第9話 ― 8

 一条が逃げ去ったのを見て背後で見守っていた集団からまた歓声が上がり、駆け寄ってきた茶原や橙山、竹沢にも捕まってもみくちゃにされたがそのことに嫌な気持ちはしなかった。赤尾と同じように巻き込まれた桃宮も、ちらりと見えた限りでは似たような心境だったのだろう。

 勝利宣言のような勝ち鬨を誰かがあげた辺りで事務局の方から職員が出てきて、集まった面々は散り散りに逃げる羽目になった。蜘蛛の子を散らすように、とはこういう事なのだろうか。


「来てくれた人たちには、また今度お礼言っておかないとね」


 鬼の顔をして追ってくる事務局職員からどうにか逃げ切り、文芸部の部室に転がり込んだ辺りで桃宮が息も絶え絶えにそう言った。部室までやって来たのは桃宮と赤尾、茶原と橙山、あとなぜか竹沢もついてきている。

 お前なんで来てるんだよ、と突くと「今回一番の功労者だぞ俺は、労えよ」などという言葉が堂々と飛んで来たので苦笑いするしかない。実際あの人数を集めたのは自分を功労者と言って憚らないこの親友なので無碍にはできない。


 ここから復讐とかしてこないよな、と竹沢が尋ねたのは一条のことだろう。

 そこは赤尾が自信をもって否定しておいた。


「小学校の頃の事引き合いに出したら、向こうも俺の事思い出したみたいだったよ。余計な事したらイジメ扇動した事実まで含めて騒ぎ起こすって釘刺したし、それ聞いて悲鳴上げて逃げるくらいだし刺激しに来るとは考えにくいだろ」


 言ったのかよ、と目を見開いた竹沢だったが、その口元は少しだけ口角が上がっている。やるじゃねえか、とその表情が言っているようにも赤尾には感じられた。


「じゃあさー、とりあえず桃ちゃん退学の危機はこれで去ったと思っておっけー?」


 そんな橙山の問いに、そうですねと頷いた途端彼女の表情が一気に輝くのが分かった。赤尾には、もう次の言葉が想像できる。


「祝いの酒とかいうのは控えてくださいね」

「聞きませーん! お祝いだー! 皆でコンビニ行ってここで酒盛りね! お菓子とかも買おうよお菓子! 茶原が荷物持ちするから多少多く買っても行ける行ける!」


 この場で一番精神年齢の低い最年長が叫んで、本当にコンビニまで駆け込んで、せっかく男が三人もいるのだからと大量の菓子と飲み物を購入する羽目になった。


 部室までそれを持ち込んで以降の記憶は、実のところ赤尾には残っていない。

 小学生以来のトラウマと正面から睨みあって、追い払った。あの時最後に立ち向かったのは確かに桃宮だが、それと同時に赤尾にとっても一条は立ち向かうべき悪役だった。その事実は荷物を運びこんで早々に意識を手放させるほど、赤尾にとって精神的な疲労も大きかったらしい。


***


 これは夢だ。目を開ける前にはもうそのことに気がついていた。

 目を開ければ小学校の教室と、黒板に書かれた「将来の夢」の文字。既にサッカー選手の夢を語った親友は拍手を浴びながら着席しており、今まさに。


「ちょぉっと待ちましょう?」


 いかにも「物静かで大人しい子」といった雰囲気の少年が、今とまるで変わらない外見の一条に吊し上げられているところだった。


「先生が言った作文のタイトル、もう一回言ってもらえるかしら?」


 そんな問いかけに少年は、戸惑い気味な口調で黒板に書かれた文字を読み上げる。

 そうだったよな、と内心で赤尾は呟いた。その作文を読み上げるまでの一条という教師は、他の生徒の作文に大げさなリアクションを取って反応し、拍手していた。その中には自分ほどではないにせよ突拍子もない事を書いている子供だっていたのだ。サッカー選手になりたいなどその最たるものだ。

 だから、自分の作文だけが狙い撃ちされるなど思ってもいなかった。

 ほかの生徒と同じように、大げさなリアクションで拍手されると思っていた。受け入れられて、素敵な作文でしたと褒めてくれると、幼い自分は信じ切っていたのだ。

 ――受け入れて褒めて欲しかったのだ。


「それは、遊びよね? 作り物のお話でしょう? 存在しないものにあなたは将来なりたいの? 本当にそんなのなれると――」

「その辺にしとけよババア」


 当時の自分を思い出した時、自然と言葉が出ていた。いつもならどれだけ訴えかけても届かなかった、夢の中で傍観者でしかない赤尾の言葉はしかし、笑顔を張り付けたままの一条を硬直させた。


「子供のささやかな夢を壊すなよ、いい大人がさ」


 そう言って、赤尾は一歩その場から前へ踏み出す。一時停止をしたムービーのように硬直した一条の目の前に立つ。ただそれだけで、夢の中の一条は霧になって消えていった。

 振り返ると、そこにいたのは作文を手に持ったまま、こちらを見つめる八歳の少年だ。赤尾と視線が合った途端、彼は自分の作文に目線を落とした。


「ぼくの将来の夢は、正義のヒーローになることです」

「ああ」


 たどたどしく読み上げるその声に、ただ赤尾は頷いた。作文から目をあげた少年と視線がぶつかった。

 ――笑わないの? こんな将来の夢でもいいの? と聞かれている気がした。


「いいんじゃないか、正義のヒーロー。悪くないぞ。最高に格好いいぜ」


 俺は認めるよ。受け入れるよその夢を。自然とそんな言葉が零れ落ちたのと同時に、夢の中の光景が静かに遠のいていく。ああ目が覚めるのだ、と直感で理解した。

 目を覚ます直前、八歳の自分が嬉しそうに笑った気がした。


 二度とこの夢を見ることはないだろうなと、赤尾は遠のく意識の中で予感していた。

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