第5話 連れ去るもの
入り江にいてはまた他のワニに狙われてしまうと考えたわたしは、近くに構えていた自分の縄張りに男を運ぶことにした。
最初は男のベルトを咥えて引き摺るように運ぼうとしたのだが、男の呻き声が酷くてやめた。仕方なく男の腹の下に頭を潜り込ませ、そのまま十字の体制で背負うようにして運んでいるのだが…意識のない人間を運ぶのは本当に難しい。万歳状態の男の両手両足は地面に擦れてしまっているし、わたしの歩く振動でバランスを崩しては何度も落としてしまう始末。死んでしまった時は仕方がないと思って運びだしたものの、怪我を増やしてしまってばかりではわたしの罪悪感も募る。何回目かの男の呻き声がしたところで、落下させてばかりでもなお生きている男の頑丈さに呆れてきた。
最初は喰らう気満々でいたくせに、偶然にも自分の名前を呼ばれたくらいで人間を助けるなんてお調子者どころか愚か者である。足手纏いを連れている自分を他の獣に見つけられたらすぐにでも獲物認定されてしまうだろう。だが、どうしてもこの大男を放っておくには後味が悪い。それに起きた時にどんな反応をするのか興味がある。虎に助けられた人間とは、どういう行動に出るのであろうか。驚き飛び退いて間抜けな表情でも見せてくれればいい。気に入らない反応であれば食糧にしてしまおう。わたしにとってこいつは非常食だ。
背負っては歩き、落としては背負ってを繰り返しているうちに少しずつ安定して乗せる技術が身についた。落下させてしまった回数も二十にはならずにすんでいる。
しかしどうしてこの男は流されてきたのだろうか。背中の傷を見る限り、争っていたには違いない。わずかだったが喧騒もしていた。斜めにはしる傷はどちらかと言うと刃物傷の類い。
こんな危険そうな森の奥を人間の身で彷徨くなんて日本人じゃあまり考えられない。密猟者と言われた方が納得出来るが…私を射撃しようと猟銃をもった人間たちでさえ森の奥まで追ってくるようなことはなかったこと。そのことを考えると、この奥地にきている人間たちは訳ありなのか只者ではなさそうだ。
背に乗せた男の姿はよく見えないが、真っ黒な洋服は十九世紀西洋の軍服に似ている。引き締まった身体と言い、左胸の勲章みたいなブローチと言い、軍隊に所属しているもののそれだろう。自衛隊みたいな迷彩色ではない軍人がいるだなんて、やはり日本ではないのかもしれない。
どちらにせよ、男が起きれば分かることもある。運が良ければこの土地の情報も手にはいるかもしれない。猟銃をもった人間たちが見張っているので、人里に下りられることはないだろうが、密猟者などの人間たちから安全を得ることは虎のわたしにとって大事なことだ。
幸運なことに、寝床に戻るまでの道中はわたしの敵になるような獣には会わずにすんでいた。あのワニ以外に他の獣がいた気配もない。
男の体重の重さに辟易はしたが、命の危険に脅かされなかったのだから良しとしよう。
歩くこと二刻程で、少し長めに伸びた草むらの中に隠れるように佇んでいる大岩が見えてきた。暑い日にこの岩石にくっついて横になると少し冷んやりとして気持ちがいい。この大岩の影になる部分、長い植物を踏みならして落ち葉を敷いたところがわたしのお気に入りの寝床だ。
今日はひどく疲れた。普段は動かずに休んでいる陽の高い時間に、空腹のあまり我慢できずに活動したのが先ほど。久しぶりに狩りをしたし、お腹もはち切れんばかりに満腹だ。おかげで眠くてたまらない。
今日のわたしは機嫌がいいからお気に入りの寝床を半分だけ貸してやろう。どうせ丈夫な身体なのだから心配ないだろうと男を巣の上に無造作に落とした。
近くに寝ていて、もしも男に襲われたらどうしようかとも思ったが、衰弱しているようだしまともに動けはしないだろう。武器を持っている様子も無い。
「ぐあぁ。」
牙をむき出しにネコ科らしく欠伸をつく。満腹になると消化にエネルギーを持っていかれるのか、途端に眠気が襲ってくる。今日は空腹で目が覚めることもなさそうだ。
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