第2話 天銀を被き塩田遊山

      1


 僕いますっごく幸せ。彼はにっこり微笑む。

「はあ、それはまあ結構な」

「だから入院は必要ありません」

 なるほどそれが言いたかったのか。廊下に誰もいないのをを確認して施錠する。特に意味はない。誰も入ってこないし、着替えなりを取りに行ってもらった友人が来たら入室を拒まない。彼が拒んだらまた別の話だが。

「ちょっと吃驚しただけなんだ。あんなにはっきり見えたのは初めてで。まるですぐそこにいるみたいだった。きっと僕が淋しいのを気にしてくれたんだよ。ね?」

 そうやってまた、いもしない幻に話しかける。幻覚妄想。

 訂正してはいけない。そんなものはいないなどと言ってはいけない。ただ黙って頷いてカルテに診断名を記して薬を処方すればいい。それが仕事だ。

 いない。はずだったのだが。

 さっき私の元を訪れたのは確かに。わからない。私も彼と同じ幻覚を見ているのかもしれない。そうゆう病気があっただろうか。博士が詳しい。博士が発見した。

 博士。私はまだ許してもらえないのですね。

「卒研もできたのでしょう。それならば、ええ、お暇になるのでは」

「発表があるんです。一週間後に」

「ではね、その日は特別に外出を許可しましょう。それならよろしいですか」

「先生が付いてくるんでしょ?」

 枕に後頭部をつけるように促す。少しの間眠っていてほしい。私の頭を落ち着けるために。時間が欲しい。足掻いているのはわかっている。彼の言い分を鵜呑みにするのが最善だということもわかっている。でも、私は確かに。

 ショウジあづまを。見て話して触ったのだ。それは幻覚でなかったと思いたい。

 幻覚。なのだろうか。幻覚。でいいのだそれしか。

「先生には聞かれたくないな」

「耳栓を持っていきますよ。ああ、アイマスクもね」

「それじゃ怪しい人だよね? そう思うでしょ。うん。困ったなあ」

 幻覚が現実になるなんてこと。現実が幻覚になるならまだしも。

 どっちが本当かなんて大したことではないのかもしれない。要はどちらにいれば幸せかどうか。彼の幸せは幻覚の中にある。私の幸せは、彼の幻覚を認めることにある。私が知覚している現実を幻覚だと認める。簡単だ。できていたではないか。ついさっきまで。

 博士の息子。かつ、カタクラの息子。生物学的にあり得ない。それでさえ、やっとの思いで呑み込めたというのに。

 これ以上、私に困難事例を押し付けるのはやめてくれ。カタクラの弟だけで手一杯。絶対に治らない。見込みも兆しも生まれない。受け容れたら楽になれる。カタクラは楽になったのかもしれない。それが一番いい。患者の家族ならそれで申し分ない。しかし、私はそうはいかない。

 私が受け容れてしまったら、何もかもそこで終わる。生命倫理。人としての尊厳。そんなものはどうでもいいが、なにもかも。私も引きずり込まれてしまう。私だけはこちら側に立っていなければいけないというのに。この様だ。

「だいぶお疲れのようですからね。今日明日くらいここでゆっくりしていかれては、ええと。どうでしょうかね」

「ここにいるとあづま君がぼやけてくるんです。病院嫌いだって」

「どうしてもそのね、ご了承いただけないと」

「厭です。帰りたい」

 ショウジあづまを同室に閉じ込めれば。

「ねえ、帰りたいよね? あ、うん。でもさ。カメラあるんだよ。僕が逃げ出さないように見張ってる。プライヴァシィとかさ、せっかく一緒なのに」

 ショウジあづまを毎日見舞いに来させれば。

「ううん、やだよ。恥ずかしいし。君がおかしいんだよ。気にするな、たって」

「彼はその、なんて?」

「一緒に寝てやるから、て。心配性なんだよね」

 一応納得はしてくれそうだ。本当に厭なら彼の中のショウジあづまも反対する。ショウジあづまが説得しているということは、彼が揺れているということ。迷っている。図書館で倒れたことを気にかけている。

 再発。していないと思いたい。

「あ、オカヅキかな」

 足音。全然気づかなかった。ノックされても気がつけなかっただろう。

「無駄足だってゆったのに。あとで謝っといてくださいね」

 ノック。

「僕は帰るから」

「少々お待ちくださいね」

 廊下に出る。友人が入室を希望しているようだったが首を振った。ドクタストップ。とは程遠い。医学的知識に基づいて判断しているのではない。なんだろう。我が儘。一方的な都合。

「大丈夫なんですか」

「大丈夫ならば、あなたにこれ、頼みませんよ」

「強制なんじゃ」

「それがねえ、強制もできるんですよ。法律という心強い味方がいましてね、ははは。ご覧になりますか」

 さすがは友人。として認められているだけのことは。鋭い。出身高校のネームヴァリュは伊達ではなさそうだ。

「幻覚だと思ってたんですけど」

「いえ、本当にね、まったくもって同感です。あなた、ショウジあづまと面識はございますでしょうか」

 ないだろう。先刻の図書館が初めてだ。友人はそんな表情でドアを見遣る。中に彼がいる。

「見えましたか」

「なんでいまさら」

「おや、幻覚と思っていらっしゃるのだと」

「ホスガは」

「やけにはっきり見えて吃驚した。これが彼の言い分ですよ」

 友人は苦々しい顔を作って紙袋を手渡す。法律と主治医と本人に裏づけされたら抵抗する術を持たない。そのことをよく理解している。

「面会は」

「ええ、それはもちろん。お待ちしていますよ」

「俺はあんまりあんたを信用してない」

「肝に銘じておきます」

 顔に出てる。バレバレだ。友人が、ではない。私が。

 乗り気ではない。もう勘弁してほしい。すべてを放り投げて恋人と仲睦まじく余生を送りたい。許可は下りないだろう。私が生きている限り。駒としての使用価値がなくならない限り。なくなっても、無理矢理意味を付与して酷使される。

 せめて博士。あなたの意図さえわかれば。死因くらいは選ばせてほしい。あなたが何を思って何をしているのかその一端だけでものぞかせてほしい。気づいたら死んでいた。ではあまりにあんまりだ。死の瞬間の記憶がほしい。気が遠くなる一瞬を味わわせてほしい。望みは叶わないだろうが。主張するくらいは。

 カタクラは知っているのだろうか。確かめても罰は。いや、カタクラに知らされているはずがない。知っていたらいまごろ。いまごろ。何もしないか。傍観。第三者。愛しているからこそ見守る。下らない。嫌われるのが怖いだけだろう。

 宥めて病室に連れていく。宥められていない。不可能だ。ショウジあづまとの話し合いは平行線。

「今日デートなんでしょう。帰っていいですよ」

 そうだった。彼に言われて思い出すようではもう末期。

「そうはいきませんよ。あなたに納得していただくまではね、仕事ですしね」

「どこに出掛ける予定だったんですか」

 た。すでに過去か。

「リサイタル?」

「どうかお願いしますよ。私を助けると思って、ねえ」

 いっそショウジあづまを連れてくるか。

「ベッドに拘束すればいいんじゃないですか。もしくは保護室にぶち込む。そうすれば僕は逃げられない。晴れて先生は、デートに間に合います」

 どっちなんだ。入院したいのかしたくないのか。

「彼はその、なんて」

「カメラ外せって。怒ってるよ」

 なるほど。監視がそれほど苦痛だったか。

「わかりました。電源切っておきます。それで、あの」

「枕がもう一つ欲しい」

「彼の分ですか」

 夜中に訪ねてきてくれるとでも。いっそ手配するか。博士の差し金とはいえせっかくショウジあづまが帰ってきたのだ。使えるものは最大限利用すべきではないのか。いままでそうしてきたしこれからも。

 すぐにカタクラに電話をする。共犯者は多いほうがいい。


      2


 僕は治りたくない。あいつはちっとも笑わない。

「それはまあ、そうだが」

「だからユサ先生は必要ありません」

 わからなくはない。すごくよくわかる。単純明快。治る、イコール幻覚が消える。あづまに会えなくなる。拒薬。受診も入院も拒む。騙し騙しそれでうまくいっていたと思っていたところに、これだ。ユサでなくても絶句する。

 怒鳴ったせいか、あづまはだいぶしょげてしまった。ように見えるだけか。厳しい目に反省させたほうがいい。二度と繰り返さないために。あづまも大事だが、あいつは自殺念慮がある。未遂も数回。

「なんか食うか」

「食べに行くの?」

「なんもねえだろ」

「行ってきていいよ」

「なんでだよ。腹減ってねえのか」

「いい」

 やりすぎた。とは思っていないがやはり。これだから甘いといわれて。

「悪かったな。きつい言い方して」

「悪いの俺だし」

 会える機会があるなら会いたい。当然の思いでは。俺だって。いや、そんなことはいまは。

 あづまの頭。撫でる。なんとなく手が勝手に。

「でかくなったな」

「そうでもないよ」

「気にしてんのか。これから伸びるだろ」

「父さん、ちっさいままだし」

「俺はそんなにちっさかねえだろ」

「親父に似てないし」

 何年経った。五年かそこら。六年か七年か。

 どこでなにしてやがるんだ。

「生きてるよ」

「だろうな」

「親父によろしくってさ」

「んなこと自分で言えよな」

「ホントに知らないから」

「別に怒ってねえよ。お前にどうこうできることでもねえし」

 あづまをこちらに帰した。ということは、また何か企んで。そうに決まっている。いいことならいいが、いいことだった試しがない。俺がそれどころじゃないことくらい、わかってるだろうに。わざとだ。わざとそうやって。ヒトの苦しむところを。

 そんな莫迦なことなんかしてないで。あきとをなんとかしてくれ。

「なんか、鳴ってる?」

 ケータイ。ポケットにあるのに全然気づかなかった。着信。相手が相手なのであづまから離れる。窓際。

「なんだ」

「どうも、こんばんは、でよろしいですかね。折り入ってご相談が」

 あづまに眼線で合図。ちょっと出てくる。察しがいいのでバレただろう。察しがよくなくてもバレバレだ。ガン告知とそっくり。ご家族の方だけ呼ばれる。その行動こそが患者にガンだと告げている。もっと取り繕え。演技しろ。インフォームドコンセントも考え物だ。知りたくない人だっているだろうに。知りたいか知りたくないか選べればまだ。

 寒いので車内に。暖房。

「いま、どちらに?」

「あづまか」

「あくまでね、一つの提案として聞いていただきたいのですが」

 あづまに会わせる。

「さっきの顛末見てなかったのか。どこをどうしたらそうゆういい加減な」

「幻覚ならば、よろしいのでしょう。違いますかね」

「フリさせんのか」

「ご明察。親父と呼ばれる先生から見て如何ですかねえ。息子さんの演技のほどは」

 それは俺も考えた。しかし究極の選択のうちの片割れで、あづまが納得したとしても結末が。好転もしないし、退行もしない。永久に足踏み。

「会っても会わなくてもつらいならばいっそ会ってしまえばいいのではないでしょうか。もしかしたらそのね、もしかすることもあるかもしれませんし。希望的観測で申し訳ないですけれど、思わぬ手が思わぬところで功を奏すこともあながちなきにしも」

「お前の判断か。それとも」

 あいつの。

「博士の、といいたいところですが、先生に殺されそうなので黙っておきましょうかね。ええ、主治医として提案いたします所存で」

「なんか、連絡とか」

「ありませんよ」

 反応が無駄に早い。全否定。ホッとしている反面イライラしている自分もいる。

「ご了承いただけるのなら今すぐにでも息子さんを連れてお戻りください。できる限りお早めにね、お願い致しますよ。ドアやらなにやらを蹴破られるとねえ、私の給料から天引きといいますか」

「うまくいくのか」

「わかりません。しかしねえ、わからないからこそ、やってみる価値はあるかと」

 それしかないのだろうか。もうひとつの選択肢。いままでのように、あづまを幻覚ということにして、あづまには帰ってもらう。それでうまくいっていたではないか。少なくともあいつは落ち着いているように見えた。フツーに大学行って、フツーに笑って。笑ったのだ。あづまを幻覚と思い込むようになってからだ。久しぶりに笑った。

 どうすればあいつは幸せになれる?

 俺の人生を犠牲にして何とかなるならなんでもする。何もできないくせに。ユサよりは頼りにされている。主治医のユサでも何もできないのに。そばにいて話を聴くくらいなら。そばにいることも求められていない。あいつがそばにいて欲しいと望んでる相手は俺じゃない。あづまだ。あづまなら、何とかできるだろうか。

 なんとか、したこともあったのだ。それがうまくいかなかったから、いまこうやって。失敗することが怖いのだろう。もう失敗は許されない。復旧できない。取り返しの付かないところまで突き落とすことになる。這い上がれない。そのまま手を離すのが最善の。手を離して。いい、と頷くことが最高の。

 駄目だ。死を選んでほしくない。死んでしまったら楽になれるだなんて。どこのどいつが吹聴したのだ。死んだこともないくせに。いい加減なことをべらべらと。黙れ。

 車を降りる。寒いのか暑いのかわからない。晴れてるのか曇ってるのかも。雨は降ってないと思うのだが自信がない。あづまは部屋の隅っこでぼんやりしてた。声を掛けたらゆっくり顔を上げる。

「さっきの答え。聞いてもいいか」

「会いたい」

 だろうな。そうだと思った。

 車を飛ばして病院に戻る。病室の前にユサが立っていた。つくづく暇な。一秒でも早くバトンタッチしたかったのだろう。厄介ごとを押し付けて自分は悠々。

「いいご身分で」

「羨ましい限りですよ。プラトニックな方はね」

 ユサはあづまに二言三言確認して向きを変える。廊下の角を曲がるまで、あづまは背中を睨んでいた。やはり気に入らないのだろう。俺もそう思う。

「ケータイ使えるから、なんかあったら呼べ。ねえことを祈ってるが」

「ここ」

「ああ、仕方ねえんだと」

 柵を作ろうが、窓を開かない設計にしようが、飛び降りたい奴は飛び降りてしまう。ベッドに縛り付けるか、薬で床に吸い付けるか。それでももしも、ということも。部屋に鍵をかけようが防げない。密室よりも確かな方法。地上にいなければいい。地面よりも低い位置にいれば、飛び降りることはできない。

 来たこと。あるのを憶えているだろうか。ここの二階に。

「親父は」

「当直だからな。急患が来なきゃ暇だ」

 できれば探しに来ないでくれ、と伝えて建物を出る。これでよかったのだろうか。それがわかるのは、早くて今夜。明朝には何かしら動きが。

 そういえば、夕方に約束していたあれは。ドタキャンされたのかもしれない。メール。特になし。忙しいのだろう。メール。受信。たまにこうゆうことがある。

 いまから。それはまた急な。十分くらいなら。

 走ってきた。コートの前も留めずに。そんなに急がなくとも。マフラだって適当に一周させただけなので、ほとんど巻いてないに等しい。

「ごめ、さ。の、いぎ、が」

「ゆっくり喋ってもらって結構です」

 深呼吸。息を整える。咳き込む。本当に忙しい人だ。ごめんなさい、会議が。だったらしい。わざわざ言い直してくれた。の? の、はなんだったんだろう。

「えとり君は」

 図書館で倒れた騒動は彼女の耳にも入っていた。しかしながら会議。どうしても抜け出せなかった。侘び。

「なんで倒れたんでしょう」

「時間がないので結論だけ。あづまが」

 生き返った。ようじのタイムマシンで。


      3


 そんなとこで突っ立ってないで入りなよ。えとりと眼が合わない。

 俺が逸らしてるからだ。それともえとりがベッドに横になっているから。ドア側に足を向けている。角度的に見えづらい。見えているかも。わからない。俺はそのベッドに寝ていない。

 暗い部屋。照明はオレンジのが一つ二つ。窓がない。地下だから。生ぬるい。空調の風が眼に入る。だから逸らしたのかもしれない。眼が乾くから。

 そんなところで。えとりはもう一回同じことを言った。

 ドアを閉める。静かに。時間を掛けて。ノブから手を離す。

 タイミング。ぐだぐだ。

「鍵閉めて」

 言われるままに。内側からも閉まるらしい。なんだこれ。何かがおかしい。何がおかしいのかわからないのがさらにおかしい。

「久しぶり」

「ああ」

 てなんだ。えとりもそう思ったみたいで。空気が歪んだ音がした。幻聴。

 幻覚。俺は、えとりの幻覚。

「君が幻覚なわけないよ。みんな勝手なこと言ってさ」

 俺は幻覚。

「否定してよ」

「ひさしぶり」

 山彦のよう。だいぶ遅い。声が返るころにはもうそこにいない。下山。

 えとりがベッドから降りる。

「僕に会いに来てくれたんでしょ」

 えとりはメガネをかける。

「やっとよく見える。やっぱりあづま君だ。ちっとも変わってないね」

「タイムマシンが」

 故障して。過去とか現在とか未来がごっちゃになったから。

 俺は大きくもならないし小さくもならない。止まったまま。停滞。

 えとりはたぶん、大人になってる。身長も伸びてるし、綺麗。になってる。第一印象は変な奴。だったけど、いまは。綺麗。俺だけ置いてけぼり。

 いやだ。いろんなものが。

「まだそんな莫迦なこと言ってるの? いい加減にしてよ。ようじさんはここにはいない。僕と君しかいない。そうだ、ようじさんは? まあ死んではいないと思うけど」

 父さんの話題。親父が気にするのはわかるけど、えとりが。口にするのは。

 すごくいやだ。どうすれば黙ってもらえるだろう。一つ思いついたけど、そんなことできない。俺はただの幻覚なんだから。触れるのもさわるのも。

「機嫌悪いね。嫉妬してくれてる?」

「たぶん」

「へえ、それはうれしいな。まだ僕のこと」

 す き

「たぶん」

「たぶん? 心に響かない返事だね。例えば」

 あ い し て る

「とかゆってくれるとぐっとくるんだけどな。聞きたい」

 幻聴。

「あづま君」

 親父は父さんにゆうのだろうか。知らない。わからない。なんでそんなこと気にする。なにがいやだ。なにもいやだ。なにも言いたくない。

 黙ってないと、幻覚だって。バレてしまう。

「何しに来たの? 顔見せだけなら終わったよ」

「今日」

 これから

「なあに? もう日が暮れたけど。何かするの?」

「ここに」

 いても

 いっしょに

「いいよ。ちょうど枕が二つあるんだ。用意がいいでしょ。予測できたから」

 えとりの思うとおりに行動する。

「君がここに来ることも。だから甘んじて入院なんか。家にいると君は恥ずかしがってなかなか僕の前に姿を見せてくれない。口数も少なくなる。ようやくわかったよ。オカヅキに嫉妬してくれてたんだ。気づかなくてごめんね。今日は」

 ずっと

 いっしょに

 したは

 コンクリート。初めて会ったときと同じ。わざととしか思えない。そんなところで寝て痛くないの、とえとりが。痛いに決まってる。することがなかったのだ。寝ること以外になにも。何もない部屋。サイコロ。瞬間移動できる父さんには容易い出入り。父さんが仕向けて親父も出入り。えとりは。父さんに連れられてまんまと。

 うえは

 なにもない。俺は幻覚だからえとりがあると思えばあるし、ないと思えば。なくなる。えとりがあると思ってくれてるからここにいることができ。ないことを望んでいる。服なんか脱いでしまえば見分けがつかない。ニンゲンだろうがゲンカクだだろうが。

 背中が痛い。ひんやりどころかぞくりと冷たい。氷に触るとひっつく。それだ。えとりの身体があり得ないくらい冷たいから、触ればひっついてしまうのは。間違ってない。無理に剥がそうとすると皮膚がべろりと。ゆっくりとぬるま湯をかける。徐々に溶ける。水になっていく。状態変化。体積も減る。

 えとりが何か言う。頷く。首は振らない。ただ黙って従う。俺はえとりにだけ見える。えとりだけにさわれる。えとりの声しか聴こえない。えとりだけが知ってる。

 よく考えたらそんなに悪くない。親父と喋れなくなるのはつらいかもだけど、さっき喋ったから当分はいいや。話したくなったらえとりに許可取ろう。

 たぶん俺は起きてる。えとりの顔が見える。眼を瞑ってる。眠ってるのかもしれない。ちょっとビックリした。えとりも眠るんだ。真似して眼を瞑るのが勿体ない。えとりの寝顔が見えなくなる。なんかどきどきしてきた。さっきまでもっとどきどきするようなことしてたはずなのに。またどきどきする。たぶんさわれるし、たぶん声も届く。幻覚でもそうじゃなくても、

 えとりと一緒にいるってわかるから。それで。


      4


 僕大学に行くことにします。えとり君は無表情。

「そう」

「だから先生のゼミにします」

 そう来るだろうと思っていた。えとり君は私を慕ってくれている。興味のある分野も似通っているし、私の側に断る理由があるとすれば。定員オーバ。こればっかりは毎年頭を悩ませる。自主的に移ってくれる人間が多ければいいのだが、今年は。個別対応に疲れてしまった。彼がいなくなったのが大きい。

 文字通り私の彼なのだが。彼は去年までここにいた。ホスガ先生の代理として。でももうその役目は終わって、彼は元の仕事に戻った。短い間だったけど、それなりに学生にも人気が出てきゃあきゃあ騒がれてたから、辞めるとなったとき惜しむ声がそこここで漏れた。私としても辞めてほしくなかった。私の彼氏だから、てのも大きかったけど、彼はこうゆう職業に向いていると思ったから。

 大学なんか、教える技術云々より好感度。如何に興味を持てるよう提供できるか。それに尽きる。その点、彼は。どうだったろうか。

 何ヶ月会ってない? 何ヶ月声を聞いてない?

 淋しいのはきっと彼も同じ。私だけが淋しい。彼が淋しいのは、私に会えないからじゃない。私が淋しいのは彼と会えないから。別れるべきなのだ。終わりにしましょう。

 送信待ち状態で保存してあるメッセージ。送信ボタンを押せばいつでも届く。電波の届かないところに。バッテリィが切れそうで。私から言うのが怖いわけでもない。彼はきっと困った顔をする。哀しい顔を浮かべる。演技でなくて本気。それを見るのが怖い。

 私なんかとっくの昔に負けてるよ。涙が出ないんだから。

 カタクラ先生は、私を怨んでいる。先生の弟をあんなふうにしたのが私の妹だから。

 私は先生を怨んでいるのだ。私の彼を奪っていったから。

 奪ったと思い込んでいたのは私だけ。私に出会うよりずっとずっと前、いまもこれからさきも、彼は先生を見ている。なんで気づかなかったんだろう。先生を知らなかったから。彼と先生が一緒にいるところをただの一回でも眼にすればすぐにわかる。わかったのだ。知らないふりをするしかなかった。

 これでもし、先生が彼を見ていれば、私だって諦めがついたかもしれない。ふたりは互いに想いあっている。邪魔な私は消えよう。そうやって踏ん切りがついたかもしれない。でもそうじゃない。先生は彼なんか見てない。先生の視線の先にいるのは。

 えとり君の兄。現在行方不明。

 ということになっている。博士に縋るしかなかった。怨みも妬みも全部抑圧して。先生は気づいている。私が嘘をついていること。博士は行方不明なんかじゃない。知っている。少なくとも、私は。

 それを言うために、機会を見つけて何遍も何遍もしつこく先生を呼び出している。くせに、切り出せない。切り出す気がないのだ。なんて醜い。彼を奪った先生に幸せになってほしくない。私と同じ想いをすればいい。大切な人が身近にいない。会いたいのに会えない。そうやって優越感の海に浸りながら、気づけば劣等感の沼に沈んでいる。

 だから、そう思うのも無理はない。

 俺が好きなんですか。だって。愚の骨頂。

「博士の息子さん、ですよね」

 先生の息子さん、とはわざと言わなかった。あの子の前ではそう言ったけれど。きっと本当はこっちが正しい。だって。あの子は博士にちっとも似ていない。博士とえとり君は似ているけど。先生と誰との間に生まれた子なのか。

 博士との間。滑稽にもほどが。

「信じてもらえないと思いますが」

「他ならぬ博士の息子さんですし。博士のなさることなら」

 タイムマシン? 生き返った?

 いったいどこのSF小説?

「よかった。先生ならそう言ってくださると」

「いま息子さんは」

 先生は眼線を逸らす。察してくれ。そう顔に書いてある。

「大丈夫なんですか」

「いちお、主治医に太鼓判押してもらってるんで」

 偽善的に溜息をついておく。

 あのいい加減な精神科医。やるに事欠いてそんな無謀な手段を。意図はわからなくもない。私のクライエントだとしたら、私も同じ手段を思いつく。実行するかどうかはわからないが。

「なにか私にお手伝いできることありますか」

 先生を不幸にするために。

「なんでも言ってくださいね。遠慮せずに」

 先生を不幸にするためなら。

「なんだって力になりますから」

 先生は反射的に首を振る。第三者の私には何もできないことを見抜いているのだ。もしくは、同類の、おんなじ血の流れている私なんか見たくないか。なんて恥知らず。悦楽を覚えてはいけない。病み付きになるから。

 ようやくわかる。どうして妹があんな酷くて惨いことを平気で。愉しいから。

「あの、やっぱり先生、俺のこと」

 好きですよ。

 あなたが狂っていくところを間近で観るのが。

「もう、やめてくださいね。そうゆう悪い冗談。違うって言ったはずですけど」

「じゃあ、なんで」

「迷惑ですか」

 はっきり言わない。言えないだろう。先生は優しすぎる。

「あいつ、元気にやってますか」

 連絡してあげればいいのに。彼は泣いて喜ぶ。

「さあ、便りがないのがいい便りって言いますし。先生のことだから、どこに行こうがうまくやれてると思いますよ」

 そうではない。先生が言いたいのは。彼の話題を出すことで、私と彼がいまどんな状況なのか探ろうと、いや、そんなこそこそしたことはしない。できない。私たちの問題に首を突っ込むのは気が引ける。できるなら遠回しに。私が自分から吐くのを待っている。

 全然なんの心配もありません毎日ってわけじゃないですけど電話も、あ、メールはけっこうしますよ仲良くやってますので確かに遠距離ですけどお互いにべったりってのは性に合わないんでこのくらいの距離があったほうがむしろちょうどいいかな、なんて。

 だれが。

 私はあなたのおかげで気が狂いそうです。彼を返してください。

「あの、もし勘違いだったらすんません。聞き流してください。えっと、なんてゆうか」

 ようじ

「迷惑かけてるんじゃないですか」

「どうゆう意味でしょう」

「知ってるんじゃ、てちょっとよぎったんですけど。やっぱ勘違い」

 なわけがない。さすが鋭い。

「ですよね。ホントすんません。いまの聞かなかったことに」

「どうしてそうお思いです?」

「いや、いいんです。ホントごめんなさい」

「私が博士と通じていると、どうしてそうお思いになるのか。お得意の勘ですか」

 彼が言っていた。先生にはそうゆう直感が働くのだと。

 その勘で、私を追い詰めてください。できますか。できますよね。単にする気がないだけで。その気がない。屈辱感。

「これからお仕事ですか」

「元気なら」

 いいです。

 そうやって先生は踏み込んでこようとしないから。臆病。当直だろうが夜勤だろうが。言い訳。会いたいのなら会いたいと泣き叫べば。侮蔑。元気ならいい、とかその程度のプラトニック。

「会わせてあげてもいいですよ」

 振り返るそのタイミング。遠足より低速。

「会いたいのでしょう?」

 嗤う。この期に及んで最高の抵抗。

「なにが可笑しいのです? 私の顔に何か付いてます?」

「仕事がありますのでこれで」

 数字の羅列。十一桁。最初の三桁は言っても言わなくても。

 先生の後頭部にぶつける。陥没。めり込む。

 あいつ、元気にやってますか。あいつ。彼のことじゃなかった。いま気づく。しまったとは思わない。我ながら意地悪な返答。彼が元気かどうかなんて先生には些末。先生が安否を気にしているのは他でもない。博士その人。他にいない。ちょっと気づくのが。

 なんという天然陰険。

「掛けてみてください」

「なんの数字ですか」

 カマトト。かまどと。

「掛けてみればわかりますよ。おやすみなさい」

 背中で先生が察知できない距離まで来たときに、息を吐く。着信履歴。アドレス帳。見なくたってわかる。記憶してある。わざと。わざと数字を一つ間違えた。つながらない。つながったとしてもそれは、赤の他人。博士じゃない。博士にはつながらせない。

 ああ可笑しい。先生は私の代わりに嗤ったのだ。姑息な手しか使えない愚かな私を哀れに思って。優しいから。飛び切り優しい微笑み。

 発狂しそうなくらいはらわたが煮えたぎって堪らない。博士とつながると脳髄がぼろぼろ剥がれて化ける。太陽系に存在しない未知の表現に。

 洗面台でひどい顔を見つける。たまたま鏡に映っていた。塩素水を口に含んで唾液と絡ませる。まずい不味い吐き気しか。血液学性格判断宗派の連中がにやけているのがわかる。ポケットの通信機器。

「明日、そちらに参りますので」

 妹に会いに行くだけ。もしかしたら教授にご挨拶できるかもしれない。お別れを言う前に逝ってしまった。どこぞの新たな概念へ。

「あんまりいじめないでね」

「申し訳ありません。調子に乗りました」

 眼力でガラスが割れる。指に擦過傷。腿に致命傷。

「あ、そうだ。新作ができたって喚いてたから先生のメールボックスにぶち込んどいたよ。そのアドレスに感想送ってあげてね。喜ぶと思うよ」

「お手数お掛けします」

 積ん読は今夜こそ崩壊する。あれを私に読めという。

 夕飯が食べられない。胃液混濁物の味。思い出して嘔吐感が逆流する。つわりのほうが数億倍マシ。

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