きたなむとりがなく

伏潮朱遺

第1話 尊し聞こゆ秋透る

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 あきとがこうなったのは俺のせいだ。

 もっと真面目に話を聞いてやってれば。仕事で疲れてる。一緒にいてやれば。明日も仕事なんだ。気遣ってやれれば。からかってるならやめてくれ。俺だって忙しい。悔しくて腹立たしくて、それが惨めすぎる。

 話を聞いてやろうにも。もう二度とまともな会話はできないかと。一緒にいてやろうにも。付きっ切りだろう放っておこうが結果は同じです。治りませんよ。気遣ってやろうにも。必要ありません。見ての通り彼は、あなたのことしか考えてませんよ先生。

 先生を、辞めようと思った。辞めて、どこか静かなところであきとと暮らせれば。経済的な心配はない。それなりに蓄えもある。いざとなれば。いや、それは最後の手段だ。できるなら頼りたくない。嫌いではないが好きでもない。

 毎日見舞いに行く。仕事が終われば即行で。仕事か見舞いか。一日の行動はそのどちらかしかない。食事と睡眠は採っているのか意識していない。知らない。

 先生を、辞めるのをやめた理由。

 仕事を辞めて、俺に何が残るだろう。一日中あきとのことを考えているべきなのだが、そうしたらおそらく先に俺が潰れてしまう。あきとを任せてある主治医にも言われた。その通りだから何も言い返せなかった。代わりに壁を蹴る。主治医の見ていないところで。床や壁を蹴って何かが変わるわけでもない。気も晴れない。

 治らない。治らないなら、どうすればいい。

 俺の専門じゃない。どうして俺に治せない。俺は医者なのに。切って貼って取り出して取り替えれば治るんじゃないのか。治るはずだ。それで治らないものは。治らない。知り合いの心理学者は治ったのに。そいつの奥さんの妹だって。その妹の友人だって。知り合いの教授だって。血を止めて穴を塞いで元通り。それで治る。治るんだよ絶対。

 どんな絶望的な状況だって。蘇生率1パーセント未満だって。そうやって治してきた。みんな生き返る。元のように、怒って泣いて笑って。

 あきとは、ずっと笑っている。嬉しくて楽しくて、それで笑っているなら俺も笑える。同じように嬉しくて楽しくて笑える。あきとは、何か嬉しいわけじゃない。何かが楽しいわけでもない。可笑しいことがあったり、幸せなわけでも全然ない。あきとは、ただ笑っている。意味もなく、理由もなく、ただただ笑っている。

 俺の顔を見ると笑う。俺が会いに行くと笑う。俺が帰ると言っても笑う。俺が話しかけても笑う。俺が怒っても泣いても涙を流しても、ずっとずっと笑っている。気を遣っているんじゃない。無理をして笑ってくれているのでもない。あきとには。

 笑うことしかできない。他には何もしない。食べない寝ない。

 寝ないのだ。いつ行っても起きてる。朝早かろうが夜遅かろうが。俺の顔を見て笑う。俺が行くと笑う。俺が帰っても笑っている。笑う笑う。笑い続ける。

 俺が滑稽だからだ。莫迦な兄貴。治らないのに。のこのこと毎日、何をするでもなく何もできずに舞い戻る。それを毎日毎日繰り返して。よく厭きないね。僕ならとっくに厭になって見捨てるよ。だって放っておいたって同じじゃん。治らないんだよ。生きてもいない。死んでもいない。そんなわけのわからない弟のことなんか忘れて。

 幸せに暮らしなよ。

 今日も、あきとは笑っている。笑っている。病室の奥で。白いベッドの上で。笑って笑って笑っている。俺が笑うと笑う。俺が白衣を脱いでも笑う。俺がシャツを脱いでも。俺がベルトを外しても。俺がズボンを脱いでも。俺があきとの中に入っても。笑って笑って笑い続ける。ああ可笑しい。

 おかしいのは、あきとじゃない。俺があきとをこうさせた。






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 あなた、幻覚じゃなかったんですか。と主治医は言った。

「なんだよそれ」

「ふむ」

 てなんだよ。だれが幻覚だって?

「信じることにね、致しましょうか。そうしないとお話が進みませんからね、ええ」

 さあどうぞ、と主治医は妙な顔を向ける。まさかそれが笑った顔だとは。とても自分じゃ気づけなかった。

「あいつは」

「さあて、この時間じゃ大学かと、はい」

「来んだろ」

「はあ、一応そうゆうことになってはいますがねえ、うむむ。彼、最近めっきり調子がいいようでしてね。来たがらないのですよ、そのね、診察に」

 薬が。

「それもねえ、無理矢理にでも飲んでいただきたいのですが、まあ、私も強くは出られないといいますか、長い付き合いですからね。きちんとご説明をして、了解していただいた上での治療を、こう、手と手を携える形で」

「飲まないとどうなる」

「どうもなりませんよ、はい。あなたに会えなくなるだけで」

「は?」

 なんで。俺に会えなくなる?

 薬飲んでないくらいで。

「別にあなたが怒るとか哀しむとか、そうゆうわかりやすいお話ではないのですよ。実は厄介極まりないといいますか、はあ。私も困ってましてね。その、誠に申し上げにくいのですが、あなた、彼に会われないほうがよろしいのではないかとね、主治医の私からのせめてもの忠告とさせていただきたく、ええ」

 わけがわからない。主治医が顎を触る。剃り残しが気になるんだろう。

「あいつが、会いたくないって」

 ゆうんなら。もう少し様子見ても。

「会いたくない? あり得ませんね。あなた、何やらまあとてつもない勘違いをしておられる。彼はね、あなたがお好きなのですよ。隣人愛でも家族愛でも、況してや同胞愛でもない。おわかりになりますね。愛していらっしゃいますよ、どうしようもないほどに。それこそねえ、いわゆる気が狂うほどに」

 それは俺だって。早く会いたい。だから場所を知ってそうな主治医に尋ねに来たってのに。こいつはさっきからちっとも的を得ないことを延々と。

 幻覚? 会えなくなる?

「てめえが禁止してんだろ。薬飲まねえ罰に。飲まなきゃ会わさねって」

「落ち着いてくださいね。あなた本当に気が短くていらっしゃる。どこかの外科医の方とそっくりですよ、ええ。外も中も」

 外科医? ああ、親父か。

 そっちにも会いに行かないと。

「ですが、最近のその、某カタクラ先生といいましたら、腕がいいだけの冷血漢だと専らのご評判ですからねえ。手術だけしてぽい、らしいですよ。おっかない顔で。ああ元々恐ろしい眼をしてらっしゃいますが、輪をかけて鋭くなったといいますか。患者の方も家族の方も、お礼を言いたいのにちっとも顔を出してくださらないので、わざわざ会いにいったらば、帰れとすごい剣幕で追い返される。感謝感激雨霰が憎しみに変わる瞬間ですよ。まったくねえ、あいつは病巣しか見てないだなんて当院の名前にキズが」

 何の話だ。なんで親父がそんなひどい奴に。

「適当なこといってんじゃねえよ。だいたい話逸れてんじゃねえか。俺が聞きたいのは」

「ああはいはい、そうでしたね。とある天才外科医の大先生にはおいおい会いに行かれたらいいですよ。吃驚しますから、ははは。えとり君はですね」

 あなたを、幻覚だと思っていらっしゃいます。

 主治医はそう言って、嫌味な顔で笑った。きっと笑ったのだ。あとで聞いた。見たら一週間は忘れられない独特の顔で笑う、と。俺は即行忘れたが。

 えとりが俺を幻覚だと思ってる?

 冗談言え。莫迦も休み休み。

 主治医はどうでもよさそうな顔で机の引き出しを開けたり閉めたりしている。「おわかりにならないでしょう。私にだってわからない。ちんぷんかんぷんですよ。ついさっきまでは、えとり君の言い分を信じていましたが、というか私は彼の主治医ですからね。信じざるを得なかったわけですが、ついさっき、急にあなたが現れて自分は幻覚じゃないという。でしょうね。私にも見えてますから。会話も成立するし、こうやって」

 さわれる。

 主治医が肩に触れたので振り払った。気持ち悪い。

「すみませんね。こんな職業に就いている私でも、多少はその傾いたりぐらついたり引きずり込まれたりするのですよ。疲れてるんでしょうねえ。どうやらあなたは幻覚ではないようです。認めましょう。だからこそ、忠告するんです。えとり君には会うな、と」

 引き出しを開けたり出したりするのをやめた。主治医は椅子に座り直す。若そうに見えたが案外年いってるかもしれない。髪の白と黒の割合が、圧倒的に。俺が髪を見てるのがわかったらしく、主治医は頭を下げる。ほら、やっぱ白のほうが。

 頭を下げる?

「この通りです。私にはこんなことしかできない。薬だって本当は要らないのですよ。あんなもの、私がきちんと仕事をしているってゆう印でしかない。自己満足です。飲まなくていいのです。捨ててくれれば。受け取ってくれさえすれば。どうか、お願いします。えとり君には」

 会わないでください。

 なんだこの、態度の変わりようは。俺がえとりに会うのが。

「そんなにいけないことかよ」

 同じだ。父さんだってそうだった。俺がえとりとちょっと話しただけですごい剣幕で怒って、悪い子にはお仕置きが必要だってゆって、閉じ込める。

 なんで。そんなお前ら勝手に。

「いいだろ。なにがいけないっつうんだよ。男だからか。そうなんだろ。いいだろうが。別に結婚してえとか、そうゆうじゃなくてただ一緒にいてえだけなのに。なんで」

 頭。

「あげろよ」

 上げない。

「あげろ。いいから」

 無理矢理戻そうと思ったがぴくりとも。

「あげろっつてんだろ」

 動かない。ずっとそのまま。

「じゃあ理由を言えよ。ねえんだろ。父さんにゆわれてるからただ」

「博士は関係ありません。私の独断です。主治医の私の」

「じゃあ」

 主治医がゆっくり顔を上げる。さっきと顔が違った。下を向いているうちに取り替えたのだ。真面目な顔に。

「えとり君は、あなたを幻覚だと思い込むことによって、ぎりぎりのところで踏み留まっているのです。相当つらかったのでしょう。私も見ていられなかった。あなたもおつらかったですよね。博士の都合とはいえ、急に遠いところに。あなたがいなくなったものだから彼はあなたを捜し続けました。博士に訊くのがいちばん早いと、彼も早々に気づいたようで彼は捜すのを」

 諦めました。

 なんで、とは思わなかった。父さんは見つからない。タイムマシンに乗って過去でも未来でも自由に行き来できるから。絶対につかまえられない。

「博士が見つからないなら、あなたも見つかるはずがない。そう悟った彼は、博士の研究所の屋上から」

 わざと聞かなかった。それは、父さんから聞いた。

 主治医がはあ、と息を吐く。時計をちらりと見てはあ、とまた息を吐く。

「困りましたね。長くなってしまいます。実はこれから診察が入ってましてね。申し訳ありませんが、また後日にしていただけると」

「いつ終わる?」

「とんとん拍子で行けば、六時でしょうかね。ああでもそのあと会議がありますから」

 今日は帰れ、ということだ。こんな尻切れトンボで。

 想像はできなくないが、本当のところはやっぱりわからない。勘違いしたままでいたくない。えとりのことだから、できるだけ正しい情報がほしい。

「明日は」

「勿論出勤ですよ。ですが朝から大忙しですね。夜までには終わるといいんですがどうなることやら」

 結局、明後日ということになったがそれもどうなるかわからない。今日も本当は時間が取れなかったはずなんだろう。無理して時間を空けてくれたのだ。最低限のことを伝えるために。えとりには会わないでほしい。それがどうゆう意味を持つのか。

 誰に聞けばわかるだろうか。本人。

 それができれば、主治医はあんなことしなかった。なんで会っちゃいけない? 主治医は何てゆってた?

 俺を幻覚だと思い込むことによってぎりぎりのところで踏み留まっている。

 どうゆう意味だ。俺に会いたいから俺を捜した。俺を捜せないとわかって諦めた。それで、父さんの研究所の屋上に。

 首を振る。それはあとだ。いまはそっちじゃなくて。

 俺に会いたいなら、俺が会いに行けば。会える。それじゃいけないらしい。俺が会うことによってぎりぎりのところから。踏み外す。なんで。わからない。全然わからない。せめてそれだけでも教えてくれればすっきりしたのに。これじゃ余計混乱するだけだ。

 他に誰か。そうだ、親父。

 看護の人に聞いたら親切に教えてくれた。俺の顔見て一瞬引いたのは忘れることにする。相殺というやつだ。

 今日はもう終わったから。お見舞い。お見舞い?

「だれのですか」

 そこまではね、と看護の人は教えてくれなかった。親父に口止めされてて教えられないわけじゃなくて、単に知らないだけみたいだった。場所聞けたからいいや。

 地下。なんで地下に? 大きな声で言えないけどね、とも言っていた。一応内緒ってことになってるけど本当はみんな知ってて気を遣って黙ってる、て感じだろうか。なんで内緒なんだろう。親父が怖いから? そういえばさっき、主治医がそんなこと。

 怖いのはわかるけど、そこまでひどい奴じゃない。きっとよく知らない奴が適当なこといってるだけだ。敵多そうだし、態度が悪いから勘違いされる。命救ってもらっといて逆恨みもいいところだ。親父がいなかったらお前ら、文句も言えなかったってのに。

 せっかく建物が見つかったけど、中に入れない。カードと暗証番号。関係者しか入れないっぽい。しかも限られた。親父が出てくるの待ってるか。どうせ中にいるんだ。そうしよう。それしかない。

 それにしても寒い。発作が出たら父さんに怒られる。いまどこにいるんだろう。役にも立たないわけのわかんないことをやってないで、俺の発作を治してくれればいいのに。大人になったら治るだなんて、いつだよ。

 大人ってどうしたらなれるんだ。


      2


 あなた、カタクラ先生の。とその女の人は言った。

「カタクラじゃない」

「ユリウス?」

 頭いいみたいだけどちょっとズレてる。だれがユリウスだって?

「信じてるよ。別にいいじゃない。父親が二人いたって。私もお母さん二人いるの」

 その人は建物をちらっと見やってメガネに触る。ワイン色のフレーム。えとりは黒だったはず、確か。あっちは伊達だけと、こっちはホンモノみたいだった。

「当ててあげようか。カタクラ先生を待ってる」

「なんで?」

「ここにはね、カタクラ先生しか来ないの。それと」

 私くらいのもんね。その人はそう言って哀しそうに笑った。

 名前はシイタ、というらしい。大学の教授。父さんのいた大学の。

「ああ、えっと」

「シイタさんでいいよ。先生て呼ばれると大学にいるみたいで疲れるから。なんでカタクラ先生を待ってるか、きいてもいい?」

 どうしよう。話すべきか。この人、シイタさんは信用できるんだろうか。見た目は優しそうだけど。見た目に惑わされちゃいけない。父さんなんか典型例だ。優しそうににこにこ笑いながらひどいことを平気でする。もしもそんな人だったら。

「言えません」

「私もね、カタクラ先生に用があるんだ。だからどっちを先にするか。君のほうが早く来てたわけだけど、私は先生と約束してるの。こうゆう場合はどうしようか」

「どうって、約束あるんなら俺は」

「でも君は」

「あづまです」

「あづま君は、先生の息子さんだから。先生としては、完全他人の私より君を優先したくなるんじゃない? 久しぶりに君に会えば」

「でも」

 約束は約束だ。破っちゃいけない。そのくらい親父だってわかってるはず。

「あとでいいです」

「私も急ぎってわけじゃないから。たまたま今日、ゼミも一段楽したし、時間がとれて。先生の都合を聞いたらたまたま先生も時間が取れて。だからまた次の機会にするよ」

 シイタさんが帰ろうとするから、呼び止めた。なんでそんな。哀しそうな。

「親父が好きなの?」

「え、どうしてそう」

 それは。

「勘。違いますか?」

 シイタさんは眼をぱちくりさせて、しばらくして。笑った。大笑いされた。そんなに可笑しいこと言っただろうか。

「ごめんごめん。それゆわれたの、二回目だからさ。しかも」

 カタクラ先生に。

「親父が? なんで?」

「そんなの私が聞きたいよ。なんで私がカタクラ先生を。ねえ? お門違いですよーだ。一応私には旦那さんがいるのよ。最近まともに話してないけど」

 倦怠期ってやつだろうか。てゆうか結婚してるんだ、シイタさん。

 なんか、意外。何が意外かわかんないけど。

「笑っちゃってごめんね。おんなじ顔してるもんだからさ。そのときのこと思い出しちゃってね。妙に神妙な顔してさ、なにをゆうのかと思ったら、俺のこと好きなんですか、だもん。吹いちゃったよ。私、先生の友だちと結婚してるってのに」

 親父の友だち? いたっけ、そんなの。

「ごめんね。私、すぐ話逸れちゃって。講義のときも気づいたらあれ、てことがちょくちょくで。まずいよね。最近は教える側も肩身が狭いから」

 とか言いつつまたも話が逸れてる。シイタさんは気づいたらしくごめんね、と言った。俺が睨んでたからかもしれない。

「ここにはね、入らないでね」

 急にトーンが変わった。話を逸らしてる間に取り替えたのだろう。声色を。真面目な音に。

「先生はね、ここにいるのだれにも見られたくないから。私も入らない。入れないの。見える? あそこ」

 カードと暗証番号。

「入れるの、先生ともうひとりだけ。そうゆう仕組みだから」

「もうひとり?」

 主治医。

 さっきの医者が浮かんだが、あいつはえとりの主治医だ。違う。別人だろう。ここには医者なんか腐るほどいる。

「寒いね。なにか食べよっか。奢ってあげるよ。学食で悪いけどね」

 立ち去れ、ということだ。どうしよう。そもそもの目的が全然。ちょっと待て。

 学食?

「あの、もしかして」

 大学。そこの。

「そうだよ。ちなみに専門は心理学」

 えとりが通ってる。えとりも心理学部。

 会えるかも。会える。会いたい。

 会わないで、なんて。なんで。わからない。わかりたくもない。俺はえとりに会いたいんだから。えとりに会うために遥々ここまで。父さんの眼を盗んで。絶対に盗めてないけど。バレてるに決まってるけど。連れ戻されないってことは、いまのところ悪いことはしてないってこと。だから、まだ平気。

「お願いします」

「素直でよろしい。そうゆうとこは先生と似てないなあ」

 病院から徒歩五分。大学院なら一分なんだけど、そこには大したものがないらしい。学食ってたくさんあるのだろうか。

「敷地広いからね。学部同士もあんまり仲良くないし。間違えて医学部の学食なんか入った日には針のむしろだよ。ちくちくっていやーな視線が」

「わかるんですか?」

 学部が違うかどうかなんて。

「わかるよ。まあこればっかりは、実際に大学にいないと」

 心理学部御用達の学食に着く。そうじゃない人いますか、て小声で聞いたら、首を振られた。やっぱり心理学部の人しか来ないらしい。

「お腹空いてる? 実はあんまり長くいられないんだけど」

 さっき時間が空いたとかなんとか。

「ちょっとだけね。でも貴重な空き時間だよ。いやだよね、教授ってさ」

 結局、シイタさんはお汁粉だけ食べていなくなってしまった。食べてる間、何回も何回も声をかけられてた。人気者なんだろう。優しそうだし。話逸れるけど、どっかの主治医みたいに。

 さて、俺はどうしよう。食べ終わったからそそくさと退散するけど、行く当てがない。シイタさんはこのあとまた忙しいらしいから、相手できないと言われた。研究室の場所を教えてもらったから、なんかあったら会いに来て、とも言ってくれたけど、まさにいま、何かあった状態だったりする。せめてえとりがどこにいるのかだけでも聞くべきだった。学食は人が多すぎる。内緒の話ができやしない。

 えとりは何年なんだろう。二年くらい飛び級してたとかなんとか。で、俺が会うのが。何年ぶりだろう。わからない。父さんと一緒にいたから時間感覚が滅茶苦茶だ。えとりが存在してる時間軸に戻ってこれただけでも儲けものだと思ってる。本当はもう戻れないはずだった。父さんがヘマしたから。

 まあそれはいいや。もう忘れた。いつまでもぐだぐだ考えてたくない。

 うろうろしてるのと、じっとしてるのと。どっちが会う確率が高くなるだろうか。向こうも動いてるだろうから、こっちも動いたほうが。いや、動けば動くほどうまいことニアミスだったり。でもじっとしててそこに来なかったら。うーん。どっちもどっちだ。歩けば歩くほど見当違いなとこに迷い込んでる気がするし。

 迷ったんだ、たぶん。学生らしき人に聞こうにも、どこに行きたいのかわからないから訊きようにない。いま俺どこにいますか、なんて莫迦みたいなこと言えないし。えとりの行きそうなとこ。えとりは、本が好き。そうだ。図書館。

 学生らしき人はあっち、て指差した。だからそれはどこだよ、て切れそうになるくらいてきとーな教え方だったけど、実は眼と鼻の先にあったらしい。危ない危ない。ちょうどその人は図書館から出てきたところだったのだ。

 でかい。地下もあるらしい。地下。親父はまだ地下にいるんだろうか。あ、やばい。張ってようと思ったのに。いまから戻るか。でもえとりがここに、いたら。

 て、そんな都合のいいこと。起こらない。起こってくれなくてよかった。図書館なんかに来ちゃいけなかったのだ。えとりのいそうなところなんか、うろうろしちゃ。

 えとりだ。

 えとりがいる。ぱっと見わかんないけど、俺にはわかる。

 あれは、どう見ても。隅っこの机に。辞書より分厚い本を抱えて座る。メガネを外してレンズをハンカチで拭う。また掛ける。思わず見とれてしまった。

 なんか、どきどきしてる。外が寒かったせいか。中が暖かいせいか。どうしよう。なんて声掛けよう。なんて、ゆえば。こっち見ないかな。おーい、とか。

 だれかが。えとりに話掛ける。

 だれだ、あいつ。知らない。俺の知らない。なんでそんな、うれしそうに。楽しそうに笑う? 友だち? えとりに友だち? いたっけ。知らない。俺はそんな奴。

 気づいたら、

 割り込んでた。それがいけなかった。そいつは迷惑そうな顔をして。

「なに」

 と冷たい声を。無視してえとりを見ようとしたら。えとりは。

 いない。

 床に。

「えとり!」

 蒼白い顔をして倒れていた。


      3


 まさかあんたが、あの。そいつはそう言った。

「あの? なんだって」

「別に」

 偉そうに。だれがあんただって?

「帰ったほうがいいと思うけど」

「だれだよてめえ」

「そっちこそ」

「俺はえとりの」

 恋人、と言おうと思ってやめる。主治医が来たら、そいつは馬鹿丁寧に頭を下げる。挨拶なんかして。ボクとかいってやんの。だれだよそれ。

 そいつが病室に入ろうとしたので俺も行こうとしたら、主治医に止められた。ドアの前で遮られる。

「どけ。邪魔すんなよ」

「邪魔? 邪魔はあなたです。まったく、何のために私が恥を忍んで頭を下げたのか。ちっとも意味がない。こちらに来てください。先ほどの続きをしましょう」

 別室。なんで俺だけ。

「救急車なんかで来ないでくださいね。ああ、これはあとで向こうのお友だちにも注意しますけど。あんなので来られたら、私の仕事が増えるじゃありませんか、まったくねえ。喉元すぎれば熱さ忘れるといいますか、鳥のような脳味噌といいますか。あなたは」

 ちっともわかってない。

 怒鳴られた。部屋がびりびり揺れるくらい大きな声で。

 そんなに怒らなくても。俺はただえとりに会いたかっただけで。

「最後までお伝えしなかった私の責任でもありますが、人の話を聞いていないあなたも大いに悪い。ちょっと診てきただけですが、あれは」

 再発。

 やけに、重い。主治医は椅子に座らない。

「せっかく。せっかくここまで落ち着いていたというのに。どうしてあなたは。軽率にもほどがあります。ああ、もう。どうしてくれるんですか」

 椅子に座らない。床に、膝を。

 俺は、そんなに悪いことをしたのだろうか。ただ顔を見ただけなのに。会いたかっただけなのに。会っちゃいけないなんて。何のためにここまで。

 なんで。倒れたんだろう。蒼白い顔で。図書館は大騒ぎだった。救急車を呼んだのはあいつだ。俺じゃない。俺は、見てただけ。何もできない。何をしていいのかも。何をしちゃいけないのかも。なんで。倒れた。

「あなたを責めても仕方ない。いますべきはえとり君です。いますぐ帰りなさい。二度とここには来ないで。いいですね」

 そうゆうと、主治医は部屋を出て行った。来ないで、たって。約束が。ああそうか。破棄だ。俺が約束を破ったから。破られても仕方ない。

 帰ろう。帰る場所ないけど。えとりに泊めてもらうはずだったのに。久しぶりに会って一緒にいられると思ったのに。なんで。なんでこんなことに。父さんは知ってたんだ。知ってたからわざと、見逃して。俺が苦しんでるのを見てケラケラ笑ってる。

 聞こえる。ケラケラケラケラ。そこにいる。俺には見えないけど。

 笑ってる。笑うな。うるさい。だまれ。

 えとり。

 何がいけなかった?

 約束なしで急に行ったから。だって驚かせようと。本読んでるの邪魔したから。だってあいつが馴れ馴れしく話しかけてて。俺は悪くないよな? 俺のせいで。

 再発。したんじゃ。

 俺のせい?

 俺がえとりの具合を悪くした?

 俺が嫌いになった。ならそう言ってくれればもうここには来ない。さっきの奴のほうがいいなら俺は。納得できないけど、えとりがそっちを選んだなら俺は。悔しいけど、えとりが俺を嫌うわけがない。おかしい。何かがおかしいんじゃなくて、ぜんぶがおかしい。父さんの仕業だ。

 父さんがわざと、そうゆう小細工をして。えとりの具合が悪くなるように仕向けた。俺に会うと倒れるように。そうやって運命を塗り替えて。

 ケラケラケラケラ。そんなに可笑しいか。おかしいのはお前だ。

「なんで、お前」親父。

 だと思うんだけど。

 だよね? 髪が短くなったせい?

 なんか、ちがう。

「まさか、お前」

 親父まで。

 俺のせいに。あいつとおんなじことゆわなくても。

「ようじは」

「知らない」

 知るわけない。父さんなんか。その辺でケラケラ笑ってる。

「そうか。えとりが倒れたって聞いて」

「俺のせいだよ」

「らしいな」

 ほら、親父だって。そう思ってる。

 えとりが倒れたのは俺のせい。

「なんでだと思う?」

「俺が悪いから」

「そりゃお前、理由になってねえだろ。聞いてねえのか」顎でしゃくる。えとりがいる部屋。主治医。

「話途中で」

「じゃあ俺が言わなくていいな」

 知ってる。親父も。

 俺だけ。知らない。

「教えて」

「俺から聞かないほうがいいだろ。主治医じゃねんだし」

「怒られたから」

 帰れ。二度と来るな。

「たぶん、教えてもらえ」

 ない。なにか。

 聞こえた。えとりの声。部屋。親父が駆け込む。俺は。

 行かれない。動けなかった。

 えとりの声。俺の名前。

 呼んでるように聞こえた。たぶん願望と気のせいがごちゃ混ぜになってるだけだけど。

 それでもどうでもいい。えとりが俺の名前呼んでる。

 あづま君。

 俺は。

 ここにいるよ。

 ドアひとつしか離れてない。たった一枚。その向こうにいる。

 時間も空間も離れてない。いま、同じ時間と。空間は違うけど。でもたったドア一枚。

 近い。いままで比べたらずっとずっと。

 図書館で見た顔。笑ってた。えとりが笑っててよかった、て思った。

 俺も一緒に笑いたい。それだけなのに。

 あづま君。

 また呼んでくれてる。捜してくれてる。返事したい。ここだ、て。言えれば。

 ケラケラケラケラ。うるさいうるさいうるさい。

 あづま君。

 ケラケラケラケラ。うるさい。

 あづま君。

 ケラケラケラけ。

 聞こえなくなった。えとりの声も。父さんの笑い声も。

 親父が廊下に出てきた。あいつも一緒に。あいつは親父に会釈して帰っていった。

 着替えを持ってくるらしい。親父が頼んでいた。なんで、そんな奴に。

「一緒に住んでるからな」

 だれが。

 だれと。

「入院だとさ」

 だから。

 だれが。

 だれと。

「お前のせいだよ、あづま。説教してやる」

 来い。

 腕を引っ張られる。取れそうなくらい痛かった。たぶんわざと、取れるか取れないかのぎりぎりのところで引っ張ってるんだと思う。親父にはそのくらいわかる。

 さっき親父かどうかわかんなかったのは、髪が短くなったせいだけじゃない。眼が。

 違った。親父はもっと。

 優しい眼なのに。確かに睨まれると怖いけど、そのときだけだ。一瞬だけ。

 鋭い眼に。その一瞬だけで元に戻る。なのにさっきの眼は。

 怖い。いまもそのまま。俺が見てからいまのいままで、ずっと。変わらない。

 こわい。こんなに、こわかった?

 ジェットコースタよりひどい運転も。ジェットコースタなんか乗ったことないけど、父さんがそう言う。ひどい運転なのだ。スピード狂というやつだから。急発進急停車なんか当たり前。文句を言おうにも舌噛みそうで。でもふと運転席を見ると、親父がうれしそうな顔してるから。楽しそうな顔してるから。まあいいや、て思う。それなのに。

 スピードも変わらない。急発進急停車もそのまま。なのに、ちがう。

 運転席の顔が。うれしそうじゃないし、楽しそうなんかでもない。

 こわい。こわい。なんで、なにが。

 ちがう。部屋が散らかってない。

 おかしい。足の踏み場なんかない。あり得ないものがあり得ない場所にある。ゴミとゴミじゃないものがごっちゃになっている。そうだったはずなのに。

 ホコリ。そうじしてないのは一緒だけど。使ってないのだ。ゲーム機にホコリ。パソコンにも、ソフトの入ってるプラスティックにも。

 帰ってきてない。部屋。じゃあいつもどこに。どこ。

 親父が窓を開ける。俺の発作を気遣ってくれたのかもしれない。ホコリくさい空気が取り替えられる。寒いけど、苦しくなるよりはマシ。怒鳴ったら丸聞こえで近所迷惑の騒音だけど。

「ようじは」

 知らない。さっきもゆった。

「一緒じゃないんだな」

 聞いてるし見てる。父さん、地獄耳の千里眼だから。

 親父は、俺なんかより父さんに会いたかった。俺が帰ってくる。イコール、父さんが帰ってくる。だからあのとき、病院の廊下で俺の顔を見たときに。あんな顔。あんな。

 なんで、お前。

 なんだ。お前じゃなくてようじに。

 会いたかった。

 そうゆう意味。正直な第一声。

「元気か」

「たぶん」

「そうか」一瞬だけ優しい顔。ほら、やっぱそう。

 父さんなんか殺したって死なないし、死んだって生きてる。過去も未来も変えられるんだから。なんでも思いのまま。思い通りに世界を創りかえられる。

「なんで会った?」

 会いたかったから。

「ユサに言われたんじゃねえのか。会うな、て。なんで守らなかった?」

 会いたかったから。

「どうしてそんな簡単なことが守れねえんだ」

 あいたかった。

 親父だって父さんに会いたいくせに。自分のこと棚に上げて。

「知ってんだろ」

 飛び降り。

「未遂だった」

「なんで未遂で済んだか。わかるか」

「親父が?」

「俺じゃない。ユサだ。あいつが」

 止めた。

 なんでとめた。

「なんで未遂で済んだか。えとりは、お前が頭の中にいると思ってる。幻覚なんだよお前は。えとりの頭ん中に存在してて、えとりにしか話しかけない。えとりとしか話せない。えとりにしか会えない。えとりとだけ会える。それがどうゆうことかわかるか。お前が頭ん中にいるって」

 わかった。

「えとりは、自分が死んだらお前に会えない。お前がいなくなって飛び降りることにしたんだから、もし、お前が本当は存在してなくて、頭ん中だけにいる幻覚だとしたら。えとりは飛び降りるか? 死にたくなくなるだろ。お前が死んじまうから。お前に二度と」

 会えない。

 俺は。

 えとりに。

「幻覚としてなら会ってもいい。えとりにだけ話しかけて。えとりにだけ見える。えとりが求める言葉を返す。えとりに都合のいいことだけする。できるか」

 親父が窓を閉める。

 幻覚。意味が。

「できねえならとっとと帰れ。幻覚のはずのお前が急に眼の前現れて、自分としか話せないはずなのに他の奴と話しやがったらどう思う? お前が幻覚じゃないって疑うしかねえだろ。お前が幻覚じゃない。幻覚じゃねえとすると、実際にいたことになる。じゃあいまどこにいる? 眼の前。なんで眼の前? 現実として存在してっから。んじゃ幻覚だと思って過ごしてきたこの五年かそこらは? ぜんぶ嘘。お前がいなくなったことは」

 真実。死にたくなる。

 虚偽。泣きたくなる。

「どっちがいい?」

 全然眠れなかった。俺が幻覚だからかもしれない。

 幻覚なら眠る必要なんかない。

 幻覚ならえとりに会える。でも俺は幻覚じゃない。幻覚じゃないなら。

 えとりには会えない。

 えとりに会えないなら。

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