第33話「四日目」代償行為

 〝ゼロ〟と〝レイア〟は走っていた。


 縦も横も解らぬ地図を横目に息を切らせて、不恰好なのも構わず、とにかく二人、競争でもするみたいに走った。


 どうする? どこへ行く? どこへ行けばいい? わからない。それでも自問自答新ながら、必死に足を動かすしかなかった。


 俺たちは、何をやったんだ? 何をしていたんだ!? どうしてこんなことになったんだ!?

 

 そうして道なりに進み続けて行くうちに、石畳の勾配がきつくなってくるのに気が付いた。


 坂道の向こう。疎らになった木々の向こうに石壁で囲まれた場所――パークが見えた。


 妙に背の高い城壁に囲まれたパークだった。


 それが、勾配を増した斜面に突き刺さるように建っていた。


 申し合わせるでもなく、二人の足はそのパークへ向かった。正直、息がきつかった。このまま、何処までも走り続けるのは無理だ。


 心情的には山どころか海を越えて、家に帰りつくまで走りたいところだった。


 だがまったく生身の今、〝レイア〟にも、無論〝ゼロ〟にもそんなことは不可能だった。


 沸き起こる安堵が〝ゼロ〟の足を萎えさせようしてくる。しかし、ここで気を抜くことはできない。


 このパークはあの「〝シード〟の街」と、今逃げてきた「二日目のパーク」の間に位置している。


 あの巨体の「狼」が、一度ここを通った可能性は高いのだ。




 門は固く閉ざされていた。


 〝ゼロ〟は声を掛けようかと考えたが、すぐにそれを打ち消した。


 中がどうなっているのかわからないのだ。声を掛ける前に周囲を回ってみるべきだろう。


 いくら焦燥に駆られていたとしても、慎重に慎重を重ねて動かざるを得ない。それが昨夜から削られっぱなしの両者の神経を、さらにすり減らしていく。


 門を通り過ぎ、城壁に沿って街の側面に入る。


 そこは背の高い木々が野放図に生い茂っており、ほとんど人が足を踏み入れた形跡がなかった。


 誰かと可能性が無いのは良いが、昨夜、一晩中山林の中で、荒い木肌や伸びてくる枝におびえていた身としては、しんどいものがあった。


 それでも、行かねばならない。


 城壁は高いが、規模そのものはそれほど大きなパークではない。狭い山林の隙間に無理矢理建てつけてあるような具合に思えた。


 〝ゼロ〟と〝レイア〟の二人は、そのままパークの側面を進んだ。パークに密接して茂る木々が日光を遮っており、昼間だというのに、ひどく薄暗い。


 しかし枝の位置が高いからか、歩みを阻むようなものは何もなく、尖った石くれが邪魔をしてくるくらいで何者の姿もない。


 二人はどんどん奥まで進んでいく。


 しかし勝手口のようなものは見つからない。裏側へ回れば何か――、と一縷いちるの望みをもって進んできた〝ゼロ〟だが、その希望は、あえなく断ち切られることとなった。


「――クソッ!」


 行きついた先は崖であった。


 山肌を鋭く、そして深くえぐったような渓谷が二人の前に横たわっていたのだ。


 見下ろす谷間の底には筋を引いたような水面が見える。川だ。


 〝ゼロ〟には、これがおそらく昨日橋の上から見た川の下流にあたる場所なのだと言うことが解った。


 進退窮まるとはこのことだ。〝ゼロ〟は萎えかけてた膝を腐葉土の積もる地面に落した。――どうして、どうしてこうなるんだろうなぁ。


「――ねぇ、アレ、なによ?」 


 しかし、行き詰って膝をつく〝ゼロ〟とは対照的に、上を見上げていた〝レイア〟が声を掛けてきた。


 つられて〝ゼロ〟もそれを見上げる。


 視界を遮るように枝を伸ばす木々のせいで解りにくかったが、見上げる壁のさらに向こうに、何処か彼方へと延びている太いワイヤーが見えた。


 それは、眼下に広く横たわる渓谷そのものをまたぐようにして、対岸のさらに先まで伸びている。


「ロープウェーだ!」


 〝ゼロ〟は思わず声を上げた。窮まったかに見えた道は、潰えてはいなかったのだ。


「……つまり?」


「あれが、このパーク――いや、この〝ルート〟の「ショートカット」なんだ。――なぁ、券、あっただろ?」


「券? ……『フリー乗車券これ』!? これでロープウェーあれに乗れるってこと?」


 〝ゼロ〟が声を弾ませると、〝レイア〟は少々首を傾げつつ、背負っていた背嚢からまた紙切れのようなものを取り出した。


 それは何枚か束になっていて、一枚一枚千切り取れるようになっている。


「多分な。……おかしいと思ってたんだ。移動用のバスや車の類いにチケットなんて必要なかったからな」


 この乗車券は、このロープウェーの為にあったのだ。



・フリー乗車券 アイテム№11   


  島に存在する移動車両を自由に活用できる。



「あのロープウェーを使えば向こう岸に……いや、一気に次のゲーム会場まで行けるんだ!」


「……てことは」


「このロープウェーが使えるなら、「狼」を振り切ることもできるかもしれないってことだ。――いや、確実に振りきれる!」


 確信を込めた声で言った〝ゼロ〟は、再び崖下の川面を見下ろす。


 川幅は狭いが、水の勢いは思いのほか強い。常人が泳いで渡れるようなものとは思えない。


 なにより、あの「狼」達には致命的だろう。


 昨夜もそうだったが連中は身体の形状が変化し過ぎて身体を持て余していた。そんな状態で人並みに川を泳いで渡るのは不可能だろう。


 〝ゼロ〟の言葉に、〝レイア〟も呻きをもらした。もしもそんなことができるなら、起死回生の一手と成りえるかもしれない。


「よし。それならあとは――――」


 しかし、そう言ってロープウェーを、つまり城壁の最上部を見上げてた〝ゼロ〟は、そこで何か、別のモノを見つけた。


 なにか、高い城壁の上に、――「何か」が等間隔で突き出ている。


 傘を広げるように茂っている枝のせいで、一見しただけでは「ソレ」がなんなのか解らなかった。


 しかし、目を凝らしてみて、〝ゼロ〟は――〝レイア〟もまた同時に喉を引き攣らせることとなった。


 またか。――またなのか!


 それは案山子だった。しかも、見覚えのある案山子だ。


 人間の腹腔を大きく切り裂いて、空っぽにしたそれを、板だか棒だかに、布きれみたいに張り付けてある、ソレ。


 昨日、〝シード〟の街で見せられた〝アアアア〟の死体と同じ状態のものだ。


 違うのは、それが何十もあるという事。まるで城壁を飾るオブジェであるかのように、立ち並んでいること。


 吐き気はした。しかし、もう慣れてしまっていた。受けたのは衝撃よりも、怒りよりも、なお深く重苦しい虚脱感だった。


 またなのか? どうして、何度も何度も、何度も! こんな光景を見せられなきゃならないんだ?


 遺体の容貌は千差万別。老若男女そろい踏み、と言ったところだ。


 ただ、それらは例外なく両の眼をカッと見開き、下界を見据えている。一様に「なぜ?」と問い質すかのように。


「あの人らも、みんなオメガの成れの果てってことね。――ここは、もうダメだよ。多分、オメガは残っていない――」


「――いや」


 視線を切った〝レイア〟が唾を吐くようにして言う。それでもなお上を見上げていた〝ゼロ〟が重苦しい声で応えた。


「――多分、まだオメガは残っていると思う。まだがあるから」


 等間隔に立つ案山子。その脇にはまだかなりのスペースが残っている。


 〝レイア〟はいよいよたまらないとばかりに、顔を、そして細い身体をよじった。


「当てになんないっつの。だいたい――」


「シッ! ちょっと待て!」


 〝ゼロ〟は鋭く言い放ち、手振りで、〝レイア〟にも黙るように指示する。


 目を剥く〝レイア〟と共に、〝ゼロ〟はそれを見上げる。内側から城壁の上に、登ってきたヤツが居たのだ。


 それは人と言うには、あまりに歪で凶悪な輪郭をしていた。


 もはや間違うはずもない。姿を現したのは案の定、異形の「狼」だった。


 その刃物みたいな肩には、新たにのであろう、案山子を担がれている。


 息を呑む〝ゼロ〟と〝レイア〟の頭上で「狼」はそれを城壁の端に突き立てると、立ち並んだそれらの案山子をじっくりを見回し、そして何事かの音波を張り上げた。


 湿り始めた空に轟くそれは――笑っているのか、泣いているのか、それともただ咆えているだけなのか、或いは快哉を叫んでいるのか。


 もはや〝ゼロ〟には判じきれない。


 そして一通り城壁の上に佇んだ後、その「狼」は再び、城壁の内側へと降りて行った。


 体格は、先ほどのパークにいたヤツほど肥大化はしていない。


 だが、改めて見るその異形に、〝ゼロ〟の心に湧き上がった可能性への期待は霧散してしまった。無理だ。


 肥大化してなかろうと「狼」は「狼」。今の〝ゼロ〟が立ち向かえるはずもない。


「――あのケダモノ、なんでこんなことしてんのよ?! わけわかんない」


 石のように固まる〝ゼロ〟の背中をしがみ付くみたいに掻き抱き、その耳に触れそうなところまで近付いて〝レイア〟が言う。


 無論その唇も、強張った指も石のように冷たくなっている。このままでは、二人まとめて一つの石になってしまいかねない。


「――シッ」


 さすがに聞こえるはずも、見つかるはずもなかったが、それでも〝ゼロ〟は〝レイア〟を咎めざるを得ない。


 だが、言葉にせずにはいられないという気持ちはよくわかる。そうしなければ、今、目に映る惨状を自分の中で処理しきれないのだ。


 だから、〝ゼロ〟も、遥か頭上に居る「狼」の動向を追いながら、ゆっくりと言葉を切りだす。


「……もしかしたら、アレがあいつ自身にとってのトラウマになってるのかもしれない」


 当然、異形と化した彼らの思考なんて推し量りようが無い。


 しかし、幸か不幸か〝ゼロ〟には目の前の光景を咀嚼するだけの心当たりがあった。


「トラウマ?」


「昨日の〝アアアア〟だ。あの「狼」は、昨日〝アアアア〟が殺されるのを間近に見てたプレイヤーなんだと思う。そこで「狗」になって、「猟犬」をやらされて、それで、今に至る」


「……だから?」


「なんつーか、そういう、強烈な体験をした人間っていうのはさ、良し悪しに関係なく、その時の体験を再現したりしようとすることがある――って聞いたことがある」


 要するに代償行為ってやつだ。


 九死に一生を得た人間が、その時の体験を忘れられず、同じ状況を再現するうちに殺人を犯すようになる――なんて。


 あれは、確か映画のハナシだったけど。


 それは根拠とするには、かなりおぼろげでなものであった。


 ホントなのかどうかも分からない。ただ、その映画を観ながら、〝ゼロ〟は妙に納得したのを覚えている。

 

 心当たりがあったからかもしれない。


 たとえ異常なことでなくとも、自分にとってショックな体験をしたとき、人はそれを何とか整理しようとして、自分の中に納めようとするのだ。


 収まるはずの無いモノを、無理にしまいこうもとする。たとえ、の方が壊れて変容してしまうのだとしても、人はそうせざるを得ない。


「――それで、いよいよが外れて、あんなことをしてるってこと?」


「多分、だけど」


 〝レイア〟は納得したわけではなさそうだったが、それでもそれ以上何も言わなかった。


 〝ゼロ〟も〝レイア〟も、最初から、ここであの「狼」の凶行の動機を探ることに意味などないことは分かっていた。


 ただ、それでも、何とかしなければ事態が腑に落ちてこないという状況だったのだ。


 とにかくとして、二人は事態を、状況を呑み込んだ。


 問題は、ここからどうするかだ。







「――ムカつくけど、「狼」が居ないパークを探すしかないんじゃない?」


 しばしの沈黙を置いて〝レイア〟が言った。


 だが、〝ゼロ〟は頷くことが出来ない。このパークの先にあるのは〝シード〟のパークのはずだし、その、さらに向こうにあるパークにも「狼」がいる可能性は高いのだ。


 何故か「狼」達は各パークに一人一人巣食っているらしい。


 どうする? 仮に「狼」が各パークに居るのだとしたら、パークに入らなければ何とかなるか?


 ――ダメだ。あの肥大化した「狼」はいまも〝ゼロ〟と〝レイア〟を探し回っているかもしれないのだ。


 何時までも壁外をうろうろしている暇はない。


 いくら安全なパークを探して「横」に進んでも、問題の解決にはならないのだ。進むべきは「前」だ。


 いずれどこかでショートカットするしかないなら、ここから進むべきだ。時間的な猶予ゆうよと言う意味でも、そうするしかない。


「やっぱり、何とかしてあのロープウェーに乗るしかないと思う」


 やるしかない。それしか、彼らが絶望的な状況から生還する望みはないのだ。


「アタシだってそうしたいけど、どうやって? ――また、オメガを時間稼ぎに使う? それだって中のことが分かんないと無理よ。2、3人しか残ってなかったら時間稼ぎにもならない」

 

「ダメだ!」


「シッ!」


 思わず叫んでしまった〝ゼロ〟の口を、今度は〝レイア〟の手が塞いだ。


 というか、手形が残るかと思うほど強烈にやられ、〝ゼロ〟は無言で顔面を押さえ、蹲った。


 お前、もうちょっと加減しろってんだよ! 


「……あんた、まだアイツラを助けたいとか思ってんの?」


「そうじゃない」


 周囲を警戒しながら〝レイア〟があきれ果てたような声で言う。


 対して〝ゼロ〟は毅然と言い切った。そこにオメガたちを使い捨てることの忌避感は確かに有った。だが、いま重要なのはそこじゃない。


「よく考えろよ。これは「乗車券」なんだ。これだけだけあっても意味が無い。これを動かすにはオメガの協力が必要なはずなんだ」


 これが運転用のキーなら、まだ解る。自分で操作していくってことになるからな。しかし、ゲーム中に使用した、「レベルアップチャンス券」や「臓器引換券」なんかもそうだが、こういうのは誰かに明示して使用するものなのだ。


 が居なきゃ話にならない。


「――難易度、上がりすぎじゃない? からオメガを助けつつ、ロープウェー動かしてもらってそれに乗ってこうっていうの? いくらなんでも無理。やっぱ、もう行ったほうがいいんじゃ……」


「俺が引き付ける!」


 〝ゼロ〟は自分でも意外なほど固い、強張った声を出した。


「だからさぁ……アンタ」


「もう、んだ。これ以上のチャンスなんて探してる暇はない! 分かるだろ?」


 〝レイア〟は何かを言いかけたが、そこで言葉を切った。


 実にらしくない態度だったが、今はとりあえずありがたい。時は一刻を争うかもしれないのだ。


「……言いたいことは分かったけど、そもそも、どうやって中に入んのよ? この壁どうすんの? よじ登る気?」


「――解ってる。普通なら無理だ。けど、あの狼はどうやって入ったんだと思う?」


「それは――その時は門が開いてたんじゃないの?」


「多分違う」


 言って〝ゼロ〟は城壁の最上部、その一角を指差した。案山子の立っていない空きスペースの辺りだ。


「何?」


「あそこ、見てくれ」


 壁面の最上部が、大きく崩れている。


 元からなのか、あの「狼」がよじ登ったからなのかは分からないが、その一画だけは壁面がボロボロで、ともすれば、手掛かり足掛かりを求めて上に昇れそうな雰囲気があるのだ。 


「あの「狼」も門を破ることはできなかったんだ。――あいつはあそこからこの壁を登ったんだと思う」


「……だから?」


「それで中に入れば、オメガ達に指示出来る。内側から門も開けて貰えるから、おまえも」


「そうじゃないっつの! だ・か・ら、どうやって内側に入る気でいんのよ? あそこをおんなじように登る気?」

 

 無理に決まってんじゃん!? と、〝レイア〟は言い切った。


 確かに――いくら壁に凹凸があっても、この壁はゆうに7~8メートルはある。


 今の〝ゼロ〟にこれをよじ登ることは不可能だ。〝ゼロ〟はロッククライミングどころかボルダリングすらやったことが無い。しかし、


「生身なら無理だ。けど、まだあっただろ? レベル3」


 〝レイア〟は「それか、」と言わんばかりに息を吐いた。だが、しかたがない。使えるものを使うしかないのだから。

 

「だから――、ろくなのが無いって言ったじゃん。これ、なんだから」


 今現在、〝レイア〟のデッキに残っているのは、昨夜のゲームに際して、身体強化に使用しなかったカードである。手札としてゲームに持ち込んだ残りなのだ。


「何でもいい。何がある?」


 とにかく、使えるものを使って、なんとか、中に入らなかければならないのだ。〝ゼロ〟は必死だった。


「え……と、『ダレカヲコピコピドッぺルゲンガ―』、『マワリノロノロミンナガオソイ』。それに『オハダペタペタドコデモハリツク』――――――なに?」


 読み上げながら、〝レイア〟は『なにみてんだよ』と言わんばかりの眼で〝ゼロ〟を見てくる。


 別に茶化す気はねぇって。こんな状況で。


 カードの方だが、おそらくだが、「他人に変身できる」カードと「体感速度を上げる」カードそれに、「皮膚の吸着」ってところか。


「それだ。『お肌ペタペタ』! それが使える」


「……」


 しかし、〝レイア〟は気の毒なものでも見るような目を向けてくる。


「けど、これってのカードなんじゃない? こっちのとおんなじで」


 こっちの、とは『マワリノロノロ』のカードのことだ。このカードは昨夜にも使用したカードなので既に詳細が知れている。


 実はこの「体感速度」を加速するカード、本当に「周囲が遅く見える」と言うだけで、「自分が早く動ける」と言う意味ではないのだ。

 

 昨夜の〝ゼロ〟はこれを『カラダキビキビスバヤイウゴキ』のカードを同時に使用することで、超人的な体術を披露することが出来たのだ。


 『カラダキビキビ』は、単体で使用してもそれなりに益のあるカードなのだが、煩雑な動きになると「自分の動きが早すぎて」危険を伴う可能性が出てくる。


 そのため、『マワリノロノロ』はその補助として使用することで意味のあるカードなのではないか、と〝ゼロ〟は推察していた。


 〝レイア〟が言っているのは、昨夜〝ゼロ〟自身が語った理論を踏襲とうしゅうしたものだった。


 つまり、この『お肌ぺタペタ』のカードは、コレだけで壁を登れるようなものではない、という事だ。


 というか、なんだお前、意外と人が言ったこと理解してんじゃん。成長したんだなぁ。


 こんな時ではあるが、〝レイア〟が自分の薫陶くんとうをちゃんと受け取っていたことが、〝ゼロ〟は嬉しかった。


 ほんと、最初はどうなることかと思ったよ。物覚えが悪くてさ……。なんか、出来ない生徒を見守る先生の気持ちってこんななのかな。


「なにニヤついてんの?!」


「グェッ!?」


 と、一人微笑む〝ゼロ〟の喉もとに手刀が突き立てられる。なんてことすんだ!? 


 ――いや、確かに今のはこっちが悪いか。


 〝ゼロ〟にも〝レイア〟の言いたいことは分かっている。


 このカードは恐らく同時に『ゲンキモリモリストロングパワー』のカードで「筋力の補強」をしなきゃ、「何かに張り付く」事は出来ても登ることは難しい代物なのだろう。


 いくら手足が壁に張り付いても、自重を引き上げる筋力が無ければ、話にならないというのは考えなくても解ることだ。


 幾筋かの傷――と言うか「爪痕」があるとは言っても、この壁面はそもそも滑らかで、本来指のかかるような凹凸は存在しない。


 堕ちれば怪我では済まないかもしれない。それに加えて、正直、昨日からろくな休息も取れておらず、心も身体も疲労困憊と言っていい有様だ。


 けど、他に手段が無いなら、やるしかないだろう。 


「何とかする。皮膚の吸着と、あの壁の足掛かりが有れば、何とかなると思う」


 〝ゼロ〟はそれでも気丈に、断定した。


 出来るハズだ、と思い込むしか今の〝ゼロ〟にはしようが無かった。


 今はロープウェーと言う名の希望に向かって、多少の無茶を承知してでも勢いに任せるべきだと思った。


「――仮に、上まで行けたとして、それでどうすんの? それをアイツがほっとくと思う?」


 〝ゼロ〟は〝レイア〟に向き直り、真っ直ぐに見据える。


 勢いに任せるなら数は多い方が良い。今は一人でも多く味方が必要だ。一人よりも二人の勢いだ。


 どうも今朝ぐらいから意気の煮え切らない〝レイア〟だが、本来、いざとなったら〝ゼロ〟どころではない行動力のあるやつだ。


 だから、〝ゼロ〟は掛け値なしに〝レイア〟を信用している。危なっかしいところもあるが、こういう時は頼りになやつなのだ。


「『マワリノロノロ』で何とかする。それで、まず門をオメガに開けさせるから、お前は正面から中へ入って、ロープウェーを動かせるようにしといてくれ」


「……、……わかった」


「よし、すぐに動こう。『ゴールド・イクリプス』貸してくれ」


 何かを言いたそうにする〝レイア〟だが、やはり、何も言わずに引き下がった。大丈夫か?


 いざって時のお前の援護を期待してるんだぞ、こっちは。


「……じゃあ、残りの変身するヤツ――「ダレカヲコピコピ」だっけ? はアタシに使わせて」


「どうするんだ? ――攪乱かくらんでもする気か?」


 〝レイア〟は不機嫌そうに頷く。


「アンタと同じ格好になってれば、お互いを囮にできるかもしれないからね」


 ありがたい! やっぱ頼りになるなお前は。


 ――けど、このカード「ダレカヲコピコピ」って言うけど、どの程度「変身」できるものなんだろうか?


 他のレベル3を鑑みるに、本当にそっくりになりそうだが、体格はどうなるのだろうか?


 そもそも、自分と同じカオになられるのって、そもそも気持ち悪そうだな……。


「――けど、正直上手くいくとは思えない」


 あれこれと思案する〝ゼロ〟に、〝レイア〟は突如、冷たい――と言うよりも冷めた声でって〝ゼロ〟を見据えた。


「いざとなったら、アタシはまたさっきと同じ手段を使うからね」


「同じ……って」


 〝レイア〟が言わんとしていることは分かる。ついさっき、そうやって来たんだからな。最終手段だ。解ってるよ! わざわざ言う事かよ!


「ほ、――他に、方法なんて無いのは、わかる」


「なら、いいよ」


 煮え切らない言葉を吐く〝ゼロ〟にそう言って、〝レイア〟は正門の方に回った。


「……後ろに気をつけろよ。アイツが追ってくるかもしれない」


 前のパークに居た、巨体の「狼」が今後どう動くのかは未知数だ。オメガ達を皆殺しにして〝ゼロ〟達を追ってくるかもしれないのだから。


「その場合――最悪、アタシは一人で行くからね」


 〝レイア〟はそう言って、パークの表側、つまり正門の付近に戻っていった。


 最悪の場合、か。解ってる。最悪の場合、またオメガ達を、或いはお互いを使い潰して先に行くしかないんだってことは。


 だが、それは〝ゼロ〟の中では実用可能な手段ではなかった。


 家の机の引き出しに仕舞い込んである拳銃――いや、もっと身近に言うなら「避妊具コンドーム」とかか。


 そのような、いざとなったら使わなければならないと解っていても、持ち歩いてなどいないし、その時の心構えもまるでできていない。


 そんな、持ってはいるが、それだけ、と言う代物。なにやら情けない想像になったが、つまりはそういう事だ。


 もう一度オメガ達を見捨てるという事、ましてや〝レイア〟を置いていくという選択。


 〝ゼロ〟は確かにそれを持ってはいるが、それを実行することなど、おそらく――いや、断じて出来ないのだ。


 いくら考えても、どうしても出来ないとしか思えない。そんな選択肢は、ないも同然だ。


 だから今は、その選択を取らなくても良いように最善を尽くすしかない。

 

 ――ハッ。これも、トラウマの代償行為ってヤツなのかもな。と、〝ゼロ〟は乾いた笑いを浮かべ、手がかりの刻まれている辺りの壁の下に移動した。

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