第2話 獲物をみつけた
長く伸びた雑草の間に隠すように掘った落とし穴、竹のように固く尖った植物を無数に突き刺した針地獄。人間の手のようには器用にはこなせないけれども、それでも思いつく限りに創作した数々の仕掛け現場を見て周りながら、私は大きく溜息をついた。
そう。ただの一匹も獲物がかかっていないのだ。
最初の頃こそ上手く行っていた獣用の罠は、この頃になって収穫ゼロになっていた。おそらく、私の縄張りにしているこのエリア全体が小動物の警戒対象となってしまったのだろう。もしかしたら種族ごと縄張り移動したことも考えられる。危機を感じ取れるくらいの本能は獣にだってあるだろう。
こうなったら魚でも捕まえるしかない。少し遠いが、上流の方に行って、滝から下りてくる魚を狙うのだ。水流の緩やかなこの川辺では水に入ると魚に気づかれてすぐに逃げられてしまうが、流れの早い上流に行けば、魚捕りが苦手な私にもチャンスはあるはずだ。意を決して、慣れ親しんだ水辺から立ち上がろうとした私の耳に、微かな喧騒が聞こえてきた。
ばしゃんっ‼
続いて聞こえた水音に垂れ切っていたわたしの耳がピンと立つ。
膨らんだ期待に輝く金色の瞳は川の上流から流れてくる黒い塊をとらえていた。生々しい鉄の匂いがわずかに鼻先をくすぐる。反射的に口の中に溢れんばかりの唾液が溜まって、貯めきれなくなった涎が口の端から滴り落ちた。
鉄の匂いは間違いなく、傷を負っている証。他の獣同士が戦い、敗れた方が川に落ち流されてきたのだろうか。まだ戦いの最中かもしれないが、流されてくる影は一体しかない。他の生物が狙っていた獲物かもしれないが、どうでもいい。横取りでもなんでもこの空腹を満たすためならなんだってしてやる。飢え切ったわたしの本能が久しぶりの血の匂いに沸き立っていた。
あちらから流れて来てくれるなんて、なんと都合の良い獲物であろうか。次から次へと溢れてくる唾液を舌舐めずりをしながら飲み込むと、喉と腹が歓喜に鳴いた。
私は迷うことなく獲物を目指して、流れの中に飛び込んだ。負傷、あるいは死骸となっているなら遠慮することはない。一気にその体に牙をたてるだけだ。
頭だけを水面から出して、なるべく水音をたてないように獲物に近づく。水の中での狩りは経験がないが、泳ぎは苦手ではなかった。それは私の人間としての生による経験ではない。言うなれば、虎という生き物としての狩猟本能である。虎の生態に詳しくはないが、きっと虎という生き物は泳ぎが得意なのだろう。足の届かない深い水中でも難なく泳ぐことができる。
私は流れの勢いに負けることなく真っ直ぐに獲物に向かって泳ぎ進む。近づけば近づくだけ、獲物の大きさが明確になった。
自分の体と同等くらいのサイズはこの空腹を満たすに申し分ない。獲物の横腹目掛けて私は口を大きく開けた。
噛みつこうと開けた口の中に多量の水が入り込み、少し滾っていた口腔の熱が冷めたことで高揚していた頭が一気に冷える。流されてきているのは、
(…人間、だ)
驚きにあげた言葉はもちろん言葉にはならず、唸り声になってしまったが大きく開けた口をそのままとどめてしまうほどには衝撃的だった。
虎の自分と変わりない背丈。人間の中でも大柄なその体格から察するに人間は男であるらしい。鍛えられたその筋肉に知らずに舌なめずりをしていた。
生きているのか死んでいるのか、そんなことよりも久しぶりの食事に身体が喜びに震えていた。
あまりの空腹に人間であった私が人間を食うのか、それは友食いではないのか…なんてそんなことを考えたのは一瞬だけであった。私の人間としての理性は、空腹を前にその膝を地面についたのだ。ただ獣の本能だけが、男の背中に斜めに走る傷口に牙をたてよと訴えている。
あと二十センチ!前足を伸ばし…そこで私は勢いよく振り向いた。首筋にゾクリと走った悪感は紛れもない獣としての第六感。
水の中から忍者のように私に忍び寄って来ていた真っ黒な二対の切れ長の眼球。平べったく堅甲なその鱗、口の中に生え揃った無数の鋭利な歯。男の血の匂いにつられてやってきたのか、もしくは最初から川辺でへたりこんでいた私をねらっていたのかは分からない。
水中という圧倒的に優位なフィールドで、残忍なソイツは虎視眈々とやってきたのだ。
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