第7話  非常時ではないから

くぁーっと、猛獣らしく大きな口をあけて欠伸をしたら、外の爽やかな空気が口いっぱいに広がった。心地よい鳥のさえずりが聞こえ出したことに私は夜明けを知る。


昨日は日中に狩りをして、普段活動しているはずの夜中に寝てしまっていたせいか、早朝という微妙な時間に目が覚めてしまったようだ。夜行性のわたしにとっては昼夜逆転もいいところだ。


私が虎となってからは地球でいうところのおおよそ三か月という月日が流れているが、この地の気温差はあまりなく、朝から晩までずっと蒸し暑い。熱帯雨林という言葉がよく合うように思う。

寒さを感じることがないほどに温暖なのだが、男は少し肌寒いのか、捕まえてきた時よりも身体を丸く縮めている気がする。ずぶ濡れのまま放置していたから熱がでたのかもしれない。



昨日、苦労して寝床まで連れてきたせいか、わたしはこの非常食に少しの情が湧いている。買ってきた菓子が湿気に触れてしまわないように扉つきの戸棚にしまっておく程度の情だ。


わたしは男の足元から背後に回り込み、腰をおろしなおす。その背中側を温めてやろうと、背面に寄り添うように身体をくっつけた。すると、僅かながら男の首筋の血管が浮きあがった。


あ、コイツ起きてるな


狸寝入りをしていたが、背後にまわられたことにより、噛みつかれるとでも考えたのだろう。今は腹がいっぱいだから食べたりなどしないのに、警戒心を見せる男が少しかわいかった。


不意に力が入ってしまった男に気を良くした私は、わざと男の左肩に顔を近づけて、顎をのせてみた。ついでに首筋をぺろりとなめてみる。男の皮膚は血と汗が混じっていて少し塩辛くて…砂利と土の味しかしなかった岩肌をなめるよりもはるかに美味かった。


塩をふった焼肉が恋しかったわたしにとって、突然降って湧いた塩味は、私を興奮させる十分な理由となった。久しぶりの塩気に自然と鼻息が荒くなる。


耳元で直に興奮する私の鼻息を聞かされた男は大きく肩を揺らしたが、いつまで経っても背後から噛みついてこない私を不思議に思ったのだろう。次第に緊張を解くように深く息を吐き出した。



「食べないのか?」


思ったよりも低くはない。筋肉質で大柄な体格からして三十代だと思っていたが、見た目より若いように感じる男の声と、男の言葉が通じたことに私は内心で大はしゃぎした。


「(まだ食べない)」


男に返した私の言葉はやはり、獣の鳴き声になってしまった。人間相手なら、自然に言葉が出るんじゃないかと期待していたが、やはり私はただの虎のようだ。これでは意思の疎通は難しい。

だが少なくとも人間の言葉が分かるのであれば、情報を得られる可能性はあるわけで、わたしは心内でガッツポーズだ。

そうなってくると、意外とこの男は使えるかもしれない。死なれたらもったいないな。打算的な考えが私の頭に浮かぶ。



「そうか。」


一声鳴いただけのわたしの言葉を肯定と捉えた男はようやく全身から力を抜いた。どうやらひどく緊張していたらしい。


そうと決まれば男には早く回復して貰わねばならない。どうせ弱った身体では、私が狩ってくる獲物など到底食べることは出来ないのだし、寝かせる他、獣の私にできることはないだろう。


左前脚と後脚で、男を後ろから抱き抱えるように身体を寄せる。男が若干の抵抗を見せるのは御構い無しだ。


「お前は…」


言いかけた男の左首筋に私の唾液が落ちた。


「のわっ」


男がビクつきながらも掠れ声で唸る。首筋から美味そうな汗の匂いがするのだ。腹は減っていなくとも塩に焦がれていた私がそそられるのは仕方ない。


「(美味そうだから)」


“だから私は悪くない”と鼻を鳴らしつつ、またも首筋をひとなめして訴えれば、首だけで振り返った男のアメジストの目は呆れの色を含んでいた。


「食えばいいだろ。腹減ってるんだろうが。」


若干、通じているようで通じていない。だが潔い性格の持ち主だということは分かる。食われることに抗わないで受け入れるなんて、肝が座っている。

でも、なんだかその物分かりの良すぎる態度が気にくわなかった私は左前脚で男の頰に猫パンチを食らわせた。


軽くパンチしたのにも関わらず、あっけなく男の頭が地面に沈む。これは回復するのに時間がかかるなと呆れながら一言告げてやる。


「(非常時に食べるから非常食だ)」

と。

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