第4話  喰らうもの

今わたしが人間の姿であれば、妻に内緒の臨時収入にだらし無く頬を緩めるサラリーマンのような顔をしているだろう。なぜなら目の前には生き絶えたワニが一匹と意識不明の人間が一人。獲物が一度に二つも手に入ったのだから、顔がニヤついてしまうのも仕方がないだろう。虎では表情に出ないだろうが、ようやく待ちに待った食事の時間である。


もう待てないとばかりにワニに食らいつく。私を食い殺そうとした鰐が憎くてしかたがなかったからだ。この森でわたしを捕食しようというものは多くはない。


堅い鱗の上から自慢の牙を突き立て、餓えた本能のままに肉を噛みちぎる。ろくに咀嚼もせずに塊を飲み込めば、全身に活力がみなぎってくるような気さえする。初めて食べたワニは長い空腹と苦労のせいも相まって、今まで食べたどんな獲物よりも美味い。人間の味覚でいうならばササミのようなものだろうか。高タンパク質低カロリーだ。

ああ、腹の底から湧き上がるこの歓喜こそが生き甲斐というのだろう。



一心不乱に鰐を貪るわたしの横で、人間が咳きこむ音が聞こえたが、私は食事に忙しい。骨についた肉さえももったいなくて、喉に突き刺さる小骨まで気にせずボリボリ食べ終えたあとで、ふと忘れていた男の方に目を向けた。


ワニとの対戦に必死で気がつかなかったが、わたしが岸に放り投げた衝撃で、胸囲に軽い刺激でも与えられたのか。男は飲み込んでいた水を吐き出していたらしい。男の口元あたりの地面には濡れた砂利石が広がっている。じっと男の胸を見てみると、浅く上下に動いており、やはりまだ生きていることが確認できた。


生き物は新鮮なほど美味しい。人間が生きているのなら、先に果てたワニを食べた方がいい。そうした考えもあって男を放置していたわけだが…本当に生きていたのか。わたしは男が呼吸できるように気を使って運んだりはしていないし、むしろ腹部にはわたしの歯型がくっきりと残っている。背中に斜めにはしる傷だって浅くはないだろうに、この男はとんだ生命力をお持ちのようだ。筋肉質な体つきと言い、なかなかの鍛錬を積んできたに違いなかった。



生き絶えてくれていれば良心が擽られることもなかったのに。


痛む背中を庇うように横たわる人間の枕元に座り、男の顔を覗きこむ。思う存分に捕食を楽しんだ口から、唾液とともに鰐の鮮血がしたたり落ちて、男の頭を濡らす。真っ白だったわたしの毛並みは捕食した時の汚れで灰色を通り越して体中が真っ赤に染まっていた。


まるまる一匹のワニを食べて腹が満たされているわたしはもう人間を食べる気にはならなかった。虎が人道など考えるのもおかしな話だが、人間的な思考が戻ってきてしまっており、この人間を助けるべきだと思えてしまったからだ。


食料にするつもりで、腹に牙まで突き立てて運んできたわたしが今更何をしようというのだろう。人間ではなく今の私は彼らの敵になりうる虎だ。もしここで彼を助けても、助けられた彼に銃口を向けられるのが当たり前だ。そしてわたしも食べるものに困れば、先ほどのように人間さえも捕食しようとするだろう。あとあと嫌悪感や罪悪感に悩まされるくらいなら、関わらないほうがいい。もしも、男が自然に息絶えていたその時は…


「て…ん…か…」


男の体をそのままに去ることを決断した私の耳に届いた声。


"天花”。男の口からこぼれた言葉は、呼ばれなくなってしまった、人間だった時の私の名前だった。

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