學舎

秋津島あきつしまさん」

 己の姓を呼ばれたので振り返ってみると、學友の少女が二人、申し訳なさそうな顔をして立っていた。

「さっきの理化學の授業ちょっと難しくて……良かったら、解説してもらえないかな?」

 染み一つない白の制服の袖を弄りながら、片方が上目遣いに言った。そこに媚びへつらいの色は見えない。単純に友達として頼んでいるのだろう。

「ええ、良いわよ。でも、私もそんなに解ってる方じゃないんだけどね」

 苦笑して、教室に備え付けの椅子に座った。二人は嬉しそうに手を合わせ、同じように席に着いた。

 乳白色で統一された教室の中には椅子しかない。古い時代には机も使っていたらしいが、携帯端末の普及と併行してあらゆる分野で紙製の書物類が消えた為、今では授業も全て携帯端末を使って行われている。

 私は先ほど受けた授業の情報を携帯端末に表示させ、それを空中に展開させた。図形と文章の所所に、私の入力した書き込みが赤い文字で浮いている。難解な方程式を分解して、簡易な方程式の組み合わせに変えている。

 二人は熱心にそれを見つめながら、自分の携帯端末に打ち込み、書き込んでいく。でも、恐らくそれらが今後彼女達の人生に大きく関わることはないだろう。それは勿論、私にも言えることだけれど。

 こんな理化學の方程式を覚えたところで、何になるのだろうか。この學園に通う生徒の殆どは、卒業しても労働に従事することはおろか、先の學院に進むこともしない。ただ、結婚相手を待つか、或いは探すかのどちらかだ。

 それが普通のことであり、疑問に思う者は稀にしかいない。そういった人間は大抵の場合「変わり者」という目で見られる。楽な道を敢えて放棄するのは馬鹿げているようにしか見えないからだろう。

「ねえ、この間、皆でこっそり観た動画覚えている?」

 方程式の説明をしている途中で、ふと二人に尋ねてみた。二人は顔を見合わせ、首を捻り、悩んだ挙げ句、まるで見当違いなことを言い出したので、仕方なく助け船を出すことにした。

「ほら、底都の闘技場の……」

 我ながら卑怯だとは思ったが、闘技場の動画を、何の変哲もない學校からの連絡情報に偽装させ、級友の携帯端末に送ったのだ。

 彼女達はまだ洗脳されきっていないし、好奇心旺盛なのは普段の付き合いから知っている。普通なら検閲で見ることが出来ない映像に食い付かない訳がない。だからこそ、彼女達がどういう反応をするのか興味があった。同時に、銀鶏という存在を自慢したいという虚栄心もあったことは否定できないが。

「ああ、あれのこと? 覚えてる覚えてる」

「血がドバッと出て、ゾッとしちゃった」

「底都は人間の住むとこじゃないって言うけど、あれ本当よね」

 二人は映像とその時抱いた好奇と恐怖を思い出してか、身震いしながらも、キャッキャと笑いあった。そして、一頻り底都のおぞましさについて語り合ってから、

「でも、何でまた急にそのことを?」

 不思議そうな顔をする彼女達に、私は思いきって訊ねてみた。

「あの動画に出てた、銀髪の女の子のことは覚えてる?」

 二人は再び顔を見合わせ、また記憶を辿りだした。私は、その少女の詳細な姿をヒントとして幾つも与えた。だが、二人は降参とでも言うように、頭を振り、

「御免なさい。全然思い出せないわ。銀髪なら似たような女優がいた気がするけど、あの人は五体満足だし……ほら、この間の恋愛映画に出てた、あの女優」

「あ、それ私も観た。結構良かったよね。悲恋系って、やっぱり駄目。絶対泣いちゃう」

 それから二人は延延とその映画の話で盛り上がった。私が別れを告げ、教室の外に出てからも、その話し声はまだ聞こえていた。

 映画。彼女達にとってあの動画は、それと同じ意味しか持たなかったのだ。だから塵箱に捨てるように、気軽に忘却されてしまう。

 だが、あれは映画ではない、現実だ。実際に人が闘い、肉が裂かれ、血が流れ、一個の生命が消えたのだ。それを自分達とは関係のない、対岸のものとしてしか捉えられないのは、感覚が麻痺しているからだ。

 彼女達は己の柔肌に痣の一つでも出来ようものなら、この世の終わりが来たように絶望する。潰瘍や瘡蓋、火傷で皮膚の一部どころか、顔面を覆われた人間が存在することなど想像も出来まい。

 底都と呼ばれる場所が存在することを知っては居ても、手に触れることの無い限り、それは架空のモノとしか認識されない。

 しかし、誰がそれを責められるのか。秩序だったこの天都という世界で純粋培養された彼女達。恐ろしく、汚らわしい、罪や病や死から遠ざけられて、楽園を謳歌する者達。

 艱難辛苦を乗り越え、この秩序世界を作り出した我我の祖先は、これらが変化することを望まないだろう。あらゆる悪徳と汚穢は、澱のように底の世界に押し込めた。文字通り、自分達にその魔の手が届かぬように。

 私もその秩序世界で暮らす人間だ。だから、友達も、両親も、先祖達も、誰も責めることは出来ないし、その資格もない。

 でも、私は知ってしまった。底都に暮らす人人とその生活を、この眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、舌で味わった。

 そして、彼女を――銀鶏を見たとき、初めて私は「生命」というものを知ったのだ。

 己が命の為に、己の命を賭けて闘う者が、確かに存在することを。

 私はもっと知りたい。彼女のことを。

 その為には、底都に行かなければならない。底都を理解出来なければならない。

 見えざるものが見えぬと言うのは罪ではない。

 だが、見てしまったものを見なかったと言うのは罪だ。

 故に私は底都へ行く。罪人であることを自覚しながら、それを無視して生きていけるほど、私は厚顔無恥ではない。

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