第17話 人喰い虎(前編)
カサッ…と。私の耳に微かに聞こえたのは、私でもファルでもない第三者が落ち葉を踏みしめる音。人間であるファルの聴力で聞き取れたかは分からない。尾にはしる焦燥感に、音の聞こえてきた左側方へと首を回す。長く伸びた茂みの中から飛び出してきたのは何者かの影だ。
「(逃げて!!)」
早い。咄嗟に咆えた時にはもうすぐそこまでヤツと私の距離が縮まっていた。
ファルとは距離をあけないように歩いていたし、地面に他の獣の足跡がないか探ってもいた。警戒をしていなかったわけでは無い。だがファルとの掛け合いが楽しくて、一瞬だけ気を抜いてしまっていた。そんなタイミングを見計らったよう襲い掛かってくるなんて…と急ぎ目を凝らせば、そこにいたのは……
橙色に黒の縞模様を薄っすらとまとった獣。山形を描く長い尾。私よりひと回りほど大きくて、色彩が異なるだけの同種の獣。
そうだ、こいつこそがアルビノでも何でもない、当たり前にみる普通の虎である。
「(ファルっ‼)」
「…っ!」
猫科の生き物より聴覚が劣る人間ではあるが、視覚の範囲内からの登場であったこともあり、ファルは私の咆哮に遅れをとることなく身構えた。拾ったばかりの棒を槍代わりに握りしめ、戦闘態勢をとっているが無駄だろう。普通に考えて、人間の何倍も体重がある獣にファルが敵うはずがない。
一番近い距離にいる私を無視して、虎が一直線に飛び出してきた先にいるのはファルだ。同族の私より確実に弱そうな人間を狙ってきている。
「(逃げろっ!)」
もう一度、言い聞かせるように大声で吠えるも、ファルは一歩も動かない。戦う気迫を見せる男の姿に、私の全身の毛が焦りと怒りにぶわっと逆立つ。
正確な数値は分からない。だが私より格段に大きい全長と重そうな体重も、同族だけに香るフェロモンも、こいつが雄の虎だと言っている。雌よりも格段に強い、本物の野生の中で生き残ってきた雄虎だ。それも私のような劣等種でもない純粋な。その図体が大きい雄虎が勢いをつけて飛びかかってきている。
慌てた私は雄虎の脇腹目掛けて体当たりを試みた。だが四十五度反転しただけの私の体当たりでは、助走をつけて突っ込んできた雄虎の体を止めることはかなわない。雄虎の下半身が僅かに体当たりに流されて、勢いを軽減させるに至っただけで。私はファルに雄虎の接近を許してしまった。
「(ファル‼)」
今まであげたこともないような低い威嚇音が喉奥から放たれた。
目前に迫った雄虎が、ファルの首めがけて噛みつこうと口を開けた時、ファルは自作したばかりの棒槍を雄虎の顎下目掛けて突き出した。大きく開けた雄虎の口腔が棒槍に強制的に閉じられる。自身の牙で傷ついた雄虎の口端から血が噴き出した。
「…ちっ!」
雄虎の力に押されて、ファルのスパイクブーツがガリガリと地面を削る。後方に押されたものの、倒されることなく踏ん張りきったファルに私は安堵の息を吐きだした。
入という字のように硬直した一人と一匹は互いに優勢なポジションを与えまいと必死に藻掻く。怒り狂った雄虎の鋭い爪がファルの隊服の肩部分を裂いた。突き出した棒がツッパリとなって雄虎の猫パンチをかわしたものの距離はギリギリだ。届かなかった虎の拳が棒槍の側面を薙ぎ払った。
「(どけっ!!!!)」
棒槍がバキッと不吉な音をたてる前に、私は雄虎の後ろ首に飛び掛かり、全力で深く刺さるように牙をたてた。私と雄虎の対格差を考えたら、これが最大の一手であり最後の一手であろうと思ったからだ。
そして、人間と雄虎との体重差は三倍以上。おそらく力も倍以上はある。そんな獣に押し倒されて、身動きを封じられてしまえばファルとて死は免れない。
雄虎にマウントを取らせてはならないと、私は地面についている雄虎の二本脚を後ろから思い切り蹴りつけた。次いで全身の力を振り絞って雄虎の体を後ろにひく。
「ギャウッ」
ファルが雄虎の胸部を蹴り上げたことも手伝って、雄虎の体は大きく後ろに仰け反り、そのまま私の方に倒れこんでくる。だが、わたしは後ろ首にたてた牙を離すわけにはいかない。
地面に背中から打ちつけられた衝撃と腹にのしかかる雄虎の体重に、私の内蔵がぶちまけられたような幻覚をみた。
四本の足で雄虎を羽谷固めにしようと試みるも、己の命の危機を感じている雄虎は噛みついたままの私を振り切ろうと全身で暴れるから敵わない。
雄虎の下敷きになったままの私は擦れる背中を我慢して、腹に打ち付けられる雄虎のタックルが致命傷にならないように体を捻りながらうまく逃げることに専念した。
一対一で戦えば、この雄虎には絶対的に勝てないだけの力の差がある。その体重から生み出されるパワーに押されてゴボッと体内からせりあがってきた血が私の口腔を汚した。あと少しなのに、痛みと咳込みたい衝動で顎に力がはいらない。
「スノー!」
白みそうになる意識にファルの声が耳に届く。
「あと少し耐えてくれ!!」
眼前でボタボタと流れ落ちる雄虎の血が私の顔を真っ赤に染める。
雄虎の後頭部からは見えないが、ファルが持ち前の短剣を雄虎の咽仏に突き刺し、力任せに首を撫で切りにしたようだ。短剣では切断できなかった虎の首は、皮一枚で胴体と繋がるだけになり。
喪失する血液と比例するように雄虎の体からは次第に力が抜けていく。
「…大丈夫か?」
ファルが下敷きにされた私を救出する間もなくして、雄虎はわたしの腹の上で力尽きたようだった。
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