ってください」

 彼は頭を上げない。踏んづけてやりたい。首筋から後頭部にかけて。

「先生を連れてきてください。私の部屋に。私の眼の前で見せてください。どうやって愛し合ったのか。私のはらわたが捩れるまで笑わせてください。ずーっと騙されてた哀れな女を笑ってください。悔しい。本当に悔しいんです。妹があなたを殺そうとしたとき、本当は嬉しかったんです。これで彼は先生を愛せなくなるって。先生に会えなくなるって。でも違いました。先生は泣き喚きながらあなたを手術して、意識が戻らないから付きっ切りで声かけて。お見舞いに行った私はどうすればいいんですか。ほとんど面会謝絶です。先生の思いが通じたんでしょうね。神様は見ていらっしゃるんです。日ごろの行ないがいいと、奇跡を起こしてくださる。あなたの意識が戻ったときの先生の様子。いまでも憶えてますよ。殺してやればよかった。先生を貫通させた刃物があなたの心臓を止めればよかった。なんでしなかったんだろう。悔やまれます。莫迦だった」

 彼が顔を上げる。私の話が退屈だから首が疲れたのだ。

 たったそれだけ。

「僕があなたと別れても、先輩は僕を見てくれない」

「それが?」

「僕がこのままあなたと意味のない夫婦関係を続けても、あなたは苦しいでしょう。別れても同じだ。どうします? 僕を殺しますか。心中しましょうか、いっそ。僕もつらいんです。先輩は絶対振り向いてくれない。先輩は毎日毎日弟さんのお見舞いに行って、毎日毎日弟さんと意味のないセックスをしています。意味のない射精です。やめろと言ってもやめないでしょうね。意味がなくても続けるしかない。先輩には弟さんを愛するしかできない。あの人、本当は精神科医になりたかったんですよ。信じられます?いまでこそ笑い話ですが。僕は反対しておきました。どう考えても向いてない。やめてもらってよかったと思っています。先輩が外科医になってくれたおかげで僕はいまここで生きている。あのとき、妹さんに呼び出されたとき、僕は死ぬことを覚悟していました。本当ですよ?先輩の弟がいなくなって、先輩は血眼になって弟さんを捜していました。あんな先輩をこれ以上見ていたくない。僕の命と引き換えに先輩の苦しみが終わるなら。そう思って妹さんとのデートに応じました。あなたは妹さんとは違う。別の人です。僕を殺そうだなんて微塵も思っていないし、先輩を殺したいなんて、僕に対するあてつけ以外の何物でもありません。違いますか?」

 ここで私が泣けば、確実に彼は私を許してくれた。そうゆう運びのほうが平和だけど、私は平和を求めて彼の呼び出しに応じたわけじゃない。泣いて喚いて許しを乞うて。それは私じゃない。なんで私が妥協しないといけない。私さえ納得すれば全てが丸く収まるなんて冗談じゃない。

 シートベルト。キーを回してエンジン。アクセル。

「あの、発進するときは一言」

「美味しかったですか。先生の」

 精液。

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