第3話 獲物にされた
「(ワニじゃないか‼)」
あまりの驚きに思わず威嚇するように吠えていた。
いつか某テレビで見た、ワニが水牛の群れを狩る瞬間が脳裏にはしる。水中の中で暗殺者のようにヌー狩りをする姿だ。
幸いにも忍び寄るアイツに気づいたのが早かったおかげでまだ距離はある。腹は減っているが、もちろんこんな時に目の前の食事にありつけるほど能天気ではない。私は慌てて対岸を見据える。水中でアイツと戦えばこちらが捕食されてしまう。
ふと一瞬、この人間を諦めて囮に使えば安全に逃げ切れるのではないか。そんな戦略を考え付くが、この空腹で獲物を逃すのは心底惜しい。次はいつ獲物が手に入るのかわからないと思えばなお更に。
獲物を持って対岸まで逃げ、そのあと誰にも邪魔されないところでゆっくり食事にありつく。そう決めてしまえば行動は早い。
流れに飲み込まれそうな男のベルトに右前足の爪を引っかけて引き寄せると、わたしは戸惑いもなく人間の横腹に噛みついた。牙が人間の服の上から肌に食い込んで血の匂いが強くなったが、男の服は真っ黒なので、さらにどれくらい出血したかは分からない。男の体を咥え泳ぎだす。
「ぐうぅ」
咥えた塊から発せられた低い呻き声に驚いて、全身の濡れた毛が重力に押し負けつつも逆立ちたがる。まだ男は生きていたらしい。それにしてもこの男、思ったよりも筋肉がついていて硬い。生きていると知ればそれまで感じもしなかった罪悪感が芽生えもする。噛み付いていた顎の力を緩めれば、男が安息をもらした気がした。
成人男性の平均体重よりも重いであろう男の体を水中の浮力を利用しながら運ぶ。とは言え自分だけで泳ぐよりももちろんスピードは格段に落ちる。
着実に狭まるアイツとの距離に焦りが増す。あのガタガタの歯に噛み砕かれる、そんな最悪の瞬間を想像してしまえば獲物を手放して逃げる方が得策であることは間違いない。せめて咥えている男に意識があれば自分で泳がせるのに…とんだ拾いものだと勝手に恨めしく思っている間に、岸はもう目の前に見えていた。
ヒュッと喉が引き攣る。尾が一瞬、何かに触れた。後ろを振り返らなくても分かる。すぐ背後にアイツが来ている。
ようやくたどり着いた岸に両前脚をかけ、全力で体重を岸側に移す。前足に力を入れて体を水中から勢いよく跳ね上げ、後脚で飛びあがる。と同時に、後脚があったであろう場所にガチンとワニの歯が合わさっていた。ギリギリセーフ。あとワンテンポ遅れていたらあの歯の餌食になっていた。
わたしは飛びあげていた後脚をそのままワニの頭上に叩きこむ。大した衝撃にはならなかったが、マウントをとることが狙いだった。だが運が良かったのか、わたしの右後足の爪がワニの右目の眼球を抉ったらしい。ワニが痛みに横転がりになった。
のたうち回るワニに追撃をくらわせたかったが、咥えた男が邪魔だ。追撃のチャンスは諦め、河岸から少し離れたところに男を放り投げる。またしても男から呻き声のような音が聞こえたが、今は構っていられない。
わたしはワニと睨みあうように対面した。目視では正確に測れないが、ワニの体長は四メートル超えているのではないだろうか?自分よりも二倍は大きい。ワニは怒りを露わに今にも私に飛びかかりそうだった。
わたしはジリジリと後ろに下がる。なるべく陸上で戦いたかったのだ。だがワニは片目を細めるだけで距離を縮めては来ず、こちらが仕掛けてくるのを待っているかのよう。水中に引き摺り込むつもりかもしれない。
お互いに睨み合っているうちに、ワニの視線が横に動いた。どうやら息も絶え絶えの人間の方が狙いやすいと踏んだのかもしれない。
わたしはその一瞬の隙を見逃さなかった。前足に力を込め、後ろ足の脚力を利用して飛びかかる。正面でぶつかると見せかけながら、ワニの横を通り抜けた。顎の力が強いワニと正面からやりあう必要がないからだ。
ワニが振り返るよりも早く反転し、相手の背中に馬乗りになる。陸上では上手く方向転換が効かないワニは、水中でなければ虎の敵ではなかった。
口を大きく開けて懸命に頭を振ろうとするワニの頭を前脚で抑えつけ、首に思い切り噛み付く。噛みついた勢いと抑えつけた前足の圧迫のせいで、ワニの血が噴水のように吹き上がる。わたしどころか、転がっていた人間も返り血で真っ赤になるほどだ。
一度噛みついたくらいでは息の根をとめるには至らなかったので、再度強く牙をたてた。やられまいとワニが暴れるが、虎の力の方が強い。勝負は短時間でつき、ワニは奮闘の甲斐なく沈黙した。
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