第19話 「二日目」〝アヤト〟の姦計
「プレイヤー〝ゼロ〟に一枚勝負を仕掛けます」
〝アヤト〟はまるでそれが当然であるかのように、何か、神の言葉でも布告するかのように言った。
無論、〝ゼロ〟は何を言われているのかわからない。
「で、では、〝ゼロ〟様は勝負を受けられない状態なので、自動的に〝アヤト〟様の勝利となります」
にもかかわらず、緑のシープが、そんなセリフを吐いている。
事態を呑み込めない〝ゼロ〟だったが、こんな状態で黙ってなどいられない。
「ま――、待てよッ! 「交渉」させろよ! 俺は勝負を拒否する!!」
「ゼロ様。その場合は交渉を行う前に、まず勝負を受けていただかなくてはなりません。そして、交渉の余地が無い場合、「交渉」と言うフェイズは発生しません」
相対する緑からではない。言葉は、へたり込んでいる〝ゼロ〟の背後に冷然と立つ、白シープから発せられた。
「な――ッ」
しかし、もはやカードはないのだ。使い切ってしまった。
〝アヤト〟を、愛しい彼女を助けるために、守るために。
なのに、なんで、――なんでお前までそんなこと言うんだよ!? 味方しろよ、俺はお前のご主人様なんだろ!
「よって、――〝ゼロ〟様は勝負を受けられないため、自動的に〝アヤト〟様の勝利となるのです」
無言のまま、見上げる視線で、引きつるような表情で訴える〝ゼロ〟の言葉を無視して、先の緑シープと同じ台詞を、白シープはおうむ返しに繰り返した。
「だ、――からっ!! 何言ってんだよ! カードが無いんだから、ゲームはそもそも不成立だろ!? 不成立! 不成立ッ!!」
「いえいえ」
訳も解らぬまま、必死に繰り返す〝ゼロ〟の血走った視線を、〝アヤト〟はその淡く色付く桜色の爪先で絡め取った。
チッチ、と、タクトのように、芝居がかって指を揺らし、少女は真っ直ぐに笑いかけてくる。
そしてこの上ないほどに、朗らかに、嗤う。
「そんなことは有りませんわ。わたくし、確認しましたの。1枚だけの勝負なら相手の了承なしで仕掛けられますのよ」
「そんな、――嘘だ! だってそんなの聞いてな」
「3枚、5枚の勝負ですと相手がカードを持っていないとそもそもカードセットが出来ませんが、1枚だけの勝負なら可能なのですわ。そう、一方的な勝負が。だいたい、そうでないのなら、こんなカードが存在する意味が無いじゃありませんか」
〝アヤト〟が掲げたカードを、〝ゼロ〟の血走った目が捕らえる。
レベルは「1」 文面には、無機質な文字で、こうある。
『このカードが勝利した場合、対戦相手のチップ総量の半分を奪う』
レベル1でありながら、そのカード自体が勝利しなければ効果を発揮しないカード。
確か、〝ゼロ〟は真っ先に無意味だと思って無視したクズカードだった。
その、「だった」はずのカードが、いま〝ゼロ〟を見据えるように、鈍く照明の光を照り返している。
まさか、まさか、まさか。
「なぜ、このようなカードが用意されているとお思いに?」
「なぜって、それは――」
おぼろげな〝ゼロ〟の言葉尻を蹴散らすように、ふわふわとした〝アヤト〟の言葉がそれを阻む。
「相手が丸腰なら、このカードで狙い撃ちが出来るのですよ。ベータに聞けば答えますわ」
〝ゼロ〟は、既に満身に汗を滴らせ、縋るように白ベータを振り返る。が、
「はい。これを『奇襲』と呼びます。相手にカードが残っている場合は自殺行為ですが、場合によっては効果を発揮するやり方ですね」
「なん――――だよッ、そのルール! お前、そんなこと、そんなこと言ってなかった――言ってなかった!!」
〝ゼロ〟は音にさえならないような、血を吐くような声色で吠えた。しかし、応える白シープはまるで動じるそぶりも見せない。
「ルールと言うよりも、戦術です。プレイヤー様から確認されない限りこちらから全ての細やかな戦術を指南する必要は有りませんので」
「何で――、それがお前らの仕事じゃないのかよッ」
「はい。――我々の使命では、ありません」
――は? 〝ゼロ〟は呆然と口を、両の眼を見開く。なんで? なんて言った?
お前らは俺たちのゲームを取り仕切る審判みたいなものじゃないのか?
いや、確かに、ルールを聞けば応えるとは言われていただけで、コイツ等が審判だと明言されてたわけじゃない……けど、
それなら、お前らはなんなんだ? お前らベータは何のために――
「残念でしたね。チップ65000ポイントの半分――約32500ポイントですか、ありがたくいただいておきますわ」
声に驚いて自分のチップ数を確認する。
いまだに〝ゼロ〟が抗議をしている最中だというのに、それを意にも介さずに〝アヤト〟は語る。
さしもの〝ゼロ〟も、これには激情を押さえられなかった。
「ざ――っけんなよ、このクソ女ァ!」
許せなかった。チップのことはどうでもいい。ただ裏切られたという事実が許せなかった。
跳びかかろうとしたが、身体が、足が、心に付いてこなかった。
ぬかるんだ泥に足を取られて、転ぶ。
もはや上も下も分からず、泥を掻くようにして、それでも〝アヤト〟めがけて突き進もうとした。――が、
「あーッ、わりぃなッ、後にしてくんねぇかなあッッ」
「ぅおうっ、おぅよ、そうよッ」
――そんな、薄ら笑いを孕んだ声が、〝ゼロ〟の背中に浴びせられた。
「――――は?」
「何を勘違いしてらっしゃるんでしょう? まだ、終わっていませんのに」
〝アヤト〟の嘲笑うような視線が指す先、自らの背後を、〝ゼロ〟は思わず振り返る。
そこには四人のプレイヤーが居並ぶ、異様な光景が広がっていた。
「っしゃあッ! んじゃ、俺も一枚勝負ぅ!」
「悪いね。でも、これもゲームだからね」
「あぁんたは、最後で、いいんだよな? ゲームしてねぇし」
「どうぞ。私は『仕上げ』ですので」
〝ゼロ〟には、もはや理解すら及ばない光景であった。そこで申し合わせたかのように並んでいるのは、さっきまで一緒にゲームをしていた〝バズーカ〟・〝小松菜〟・〝ツーペア〟そしてゲームには参加していなかった〝カムイ〟である。
みな、手には――同じレベル1のカードを手にしている。
今しがた〝アヤト〟が使用したのと同じ「このカードが勝った相手の、半分のチップを奪い取る」というカードを。
「な……えっ? ……どうし…………」
〝ゼロ〟は言葉が出てこない。しかしプレイヤーたちはそれに取り合うこともなく、それを実行する。次々と。
「順番は、最初に決めてあった順でいいね」
「ウゥッス。まずは〝ツーペア〟さん。でえッ、次はオレェッ! そんで次〝小松菜〟――そんで、最後はあんただッ!」
「はい」
〝バズーカ〟が相変わらず威勢のいい声で確認している。
〝ゼロ〟は愕然とした。何事の声すら出てこない。
なぜ? 普通のゲームにおいてはクズでしかないカードを! なぜコイツ等は申し合わせたように所有しているんだ?
しかも、最初に決めてたとおりって、なんだよ!?
「だれか、――誰か、説明を――――ああああぁ!?」
声をかけるよりも先に、掌に表示されているチップの残高がみるみる地に減少していく。
〝ツーペア〟 約16000ポイント取得 ――止めろ、
〝バズーカ〟 約8000ポイント取得 ――やめろ、
〝小松菜〟 約4000ポイント取得 ――頼む、
〝カムイ〟 約2000ポイント取得 ――頼むから、
「やめてェ!! ――やめて、くれぇ……、頼むよォッ!」
みんな、先のゲーム中も、ずっとそのカードをデッキの中に秘め隠していたというのか? 最初から? そのつもりで? この「奇襲」の為に? そんなバカなそんなバカなそんなバカな……。
理解が及ばない。しかし彼らは〝ゼロ〟が状況を理解することを待ってはくれない。
叫びは、届かない。
「
「どうぞ」
「な――、なんだよソレッ」
そこで、なんと、〝カムイ〟が自分のデッキから引き出したカードを〝アヤト〟に差し出したではないか。
〝ゼロ〟が抗議する。他のプレイヤーたちも目を丸くしている。
「なにって、私のカードを彼女に預けていただけですよ?」
「――うぇえッ?」
「んーな事できんのかよぉ?!」
〝バズーカ〟と、〝小松菜〟があっけらかんと驚愕する。
〝ゼロ〟に至ってはまったく付いて行けずに虚ろな声を漏らすことしかできない。
「いや。――――いや、いやッ、出来ないはずだ――そんなことできないはずだ! 各自のプレイヤーがゲームで使えるのは「自分のデッキに入れて」ゲーム場に持ち込んだカードだけの筈だ!」
〝ゼロ〟は困惑を含んだ重苦しい声を漏らす。
デッキにはカードを挿入する方向等も定められており、入れ方が違うとそのプレイヤーのカードとして認識されないのだ。
「いいえ。一度正位置にカードを納めた後、それを抜いて逆さにしてから、別のデッキに入れれば自分のカードを余分にゲームに持ち込めるんですよ」
「そ、その通りです。一度正しくデッキにセットすることで、そのカードは各デッキの所有者たるプレイヤー様のカードとなります。も、もう一度別のデッキに入れれば所有権は移りますが、もしも逆位置でカードを入れたなら、カ、カードの所有権は元のプレイヤー様のままです」
「無論、このカード所有権の変更はゲーム外でしか行えません!」
まず、いつの間にか〝アヤト〟を守る様に立っていた緑のベータが言い、その脇に立つ〝カムイ〟のチビ黒ベータが付け加える。
コイツ等――コイツ等も知ってたのか? 最初から? それとも知らなかったのか? 知らなかったのは誰? もしかして〝ゼロ〟一人だけが、何も知らなかったというのか?
「カードの端に小さな印があるでしょう? これ、デッキにセットするとそのプレイヤーのアンカーと同じ色に変わりますのよ。カードの所有権が移った証なんです」
「へぇーー」
「面白れぇな。今度やってみっかあッ?」
既に、〝ゼロ〟に対して背を向けている〝小松菜〟と〝バズーカ〟が和気あいあいと、そんなことをのたまっている。
もはや、〝ゼロ〟には何の用もないとでもいうかのように。
もはや、〝ゼロ〟とは何の関係もないとでもいうかのように。
「そんな……そんなッ」
いや、しかし、それでも疑問は残る。
そんな裏ワザは、片方のプレイヤーがもう一方のプレイヤーの為に、貴重なデッキのスペースを明け渡すようなものじゃないか。
その疑念を、ハの字に歪んだ〝ゼロ〟の貌から読み取ったのか、〝アヤト〟は嬉しそうに、傍らに侍る長身の女を紹介した。
「彼女――〝カムイ〟は私の
〝カムイ〟と呼ばれた女は静かに頭を下げた。
し、白々しい――どう見ても知古どころか、お前のための助っ人か何かじゃないのか!?
「別に問題はないでしょう? デッキには自分のカードしか入れてはならない、なんてルールはないんですし」
「その通りです。問題は有りません。『ゲームに持ち込めるのはデッキの中に入れたカードのみ』と言うのがルールです。逆位置でも正位置でも、そこは問題には問われません」
白シープが、あいも変わらぬ口調で断言した。
もはや〝ゼロ〟は幽鬼のような視線でこの羊を見ることしかできない。
どうして、お前は――お前は、味方じゃ、――ないのかよぉ?
「では、さらに勝負を仕掛けさせていただきますわね」
「うあ、――う、あ――――うあああ、」
ウィンドウショッピングでも楽しむようなそぶりで近づいてくる〝アヤト〟に、〝ゼロ〟はおぼろげな絶叫を漏らす。
「まって――まって、これ以上はッ」
「ええ。もう、「半分奪う」などと言うカードは意味がありませんわね。でも、そんなときの為に、こういうカードもあるんですのよ?」
そう言って、泥まみれで身もだえする〝ゼロ〟に取りあおうともせず、〝アヤト〟は〝カムイ〟から手渡されたカードを掲げて見せる。
これもまたレベル1。文面にはこうある。
『このカードが勝利した場合。あなたの所有する総チップの半分の値を、対象のゲームプレイヤーから奪う』
「――――――――あ、あ、あああ、ああああッ」
「面白い組み合わせですわよね。こーいうのって、なんていうんでしたっけ? カード同士のシナジー? でしたっけ? あなたに教えてもらった知識、試させていただきましたわ」
奥歯が嘘みたいに戦慄き、独りで立つことさえままならない〝ゼロ〟は〝アヤト〟に縋り付こうとするが、それは緑とチビ黒、そして白ベータによって阻まれてしまった。
「では、先ほどあなたから頂いた32500ポイントの半分。さらに16000ポイントあまり、いただけますかしら?」
「どうして、――――どうして、どうしてッ、こんなァ!」
すると、〝アヤト〟は大げさなそぶりで、芝居がかった声を上げる。
――まぁ、そんなに悲観なさらないで! ――と。
「大丈夫ですわよ。だってあなたは、普通の人とは違うんですもの。きっと「昨夜の」おじさまのようにはなりませんとも」
――――え? 〝ゼロ〟は思わず、呆けたように頭を上げた。
「いま、……いま、なんて」
「あなたは「特別な人」だといったのですよ。――ねぇ、みなさん?」
「おう、まったくだぜえッ」
威勢のいい、しかし低くざらついたような語調に〝ゼロ〟は思わず振り向く。
気が付けば先ほど背を向けていた他のプレイヤーたちが〝ゼロ〟のすぐ近くにまで近付いてきていたのだ。
〝バズーカ〟〝小松菜〟そしてツ―ペアの三人が。その三人の男に、〝アヤト〟はゆるりと頭を下げる。
「わたくしのつたない案に乗っていただけで光栄でしたわ。みなさんのおかげで上手くいきました!」
「礼を言うのはこっちだぜッ。なんせ、ほら、8000ポイントゲットだからよぉッッ」
「けんどぉ、おれ、ちょっと物足りねぇなあ。あぁのカード(自分チップの半分を奪う)ももってくりゃよかったぃ」
「ま-たおめーはッ、後からケチくせえこというなってぇッ」
「ま、良いじゃないか。どちらかというと、――この『チート』をどうにかする方が先決だったからねぇ」
チート? なに、言って……。なに言って…………んだ、おい。
〝ゼロ〟はしばし、空らの言葉を反芻した後虚ろな視線で〝アヤト〟を見る。
そして〝ようやく〟事の全容を悟るに至った。
「そう。――わたくしですわ」
少女は、舌を吐くヘビのように微笑んでいた。
そして、他のプレイヤー、〝バズーカ〟、〝小松菜〟〝ツーペア〟が共に薄笑いを浮かべながら〝アヤト〟の傍に並び立つ。
計5人のプレイヤーは、泥にまみれて
まるで別世界の置物でも見下ろすかのように。
「私達、先に申し合わせていましたの。貴方のデッキを空にすればあとはこの
「クズカード」がモノを言うことになる、と」
「そんな、だって――君は、さっきまで、昨日も、ずっと、あんなに楽しそうに」
ようやく、ようやく絞り出した、うつろな〝ゼロ〟のつぶやきに〝アヤト〟は首をかしげる。
そして心底不思議そうな顔をして見せた。
「……? そりゃあ、そう言う顔をしますとも。誰かとご一緒する時、つまらなそうな顔を見せたら、あとで険悪なことになるじゃありませんか」
うずくまる〝ゼロ〟に視線を合わせるように屈み込んで。まるで、聞き分けのない幼子にそうするように、
「コミュニケーションの基本です。大事なのは外側。相手を欺こうというのならなおのことです。――そうですねぇ、あえて本音を言わせていただければ、あなたごときとの戯れに何も感じません。……ああ、でも」
〝アヤト〟は覗き込むように〝ゼロ〟を見据え、満面の笑みを浮かべた。
「あとで――というより、そう。今、これからです。あなたがどんなカオをするのだろうと考えると、わたくしずっと、たまりませんでした」
少女は嗤う。昼間に見せていたのと同じ、年相応の赤ら顔で。
この世の何よりも美しいと〝ゼロ〟に思わせたその顔で、――まるで、それが、心から楽しみであるかのように。
「それでは最後に、面白いものを見せてくださいね」
息を吸う。それを忘れていたかのように、深く吸って、しかし吐くことが出来ない。
「ひ、――卑怯じゃないか」
〝ゼロ〟はもはや、それしか言えなかった。本当に、子供の様にべそをかいて、単語を繰り返すしかない。
「卑怯じゃ、――ひきょうじゃないかぁぁッ!!」
「ふふっ。――困った方ですね。最初に聞いたじゃありませんか? このゲームのキモは「メタ・ゲーム」。すなわち戦術ではなく、戦略の勝負! 故に、勝敗は勝負の前に決まっているのです。それに気づきもせず、ただ己の優位性にだけ頼って気を抜くからこうなるのですよ「ショートスリーパー」さん」
対する声は断じた。
〝ゼロ〟はもはや何事の言葉を繰り返すことさえできない。
「初日の勝利の様子。まるでチップを消費していないかのような振る舞い。そして顔に書いてありましたよ。〝絶対に負けない〟って。それに、どうやって「真夜」に出歩いていたのかと言う質問に、あなたは即答できなかった。――わたくし、確信しましたわ。この男は何らかのチートと持ち込んでいる、と。そもそも睡眠時間を温存できるような人間が、このゲームに居ること自体不公平! そうは思いませんこと、みなさん!」
歌うかのような〝アヤト〟の演説に、男たちがワッと声を上げ、沸き立つ。
「おうよッッ。まったくだぜッッ。この人殺しがあッ」
「んだんだぁ! 卑怯なんはおまぇ、じゃねぇか!」
〝バズーカ〟と〝小松菜〟が口汚くののしり、〝ツーペア〟は変わらずににやけて見せるだけだ。
知られていたのだ、全部! 最初から! 絶望的な状況に陥り、ゼロは狼狽えながら、空のデッキをがりがりとひっかく。
涙がこぼれる。そんな、そんな、そんな!
「ああああぁぁぁぁぁッ」
しかし無情にもポイントは-15000弱。
そして思い出す。昨夜の、ソノダの末路を。
とても――〝助からない〟
ポイントの給付は正午となっている。真夜が終わる朝6時から正午までの6時間、それを緩和する術はない。
「では楽しみにしておきますわ、〝ゼロ〟さん」
ぶるぶると、オモチャみたいに震えながら這いつくばる〝ゼロ〟に対して屈み込んできた〝アヤト〟は、その美貌からは想像することもできないほどに顔を歪ませ、べろりと放り出した舌で何かを
あんなにも美しかった顔が、こうも「崩れる」ものかと、〝ゼロ〟は言葉もなかった。
もはや返す言葉など、彼の身体どこを探しても見当たらなかった。
有るのは、ただ、唯一無二の――恐怖。ただ、それだけ。
「あなたが、どんなふうに壊れるのか、とくと観察させていただきますわ」
「――――ッ」
ただ、見上げることしかできない。声が、出ない。どう絞り出していいかわからない。
「楽しみですねぇ。あの、なんでしたっけ? ナントカと言うおじ様がの時はスゴかったですね。――私、ずっとドキドキしていますの。ずっと思い出してドキドキしてたんです。あなたの隣で、あなたが壊れる時どうなるか、想像して、ずっと、ドキドキしてたんです。おなかの奥がぎゅうってして、たまらなかった。ずっとバレたらどうしようって思ってたのに。――ああ、なのに、疑いもしないなんて!」
――なんて愚か!! と、〝アヤト〟は歌うようにして快哉を叫ぶ。
その潤んだ瞳を見て、〝ゼロ〟は己の勘違いを悟っていた。――コイツは、人間じゃない。
「あなたはどうなるんですか? どうなるんでしょうねぇ? 失禁ですか? 脱糞ですか? それとも踊るのかしら? 歌うのですか? 自殺しますか? ショートスリーパーは簡単には壊れないのでしょうねぇ。どうやって死にます? どうします? どうします? どうしますぅ?」
頬を朱色に染めて、これから狂い死ぬであろう相手を、この女は嘲り笑う。
ついさっきまで、まさかこんな
「ああああああああああああッ」
――コイツはバケモノだ。
他人をオモチャみたいに弄んで、捨てることになんの躊躇も罪悪感も抱かない、あの〝ソノダ〟なんかとは比べ物にならないほど、邪悪な、バケモノ。
「あ、あ、あ――あああああああああッ!」
〝ゼロ〟は絶叫した。絶叫と共に〝アヤト〟に飛びかかった。
怒りよりも、恐怖から。根源的な怖れから、そうしなければならなかった。
当然、複数のベータの手が伸び、幼子の襟でもつまむように〝ゼロ〟の動きを縛った。
「〝ゼロ〟様、狼藉はご遠慮願います」
その中には当然白ベータもおり、静かに呟くと、率先して〝ゼロ〟を地べたに転がした。
泥と水たまりに突っ伏した〝ゼロ〟は、そこから起き上がるでもなく、泥水に浸かったまま嗚咽を漏らすことしかできなかった。
「で、では皆様、通常のゲームにお戻りください」
言われるまでもないとばかりに颯爽と身をひるがえした〝アヤト〟は、二度と〝ゼロ〟に視線を向けなかった。
〝ゼロ〟はその後、拘束されるでもなく会場の隅に押しやられ、放っておかれた。
それが昨夜の〝ソノダ〟に重なり、〝ゼロ〟は一人、「ひっ、ひっ、ひっ」と、絞り出すような悲鳴を上げ続けることしか、できなかった。
時間は、もう無い。
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