第21話 これからのこと

「起きる!起きるからっ、舐めんなっ!」


寝ぼけたファルに横腹を弄られた私は、少しの痛みとくすぐったさで目を覚ました。木陰で寝ていたとはいえ、今日は天気が良すぎるおかげで蒸し暑い。そして目の前には褐色の肌に乗った、汗という名の良質な塩――私にとってはおきまりになっている流れである。


「お前の舌、ザラザラするんだよっ」


一滴も無駄にしたくないとばかりに舌を伸ばす私の頭を、鬱陶しそうに両腕をつっぱって遠ざけてくる。

こんなにも私は塩が恋しいのに、酷い。と顔を覆って悲しむ真似でもしたくなるが…自分の舌の感触など分かるはずもないので、不快だったのならば、それは申し訳ないことをしたと反省する。ファルが熟睡して起きそうにない時を狙うほかあるまい。毛づくろいをしてあげるのも私の本能の一つなので、諦めることはない。



ひと時の昼寝を終えて、吊り橋を渡った私たちの視界には、小動物たちが姿を見せるようになっていた。わたしという猛獣の気配を察知したものはすぐに逃げ出すのだが、鈍感なかわい子ちゃんたちは物陰から飛び出した私にがぶりと捕食される。今晩の食事には困らない。

狩猟をする私の傍で。ファルは行きがけに印しておいたという、お手製の塗料を探している。矢印の形に塗布されたものを逆に辿って、青々とした森林の中を行く。暗闇でも少しの灯りさえ近づければ反射する特殊塗料らしいが、勝手に自ら発光しないところは不便そうだ。



「此処まで来たら、あと二日以内には森を出られるはずだ。」


上機嫌なファルの言葉に私の身体がビクッと跳ねた。それは私たちのこの旅が終わりを迎えているということに他ならない。

そもそも獲物を狩れる地に辿り着いた時点で私の目的は達成されていたわけで。わたしがこれ以上ファルに合わせる必要は無いのである。非常食としてそばに置くか、置かないか。私は二択をせまられている。


考えが纏まらない私はとにかく、今はこれ以上進ませるわけにはいかないと、前を歩いていたファルの裾を咥えた。


「…どうした?」


立ち止まって歩き出そうとしない私に、ファルが振り返る。「引き止めたりして…」と言葉を続ける男の裾を離す。膝を曲げて、私と視線の高さを合わせる瞳に、しょんぼりと耳を垂らした自身の姿が映った。


「疲れたのか?」

「(そうかもね。)」


尋ねるファルを黙ってみつめる。いつもなら違うと否定の言葉を返しているのだけれど、都合の良い勘違いだったので、御座なりに返事した。“違う”も“そうだ”もファルにはどうせ私の言葉は分からない。

そんな私の言葉に納得したのか、ファルは「今日はここで一晩過ごそう」と言い出した。まだ日も暮れだしてはいない。彼が臨んでいる目的は見えだしているのに、少しでも早く手を伸ばさないのか…自分で引き止めておきながら不審に思う。

訝しげにするわたしを置いて。ファルは野営地に良さそうな、獣道が無い場所を探し始めた。目的よりも私を優先してくれるファルに、私はしばしのあいだ呆然とする。やがて、お腹がぐるぐると蠢く音がして。今夜も焼きたてのお肉が食べたい私は、乾燥した小枝を探すことにした。



パチパチと枯れ木にくべた火が燃えた。

焼いた肉に親しんできた次は塩が欲しくなる。こんな調味料のない森で虎として過ごしているのに、舌が肥えてしまうのは困りものだ。


ファルは必要最小限のことは喋るものの、いつもより静かだった。食事をする時は鼻歌をはじめたり、子供の頃にした“アル”との悪戯話をしたり、私を撫で繰り回したりするのに。今日に限って、向かいに座る私を黙ったまま凝視している。

沈黙に耐えかねた私は、のそりとファルの左隣に移動する。普段賑やかなファルがおとなしくしていると私は調子が狂うのだ。


「(…ファル?)」


ポンポンと。燃え盛る炎に視線をむけたまま、ファルの左手が頭を撫でてくる。私はお返しに、尻尾で彼の背中を撫で返してあげた。それでもファルは何も言わない。心なしか、眉尻が下がっているように見える。


焦れた私は少し湿った自分の鼻先をファルの顎下にくっつけた。思ったよりも鼻水が出ていたかもしれない。ぬるぬるとした感触が鼻先を擽った。


「スノー…」

ファルらしくない弱弱しい呼びかけに、口内に溜まった唾液が食道を通過する。こんなに女々しい雰囲気のファルは初めてだ。お腹がいっぱいなのに、弱者を前にすると喉が鳴ってしまうのは、これも獣の本能だろう。


彼の言葉を遮ることがないように私は根気強く次の言葉を待った。やがて、ファルは言い難そうに口を開く。


「俺と一緒に、ここを出ないか?」

「(…ぇ?)」


考えもしなかった提案に、背を撫ぜていた尾が地面に下りる。


「このまま、俺の住むとこに来ないか?」


言い直したファルの言葉が私の頭の中に真っすぐに突き刺さる。固い声音はとても冗談には聞こえない。

“俺の住むところ”。その言葉が指す場所が森であるわけがない。彼は軍人だ。それなら彼の住むところは街と呼べる場所だろう。そんな所に私を…?考えられない。なぜそのような結論になったのだと、私は頭を抱えたくなった。


「ここがお前の生まれ育ったところだ。大事な場所だとは分かっている。」


この森には転移してきただけで、この地に愛着は無いのだが。どう見ても私は野生の虎なので、この森が生まれ故郷だと思われても仕方がない。大事な場所ではないけれど、問題はソコではないと思うのだ。


「俺は国に仕える軍人だ。立場も義務も責任もある。…どうしても帰らねばならん」

「(そうだろうとも。)」

「だが…」


ふと、焚火に向けられていた彼の瞳が私を映す。アメジスト色の虹彩が寂しそうに揺らいだ。


「俺は自分勝手な男だ。お前と別れたくないからと言って、ここで俺自身が暮らすわけにはいかないから…お前が、スノーが一緒にきてくれることを望んでいる。」

“だから一緒に来てくれないか”と。私の後頭部を撫ぜる掌が言う。


虎が街に行くということが問題なんだ、と。言いたい言葉は失われた。


“お前と別れたくない”

ファルの飾らない思いが私の胸の深いところに沈んでいく。


ファルはいつも真っすぐだ。アホだけど子供みたいに素直で、行動の一つ一つが単純で。それから…あたたかい。

掌から伝わってくる熱にどれだけ絆されて来ただろう。

獲物だ非常食だと、私は彼を彼として見てはいなかった。それが彼と一緒にいるうちに非常食だと言わなくなって。


「スノーがいないと…寂しくなる」


彼をファルだと、一人の人間だと意識するようになった。

ファルがいなくってしまえば寂しいのは、一人ぼっちになってしまう私なのではないか?なんて。そんなことは認めたくない。認めたくないのに…


お前は私の非常食だ!

――言葉にしようとしたのに言えなかった。首を横には振れなかった。



非常食として傍に置くか、置かないか。私は二択しかないと、三択目を考えなかった。三択目の――その場で喰ってしまえばいい、と。考えなかった私はもう、この男を随分と気に入っている。

彼と一緒に行動するようになった後。気に入らなくなれば食べてしまえばいいか、なんて。投げやりな自分への言い聞かせでしかない。



「(…仕方ないね)」


鼻水をつけてしまった顎下を舐めて、ゴロゴロと額を擦りつけることで同意を見せた私には。その時ファルがどれだけ嬉しそうに眼を細めて見ていたか。込み上げてきた熱でどれだけ潤んでいたのか…知ることはなかった。

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