底都


 天都と底都を繋ぐ超高高層昇降機『天浮舟あまのうきふね』まで下りた所、舟駅ふなえきは、まだ天都の範囲内と言える。舟駅の中は調和を第一に考えられた建築様式によって、精神に些かの負荷もかからないよう気が配られている。この舟駅で働いている職員の殆どは中民だが、中には天都から出向している役人もいる。結局は、彼等の為の施設なのだ。

 だからこそ、初めて底都を訪れるものは驚くのだろう。

 何重もの門を潜り、外に出た途端、一転してそこには、色彩が爆発し、濁声と雑踏の大音響が耳を聾する、異形と頽廃が蔓延る街が広がっているのだ。

 丹塗りの鳥居がそこら中にあるかと思えば、十字架を掲げた煉瓦建築の教会があり、その中の右半分は神父が何の肉か解らぬ饅頭を打っており、左半分は紅殻格子の女郎屋となっている。しかも一部の変態性欲者専用と来ている。

 正義、道徳、統一性といった言葉は混沌の海に沈んでしまい、とうの昔に溺死してしまっている。

 私は瓦斯面に薄汚れた濃緑の合羽という恰好で、高倉の肘に掴まりながら、ギュウギュウ詰めの底都住民達――眼が一つの者、口が二つの者、足が三本の者、余計な肉体組織を持つ者等、或いは逆に少ない者等――の間をすり抜けて、目的の場所へ向かっていた。

 曇った硝子越しに見えるそれらの異形への嫌悪感といったものは、初めは酷いものだったが、今ではもう慣れてしまった。ここはそういう場所なのだと受け入れただけの話ではあるが。

 高倉は街でも顔が利くらしく、彼の顔を見て道を譲る者が何人もいる。御陰で、他の住人達程歩行に困ることはないのは助かった。

 雑然と並ぶ色と極彩色の屋台の群れを抜けた所に、私達の目的の建物があった。

 その建物は、歴史の教科書で見た「武家屋敷」に似ていた。瓦葺きの屋根の上では、金色の鳥と魚が向かい合っていた。底都の住民の住居としては大き過ぎるし、立派過ぎる。余程の富裕者でなければ、こんな物は建てられない。

 屋敷の前にいる家人らしき人間に、高倉が二言三言囁くと、彼は卑屈な顔になって何度も頭を下げ、屋敷の中へと私達を案内してくれた。

 迷路のような屋内を散散歩いた末に、でっぷりと肥え太った五十男の前に連れて行かれた。彼がこの屋敷の主らしい。つまり、銀鶏の「飼い主」である。

 主人は弛んだ頬を余計に緩ませながら、何かと私に質問をして来たが、一言も答えはしなかった。高倉によれば、私のことを天都の令嬢だと正直に話してあるらしい。その令嬢がお忍びで闘技場の花形である銀鶏に会いたいと言っている、という設定なのだ。設定も何もその通りなのだが、私が天都の何処の誰の娘といった個人情報を相手は知りたがるに違いないので、絶対に口を開くなと釘を刺されているのだ。

 主人と高倉の世間話やお世辞の言い合いを退屈しながら聞いていると、獣毛で覆われたドレスを纏った女がやって来て、手招きをした。高倉の顔を見上げると、小さく頷いている。彼女についていけということなのだろう。   

 私は暫しの間、逡巡した。急に彼から離れるのが恐ろしくなったのだ。彼は謂わば暗闇の中のたった一つの灯りである。この世界において、私を庇護してくれるのは彼しかいないのだ。だが、躊躇っている時間などない。勇気を奮い起こして、獣毛の女の後ろについていった。

 女に案内されている間、私は銀鶏に何と話しかければいいのか、今更になって何も考えていないことに気づいて慌てた。言いたいことは決まっている。だが、話の切欠はどうすればいいのか。そもそも、本物の彼女を前にして、正常に話すことが出来るのか。それすらも不安になってきた。

 そうこうしている内に、女が立ち止まった。群鶏が色鮮やかに描かれた襖を前にして「此方で御座います」と言い、一歩下がった。

 この襖の向こうに、いるのだ。白銀の髪の、あの娘が。

 私は少しだけ深呼吸をして、瓦斯面を外し、フードを脱いで、襖を開けた。

 眼に飛び込んで来たのは、白銀と真紅。

 彼女は真紅の布きれ一枚だけで、他は一糸も纏っていないらしく、雲のような白い肌をした脹ら脛や太股などが、露わになっている。

 そして、長く畳の上にまで広がった白銀髪の下、赤銅色の二つの瞳が、猛禽の眼が、私を凝ッと見つめていた。

 

                 ※


「魂削(たまげた)た。ナレが、雲上人か」

 銀鶏の第一声はそれだった。少し高い、年相応の少女の声である。想像していた闘士の声とは違っていた。

「天都の人間、どんな奴、来るかと、真逆、ナレの様な、小娘とは」

 素で驚いているらしく、咽喉の奥でクツクツと鳴るそれは、失笑とも苦笑ともとれた。

 彼女の態度が癪に障った御陰で、私は呆然とした状態から立ち直ることが出来た。

 同時に、彼女の不思議な喋り方の理由も思い出した。資料によれば、新人の頃の闘いで受けた、頭部への打撃による、脳の言語野の損傷が原因らしい。

 とにかく、冷静になれと自分に言い聞かせるが、上手く言葉が出てこない。

「あ、あの……初めまして……私は秋津島雛子あきつしまひなこといいます」

 言ってすぐに自分の失敗に気づいた。高倉に素性を隠すように言われていたのに、馬鹿正直に自己紹介をしてしまった。

 銀鶏は呆気に取られた様子で、また笑った。先ほどとは違い、単純に面白がっているように。

「成程、確かに、天都の人。知らぬ人に、本名を明かす、滑稽の極み。でも、気にする、ない。人の名、すぐ、忘れる」

 彼女との間にピンと張り詰めていた緊張感が緩んだ気がした。私は此処に来た目的を頭の中で再確認した。後は勇気を振り絞り、実行あるのみである。

「貴女の闘い、いつも観てました」

 お世辞ではなく事実である。少なくとも、高倉を知り、底都で生の闘いを観るようになってからは、彼女の出番を見逃したことはない。

「それは、どうも。意外に、面白き、見世物? それで、如何する? 握手でも、する? 足で、だが」

 銀鶏は白い貌に皮肉げな表情を浮かべて、筋肉の引き締まった足をチョコチョコと動かして見せる。露骨ではないものの、こちらとの会見をさっさと切り上げたいという気持ちがあるのは間違いなかった。

 冗談ではない。目的を果たすまでは、上に戻るつもりはないのだ。

 私は手を自分の胸に当てて一つ深呼吸、真っ直ぐに銀鶏を見据えた。

「握手は……結構です。一つ、質問させてもらってもいいですか?」

 銀鶏は肩を竦めた。拒否していないのなら、肯定と考えて良いだろう。私はとにかく彼女の眼を見つめることに努めた。本音を伝えるには一番効果的だからだ。

「貴女の闘い、凄く好きなんです。貴女の御陰で、私は人間を知ることが出来たと思ってます。だから、教えて下さい」

 私はしゃがみ、畳の上に膝を乗り出して、言った。

「貴女は、何故、闘っているんですか?」

 予想外の問いだったからか、銀鶏の顔には当惑が見て取れた。だが、それもすぐに皮肉な表情に変わってしまう。まるで仮面をはめるように。

「勿論、銭の為。今のワレは、あの豚の、持ち物。自分の価値分の金、稼ぐ、それで、自由に、なる」

 当惑は演技だったのかと思わせるほど、彼女の口からスラスラと言葉が出てきた。だが、それが偽りであることは既に知っている。

「それは嘘です」

 私はすかさず切り込んだ。ここが手始め、突破口だ。

「もう充分なお金はもってるはずです」

「ふ、ふ、何故、嘘と?」

 半信半疑といった様子で聞き返してくる。さっきまで緩んでいた空気がまた緊張しだした。ただの惚けた天都の娘ではないと、彼女も察したのだろう。

「貴女のことだったら、何だって知っていますよ。本名も、何処の生まれかも、どうしてあの人に……飼われているのかも」

 高倉から貰った資料にそれらは全て書かれていた。ただ、一つ重大なことが抜けていたが。

「……では、如何して、こんな様、成ったかも知ってる?」

 気がついた時には、彼女はもう立ち上がっていた。真紅の布切れは衣擦れの音もたてず落ちていた。

 均整の取れた、細く引き締まった、銀鶏の肉体が露わになった。超人的な跳躍を生み出す足の筋肉はまるで丸太で、腹筋も見事に割れていた。余分な脂肪は微塵もなく、胸の丘陵の低さに至ってはまるで子供である。だが、その白い肌の上には無数の肉色の芋蟲が這っていた。それは盛り上がった、古い傷痕だった。恐らく、まだ弱かった頃に出来たものなのだろう。

 しかし、何より眼を引くのは、両肩である。普通の人間ならば、そこにあるはずのものが、無い。肩口から見事に腕が消え失せている。

「そこまでは、知らぬか。そも、他人に、話すことでも、ない」

 銀鶏の眼に、暗い火が灯ったような気がした。暖かみを感じさせない、凍えるような焔である。

 私は彼女の両腕の経緯までは知らない。興味はあるが、高倉の資料にもその情報は載っていなかった。

「最早、語ること、無し。疾くと、去ね」

 明確な拒絶を示す視線に、私は思わず身を固くした。しかし、ここで退いては駄目だ。ここまで来た意味がなくなってしまう。何よりまだ彼女の口から真の答えを訊いていない。

「待って、貴女が闘ってる本当の理由を、まだ教えて貰ってません」

 震える己を叱咤激励しながら、彼女の怒りを買うのを承知で食らいついた。

 銀鶏は忌忌しげに舌打ちして、先ほど同じ言葉を繰り返した。

「だから、言ってる、銭の為」

「嘘を言わないで。貴女はもう、少なくともお金の為に闘ってはいない。あなたが闘技場で稼いだお金の金額は端数まで知ってるのよ。この場で幾らか言いましょうか?」

 負けるわけにはいかない。偽善者と呼ばれようが、自己満足と笑われようが、構わない。彼女の為に、そして私自身の為にも。

「あの人に言われて、今までの貴女の闘いを何度も観直したわ。本当に楽しそうだった。人を殺すのが、そして殺されそうになるのが、如何してそんなに楽しいの?」

 これには虚を突かれたらしく、銀鶏は一瞬怯んだように見えた。

「巫山戯るな。人殺し、好きでする、訳ない」

 答える声にも確かに動揺があった。再度、私は問うた。

「じゃあ、何の為に闘ってるの?」

 これに、彼女は完全に沈黙した。彼女は私から眼を逸らし続けている。気持ちを悟られないように。

「……五月蠅い。ナレになど、関係、無いこと」

 銀鶏は忌忌しげに台詞を吐き出した。あれほど余裕を持っていた彼女の脆い部分が見えだしていた。羽毛を抜かれた鶏の如くに。

「逃げるのね。たかが、天都の小娘如きに尻尾を巻いて」

 畳み掛けるなら今しかないと、自分でも正気とは思えないことを言った。

 銀鶏の眼がこちらの方に見据えられた。それは獲物を前にした猛禽の眼だった。

「ナレ、何か、勘違いしてる。得物、無しでも、その細首、叩き折るは、容易の、業」

 言い終わらない内に、突風が私の顔を吹き抜けた。彼女の足の甲が、私の首筋の一寸もないところで停止していた。

「でも、貴女には出来ない。そんなことをすれば、どうなるか、想像出来ないほど馬鹿じゃないはずよ」

 私は睨み返しながら不敵に笑った。足が震えているのがばれないことを願いながら。

 銀鶏は足をゆっくり戻すと、深いため息をついて、頭を振った。白銀の髪が揺れ、それが奏でる楽の音が聞こえた気がした。

「……訳が、解ら無い。ナレ、一体、ワレに、何を望む?」

 銀鶏は私に背を向けた。辟易した横顔が少しだけ見える。

「出来るなら、もう闘って欲しくない。お金なら、もう充分あるんでしょ? そのお金で、自由の身になって、中民の階級を買って……」

「簡単に、言う。この体で、中民になれる、と?」

 言われて、自分が口にしたことが如何に無神経で、残酷であったかに気付いた。中民になるには金銭だけでは駄目だ。様様な審査を通り抜けばならない。その審査を通過するには、彼女では厳しすぎる。

「喩え、なれたとして、その後は、如何に? 生きる、腹は減る、寝床も、要る。金、減る一方。ワレに出来ること、闘う以外、ない」

 彼女は、振り返り、首を曲げて自分の下半身を見ながら、

「それとも、何か? 股、開いて、金、稼げと?」

 乾いた音が部屋に響いた。その音で自分が、彼女の頬を叩いたことに気づいた。無意識の内の、反射的な行動だった。

「柔い掌、蟲を殺すが、精精。躱す、までも、なし」

 銀鶏は頭を振ると、足の指で器用に真紅の布を拾い上げ、身に纏い、元のように身を横たえた。

 再び私に背を向けて、彼女は幾分か諦観の混じったような声で、呟いた。

「認める。ナレの、言う通り。ワレ、相手殺すの、愉しんでる。生きる、辛さ、雲上人への、妬み、恨み、それで、晴らす。且つ、殺されそうになる、も愉しんでる。それで、別に、良い。何時、終わっても、同じ。ワレの、人生。長生き、しても、ロクなこと、ない」

 そして、頭を上げてチラリと視線をこちらに寄越した。もうそこに冷たい焔は見られない。憎悪も敵意も灰となって吹き散ってしまったかのように。

「もう、充分。疾く、帰れ。ワレ、雲上人を、嫌悪す。ワレの爪、届くなら、天都に、突き刺したい、程に」

 声にはくたびれた響きがあった。今の遣り取りだけではない、人生そのものへの諦観と倦怠が雨となり、彼女の羽根を打ち濡らし重くしているのかもしれなかった。

「雲上人、楽しく、暮らす。餓え、知らず。傷つく、知らず、飽食の豚、ワレを、ワレ等を、見下す、嘲笑す。

 ワレは、呪う、無駄でも、呪う。生きてる間、闘ってる、間。ずっと、ずっと」

 その瞳はきっと、あの時の高倉と同じ瞳をしているに違いなかった。天都に対する憎悪の焔で輝く瞳である。

「闘いは……められないのね」

 最後にそう言って、瓦斯面とフードを被り、襖を開けて、部屋を出た。

 襖が閉め切られる寸前、その隙間から銀鶏の言葉が聞こえた。

「止める時……ワレ、死んだ時」

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