案内人


 本当の海は青色をしている。でも、私が知る海は、白か灰、黒色のどれかだ。自室の窓から見下ろせる凪いだ雲海こそが、私達にとっての海である。海と言えば雲を指し、波の起こる本当の海は下海と呼ばれている。

 私は自室の肘掛け椅子に座って、約束の時間が来るのを待っていた。回線に細工をしているので、誰と映像会話をしても、その記録が残ることはない。両親は勿論、天都の中央管理機脳にもバレはしない。

 壁にかけてある薄暮の風景画を見つめていると、古式の時計が午後三時になったことを鐘で告げた。それとほぼ同時に、風景画が見えなくなっていた。それと私の間に、人間が現れたからだ。勿論、実体をもたない、映像としての人間である。

 ダッフルコートを着た義足の男、高倉は、いつも通り、革製のソファーに浅く腰掛けていた。癖なのか、杖の握りを指でトントンと叩きながら、善意も悪意も感じられない視線を、こちらに投げかけてくる。

「どうも、秋津島さん。先日の報酬、確かに受け取りました。ただ、請求額よりも少し多かったように思うのですが……?」

 彼は訝しげに眉を寄せるが、あくまでもそれは演技に過ぎない。理由が分かっていながら、それを相手の口から態と言わせようとしているのだ。情報収集力、実行力含め信頼に値する人間ではあるが、彼のそういう部分に関しては蟲が好かなかった。

「特等席で見物出来ましたし、偽装工作の綻びも上手く処理してもらったので。私の気持ちです」

 先日の一戦の後、底都から天都に戻る際、私の出入記録に異常が出てしまったのを、彼が機転を利かせて誤魔化してくれたのだ。電子情報の記録を書き換える装置は違法なのだが、彼は平気でそれをやってのけた。堂堂とあれだけのことをやる勇気は私にはない。それが出来る腕と度胸があるからこそ、雇っている訳でもあるのだけれど。

「成程。では、ありがたく受け取らせて頂きましょう。正当な報酬ということで」

 高倉は微笑を浮かべて軽く頭を垂れた。慇懃無礼というのは、正にこういうことを言うのだろう。苛苛が発火しそうになるが、それでは相手の思う壺だ。

 高倉に対しては冷静でなければならない。自分が危うい橋を渡っている自覚を失ってはいけないのだ。

「次回の銀鶏戦の席も最前列を御用意しましたので、是非お楽しみに。ああ、そうそう、それと彼女に関する詳しい情報を入手しましてね。今、そちらにお送りします」

 高倉が手元の携帯端末の上で指を動かすと、私の携帯端末に情報を受信したことを示す淡い緑の光りが灯った。

「どうしました? どうぞ、御覧になって下さい。変な仕掛けなどしていませんよ?」

 余程驚いた顔をしていたに違いない。彼は本気で訝しんでいるようだった。しかし、無理もない話である。

 銀鶏は闘技場でも謎の闘士として通っており、その生い立ちや、現在の戦闘法を如何にして会得したか、或いはあみだしたか等も殆ど知られてはいないのだ。

 夢中で情報を展開して見ると、彼女の本名や生年月日、短い人生の概略や、趣味嗜好までが乗っていた。謎は謎でなくなり、一人の人間の個人情報となっていた。

「どうやってこれを……」

 呆然として訊ねると、彼は肩を竦めて、

「望まれましたものを、望まれました通りに」

 自信たっぷりにそう言った。口には出さないものの、そこには「侮ってくれるな」という、驕りではなく誇りのようなものが見えた気がした。

 次回の請求額はかなりのものになるだろう。しかし、これほどの情報が手に入るのならば、幾ら払っても痛くはない。

 惜しむらくは、彼女の両腕に関する情報も欲しいところだったが、それは欲張りすぎというものだろう。

「不思議ですね……」

 貪るように資料を追っていた私の耳朶を、雫が墜ちるように、高倉の言葉が打った。私は資料から高倉の腑に落ちないという顔へと、視線を移動させた。その真意を問うために。

「ああ、すみません。これは失礼を。いえ、単純に不思議だと思ったのですよ。貴方のような天都に住む雲上人の御令嬢が、何故そこまで、底都の闘士にこだわっているのか……」

 それはもっともな疑問だった。普通の天都の人間は底都のことなど考えない。天都政府の役人なら兎も角、一般のしかも女の子が考えることではない。

「上手く説明出来ないけれど、彼女を観ていると、本物の生を感じられような、そんな気がするんです」

 下手に偽れば余計に詮索される。そもそも、理路整然と理由を並べられるほど、自分でも解ってはいないのだ。

「本物の生……ね。では、今のあなたの生は偽りの生だと仰るので?」

 この男の特徴とも言える冷笑を浮かべて、高倉は言った。ただ、それはいつもより酷薄な、氷笑とでも言うべきものに見えた。

「どの世界においても、誰にとっても、生は生ですよ。貴方は彼女に同情しているに過ぎない。それは彼女に対する侮辱だ」

「違います、私はそんな安っぽい同情なんかしてない」

「では何ですか? 同情や憐憫でなければ、何故彼女にこだわるのです?」

 高倉の執拗な尋問にも、答える言葉が見つからない。

「解らない……解らないけど、彼女は闘っているから、それなのに、私は闘い方なんて知らないから……」

 脳裡に、銀鶏の戦舞が鮮やかに蘇る。疾駆に合わせ流れる銀の尾。人外の跳躍に羽ばたく衣、そして輝く蹴爪とそれがもたらす鮮血――生命の奔流。

 同情などではない。それは上の者から下の者への感情だ。この気持ちは、その逆だ。そう、下の者から上の者への感情だ。

 既に用意された舗装路ではなく、荒涼とした大地を切り開き、己の道を作り、そこを歩み続けてきた者に対する、強い感情。

 嫉妬であり、憧憬であり、届かぬ者への叶わぬ願い――身を焦がすようなそれを何と呼べばいいのだろうか?

「不躾なことを申しました。謝罪します。ですから、どうぞ落ち着いて下さい」

 高倉の言葉で、私は椅子から立ち上がり、彼の服に掴みかかっていることに気づいた。映像に過ぎない彼の服を掴めるはずもなく、手は虚空を握りしめていた。

「今では中民(なかたみ)という地位を得ていますが、私も元は底都の出でしてね。どうも、雲上人からの同情が嫌いなもので……大人げないことをしました」

 高倉のカマかけに簡単に引っかかり、自身の内面を吐露してしまったことへの恥辱で、顔が燃えるように熱くなった。

 高倉は肘掛け椅子に深く座ると、何か古い記録を見るような眼をして、

「天都に昇れる中民と言っても、払った代償は小さくない。遺伝子汚染を防ぐ為に、生殖機能は奪われ、病原菌に感染していないか、定期的に検査をして報告をする義務もあります。面倒なことこの上ないですな」

 苦笑いをする彼に、どう反応すればいいのか解らなかった。

 中民がどういった存在であるかは知っている。必要な金銭と様様な審査を通れば、底都出身でも、天都に入ることが許される人人。だが、天都の人間の多くは、底都の人間よりはマシと思いつつも、中民を蔑視していた。彼等は法的に認められてはいるものの、招かれざる客に違いはないのだ。

「それでも私は中民になりたかった。底都を抜け出したいと思っていたのは確かです。好んで貧民窟に住む人間はいない。しかし、動機の大部分は、天都の人間を見返してやりたいという反骨心ですよ」

 高倉はズイと身を乗り出すと、杖で床を――天都の地を重く叩いた。

「殆どの底都の人間にとって天都は別世界です。雲の上のことなど気にさえしない。しかし、私は違った。天都の人間が憎かった。生まれた場所が違うだけで、私がどうしてこんな惨めな思いをしなければならないのか、納得できなかった。だから、中民になりました。天都に手が届くようにね」

 激しい感情の色を見せたことのない双眸が、ギラギラと輝いているように見えた。

 怨念、執念、復讐、野心――そんなものを燃料とした燃え盛る黒黒とし火焔が、噴き出したかのようだった。

 高倉という人間が少しだけ理解出来た気がするのと同時に、恐ろしくも思えてきた。仮に天都の安寧秩序を破壊する者が現れるとしたら、きっと彼のような人間に違いない。

「そういう訳で、天都の人間に同情されるのが嫌いなのです」

 そう言って身を椅子の背もたれに戻した高倉の顔からは、ギラついたものが既に消えていた。今度は打って変わって微笑し、

「しかし、お嬢さんがただの同情心から銀鶏に執着していないことは解りました。それならば、報酬の分だけの仕事はきっちりとさせて頂きます。ですが、貴方は覚悟をしておいた方が良いかもしれない」

「覚悟?」

 突然、意味の解らない言葉を吐かれ、私は戸惑った。これも何かの引っかけではと訝ったが、彼にもうその気はないように見えた。その顔には、微かな憂いのようなものすら浮かんでいる。

「あの娘は、遠からず殺されます。あそこで闘っている限りはね」

「命がけの闘いなんだから、何時かはそうなるかもしれないけれど……。あんなに強いのに、遠からずって……」

 闘技場では片方が負けを認めるか、或いは戦闘不能状態、つまりは死亡した場合に決着となる。銀鶏は最近ではほぼ無敵の状態で、傷一つ負わず連戦連勝を続けている。素人眼にも、負ける雰囲気など微塵も感じられない。

「だからですよ、お嬢さん。確かに強い。強すぎる。それが問題なのです。お嬢さんは、何故彼女が闘っているのか、もう御存知のはずだ」

 確かにそのことについては、先ほど彼から受け取った資料に記してあった。銀鶏は、彼女の支援者となっている組織に飼われている状況にあるらしい。だから、自分の価値の分だけの資金を手に入れ、組織という籠から抜け出すために闘っていると、組織に対し公言しているらしいのだ。

「これが何かおかしいんですか?」

「おかしいんですよ」

 高倉は杖を持ち上げると、握りの部分を軽く抜いた。するとスルリと白刃が飛び出した。彼の杖が、仕込み杖になっているのは、既に知っていた。用心棒としての彼が、それを振るう様を幾度が見ている。

「初めてお話ししますが、私も元はあの闘技場で金を稼いでいたんですよ。底都の生活から、何とかして上に這い上がりたくてね。そして稼ぐだけ稼いで、中民という身分を買いました。その御陰で、こうして貴方ともお話が出来ている。銀鶏を見ていると自分を思い出します。だから、危ないということも解る」

「どういうことですか?」

 高倉はすぐに答えなかった。仕込み杖を見つめ、手で撫でながら、その木材の内に秘められた刃の輝きを見透かしているようだった。

「私の調べた限りにおいては、銀鶏は既に充分な金を稼いでるんです。勿論、組織が値段を釣り上げている可能性もある。全く馬鹿げた洒落じゃありますが、あれは金の卵を産む鶏ですからね。それにしても、彼女はおかしい。彼女の眼はね、普通の眼ではありませんよ」

「闘う者の眼という意味ですか? それなら解ります」

「ええ、確かに闘う者の眼です。でも、あれはそれより更に深いところに踏み込んでいる者の眼ですよ。恐らく、彼女の中では金を稼ぐことは二の次になっている。手段と目的の逆転どころじゃない。あれは、闘うために闘っているんです。狂気に取り憑かれ始めている」

 高倉は重重しい口調で、溜息を吐くように言った。

 私にはそれを否定することが出来なかった。彼自身の経験から来ているその言葉は、意味は理解出来ても、実感が持てない代物だった。

 刃で肉を裂き、血を撒き散らし、敵に死をもたらしながら、命の限り躍動する彼女。闘い、闘い、闘い、闘い……そして、闘う。終わりが来るまで。負けて死ぬまで。

 嗚呼、それでは一緒ではないか。この天都を支えるものと。

 あの複雑な幾何學で構築された、壊れるまで動きを止めることのない機械達と。

 高倉は言った。「生」に「天都」も「底都」もないと。だが、もし彼女が狂気の闘鬼となっているならば、それは生ではない。意味もなく動き続ける機械と同じだ。機械の動きは「生」ではない。

「まだ、間に合いますか?」

 何がと聞かずとも通じるはずである。彼は踏みとどまることの出来た人間なのだ。

「さて、それは話をして見なければ如何ともし難いですな。どこまで陥っているかは、もっと近くで詳しく見ないことには……」

「じゃあ、行きましょう」

 自分でも驚いた。あっさりと言ってしまえたことに。彼に対しては冷静に、慎重に対処しなければと考えていたにもかかわらず。

「彼女のところに行って、直に話しましょう」

「お嬢さん、流石にそれは……」

 高倉は面食らい苦笑して、こちらの無知と無謀に呆れたように頭を振ったが、

「高倉さん。私は貴方の雇い主です。そして、貴方はついさっき、言ったはずです」

 これは賭けだった。彼は自分の力で中民という階級を手に入れた男だ。百戦錬磨の腕前で、裏稼業をやっている人間だ。だから、易い挑発に乗ることなど、まずないだろう。しかし、彼は己の矜恃と野心を持っている。それを私のような小娘に小馬鹿にされて黙っていられるだろうか。私が知る、私が雇っている高倉は、そんな男では断じてない。

 高倉は渋面を作り、こちらの眼を射貫くように睨め付けていた。無言のまま、時間だけが過ぎて行く。時を刻む古時計の音だけがコチコチと、規則正しく鳴っている。

「確かに言いましたな」

 高倉は杖を地面に突き立て、不敵な笑みを浮かべた。今までに見たことのない彼の表情だった。きっとそれは、かつて彼が足掻き闘っていた時の、闘士の貌だ。

 高倉は態とらしく腕を曲げ、頭を垂れて、言った。

「望まれましたものを、望まれました通りに」


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