3-Cherry Blossomの散る頃に-

ㅤ──思えば少し前から嫌な惨状だった。

 暴虐的で、そして無知な小さな怪物。生まれた時からその怪物が意思や意識とは裏腹に人を嘲笑うことを繰り返していた。周りにいる人たちからは忌まわしく醜い存在と揶揄される癖を持ったそんな怪物には誰も寄り付こうとはしないのだった。



「さくらちゃんはそろそろ行くの?」

ㅤ電子を伝った声が耳元で聞こえる。そう言いながら遠くでガサゴソと、なにかをなにかに入れる音を出していた。

「うん。暇があればまたよろしくね」

ㅤそう答えてノートパソコンの画面の電話マークを押して、俊太くんとの通話を切ってイヤホンを外す。


ㅤただ暇な1日が始まるのをそのまま受け入れるのも嫌ですぐに制服のままベッドへと転がり、部屋にある時計で時間を確認した時思い出した。

「あ、晴樹さんの……」

ㅤなんとなく熱を帯びるような気分にさせられる。抽象的だがなんとなく違和を起こす。どうしても、初めてのそれにはずっと心を悩ませてくる、このなんの変哲もない紙片はなにもされないままで絡まるように丸まっていた。

ㅤ──「いつか必要になった時に使ってください、役に立つと思います。桃花より」

 気を利かせたのだろうか。あの日家に戻ってすぐ袋から菓子折りを取り出すと、綺麗に4つ折りにされた紙が一枚ひらりと床へと落ちた。見やすく丁寧な数字の羅列と女の子らしい細く優しい文字をぼんやりと頭の中に映す。晴樹さんと、佐藤家の電話に繋がるらしいが、少しだけかけることは躊躇してしまった。

 身体を起こして机の上を見てみると変わらず丸く纏まったままだ。はぁ、とため息が出る。

ㅤぐちゃぐちゃなそれを見てなんとなく、今日は髪を括って行ってみようかな、なんて思った。気分が変わる気がして。……誰かに見られることはないのだけれど。

ㅤ一階へと降りるともう母親はいなかった。久しぶりに今日から2日間は仕事の都合でいないらしく、安堵の息が漏れてしまう。

ㅤ火曜。

ㅤ明日には終わりかけの垂れ幕を完成させねばならないことを胸に残し、腕にシュシュをつけたまま冷蔵庫からいつものようにゼリーを取り出して、隣の食器置きにあるスプーンを取って立ちながら食べる。

「眠いなぁ」

ㅤふと溢れてしまった。惰性のようなものが眠気を誘ってくる。休みたいけれどまだ2年生になってすぐなのであまり得策でもないと思い、食べ終えたゴミを適当に洗ってすぐそこのゴミ箱に投げて捨てる。



 バスに揺られて高校へと向かえば、なんとなく心が静かになっていく。嫌いな体育の授業のことだとか、不幸なりにもなんとか終わらせた勉強についていくための予習の内容だとか、そういうものを頭で回して整地する。静かになれば当然眠たいので、満員の電車なのにもかかわらず目を瞑って倒れそうになるのは、私自身動いてしまってから恥ずかしい。

 学校に着くとすぐ鞄を開き、授業の用意をする。なにもすることもなく、ぼーっと空を眺めるしかないので暇ではあるが、雲に見えない字を書くことはなんとなく好きだったりする。

 私には、高校の友達がいない。いつものように、きっと作ってもすぐに周りからいなくなるのだろうとわかっているから、作ろうとも思わない。中学の頃から知っている人もいるが、大体は私を避けている。

 ……しかし、休み時間の喧騒の象徴はどうしてこうも周囲を認識しないのだろう。俊太くんもこんなところで気を遣って生きているのでしょうか。……なぜだか、可哀相に思えてきた。いやしかし向こう側からすれば話す相手がいない方が可哀相に見えてるのかもしれない……そういうものな気がして、箱入り娘も少しは脱却出来た気がする。

 ということではなく。こうして見ると静かに本を読んでいる人も授業の用意をもうしている人もいて、見てこなかった世界も多種多様でバラバラだと感じる。と思うと、その中でも腐っている私は、どうもかなり浮遊しているらしい。好きなことといえば雨や雲を美味しく食べようと考えることくらいなので趣味らしいものもなく輝くものもない。羨ましい。

 思ったのはこれくらい。陽に当たった暖かさで目を瞑って時間を潰すことにした。


 ──過大な例えばの話。どれだけ成績優秀眉目秀麗、容姿端麗才色兼備な人にだってどこかに欠点はある可能性もあるわけで、そういうところは隠蔽して生きるのが頭のいいことだと思う。

 なぜか私には出来ない。

 どうしてなのだろうか。……もし出来ていればどれだけ楽に張り付いたような笑顔を消せたのだろうとふとした時に思う。

 そんな不変であって普遍じゃない春先の新しい学校生活の一幕がまた自分にとってしんどくてならない。机に広げてみせた教科書を適当に開いて落ち着いて目を向けることにした。



 ○○○○○



 ──馬鹿正直な怪物の周りに人はいない。周りを見渡しても焼けるような視線とおぞましいほどの言葉の波に囲まれていることを認識するだけ。

「ダメだよ、関わっちゃ」

 平気で怪物を蹴落として貶してくる人たちを蹴散らして気高く孤高に生きる。後ろめたくなんてない。最初からそうやって生きてきたのだから。


 そしてそんな怪物がいてもいい場所がある。許してほしい、きっとその場所が好きだから……。



 ほどなくして嫌な授業も終わる。運動が出来ない私は新学期2回目にしてはぁと大きくため息を漏らしてしまった。待ち侘びたかのように授業前にはしゃいで走り回る男子たちを遠目で見るように、私はグラウンドの土を蹴って立っているしかしないし、鈍間な私の遅い徒競走で時間がとられるのが悔しくて仕方がない。みんなどうして運動が出来るのが私にはわからない。恥ずかしい。

 桃花ちゃん曰く。生まれてすぐに決まるようなことだから気にすることないですよ。だそうで。

 いーちゃん曰く。そういう女性もなんだかんだ多いですよ。だそうで。

「はぁ」

 4限目の嫌な体育が終わり、あまりいい気分でもない私は教室に戻る前に自動販売機の前で立ち止まった。

 実は高校に入って一年生の頃に初めて使った、最初は使い方もわからなかった箱だけど、最近はなんとなく使い方もわかるようになってきた。お金入れてボタンを押すだけ。わかりやすく単調で快適。制服から出したお札じゃない方を使いいつものように桃の味がする水のペットボトルが出るボタンを押して、ガコンと勢いのある音を鳴らすのを聞いてからウキウキでしゃがむ。

 斜めに倒れていて上手く取り出し口が開かない。

 ため息が漏れてしまう。

「おい、早くしろ」

「す、すいません、早くします」

 後ろで待ってる人もいる。みんなの喉が乾く体育終わりにこんな罠が待っているとは思わずにガタガタと取り出し口を揺すってみる。

 『最近ちょっとガサツになったね』……私の頭の中に爽やかにそんなことを言う俊太くんが浮かぶ。仲が良いわけでもないのに生意気だと思う。まあ、よく見ている彼だから言えるのだろうし、私だから言えるのだろうし、足を蹴るのはやめてあげよう。

 そんなことを思いながら少し粘って上手く倒れてくれる。すぐさま取り出して後ろで待ってる人たちにへこへこ頭を下げて、胸に抱えて早足で教室に戻る。隣に流れればいいのに結構待ってる人もいたので恥ずかしく、ぎゅっと握った。


 戻ってみるともうグループはグループで集まって弁当を食べている。そんな中弁当というものが私にはないので、家から適当に持ってきたお菓子で過ごす。席に座ると、隣の女の子が本を開いたままメガネ越しにチラリとこちらを見てすぐに背けた。私はなんとなく距離を取りながら慎重に声を出す。

「気になる?私の食事。あなたは……本でも食べるの?」

「本は食べられないよ」

「そうだよね、私も食べられない」

 そんな妖怪みたいな人いるわけない。そうして私は先週末行った街で自宅配送したクッキーを一口で食べる。隣の子は驚いた顔で見つめた。

「それ、結構高いやつじゃないの?」

「そうなの?気にしてなかった、いつものやつなのだけれど」

「えっと、そこのマカロンとかも、普通に食べたりする……?」

「マカロンは普通に食べるものじゃないの?」

 なにを言っているのかわからないのでお菓子の袋を取り出して見せてみる。色々な味が並ぶそれにやはり彼女は驚いている。

「これもこれも、高級なやつだよね……?」

 高級なやつとはなんなのだろう……。あまり値段で決めることもないので、私はなんとなく理解がし難い。ただ、美味しいので買っている。そういうことをなんとなくこの人にも伝えてあげたい。

「食べる?美味しいよ。あなたまだ何も食べてないみたいだし」

「え、え、いや。初めて話すのにもらうのは申し訳ないよ……それに、皆雲さんとは……」

 なにか言い澱む彼女は、首をブンブンと振ってこっちを見直した。掛けている少しメガネがズレている。なんとなく察する。

「私は別にいいよ。友達とかそういうのいらないから」

 なにも詰まりなく言ってしまっていつものようにはっとする。いつものようにはっとしては笑顔を作って誤魔化す。

「や、やっぱいいよ。ありがとう声かけてくれて」

 それでもすぐに彼女は遠慮した。なんとなくわかってはいたけれど横顔から滲む小さな苛立ちが見えてくるようで、私はもう気にすることもやめ前を向いてまた一口食べる。


 センスもなくノートへと流すように文字を書き込みながら、空いた時間はただぼうっと黒板に流れて行く白い線をなぞるように目を向け、雲は流れる。

 なにもすることがない。

 私は勉強が得意な人間じゃない。芽依夏さんや桃花ちゃんのように突き通せるほどの頭脳があるわけでもなく、小さい頃から他にやることがなかっただけ。なんと虚しい生活を送っていたんだろうか。生き方に反吐がでる。

 そんな適当な時間の潰し方で授業が終われば、喧騒が再び耳を蝕んだ。隣の子はまたこちらをチラリと見てはすぐに背け、私を認識しないように帰りの支度を始めている。私も適当に必要な分だけを学生鞄へと綺麗にいれて立ち上がると、1人の男の人が進行方向手前に立ち塞がった。

「ちょっと待て」

「……なんですか?隣の席は空いてませんので前くらいは空けてください」

「告白じゃねえよ……ちょっと付き合え」

「え、初対面なんでごめんなさい」

「だから告白じゃないって言っただろ! はっ、お前金持ちなんだろ?金くれよ」

 さっき、自動販売機で怒っていた人。少し後ろにも焦点を合わせると、見馴れた意地汚い群衆、中学の頃から知っている人たちが見える。

 ため息が漏れてしまう。どうして、私がこんな面倒なことに付き合わないといけないのか。正直頭のいい高校にさえ入ればこんなこと起こるとは思ってもなかったので更に苛立ちも漏れてしまう。

「ごめんなさい。他の人をあたってください。好みじゃないんで」

「だから……!もういい、こっちへ来い」

逆を向いて教室を出ようとした私の鞄を持つ右腕が男の大きな手に捕まる。力強く、普通にやろうとも外れる感覚はない。手を離した鞄は下に落ち、向き直すこともせずにそのまま言葉を投げる。

「この学校に来て、そして2年生にもなってパシリに脅しに恥ずかしくないんですか?私は、同じクラスにいることが恥ずかしい」

 腕が痛い。

 ……わかってることだった。私は運動も出来ないし男に敵うものなんてないし、序でに叶うものも持っていない。解こうと抵抗もする理由もない。

「調子に乗るなよ。こいつらから聞いたけど小学生の頃から周りから嫌われてたらしいじゃん。なんなら金渡してくれれば俺が友達になってやるよ」

「あなたとお金を比べて均衡保てると思いますか?傲慢ですよ……やっ」

 両腕を無理やり掴まれ、捕まり、抵抗すら許されなくなってしまう。勉強だけやっていればいいものをがめつい下衆だ。

「そんなに私のことが好きなんですか?何回も」

 怒りを込められた手によって両腕は上げられたままぐっとまた力強く、痛い。目を合わせずに体も動かさずに、一回り大きな身体に凭れるような体勢のまま諦める。この前並んでいた晴樹さんよりもまた逞しくて……こんな時でも晴樹さんは見返りも求めず助けてくれるのかな。

「今の状況わかってんのか?ほらお前ら好きにしていいぞ、財布取れ」

 この人の後ろにいた人たち、3人は躊躇いながら私を囲んできた。

 まだ、2年生になってすぐなのになぁ。華の高校生の私は、これからずっと汚れた制服のままいるしかないのだろうか。

 パシャシャシャ。

 途端、うるさい放課後の教室に一際うるさいカメラの連射音が鳴る。静かになった教室、涙目になりながら、隣の席の彼女は私たちに対してスマートフォンからフラッシュを光らせていた。

「や、やめないと、先生に見せつけるから」

 この人はなにをしているんだろう。どう考えても自分のためにならないことを、どうして、彼女は強気に、辛そうにやっているんだろう。私には……。

「みんなも、とめて!」

 か細くても折れなさそうな声が教室を揺らしざわめかす。いつもとは違う密かな声の集まりが私たちに集中した。

「はぁ……あんたたち情けないよ。あたし嫌いとは言ったけど、やっていいことと悪いことはあるからね?女の子を集団で虐めるなんてみっともない」

 すぐに逆端の方で集まっていたうちの1人の女がこちらに歩いてきて、私を掴んでいる男に話しかけた。すぐに力が弱まり解放され、周りも少し後ずさった。

「いや、これは」

「……ねえ、皆雲さん。あなたの噂は聞いてるけど、何もしないならあたしらはなにも言わない。あなたのせいでこのクラスの雰囲気が悪くなるならそれは許さないけど、なにもしないなら言わないよ」

「優しいね」

「そんなんじゃない、これは脅しだよ。美住、あなたもね。……ほら帰るよ。あんたらもこれからはあまり騒ぎを立てないでよ?」

 一際気の強い言葉を放つ彼女はそう言って自分の席の鞄を取りに戻り、そのまま教室を出て行った。それに慌てて周りのみんなもさっきまで威勢のよかった彼も拍子抜けてから出て行く。

 少し痣が残りそうなほど赤い手首。未だ涙目の美住さんは、腰が抜けたようにいつもの私の隣の席に座り直して心配そうにそれを見つめていた。

「大丈夫?私怖かった……」

「どうしてあんなことしたの? あなたも同じような目に遭うかもしれなかったのに。それじゃ自分への利益がなさすぎるよ」

 私の言葉に、彼女はまた苛立ちを醸す。それでも今のは私からしたら本当の疑問、あの居残り以外での珍しい疑問。

「助けなきゃ、私が後悔すると思った……」

「友達でもないのに?」

「そう。友達でもないのに。今日少し話しただけなのに」

 私は下に倒れる鞄を持ち、埃を払って持ち直す。誰にも触られることはなかったので、あまり気にすることはない。

「お金は渡さないよ?あまり持ち合わせてないから」

「そんな貪欲な見返り求めない、友達じゃないから」

 かなり怒り気味で返されるが、なんとなく落ち着く。母親とは違う、冷たくない怒声。

「わかった。……お菓子あげるね」

 優しく笑うと、美住さんは遠慮しなかった。

「里谷さん……小学生からの知り合い。高校に入ってから話してなかったけど……ああいう人たちといつも連んでるからあまりいい気はしていない」

 彼女は私の渡したマカロンを口に入れる前に握ったまま話を始めた。メガネはまた少しズレていた。

「あなたのことは私も噂で聞いてる。多分、里谷さんが一番嫌いなタイプだよ、皆雲さん」

「……そう」

「それで済ますの?」

「それでいいよ。だって、嫌われるなんてよくあることだから」

 ……やっぱり。すらりと出てしまった。そうやって苦悩もせず生きてしまう私の清算もしないような言葉。

 爽やかイケメンな誰かさんなら、よくあってたまるか、なんて言うんだろうけど、私にはそんなポジティブで思慮深い思考能力もないしそんなものだと割り切るだけ。私の"口"はそんなもの。

「私、帰るね。今日はありがとうございました」

「……っ」

 私の最後の一言にどうしてか歯噛みした彼女の口から、それからなにか出てくることはなかった。私はそれを見て、なにも考えないで教室を出て、振り返らないで歩いた。


 桜はすぐに散る。数瞬にすら思える儚い命に人々は騒ぎ囃して吐き捨て見限る。

 私の名前はそんな花びらに起因して付けられた。今や色もくすみ掃き捨てられるだけになった落ちきった花びらは、私が踏み均すことを受け入れるように動きはしない。

 ……私もそう。

 ──小学2年。クラスの雰囲気を、私はただの癖のせいで崩壊させた。

「先生、この人が悪いです」

 たったそれだけのことだった。クラスの女の子が他の人の教科書にマジックペンで落書きをして、黙ったままでいたから、私はそれを告発したにすぎなかった。

 はずなのに。

「嫌いなら言えばいいのに」

 ただの付け足されたこんな純真な凶器の私の言葉で最初に大きく変わったのは、教師の形相だったことをはっきりと覚えている。そんなこと言わない! と酷く怒られたから高解像のカメラのように鮮明。どうしたってなにが悪いのか最初はわからなかったけど、思い返せば簡単。

 ただそんな教室を作りたくなかったわがままの具現。

 私たちはそんな学校という無意味な信仰宗教に付き合わされ、私の言葉で絡まなくなった2人の捻れた線は更に離れて、いつのまにか教室は半分に分かれた。嫌いの文字と、憎悪の風が流れて。


 小学5年。あれから時間も経ち周りの人もかなり変わっていた教室に、また解れた線と線が集められる。私は凶器を振りかざしたまま戻れない2人を締める。簡単なことを。

 どう頑張ったって変わらないのはこの頃すでにわかっていた。口から出る言葉が周りを困らせ、いつしか友達なんてものはいなくなっていたわけだし。

 そんな私は2人から焦がされるような視線を送られていた。友達なんかいちゃいないのに恥ずかしい。

 そんなのだからなんとなく言えた。誰の目にも届かず、吐き出せずにいたから簡単に言えた。もう戻れやしないだろうほどに、切り裂くように。

 だからひとりだった。単純。私はそんな私が大嫌いだった。それでも記憶の限りでは、あの頃の私は言葉の凶器を振り狂気を振り撒き続けて過ごしていた。治らないのではないでしょうか、これは。

 一字一句、正確に、遠慮の外から口に出す私の本音は、簡単に告げることが出来た。


「また同じクラスになれたね。"もっと嫌いになれるからよかったね"」


 その日家に帰ると母親は涙を落として私を叱った。私は本当にそう思っていたから悪いとは思っていなかったけれど、母親は私がしたことは悪いことだ、だから謝りなさい、とバツ悪そうに顔をキツく作っていた。

 顛末としては、私のいたクラスは崩壊した。2人の溝はもはや埋まることすらなく、クラスの中での騒乱の毎日を組み上げた。この頃まで私は自分勝手だった。


 また1年ほど経ち卒業も目前にして私は周りから迫害さえ受けるようになっていた。口を開けば誰かを不快にさせる、化け物として認識された。関われば不幸になる、厄神、疫病神。いや神と呼べすらしない醜悪なケダモノとして、寄る人なんていなかった。

 寒さで口が閉じるようなそんなある日先生が私を庇った。私の言葉を許さないような人とは違う先生だ。純粋にいい人だったんだろう。あの人にとって私は放っておけなかったようで、周囲がどうであれ私の言葉を聞いた。

 そして嫌になって、庇うのをやめた。

「先生は私になにを求めてるんですか? 私は返せないんですが」

「みんなと仲良くなってくれたらいいなって」

「出来ません。だって私は嫌われてるから。だから私もみんな嫌いなので」

 私の言葉で最後には、私に笑わなくなった。


 卒業式前日。その日家に帰ると母親は涙を落として私を叱った。いや、違う。私が先生にまで口を閉じなかったこと、同級生たちを壊したこと、"舐めた真似をし続けたこと"。

 身も潰えるような重たい重たい言葉の数を一身に受けていた母親は痺れを切らした。先生は最後に泣いていたらしい。

「その口が悪いのよ!! その口さえ開かなければみんながおかしくならなかったのに!!」

 それで、私の意識は朦朧とした。


 次の日、卒業証書授与で、私は喉から声が出なくなっていたことに気付いた。潰れたわけではなかった。単純に、言葉を出せば殺されるんだと本能が拒否をし始めた。……周りから笑われるのを耳に残して体育館を飛び出し、こびりついた嫌悪感で自分に手を下した。誰とも喋りはしないからと自分で首を絞めた。……自ら絞めなくたって昨日母親にされた痛みは残ったままだった。


 家族からでさえ厭われた口が、私の怪物じみた象徴。そのまま中学も高校も治ることなく友達なんていないまま。あれから咲いてはくれない枯れた木のまま。

 ──学校の居残りは楽じゃないけれど、放課後に集う週1回のあの場所だけは好き。私が口を開いたって誰もなにも言わない、誰も踏み込んできたりなんてしない、居心地のいい場所。

 あの、やりきれない人たちの最後の居残りの場所だけは、私が信じていられる。思ったことを口にして、笑っていたい。




 流れる景色をぼうっと見て、そんな曖昧模糊な人生をふと思っていた。ガタンと揺れては心の中に隣の席の彼女のした忌々しそうな表情がぽつりと現れ、ゴトンと落ちては吐き出しそうになってしまう。なにも考えない、なんて出来なかった。どうしてかはわからない。私の過去の清算なんてされやしないのに、助けを乞いたくなってしまった。彼女はどうして私を助けたんだろう。

 明日は気まずいなぁ。普通にいられないだろうなぁ。なにも話したくないなぁ。

 ホームを抜けてゆっくり歩いて色々を思案する。どうすれば足を楽に運べるか、明日を楽に過ごせるか、朝を楽に迎えられるのか。他愛ない日常の悶々とした一欠片。明日になれば私が解決してくれる。……面倒だなぁ押し付けないでほしい。


 ただいまを言う理由もなく鍵を開ける。母親からすれば、血が繋がっているというだけで家に置いている感じなのだろう。父親は私に対しては憐れみで捨て猫を飼っているような気分なのだろう。家族と捉えられないほど疎遠な私は孤立して家に閉じこもっている。

 私は家族とほとんど話していない。だからただいまを言う理由なんて最初からなかった。

 ここまで人から疎まれるとイマジナリーうんたらに目覚めてしまいかねない。ただいま。おかえり。ご飯を食べてお話をして、ありがとうを言っていたい。一緒に楽しく生きる空想が完璧すぎて自分のことなのに引く。……イマジナリーしなくても同様なことが出来そうな真野家に引き取ってはもらえないだろうか。いや、何も言わずに引き取るんだろうな……。

 すぐに部屋に戻りすぐブレザーを脱いでハンガーに掛け、すぐにハンガーラックの方へに吊るしておく。

 今日はなにかしらもなく両親もいない。楽にしようとシュシュを抜き髪を降ろして首を振る。ずっと1日こうして髪を後ろに束ねたまま過ごすのも新鮮だなと思った。なんとなく晴樹さんに見せていないのは心残りかもしれない。写真……はまあ今は無理だし、明日も同じように後ろに纏めて行こうかななんて考える。……でも、この前の服装のこともあまり上手く言わなかったから見た目のことは期待が出来ない。この企みは却下だよと心の私がばってんの札をあげていた。


 いつものようにパソコンの電源を点け椅子に座って伸びをする。よくお嬢様らしくないと言われるけど、私自身は特にお嬢様な気はしていないですわようふふ。

 初期と変わらない壁紙の画面がパッと点灯、表示されていく中からひとつをダブルクリックして開いていく。

「はぁ……」

 父親からのメールが届いていた。特に興味はない。パソコンを立ち上げる理由なんてそれこそ暇つぶしなのに、そんな暇を潰せるほどなにかあるわけでもないんだから。

 それでもとりあえず嫌気を胸に残して開いてみる。

『仕事が忙しくてあまり家に帰れていないですが、しっかり食べていますか?明後日は帰れると思うので待っていてください』

「いいよ……帰ってこなくて……」

 はぁと溜め息を漏らすと、疲れが出てきてしまった。立ち上がってそのままベッドの方へ寝転ぶ。

「電話、かけてみようかな」

 まるで恋する乙女のようなことを呟いてしまった。晴樹さんは私の運命の人だけど、そんな対象の人でもないし違う。あれ? すぐさま晴樹さんのことを浮かべてしまった。

「やめておこう」

 なんとなく、今はそんな気分でもなく目を閉じる。



 ○○○○○



 周りからどれだけ疎まれていても、あの居場所だけは私を見捨てはしない。みんながみんな変わらずに私を見続けている。私はそんな場所で笑っている。

 何年も私は私を曝け出した。不快、不安、不肖な私の口を開き続けた。到底、私のことをいい人だと思ってる人はいないに決まっているはずなのに、私は笑って、自分勝手に笑って、縋って笑っている。

 色々な人が集まっている。みんながひとえに優しいとは言えないけれど、私の畏敬の口になにひとつ文句なんて言いなどしない。そんな癖をあたかも普通であるかのように過ごすから、誰も不満なんて言わない。それにつけ込んでいる。

 ──私はそんな私が嫌い。



 目を開けると夜深くなっていた。頭が少し痛い気がした。靄がかかったような心の奥底が暗く染まる。

 ふぁ……と大きな欠伸をしながら、身体だけを起こしたままベッドの上からリモコンを取って灯りを点ける。

「2時半……結構寝ちゃった……」

 とりあえずベッドから降りると、服装がブレザー1枚脱いだだけのままなのに気付く。これじゃまたガサツだと言われかねない……。

 とりあえず部屋を出てから伸びをする。夜中に部屋から出るのはあまりなく新鮮に感じるけど、違和感もある。

「よし、お風呂。ご飯。何かあったかなご飯……」

 こんな時、桃花ちゃんと晴樹さんの手料理が食べたい。……隣に並んでいたのを思い出してはぁとまた溜め息を漏らしてしまった。


 今日……ではなく昨日の帰りに絡まれたことを思い出す。腕の痛みはないし跡も残ってはいない、諦観で臨んだのが功を奏してかあまり身体に痛みはない。貯まった湯に足をつけ、ゆっくりと身体を入れる時に痣がないかを確認して、なにもなくて安堵しながら浸かる。

「晴樹さんに見られたらなに言われるかわからないから……はっ」

 またあの気の弱いくせに一丁前に男らしい人のことを思い浮かべて、癪に障るので風呂に潜る。

 そんな気持ちを誤魔化すようなまやかしじみた心に、嫌になり、勢いよく顔を上げるとタオルで纏めていたはずの髪が身体に張り付いてびっくりする。目の前に白いタオルが浮かんでいた。

「やってしまった。……クラゲでも作るしかない」

 例のやつ。空気をタオルの中に貯めるように水に沈めて、出来た袋を押しつぶす。園児か小学生あたりの小さな遊びに、私は何分か時間を費やした。

 ふと我に帰ってから風呂を上がり、湯上りの火照った身体を冷やすように冷蔵庫を開く。なにも入っていないので冷凍庫も開いてみる。

「ない。買い貯めもしてなかった。終わった……このまま飢えて死ぬ」

 時間も時間なので買いにもいけない。冷蔵庫に入っているプリンか冷凍庫で作られる氷くらいしかない。氷を噛んで食べる人は血が足りていないらしいけど私はそんなこともないし好きでもない。

「明日、俊太くんにでも買い物頼もうかな。……晴樹さんでもいい。今日は寝ましょう」

 そうして製氷室を開いてなんとなく食べようと思って氷を取ろうとする。

「……ない」

 何も入っていない製氷室を思い切りバンと閉めて、そのまま部屋まで向かうことにした。お菓子でも食べて紛らわそう。



 目をつぶっていても寝ることは出来ず、日が昇り外は明るくなり始めてまた1日が始まることを肌で感じた。起き上がり取り留めもなくパジャマを脱いで新しいカッターを取り出し着て、スカートが脱衣所へ置いてけぼりになっていることを思い出す。

 とりあえず登校の用意をして脱衣所へ向かう。そろそろ色々と足りなくなってきているので、買い足さないといけないなぁ、と毎回思って、行動に移さない。


 皺になっていたスカートをしっかり伸ばしてから家を出て、いつも通りひとりでバスに揺られる。面倒な体育もないし気分良く過ごせると思っていたのに、抱えた嫌な現状を頭に回す。どうしようかと抱えて蹲りたくなるけど公共機関で座り込むのはあまりよくないのでしない。

「とりあえず、いつも通り話さない。ひとりで過ごしてひとりで帰る。そのまま、コミュニティセンターに向かって、夜に帰る。大丈夫、きっとなにも起こらない……」

 大衆に飲まれて息を潜めて身を細め、いつもよりも早く帰りたい欲が強くなる。そこでふと、対応するためにしていた予習を今日は怠っていることに気付く。

「そういえば勉強……大丈夫かな」

 非凡な才能を恨むしかなかった。



 ○○○○○



 ……。

「そんなわけだったんです。晴樹さんは何かありましたか?」

 こくりと首を落としてしまいそうになりながらここ最近のことを話し鮮やかになった布に塗装を足す。起きた時間が時間で今になって眠気がピークに達している。

「めっちゃ眠そうだな。別に寝ててもいいと思うぞ」

「い、いえ、完成させてからで……」

「もうさくらちゃん、あんまり無理しないでよ?昨日そんなことがあったなら尚更のことだし、突然眠って倒れたりされたらビックリするから」

「俊太くんは乾いた絵の具の塊を弄らずに塗って?」

 『え?これ楽しいのに』……そんな彼のふざけたような声が小さく聞こえた。というか、ふざけている。小学生レベルの遊戯に没頭しないでほしい。

「……早く終わらせて、少し寝させてもらいます……。なので早く手を動かしてください……」

 そんなところでタイミングよくふあぁ……と情けない声を出してしまう。人前で大きく口を開いて欠伸をしてしまうとすごく恥ずかしい。

 みんなそれぞれやるべきことをこなして、週末への期待を膨らませていた。芽依夏さんはシートへの記入をテキパキとこなし、いつものようなおちゃらけお姉さん感はなくOL感が強い。妹のいーちゃんは細かい作業でただの地味な段ボールだったものを魅力的な看板へと仕立て上げていた。……それを見ると唐突に文化祭感が強くなって頭が痛い。部屋に戻ってきた実鷹さん、大荷物を横に抱えて部屋に置いてはまた出て行く。テントとかの設営までやるのかな。

 そして前の2人。この2人は適当過ぎるし、俊太くんに至ってはせっかちさんで作業が雑。

「どうしたのさくらちゃん」

「いやなんでもないよ。俊太くんの将来が心配だなぁって思っただけで」

「それはなんでもなくなくない?」

 すぐさま、それもそうね。と呟いた私の声で俊太くんはがくりと肩を落とし、それでも晴樹さんは気にせずに作業を続けていた。気に入らないのでこっちにも振ってみる。

「晴樹さんも将来は大丈夫ですか?」

「いや……なにその質問」

「そうですよね。察します」

「勝手に察さないで!?」

「冗談ですよ」

 ふふっ、と無意識に小さく笑いが漏れてしまった。2人して肩を落として並んでいるのが堪らなく面白い。

「おーい三馬鹿ー」

 そうこうして作業の手を止めていると声が聞こえたので、無視して作業を進める。

「ねえわかってるでしょ3人とも。無視しないで」

「「じゃあ三馬鹿って言わないでください」」

 前2人が、その2人の後ろに立っていた芽依夏さんの方を向いて同時に言う。

「男2人で仲良く口が合うとくるものがあるね。いや違くてね、3人とも少し時間いいかな?さくらちゃんもちゃんと聞いてね」

「え、なんで私なんですか?」

「え?」

「え、もしかして、私も馬鹿ですか?」

 私が答えると芽依夏さんはふふっと笑った。

「まあ聞いて。地域の方たちも当日は準備とか忙しくなると思うから、早く来れるなら来てほしい。その布幕は入り口の方に付けるけど、雨が降るかもわからないし出来れば当日に付けたくて、で、早く来たならそれを手伝ってほしい。大丈夫?」

「俺は大丈夫です。俊太も大丈夫だろ」

「はい。任せてください」

 すごく嬉しそうな顔をする芽依夏さん。俊太くんも嫌とは言わないだろうなとは思ったけど。

「私は……」

「女性の手は煩わせないよ」

 俊太くんは私の方を向いてニッコリとした顔を見せてくる。

「うーん……いけそうなら行きますね。寝坊しそうなんで」

「いやそれは頑張れ」

「晴樹さんはしないんですか?あ、妹さんに朝起こされて」

「ないぞ。そんなよくある展開みたいな……」

「そういうところが三馬鹿の所以でしょうが。んじゃー来てもらえると助かるかな、みんな当日は昼から適当に遊んでもらっても構わないから。三馬鹿仲良くお祭りだね」

 芽依夏さんは嬉しそうなまま胸ポケットから手に収まるほどのメモ帳を取り出し概要を話し始める。



 ──今日1日といえばあまりなにもなかった。隣の人とは話さなかったし、あまり勉強が捗りはしなかったけど理解は出来た。いつも通りの空白時間を空虚に過ごすように生きて、それで終わり、そして同様にここに来ている。昨日の波乱を忘却さえしそうな静寂があり違和感を覚えるが、ここに来れば毎日のような空になるような時間も感じなくなるので安堵が生まれる。学校の放課後の居残りとは違ってみんながいるから。

 そんな身近で安寧を得て私はみんなを見回す。やはり無秩序で落ち着きもない。騒がしいはずなのに、心が穏やかになる。

「ふふっ」

「どうした?突然笑って」

「いえ、なんとなく、好きだなと思いまして」

 昨日のことを経てこの居場所は私の1番の拠り所なのだと再認識する。だから意識もしてしまう。隣に来ていた晴樹さんが固まっているのを他所にして私は動かしていた手を止めて胸に置く。

「前に言いましたよね。見渡してみると色々見えると。そんな世界が好きですと。……私は……いや、言いにくいですね」

 晴樹さんのどこか安堵した表情が見える。

「別に晴樹さんが好きとは言ってませんよ」

「心の内を見透かすのやめろ」

「冗談です」

 そうやって晴樹さんはなにも訊かない。なので私はこれ以上言うのをやめる。

 ──自分のことが、率直に、嫌いだと思ったから。

 躓くのが嫌で、私はまた手を動かす。隣の晴樹さんはなにも言わないのをいいことに、あの日みたいにまた甘えてしまいそうになるのを堪えようとしてもすっと視界が狭まっていく。

「あ、寝そう」

「後ろの机行って寝ろよ」

「すいません……」

 科学的な匂いの漂う空間から立ち上がり、眠気を我慢出来ずに私はゆっくりと後ろに纏まった机から椅子を引いて座って顔を伏せる。

 ああどうしてこんなにも私は私が嫌いなのだろう。周りのみんなはどうしてそんな私を認めてくれるのだろう。何も出来やしないのに。

 ──微睡んで、意識はそうして深く落ちる。誰も何も言わない。だから私は嫌いになる。

 ため息が漏れてしまう。

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