非常食に恋をした

瀬野

第1話 腹が減った

腹が減っていた。


この地にたどり着いて幾日が過ぎたのか分からない。それでも何日まともに食べていないかは分かる。地面に描いた正の字は一つとTの字になっている。つまり今日で七日目だ。


腹が減った。肉が食いたい。腹が減った。肉が食いたい。腹が減った。


とまることを知らない飢餓感に脳を支配されながら、視線を右往左往させては獲物を探す。獣臭さと良質な脂に満ちたイノシシ肉を食べたのはいつだったか。つい昨日のことのように思い出させる幻覚が、ひりひりと空腹感に焼け付く胃を刺激してきてツライ。それに加えて、体のいたるところにつけられた傷口から失われてしまった鉄分が多すぎて、目のまわりが熱をもって視界がかすんで仕方がなかった。


それでも人間、腹が減っていては空腹を満たす以外の事は何も考えられないものだ。身体中にできた擦り傷や栄養失調による体調不良だって、腹の虫には敵わない。口にできればなんでもいいんじゃないかと思って、目の前の岩肌を舐めれば、砂利のザラザラ感が口内を汚す。岩塩なんて言葉が頭に浮かんでいたが、舐めればただ土の味がしただけで。あまりの不快感に多量の唾液で吐き出した。


(なにをやっているのだ。)


馬鹿馬鹿しい愚か者な自分に嫌気がさして、鼻が鳴る。岩肌なんかを舐めている自分はすでに人間ではなくなってしまっている。なのに、当たり前に人間論を説くだなんて、なんて滑稽なことだろう。地べたに這いつくばって、獲物の事だけを考えて生きる自分は獣らしい獣だというのに。

だが、獲物だけを求めて彷徨い歩き、食糧を得る方法に思考を巡らせる自身の姿は獣らしくもあり、人間らしくもある。人間から獣になってしまった自分は、他の獣にはない知能と知性がある。だからこそ、中途半端な自分が嫌いだった。いっそ、何も考えずに本能だけで生きていれば楽だったのに…



とは言え、人間だろうが獣だろうが腹が空いたのなら満たすしかない。そこに違いがあるとするなら「腹が減っては戦は出来ぬ」なんて生温いことを言う暇があれば「腹が減ったら戦をしろ」。獣の生というのは食うか食われるか、弱肉強食という言葉が直接的な意味を持っている。いつだって獲物を追いながらも何ものかに狙われている。だからこそ常に戦い、飢えを凌いではまた戦いに備えておかなくてはならない。油断を許されぬ、この生活の違いこそが人間でなくなってしまったと実感を沸かせる最大の相違だ。食物連鎖の頂点に君臨するのはいつだって知能の高い人間であるはずなのだから。





そう、わたしは人間だった。人間だったのだ。


日本という世界に生まれ、平和な暮らしの中で生きていた、ごく普通の会社員。それがなぜか今は、ギョロギョロと瞳をせわしなく動かしては獣の血を求めて彷徨い歩く、飢えた四足歩行の獣になってしまっている。



今は薄汚れてしまっているが、真っ白な毛並みに薄っすらと黒い縦じまの模様、体同様の真っ白な三角耳、地面につくほどに長い尻尾を持つこの身体を人は虎と呼ぶのではないだろうか。私の人間としての記憶の中には詳しい虎の種類など存在しないが、むかし動物園でみたベンガル虎とかいうあの虎に似ているように思う。つまりは亜種のホワイトタイガーとでもいうべきか。


よりにもよって、なぜ私が一番に苦手な肉食系の猛獣になってしまったのだろう。動物園に連れられて行っても、近寄るどころか遠目に見ることしかしなかった。

私はもともと気が弱い人間なのだ。この森にわけも分からず一人で投げ出されて、それも虎の姿で、いきなり人間の猟銃に狙われた。森の奥深くに逃げ込めば、今度は他の獣が自分をみて逃げ出す始末。今でも自分の状況が理解できていない。誰かに教えてもらいたいところだが、その前に銃で撃たれてしまうだろう。このままここで生きる他ないと呑み込んだのは、随分前のことだった。




すっかり通い慣れてしまった川の片隅で空腹をごまかさんばかりに水を飲めば、水面に写ったネコ科の獣が頼りなさそうにひげを垂らしている。


(あぁ腹が減った。)


大型の獣を食べれば一週間は何も食べずとも平気だった。だが一週間過ぎてしまうのはマズイ。身体がもたない。動けないほどの空腹に苛まれてしまっては狩りに影響が出てしまう。


虎という生物は地球では食物連鎖の中でも頂点に近い位置にいるかもしれないが、ここは本当に地球なのかと疑問が浮かぶ。

上を見れば鬱蒼と茂る森林の隙間から少しだけ見える群青色の青空。細長く差しこむ木漏れ日が朝露に濡れた植物たちをキラキラと輝かせる。空から降り注ぐ天使の梯子もあいまって、この森林をより幻想的に見せている。

だが下を見れば、ところどどころ枯れた草木や朽ちた大木、絶命した獣の骨が雑然と転がっていて、異世界と呼ぶには神聖あふれる雰囲気など微塵も感じない。この水飲み場にしている川だってそれほど綺麗ではなく、泥水とまではいかないものの川底は濁っていて見えはしない。どちらかというと、やはりこの風景はいつかテレビでみたことがある、南米だかアフリカだかの景色に見えて、わたしに既視感を抱かせるものだ。

今の時点で地球という世界のどこかだと断定できるほどの情報は何も無いし、地球だとはっきりしない以上、虎であることに胡座をかくのは愚の骨頂。この世界のことが何も分からない今、自分が強者だと油断するべきではないだろう。

まだ虎としての生は短いが、ここが危険な場所だということだけは痛いほどに感じている。腹に残る爪跡や一部剥げてしまった背中の毛がそれを証明している。


虎の姿になり虎として生きるようになって、獲物を狩ることばかりを考えている。明日を今月を数年後を生きるた為に金の事ばかりを考えていた人間時代を思えば、悩まされることが金や人間関係から獲物のことだけに変わったいま、すごく楽に生きているのかもしれない。美味しい料理の数々とは無縁になってしまったけれども、鹿肉やイノシシ肉は人間の時よりも美味しく感じた。


生来、贅沢者ではないから御馳走なんていらない。腹が満たされれば、それでいい。この川の反対岸から鹿や猪が歩いてこないだろうか。大型の獣でなくてもいい。草むらから兎や狐が飛び出してこないだろうか。

否、小動物には警戒されてしまっているのだろう。虎となって初めの頃に狩ったきり、最近は彼らの姿をみていない。初めのうちに派手に狩り過ぎたかもしれない。


考えもせず行動してしまった過去を顧みれば、きゅうと腹が引き攣るように鳴いた。


そう、難しいことはどうでもいい。ともかく腹が減ったのだ。


だから、何でもいいから獲物をくれ。


わたしは獲物を狩らねば生きていけない。だがこの数日、歩けど歩けど獲物は見つからない。途方にくれたわたしは水面に映る自分の姿を前足でかき混ぜ、その場にへたり込んだ。

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