第3話 線路の先

 腕に入れ墨をした酒臭い大男は僕の隣に座り、にじり寄って来た。

 僕は本を持ったまま、体を車窓に張り付けてずれる。

Пейте этоピジェタ」大男は叫びながら酒瓶を僕のほっぺたにくっ付けた。どうやらこの酒を飲めと言っている様だ。


 面倒臭い奴だ、僕は酒は余り好きではない。

 大学一年の時、友達三人で冬の新潟の温泉宿へ行った事がある。その夜、一人が一升瓶の酒を買って来て炬燵こたつに入って皆で飲んだ。

「誰が一番酒が強いか確かめないか?」

 僕たち三人は硝子酒杯コップに並々と酒を注ぐと皆一斉に一気飲みする。三杯目までは覚えていたが、その後僕は死んでいた……思い出したくね~なぁ~。


 さて諸君、ここで問題です。この後僕はどうなったでしょうか? 三択です。


 其の一、ず~と無視し続けていたら、大男に酒瓶の底で頭を "こつん" と殴られた。

 其の二、僕は読んでいた本を窓枠のそばに置き、大男の持っていた酒瓶を掴み取り "ガー" っと一気飲みをした。

 其の三、僕は本を膝の上に置き、両手のてのひらを上に向けて前に出す。頭を傾げて両手で顔を洗う仕草をし、「アッラー」と叫ぶと刺青の大男は去って行った。(注 : 断っておきますけど、僕はムスリムでは無いよ)


 「其の三、だろ?」


 残念! 不正解です。これも思い出したくありませんが、正解は其の二でした……其の三にしておけば良かったかな~。


 "ぷあ~" 何だこの酒、みるみる喉が焼けただれて来る! 酒瓶を取られた大男も僕の飲みっぷりに口と目を全開にしておののく。「водкаウオッカводкаウオッカ!」

  "かーっ" 僕は顔が真っ赤になって熱くなるのを感じた。やばい、やばい、やばい、やばい、やば~い!


 僕は大男を退けて席を立ち、急いでに客車の後ろへ走って行った。客車の最後尾の扉まで辿り着くと、外で煙草を吸っている二人組の男がいた。扉が開かないぞ~。

 僕は必死で扉を叩く "どんどんどん" 、すると急に扉が開いた瞬間!


 擦 転 頃 鈴すってんころりん


 目を覚ますと……三六〇度の真っ青な空と眩しい太陽、千切れ千切れの雲、一羽の鳥。


 おや? 僕は何をしているのかな? 列車から落ちたんだ!

 慌てて線路の先を見ると、湾曲した地平線に二本の線が銀色に光る一本の線になりその先に黒い豆粒と細い煙。大分遠くへ行ってしまったようだ。あいたたた頭が痛い。次の列車は何時来るか分からん、僕はどうしたらいいと思います?


 良く見ると、枕木と枕木の間に三本の白骨が転がっているではないか。この鉄道の線路を敷く時に従事した流刑囚が餓死した時の骨か? はたまた僕のように列車から落ちた人が禿鷹はげたかに食われた後の残り物か? 助けてくれ~!


 僕は彷徨さまよう様に黒い豆粒となった列車の後を追う。枕木の上を一歩一歩、歩いていた。


 もう三十分は歩いただろうか? 何となく黒い豆粒が豌豆えんどう豆大になった気がする。又三十分歩くと豌豆豆が栗ぐらいの大きさになっているではないか。ん、これは列車が止まっているぞ! 僕は走って列車を追い掛けた。


 後もう少しのところに列車が見える、しかし僕は精魂尽きてひざまずく。とその時、誰かがこっちに走って来た。「Ты в порядкеティフライプラッケ?」それは入れ墨をしたあの大男だった。彼は僕を抱き上げ列車まで走って運んでくれたのだ。


 彼は僕の座席まで運び、座らせる。三、四人の露西亜人が僕を見守っている。その中の一人が水筒を差し出し、僕は勢いよく水を飲んだ。「Ты в порядкеティフライプラッケ?」どうやら大丈夫かと言っている様だ。「スパシバ、スパシバ」これだけは覚えていた、ありがとう、ありがとう。


 入れ墨をした大男は窓の外にいる羊の群れを指差した。列車は羊の群れに進路を邪魔されて動けなかった様である。僕は今後絶対に羊の肉を食べません。それと同時に日露戦争の前は猿とか野蛮人に見られていた日本人が、日露戦争後に教養があり真面目な人達と思われていて、露西亜の人々は僕達に皆親切だなと思った。僕は日本から持って来た薬の征露玉を、今ここで飲むべきか? 迷った。


 やがて列車はモスコーの駅に到着した。哈爾浜を出てから約二週間が過ぎていた。

 僕は駅から歩いてクレムリン宮殿のある広場へやって来る。宮殿は彩色豊かな独特の屋根を持つ高さのまちまちな十塔が固まって建てられているんだ。


 一番高い塔は天辺てっぺんの棒が金色に光る辣韭らっきょうを串刺し、そこから白地に鎖を這わせた様な円錐に広がる屋根。その下にでかい橙色の鱗が縦に三枚づつ一周ぐるりと貼り付けられた壁がある。

 二番目に高い塔は天辺に星を抱く緑色の太い芯を持つ細い鉛筆の様な形。

 三番目に高い塔は緑と橙色のうなぎが逆さまになって何匹も束ねられ捩じれて玉葱状となった屋根の上に棒が立つ。その下には薄茶色の八角形の壁がある。

 四番目に高い塔は大仏様の頭をでかい球根の様に絞った屋根に砂糖をまぶし、赤い線が……あれ、あそこに宮殿の色塗り写真を売っている店があるではないか。何だあの写真を買ってこの日記に張り付ければいいかな。


「宮殿を描写するの止めたのか?」はい止めました、ごめんなさい。


 僕は近くにあった両替商に寄ってお金を両替する。その後、色塗り写真を買って日記に挟んだ。それにしても良くあんな色付けで奇妙な形の建物を考えつくな。きっと創作者はこの宮殿の絵図を描く時、毎日色んな着想アイデアが沸き上がって楽しかったろうと思うのだ。


 シベリア鉄道に乗っていたこの二週間、僕はろくな物を食べていない。風呂だって一回も入っていないのだ。何より心配なのは、汚れ物を包んでおく風呂敷を大連の小僧にあげてしまった事だ。僕は褌を表と裏の二回履きしてから革の鞄に放り込んでいた。どうなっているのかな? 僕の鞄の中。


 とにかく宿を探し出そう、僕は路面電車の線路が敷いてある石畳を線路沿いに歩き、宿を探した。瓦斯ガス塔が百メートル毎に立ち並ぶ街路には、時々白い制服を着た警察官が目に付く。ここは治安が悪いのかな? 帝政露西亜ロシアのニコライ二世の政治に不満を持つ労働者が多いと聞く。街行く人も身成の良い紳士淑女と汚い襯衣シャツを着た労働者に分かれていた。ユダヤ人も虐められていると聞く。


 この時代の今の露西亜を肌で感じる事も、僕の社会勉強になるのだと言い聞かせながら歩いた。


 【HOTEL】と書いた看板を見つけた僕はその入口の前に来る。すると一人の銀髪の女性が立っていた。その女性の顔は鼻筋の通る先の長い眉の下に誘うような青い目と、頬からあごにかけて"しゅっ"と尖る口元には熱い唇。彼女はいろんな色のチューリップを売っていた。


 これ程の美人を今まで見た事がない。僕は近づいて赤い色のチューリップ一本を取りお金を渡す。彼女はにこっと微笑んだ。


 HOTELと書いてある宿は英語が通じた。空き部屋と料金を確認した後、僕は二階の部屋に案内された。さてと、二週間ぶりに風呂へ入れるぞ、靴と靴下を脱ぐと直ぐに浴槽に湯を貯めて、ベッドに座って待つ。するとコンコンと扉を叩く音がした。


 僕はそおっと扉を開けると、そこにはさっきの花売り美人が立っているではないか!


 諸君らはここから消えてくれたまえ。


 僕は彼女を部屋の中に招き入れ一緒にベットに座った。「Цветочный языкツイーパシュウトユニック」彼女は花と唇を指さすと、接吻をするように唇を尖らせた。


 花言葉? 愛? 僕は興奮が止まらない、鼻血が出そうだ。


 僕は革の鞄を開けた――とたん! くっせ~。



 花売り美人は一目散に逃げて行きましたよ。「うっふぉん」失礼。


 最後に僕の目的地の答え合わせを、あの仄めかしで二択になってるはずだ。

 山部欄のある仏蘭西フランス、山部欄の万年筆を作っている独逸ドイツ


「フランスかな~?」


 残念! 正解は独逸でした。

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