第32話「四日目」殺戮の庭
正午のそれにもほど近い日差しを仰ぐ頃、〝ゼロ〟と〝レイア〟の二人はようやく目的の「パーク」を目視できるところまで来ていた。
どこで「狼」や他の武装したプレイヤーと鉢合わせになるかもわからなかったため、周囲を警戒しながら、慎重に慎重を重ねて、やっとの思いでたどり着いたのだった。
しかし、そこで湧き上がってくるのは歓喜でも達成感でもなく、もはや失望にも近い徒労感でしかなかった。
それもそのはずだ。もうゲームは四日が経過したというのに、またここに戻ってくることになろうとは。
この「二日目のパーク」にたどり着くのは、これでもう三度目なのだ。
今日のサバイバルを乗り切ったとしても、今度は五日目のゲーム会場までたどり着く手段を考えなければならない。
〝ゼロ〟は返す返すもあの〝シード〟の凶行が恨めしかった。
本当なら〝シード〟が持っていたレア・カード「ブルー・フィルム」を使って、ショートカット可能なルートの検索ができるはずなのに。
ただ、もうその相手は死んでしまっているという事実が、少し妙な感じだとも思っていた。
マンガやドラマならいくらもありそうだが、現実的には死んだ相手を、それでもなお強く恨み続ける機会と言うのは、あまり無い気がする。
〝レイア〟ならどう言うだろう? いや、コイツのことだ、『そんなこといくらでもある』ぐらい言いそうだよな。恨みつらみに事欠かなそうな奴だし。
〝ゼロ〟は、そこで、口をを
視線は、合わない。
そもそも、何故〝ゼロ〟が一人こんなことをもくもくと逡巡しながら歩いているのかと言えば、それは〝レイア〟が何時にも増して無言だからなのである。
もともと口数の多い奴ではないが、この道程に限っては、なぜか殊更に押し黙って〝ゼロ〟の後を付いてくるのである。
〝ゼロ〟が何か言っても、簡素な相槌を打つばかりだ。
昨日までのコイツなら、その相槌の合い間に、剃刀みたいに切れ味のいい嘲りなり、皮肉なりを押し挟んでくるのが常だったのだが。
なんだか妙な気分であった。いや、罵倒されたかったなどと言う訳では断じてない。
――の、だが。こうも押し黙られると、逆に調子が狂うようような気がしてくるのだ。
「そろそろ、だな」
〝ゼロ〟はあらためて声を掛けるが、やはり〝レイア〟は生返事しかしない。
入口ほどではないが巨大な裏門――つまり、パークの出口にたどり着いた。
結構な道のりだった。昨夜のことも有り、身体には溶けた
とにかく休息を取ろう。そう言って、〝ゼロ〟は、こちらも疲労感に関しては事欠かない様子の〝レイア〟を先導した。
誰かいないか――。まだオメガ・シープ達が残っていればいいのだが――
ふたりはそんな調子で外から様子を窺い、パークの中へと足を踏み入れる。
動く者の気配はない。
「誰もいないのか――?」
だとしたら困ったな。最低限、カードの補充だけはしたかったのだが……。
〝ゼロ〟は〝レイア〟を引き連れ、人気のない大通りを足早に進んでいく。
――不安と焦燥が、彼の感覚を麻痺させていた。
「ちょっと待って!」
そして、〝ゼロ〟が広間に顔を出した瞬間、
〝レイア〟が感じ取ったのであろうその「臭い」を、〝ゼロ〟はその大元を視認してから目の当たりにすることになった。
ゼロは足を止め、その光景を、真正面から見据えた。
もう誰もこのパークにはいないのだろうか、という期待と不安は、同時に踏みにじられた。
このパークにはいまだに多くの人がいた。しかし、生きている人間は多くなかった。
そこにあったのは、無数に、無造作に、そして殊更に無残に転がっている死体の数々であったのだ。
当然、悲鳴を上げそうになりながら仰け反る。
背後にいた〝レイア〟とぶつかり、お互い支えうような形になって、それでも転倒だけは免れた。
これは――これはダメだ。
「なにやっ――ッ」
〝ゼロ〟は自分と、そして怒声を上げようとした〝レイア〟の口を押さえ、目で、表情で、必死に訴えた。
そのただならぬ様相に〝レイア〟は、顔を眇めたまま頷く。
そして一泊の息を置いてからそっと、〝ゼロ〟が見た光景を覗き見た。
そしてただでさえ蒼ざめていた顔から、さらに血の気を失うこととなった。
当然だ。こんな、こんな光景を、まさか自分が生きている間に見ることになろうなどと、思うはずがない。
白い石畳に絵具でもぶちまけた様に広がる、掠れた赤色。
ゴミか何かの様に散らばる人の手足、肉片、そして物言わぬ、恐怖に引き攣った顔面、面相、そして表情。
それらが、おもちゃ箱でもぶちまけたみたいに、乱雑に転がされている。
〝ゼロ〟は物陰に身を隠したまま、頭を抱える。
あるとは思っていた。何か、何処かで、この先、凄惨なモノを見るかもしれないと、予想はしていた。
――だが、どうしてこんなものを予想できる?
こんなの、まるで戦場じゃないか! 島中で、こんな殺し合いが行われているというのか!?
死んでいる男。ねじ切られたような女。食いちぎられたような死体。
――考えるよりも先に合点が行った。やったのは、あの「猟犬」だ。〝さくら〟を殺して、こんな場所まで来ていたのだ。
チクショウ!! なんでこんなところまで遠出してやがんだよ!
〝ゼロ〟は、目の前の虚空を、ただひたすらに罵倒した。だからこそ、だからこそ遠回りまでしてまでここに戻ってきたというのに!
「まだ、生きてる奴らもいる」
〝ゼロ〟が頭を抱えている間、じっとその凄惨な現場を観察していた〝レイア〟が言った。
〝ゼロ〟も跳ね起きるようにして、〝レイア〟の視線の指す先を見つめる。
〝ゼロ〟が奥歯を震わさざるを得なかった死体の山、その向こうで 白石壁の前に立ったまま並べられている者たちが見える。
オメガだ。オメガ・シープたちだ。
その総身は血と、痣と、目を背けたくなるような
皆一様に、生きたまま死んだような目をして、
なんて有り様だ。いや、しかしそれでも死んでいなかったのは幸いだ。なにをしているかはわからないが、とにかく――
「バカ! 隠れんのよッ――」
〝ゼロ〟が、とにかく生きているオメガ達に合いまみえようと乗り出した身体を、〝レイア〟が強引に引き戻した。
〝ゼロ〟が、何故かと問いかけようとした、その瞬間。等間隔に立ち並ぶオメガの頭が、端から順に吹き飛んだ。
白い壁に、それこそ絵具のようにべったりとした赤い色がぶちまけられ、重力に沿って幾何学的な絵を描いていく。
続いて4人目、5人目、6人目。……恐怖に引き
そこで行われていたのは、処刑――あるいはそのついでに行われる残忍な的当て遊びだったらしい。
絶叫を上げようとした〝ゼロ〟の口を〝レイア〟の両手が塞ぐ。
吐き気混じりの
そして白い壁に向かって、〝さくら〟が使っていたのと同じショットガンを乱発していた者が、物陰――どうやら、〝ゼロ〟達が使っていたこともある食堂――からのっそりと姿を現してきた。
今度こそ、〝ゼロ〟は押し殺しようのない悲鳴を聞いた。
自分の悲鳴かと思ったが、それは〝ゼロ〟の頭を抱えるようにして口を塞いでいる〝レイア〟が発したものだと解った。
それも仕方のないことだ。――今、〝ゼロ〟達の眼前に姿を現したソレ。
それは人間ではなかった。
あの「猟犬」――いや、いまは「狼」というべきか。
もともとは彼らも〝シード〟の狂気によって歪められてしまったプレイヤー達なのだという事は、分かっている。
だが、その容貌は一様に言い表せないほどに変質していた。
形状そのものはさほど変わらぬ異形のままだったが、昨夜よりも明らかにガタイが良いのだ。この数時間で筋骨が異様に肥大している。
昨夜は骨ばって異様に伸長した手足が、むしろ蜘蛛か何かの様に想われたものだが、今やその身体は分厚いゴムのような肉に覆われて、蜘蛛と言うよりも巨大な肉食獣に近かった。
人狼――と言うよりも人の真似をして進化したワニか何かの様に見えてくる。
膨張した肉を包む皮膚はそれこそ爬虫類のように歪で、生半可な刃物など跳ね返しかねない程、強固に見える。
「なんで――なんであいつは元に戻んないのよ?!」
〝レイア〟が低い声で言う。だが、その喉も、身体も、震えっぱなしだ。当然〝ゼロ〟も同じだ。まるで世界のほうが振動しているのかと思えるほどに揺れている。
「あの
レベル3の効果などは「ゲームの終了」をもって効果が打ち切られるはずなのだが、あの狼たちは、〝シード〟の持っていた外部端末で異形化をコントロールされていた。
それがマックスになったまま放置されているせいで、アイツらはずっと異形のままなのだ。
さらに、首輪の効果のせいで、自分が与えられたチップ、すなわち睡眠を消費することも出来なくなっている。
だから、アイツは、と言うより、アイツ等はそれ以外の方法で欲求を発散しようとして……恐らくは異常なほどの「食欲」のせいであのようになっているのではないだろうか?
いまも、片手間に何かを咀嚼し続けている。まるでその身体をさらに肥大化させようとするかのように。
だとしたら最悪だ。あの狼を止めるには、昨夜のゲーム会場に戻ってドミネーターを止めなければならないのだ。
壁へ向けて適当に銃弾を乱射した「狼」は、だらだらと涎を滴らせたまま、その巨体を奇妙に揺り動かし、咆えるような怒号を張り上げた。
人の発するアクションではない。発して良い音波ではない。
笑って、る――のか?
〝ゼロ〟も、〝レイア〟も、それを見ただけで本能的に、それがどうしようもないものだと理解してしまった。
子ウサギが獅子に、或いはネズミが野良猫に対して抱かざるを得ない、本能のレベルでの畏れ。
そんな脳の古い部分のが絶叫が、二人に何かをすることを許さなかった。
ただ、物陰に身を隠して震える以上のことが出来なかった。声すら出せない。己の喉すら自由にならないのだ。
ただ、両の目を皿のようにして、それを覗き見ることしかできない。
名実ともに魔獣と化した「狼」は、その怒号をぴたりと止めると、今度は何かを探すように、人のものとさえ思え無くなった首を廻らせる。
そして壁の前に並べられていたオメガの一人を捕まえると、引きずるようにして屋内に消えて行った。
その女のオメガはいやがって必死に抵抗しようとしていたが、「狼」の怪力には逆らえず、薄暗い屋内へと引きずり込まれてしまった。
何をされようとしているのか? あの「狼」は何をしようとしているのか?
したくもない想像が湧いて出てくるのを止められない。
さらに、その想像が正しかったことを裏付ける証拠が、いましがた「狼」といオメガが来ていった屋内から投げ出されてきた。
ゴロゴロと、ゴミみたいに転がったそれは、やはりオメガシープだった。
辛うじて身に着けていたハズの衣服はなく。染み一つなかったはずの全身は血まみれで、さらにしなやかだった手足は歪に捻じれている。
くるくると変化し、小動物の様に愛くるしかった表情も、今では作り物の様に凍り付いて動かない。
そのオメガには見覚えがあった。
都合三日間、最初に出て来てから、何かと〝ゼロ〟の世話を買って出てくれた、あの胸元の豊かなオメガシープである。
〝ゼロ〟は自身の身体の中で、何かが一気に、石みたいに凝結するような感覚を覚えた。
内蔵が物理的に、握りこぶしほどに圧縮されたような。
息さえも、出来ないような。とにかく――おぞ気の走る感覚だった。
「ちょ――ッ」
瞬間、〝ゼロ〟は物陰から飛び出していた。
〝レイア〟が声を上げるが、〝ゼロ〟は構わずそのオメガに近づいた。このオメガとは、あまりにも距離が近すぎた。
少なくとも、一目で識別できるぐらいには、見知った相手だ。それが、こんな惨状に見舞われている。
友人ではないが、他人でもなかった。だから、――〝ゼロ〟にはそれが耐えられなかった。
「あ、あ、あ――、あああぁぁぁ……ッ」
近づいてみて、否――近づく前から分かっていた。もうダメだという事は。
ふいごのような息は今にも潰えそうで、大きく裂けてしまった下腹部、半分以上がどす黒く変色している胴体、半分
〝ゼロ〟は
これほど慄いているのに、口の端からそれが洩れることはなかった。
最初のころに比べて、ずいぶん上手くなったものだ。こんなことばかり、何度も繰り返すうちに。
〝ゼロ〟は歯を食いしばり、そのオメガの身体を抱きかかえた。
オメガの、もはや継ぎ接ぎのような身体がゴリゴリと痙攣する。恐らくは想像を絶する激痛に。
「ゴメンなッ。ゴメンなぁッ……」
言いながら、〝ゼロ〟はオメガの身体を引きずり、〝レイア〟のいる物陰まで戻った。
「――何やってんのよッ、このバカ!」
あくまで声を押さえながら、〝ゼロ〟に掴みかかる〝レイア〟に、〝ゼロ〟は、全身で哀願する。
「シールくれ! 鎮痛剤、早く!」
〝レイア〟は、交通事故にでもあったような有様のオメガ見下ろし、ただでさえ泣きそうだった顔を、これ以上なく歪めた。
「なにしてんだよッ。早く――」
「……もう、そんなんじゃ」
〝ゼロ〟は、呟く〝レイア〟の背嚢から無理矢理サバイバルキットを引っ張り出し、鎮痛剤をオメガの首のあたりに張り付けてやった。
意味なんてないことは分かっている。
だが、何か、何かをしなけれれば――間違いなく〝ゼロ〟の方の精神が持たなかった。
すると、
祈るように見下ろす〝ゼロ〟のそれと、重なる。以前は隠されていた目元のマスクは取り払われてしまっており、初めて、顔が見えた。
呆けた、幼子のような顔は、〝ゼロ〟を見上げて一瞬、困惑の相を浮かべてから――見覚えのある作ったような表情になり、にこりと微笑んだ。
「ご無事でしたノン……プレイヤー様」
「だ――大丈夫だからな。何とかしてやるから……」
「おセックスは、……いかがです……ノン?」
するとオメガは、驚くほど以前と変わらぬ仕草で、そんなことを言った。
元気に、軽快なジェスチャーを採ろうとするが、すでに用を成さない手足は、目を覆いたくなるような光景しか見せてくれない。
「な――なに言ってんだよ、こんな時にッ!? 動くな! ――動くなよ。じっとしてろ。良いな? ――痛いなら無理しなくていいんだ……」
すると、オメガは、また一瞬だけ呆けたような顔をした後、
大粒の涙をぽろぽろと流した。
「お前……」
「プレイヤー様は、いつも、優しいノン……」
そう言って、何時ものように天真爛漫にではなく、しみじみと、噛みしめるように、朗らかに、そして少しだけ困ったように笑らって、
「ひどいことも…………しな、い……から」
と、そう言った。
「……ぇ?」
ゼロは声を失った。ひどいことって、それは、――それは何を指しているのだろう?
いったい、何がひどいことなのだろう? いま、あの「狼」がやっていることか? 殺戮のことか?
――もしも、そうでないのなら、
〝ゼロ〟は思わず、反吐みたいな呻きとともに、涙をこぼした。こんなもの、堪えきれない。
自分が、いや、およそ全てのプレイヤーが、一体、何に加担し、何をしてしまっていたのか。
「――やめてよッ」
背後で、〝レイア〟もまた、声を押し殺して呟く。俺たちは、今まで、誰に、何をしていたんだ!?
「――し、しねぇよ。するもんか。なぁ? ひどいことなんてするもんかッ」
「……」
〝ゼロ〟は〝レイア〟に振り返るが、〝レイア〟は両手で口を押さえて
ごぽり、と、溢れるようにしてオメガが血を吐いた。
石畳にこぼれ、あっという間に足元まで迫ってきたソレから、〝ゼロ〟は思わず身を引いてしまう。
ゴボゴボと咳き込んだオメガはどこを見ているのか、虚空を見上げ、〝ゼロ〟とは別の誰かを見て、微笑んだ。
生まれてこの方、苦痛など感じたことが無いとでも言うように。
「泣かないで……ほし、い……のん…………。まさ……る。良い子、だか……泣かな――――――」
言い終わるよりも前に、息の方が潰えていた。
〝ゼロ〟も〝レイア〟も、それを見下ろすことしかできない。
すると、一切の生動を止めてしまったその肢体は、一度ほどけるようにして
〝ゼロ〟の母親よりも、よほど年配の。
これが、このオメガの元の姿なのだろうか?
こいつ――いや、この人は、いったいいつから、元の姿も名前さえをも奪われて、この島にいたのだろうか?
「殺――す」
限界だった。これ以上は無理だった。
「殺してやる。あのバケモノ!」
「――バカ言ってんじゃない! できるなら最初からやってるっつの!」
物陰から飛び出そうとした〝ゼロ〟を、〝レイア〟が覆いかぶさるようにして止める。
「でも、こんなのは――あんまりだろ?! ――こんなのは……」
〝ゼロ〟は子供がぐずるように言った。だって、これは、――許してはいけなかった。
見過ごすわけにはいかなかった。こんな邪悪を、看過する法がどこにある!?
しかし、応える声は冷然として乾いている。
「有るんだよッ。この世の中のどっかには、いつも有んだよ、こういうのが! ――それがたまたま、アタシらの目の前だっただけ」
それだけなんだ、――と〝レイア〟は繰り返した。
お前、――おマエ、頭がおかしいのか?! 〝ゼロ〟は声を荒げざるを得ない。
「そんなわけがあるかよ!?」
しかし返答は言葉ではなく拳だった。〝ゼロ〟は思わず悲惨な声を上げてしまった。あの時の〝ソノダ〟みたいな哀れを誘う声、そっくりだと自分でも思った。
「――行くよ。ここに、アタシらの欲しいものはない」
痛みからではない。恐怖にさらされ、鋭敏化したあらゆる神経系が過敏に反応するのだ。
もう、〝ゼロ〟は何をされても自分の心身を守れる気がしない。
それでも、このまま何も知らない顔をして、これを素通りしていくっていうのか? ウソだろ? そんなのウソだろう?
「置いてくのかよぉ!? ――まだ、生きてるやつらが居るんだぞ?!」
だが〝レイア〟の〝ゼロ〟を見る視線は空虚だった。全て諦めているかのような。
――解ってる。自分でもこんなにダサいセリフを言うときが来るなんて思ってなかったよ。
『まだ生きてるやつらがいるんだぞ』だなんて。とんでもなくダサいセリフだ。
マンガやゲームの中で、こんなセリフを使う奴を、そういう物語を〝ゼロ〟だって、何時も
下らない偽善者だとも見下げて来たさ。
だが、いざ現実として、誰かを見捨てなければならなくなったら、そう言うセリフが口を突いて出てしまう。
いざとなれば、自分もそう言う言葉を吐き、そう言う風に行動してしまう。
――かつては、それを偽善者と呼んでいた連中と同じことをしてしまう。
――ハハッ。なんだこれ?
俺は何時からこんな
多分、最初からだ。解ってる。全部わかってた。
全身から力が抜けて、〝ゼロ〟はへたり込む。
「立てっての! ここに居て何に――」
その時、「狼」がオメガを引きずり込んだ屋内の中から、絶叫が聞こえた。
何かが生きたまま破砕される音と共に、子供が号泣するような、思わず耳を塞ぎたくなるような。
断間ない断末魔のごときそれを聞きながら、〝ゼロ〟と〝レイア〟は、呆然と、無言のまま、しかし申し合わせたように、ボロボロと涙をこぼした。
訳が分からなかった。怒りか、義憤か、それとも恐怖か、罪悪感か、とにかく名前を付けようのない感情が渦巻いていた。
どうする? 本当なら、逃げるべきだ。わかってる。〝レイア〟の言うとおりだ。このパークに、彼らの求めるものはないのだから。
さっさと逃げるべきだ。だが、その言い知れぬ感情が、〝ゼロ〟の身体を論理で縛ることを拒んでいた。
「武器――武器があれば、」
〝ゼロ〟はサバイバルキットから、刃渡り数センチほどのカッターナイフを引き出して、言う。
「――バカなこと言わないでよ!」
そんなことない。このカッターだって大したものだ。金属でもなんでも、簡単に切れてしまうんだから。
だが、それでもあの「狼」相手に何が出来るハズもない。
わかってる。全部わかってる。
あの「狼」はゲーム会場にあった武器を接収してからここにきている。
ドミネーターの効果のせいで、その身体は昨夜の倍に膨らみ、レベル3の身体強化があっても対抗できるかわからない。
たとえ、いまさらアイツから武器を奪ったって、勝ち目なんかないのだ。
逃げるしかない。結論はとうに出ている。
だが、
これを看過していいのか? ここから逃げて、本当にいいのか?
この惨状を、見て見ぬふりをして生きていくのか?
――答えが出せない。〝ゼロ〟はへたり込んだまま、涙をこぼす。そして、あとはもう、素直に白状するしかなかった。
「もう、嫌だ。……ここは、地獄だ」
本当にもう嫌だった。もうこんなところへ居たくなかった。
〝ゼロ〟が選んだのは逃避だった。現実逃避だ。
このまま、メソメソと、自分を
〝ゼロ〟にできるのはそれだけだった。なぜなら、これまでの人生、彼の窮地を救ってくれたのは、何時もそれだったのだから。
あのときの〝さくら〟も、こんな気持ちだったのだろうか?
いまなら、分かる。こんな時彼らにできるのは、結局のところ、安きに流れる自分を
「いつまでも――ぐちゃぐちゃいってんじゃねぇ!! 立てってば!」
〝レイア〟がへたり込む〝ゼロ〟の襟首を引っ掴む。しかし、〝ゼロ〟は応えようともしない。
「俺は――俺はもう、嫌だ。――何でこんなことになったんだ? もう嫌だ」
ただ、独り言のように呟く。
ひどいことが起るゲームと言うというのは分かっていた。事実、今まではそうだった。でも、これは違う。こんなのは、もう、ゲームじゃない。
もう嫌だった。止めてしまいたかった。リセットだ。全てやり直したかった。それが出来ないというなら、この〝ゲーム〟は不良品なのだ。
なら、
「もういい。結局、俺は、……結局〝ゼロ〟のままなんだ」
「――――ッ! ざけんな!! 〝ゼロ〟の人間なんかいるか!!」
泥でも吐き捨てるように言った〝ゼロ〟に、〝レイア〟は思いきり頭突きでもするような勢いで肉薄した。
〝ゼロ〟は虚ろに、やおら激昂した〝レイア〟を見つめる。
「0.1でも、0.01でも! プラスかマイナスか、そのどっちかだ! どんなに小さくても、マイナスはマイナスなんだよ! なにが〝ゼロ〟だ! アタシは、その微妙なマイナス見ないフリして生きてる奴らが、心の底からムカつくんだよ!! 人間に『普通』なんてあるか!!」
しかし、〝ゼロ〟には何のことかわからない。コイツはいつも前置きが無さすぎる。
ただ、ふつふつと
「アタシや、アンタみたいに――人生生きてて、「こんなんじゃない」なんて思ってるヤツはさ、〝ゼロ〟なんじゃなくて、それ以下のマイナスを積み重ねて生きてきたってことだろうが! あんたも、アタシも! 〝ゼロ〟じゃない! マイナスなんだよ!! 借金背負わされて生まれてきたようなもんだ! だから勝ちがいるんだろうが! デカいプラスで、どうしようもないマイナスを帳消しにしに、ここに来たんだろうが!」
一息に言って、〝レイア〟は奥歯を軋らせる。そしてもう一度、大きく息を吸い込む。
「目ぇ逸らして生きてんじゃねぇよ! 人生に消せないマイナスがあんなら、それを帳消しにするためのデカい
それでもまだ言い足りないのか、〝レイア〟は繰り返し言葉を吐き出し続ける。
「アタシは勝つ為に来たんだ! デカい「勝ち」を取ってッ、これまでの糞みてぇな人生、チャラにするんだよ! 帳消しにして、それでようやく〝ゼロ〟だろうが!! でなきゃ、――でなきゃ生きて、いけない……」
その見開かれた双眸はもはや、〝ゼロ〟を見ていない。
〝レイア〟はそれでも熔けた鉛でも吐き出すようにして、ひたすらに、吼える。
「誰かを助けるとか、他人の為になんていうのは、プラスの奴らがやることなんだよ! アタシらがやったって、ろくなことになんてなんないんだ!! それぐらいわかっとけ、このバカ!」
肩を弾ませるほどに声を荒げた〝レイア〟は、そこで視線と言葉とを切り、そして、今度は自分に言い聞かせるみたいに、重苦しく呟く。
「――そのためなら、なんだってやってやる。そのためなら死んだっていいし、何人だって殺してやる! それが生きてくってことだろうが! それが「本気で生きる」ってことだろうが! いい加減本気になれよ! 生きることに本気になれ! ここはゲームじゃないしスポーツでもない! 現実なんだよ!!」
〝ゼロ〟はただ茫然と、嵐のように荒ぶる〝レイア〟を見ていた。
その内側にくすぶっていたモノを初めて吐き出して見せたかのような姿に、〝ゼロ〟はただ、言葉もない。
「行くよ。――何にもできないなら、行くかない。逃げるんだよ!」
だが、〝ゼロ〟はその訴えを聞いても、首を縦に振ることができない。
「けど、このままじゃ」
「行くんだよ!」
「けど!」
「けどじゃな――」
そこまで言った時、怒号が轟いた。さっき入っていった屋内の出入り口を内側から引き裂くようにして、「狼」が広間に飛び出してきたのだ。
しまった。今の言い合いで、「狼」に気づかれてしまったのだ。
マズい! 来る! あれが来る!! 〝ゼロ〟は昨夜の記憶を
どう考えても、生身で相手ができる相手ではない。
そして、一呼吸程の逡巡の後、〝ゼロ〟は理解してしまった。もうダメなのだとだ。
だから、自分を引きずってでも逃げようとする〝レイア〟から離れようとした。
――そうだ、これでいいのかもしれない。もしかしたら、自分が襲われているうちに〝レイア〟は逃げることができるのではないか?
自分は、もう疲れてしまった。すべてがどうでもよく、面倒だった。
「何やってんの!? だから、逃げんだよ!」
〝レイア〟が、自分とは根幹からして、違うのだという事が解った。
自分には、そんなふうには思えない。人生ひっくり返すなんて、とても考えられない。そんな根性が自分には無いのだ。
だから、力を抜いた。もう、十分だと思った。どのみち〝レイア〟の助けが無ければ、あそこで終わっていた命なのだ。
だから、もういい。――行ってくれ、一人で。
〝ゼロ〟は〝レイア〟の手を振り払い。へたり込んだ。
そして、ぎこちなくだが、笑って見せる。
「――――ッ」
〝レイア〟は歯を食いしばって、〝ゼロ〟を見降ろす。逡巡しているのが分かる。
〝ゼロ〟の考えを知ってか知らずか、凄まじく葛藤していることだけが、〝ゼロ〟にも分かった。
「――ってやる。――やってやる! なんだってやってやる!」
しかし、ここで〝レイア〟はブツブツと、何かを口走りはじめた。
〝ゼロ〟は何事かと〝レイア〟を見る。なにを言ってんだ? 早く逃げろって。
「あんたたちッ――ソイツを足止めして! アタシたちは「プレイヤー」だ! 死んでも、ソイツを止めて!」
〝レイア〟が、街中に響くくらいの声で、叫んだ。
それは「命令」だった。
――命を捨てて自分たちが逃げる隙を作ってくれと言う。自分のエゴの為に、誰かに死んでくれと言う、究極的に身勝手な、命令だった。
「なに――なに言ってんだぁぁぁぁぁッ!!」
へたり込んでいたはずの〝ゼロ〟は跳ね起きて〝レイア〟に掴みかかった。
何を余計なことを! 素直に一人で逃げればいいじゃないか!
「自分が――自分が、何言ってんのかわかってんのかよ!?」
さっき見てただろ? そんな、そんなひどいことを、おまえ、まだ――ッ、そんな!
しかし、今度こそ全力の拳が〝ゼロ〟の顔面を痛打した。
「正気に戻れ! 他にないだろうが!! ――他にない。他にない! こうするしかないんだよ!」
その目に光るものを見て――〝ゼロ〟は、自分でも訳の代わらない言葉をばら撒いた。
その声――命令を受けて、いままで、ただ悲しそうに震えているだけだったオメガ達が、一変、機械仕掛けの様に「狼」に襲い掛かった。
無論戦力の差は歴然だ。「狼」の一振りで吹き飛ばされバラバラにされてしまうが、それでも果敢に――いや、おのれの命など度外視して、「狼」に向かっていく。
――――なんてことを、なんてことを、なんてことを!!! ――――
「あいつらは――――あの人たちは命令に逆らえないだけで、――本当は怖がってるし、嫌がってんだぞ!!」
「知ってる! もう見た! でもアタシらが生き残るには、こうするしかない!」
「嫌だ。――いやだぁ!」
どうして、どうしてそんなひどいことができる?
「行くんだよ!」
「ホントに、死ぬまで、足止めするんだぞぉ……。死ねって言ったまま、逃げるのかよぉ!」
また殴られる。しかし今度のそれは当てずっぽうで、〝レイア〟は〝ゼロ〟に覆いかぶさるようにして背中の辺りを叩いた。
「だから――そうだってんだよ! 捨て駒にして、逃げるんだよ……。死ねって、言って、逃げ……」
〝レイア〟の身体は、〝ゼロ〟と同じかそれ以上に戦慄いていた。
おそらくは自分がやろうとしてることに、恐れ戦くが故に。
「――いやだぁ……いやだ」
〝ゼロ〟は繰り返す。それでも、〝レイア〟は強引に〝ゼロ〟を引きずり、裏門に向かって進んでいく。
〝ゼロ〟はどうしていいのかわからなかった。なにより、どうすることもできなかった。
嫌だ嫌だと言いながら、〝レイア〟に強く抵抗することも、またできなかった。
オメガ達の命と引き換えにする時間が、どれほど貴重なものなのかも理解していたから。
たとえ、自分がここで自己犠牲を選んだとしても、オメガ達が助かることはないのだという事。
命の収支はどうやっても変えられないという事。
どう転んだって自分にはそんな力が無いのだという事。
そして、自分がそれを理由に、安きに流れる人間だという事。
言い訳をしながら人を犠牲にするクズなのだという事。
――全部理解していた。
だから、ただ、自分の為に泣きながら、ゼロは〝レイア〟と共に走り出した。
今、正に殺され続けているオメガ達の為に泣くことだけは、自分には許されないのだと、自分自身に、必死で言い聞かせながら。
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