第12話「二日目」逃走の末

 走った。走って、走った。


 いや、それもおそらくはそうしただろうというだけの状況判断でしかなく、〝ゼロ〟自身には走っているという意識すらなく、ひたすらに逃げていた。


 逃げねばならなかった。


 だが何から? 何から逃げるというのか。


 おそらくは現実からであろう。悪夢のような光景から脱兎のごとく逃げ出す。それは魔なるモノからの呪的逃走を企てるに等しい行為だった。


 だが逃げることなどできない。人は魔から逃れることなどできはしない。


 恐怖を作り出すのは己自身であり、それが巣食うのは己が肺腑の裏側なのである。


 気が付けば全身水びたしだった。昨夜のうちに雨でも降ったのだろうか。しかし、それを知ってもなお泳ぐようにして森を、木々を掻き分け前進する。


 〝ソノダ〟の最後を目の当たりにした恐怖から、朝露に濡れる木々の間を疾走する。


 もはや止まり方さえ解らなかった。


 止まれば、あれに追いつかれると思った。一つの、一抱えほどの、赤ん坊程の大きさになってしまった〝ソノダ〟に。


 まるで歪な奇形の胎児のごときものに瞬く間に変じてしまった、アレに追いつかれるのではないかと言う恐怖が、彼の首に鎖の如く巻き付き、右往左往に絶え間なく引き回すかのようだった。


 アレはなんた? アレはなんだアレはなんなんだ?


 全身がバカみたいに震えて、奥歯がオモチャみたいに鳴っている。


 思い返すだに信じられない。あんなことが本当に起こったというのか? まるで出来の悪い悪夢だ。とても現実だとは思えない。どういうことなんだ?


 たとえ脳の限界を超えた負荷を与えるだなんだと言っても、あんな風になるのはおかしい。どう考えたって、おかしいだろうが!


 せめて、せめてその場で死ねば――、あんな事にはならなかっただろうに!


「……なんでだ? ……なんで、なんでなんで、なんであんな風になる? ……なんであんなことになってまだ生きてんだよぉッ!」


 いったい何時まで、どの時点まで〝ソノダ〟には苦痛を感じるだけの意識があったのだろうか? 


 せめて早々に事切れていたのなら、そのままの姿で動かなくなったというのなら、〝ゼロ〟もまだ己を慰撫いぶできただろう。


 だが想像力が安易な自己弁護を許さない。


 〝ソノダ〟は確かに生きていた。あんな風になるまで生きていた。――いや、もしかしたら、まだ。


 それをやったのだ。ゲームとはいえ、それを自分がやったのだ。あの光景を自分が作り出したのだ。


「おそらくは、アンカーの作用もあるのかもしれません」


「――――――――ッッッ!!!」


 幽鬼のようにふらつきながら、反吐と共に漏らした懺悔ざんげ嗚咽おえつのひとりごとに、まさかの返答があって〝ゼロ〟はそれこそ「魂消たまげる」ような、音にすらならぬ声を上げてその場に転がった。


「うああああああああぁぁぁぁぁッッッ!?」


 手足を畳み、頭を抱え、とにかく何かから身を守る様にして這いつくばった。


「『アンカー』は出来得る限り装着者を生かそうとする機能がありますので。――それと〝ゼロ〟様、あまり、突飛な行動はお控えください。危険です」


 さもそれが当然であるかのように、寂然とそこに立っていたのはお付きの白ベータであった。


 それが仕事だからなのかなんなのかもよくわからないが、とにかくあの場所から逃げ出した〝ゼロ〟を追ってきたのだ。


「――――き、きき危険? き……けんってなんだよ!? なんなんだよあれはッ? いやだ。あんなのが……あそこにいるぐらいなら、ここの方がよっぽど安全だ! こっち来んなよ!」


 〝ゼロ〟は這いずる様にしてベータから距離を取ろうと苔むした黒土を掻く。


「一概には、そうも言えないでしょう。――それ以上進むと、確実に死にますよ」


「え?」


 ベータの言葉が指す方、つまり己が背後を振り返り、〝ゼロ〟は絶句した。


 奥行きの程さえ知れぬ、暗鬱に湿った森が広がっているとばかり思っていたそこには、何故か――青空があった。


 目の前や高い空の向こうにばかりではなく、見下ろす視界の向こう側にまで、目もくらむような青い空が広がっているではないか。


 〝ゼロ〟は再び悲鳴を上げて背後に転がった。ベータの足元に縋り付くように後退る。


 そこは、まるで森を断ち切ったかのように鋭利な崖になっていたのである。


 その端にまで木々が生い茂っていたため、前後不覚状態のゼロは今の今まで、自分が断崖絶壁のきわに居たことに気付かなかったのだ。


「なんだ、これ。これは――ここはどうなってるんだ」


「見ての通りです。この島の背中側――と我々は便宜上読んでいますが、この東側は一面が切り立った断崖絶壁となっております」


「そんな――いやでも、そうか。たしかに、地図でも妙だとは思ってたけど」


 ただ、そのときはそんな雑談をする気になれなかっただけの話であった。


 何よりもゲームの事で頭がいっぱいだった。


 要するにこの島はピラミッドを縦に断ち割ったような形状をしているのだ。


 そしてこの場所は、その断面側の裾野に当たる場所なのである。


 しばし、〝ゼロ〟は無言で眼下に広がる青空と言う、予期しようもなかった光景に見入っていた。


 思考も思索もありはしなかったが、しかし実感として感じる朝焼け空の、なんとも表現しがたい灰色と紺碧の入り混じるようなグラデーションを、そして心底から冷え固まったような五体を柔らかく包んでくれる日の光をただ感じていた。


 先ほどまでバカみたいに震え、凍えていた身体と心胆が慰撫されるように温められていくのを感じていた。


 〝ゼロ〟は満身でそれを享受する。


 飛沫を含みながら噴き上げてくる涼やかな潮風、そして降りそそぐ日の光のおかげで何とか正気を保つことが出来た。


 日の光と言うのは偉大なものなのだと、〝ゼロ〟は改めて思っていた。


「落ち着かれましたか」


 しばらくそのまま、変温動物のようにじっと日の光を浴びていた〝ゼロ〟は背後からの白ベータの言葉に無言で頷いた。


 兎角、悪夢のような昨夜の残滓を振り合払うことはできた様に思えた。とりあえず、ではあるが。


「……ああ。少しは、な」


 泥むような鉛色だった表情も、年相応に赤らむ程度には回復していた。


「では、行きましょう。次のパークまで行ってゲームに備えてください」


 それを、まるで斟酌しんしゃくすることもないかのような白ベータの言いように、〝ゼロ〟は再びげんなりと表情を曇らせた。


「お前、ホントにデリカシーとかないのな」


「…………」


 言われたベータは無言で佇む。もしかしたら心外だとでも言いたかったのかもしれないが、〝ゼロ〟にはそれをおもんばかるような余裕はない。


「あいつは……〝ソノダ〟はどうなった?」


「一応、まだ生きては居ます。プレイヤーとしては再起不能と見なされるでしょう」


 あくまでプレイヤーとしての興味しかないと付け加えるかのように、この女は語る。


「……どうしてあんなことに?」


 〝ゼロ〟は改めて苦悶の声で質す。


「先ほども申しましたが、おそらくはアンカーの作用と、科された異常な負荷の間で矛盾が生じたのだと考えられます」


「なんで、――なんで誰も止めなかったんだよ」


「それもすでに申しましたが、自傷は禁じられておりませんので、我々には止めることが出来ないのです」


 〝ゼロ〟はベータに向き直った。そしてあらん限りに声を張り上げた。


「なんなんだよ。そんなのただの詭弁じゃねぇか! ――そのせいで、あんなことに。……人一人があんなことになってんだぞぉ……」


 他に、言うことはねぇのかよぉ……。


 声を掠れさせるようにして〝ゼロ〟は力なく喉を震わせる。


「我々としても予想外の事でした。〝ゼロ〟様もお気を付け下さい。我々はこの先も自傷行為に相当するプレイヤー様の挙動には関与いたしませんので」


 そこでお付きのベータを睨み上げた〝ゼロ〟は泥を蹴るようにして立ち上がり、視線を切った。そして罵る様に吐き捨てる。


「何が――何が予想外だよッ。オマエラが何度もやってるゲームなんだろ、コレ」


「……そうですね。その通りです」


 〝ゼロ〟は、この時、睨み据えたベータの身体が、ここでまた少しだけ震えていたのを、確かに見た。


 笑って――る? なにが、なんで、何が、おかしいってんだ!?


〝ゼロ〟は思わず、そのまま戦慄くほどに拳を握りしめた。


 ――が、もはや何を言っても無駄など言う諦観の念の方が、その激情よりも強く、彼の内面を埋め尽くしてしまった。


「もういい。――もういい、戻る」


 とにかく、逃げられないことを悟った〝ゼロ〟は自分に語り聞かせるように言った。


 とにかくこの女と2人でこんなところに居るのが不快だった。


 とにかく、おかしい。このゲームも、この女も、何もかもが異常に思えて、もはやこのまま会話を続ける気分にはならなかった。


「――クソッ、クソッ!」


 湿った衣服からしずくを滴らせながら歩く〝ゼロ〟は足を進める度に舌打ちを漏らした。


 張り付く衣服もぬかるむような地面もすべてが不快だった。


「チップを使用されては?」


 少し進んでは足を止める〝ゼロ〟にそのとき、白ベータが進言した。


「あぁ?」


「〝ゼロ〟様はゲームが終了してからもチップを使用されていません。今や有り余るほどのチップがあるのですから、使用されては?」


 ああ、そうか。今の今まで忘れていた。


 そう言えば、そうなのだ。敗者となってしまった〝ソノダ〟の末路にばかり気を取られ、〝ゼロ〟は今の今までチップのことなどまるで頭から抜け落ちていた。


 しかし、今や〝ゼロ〟は65000ポイントを超えるチップがあるのだ。


 そう考えるとなんだか笑えてくる。乾いた笑いと浮かべながら、〝ゼロ〟はベータの忠告通り2時間分のチップを使用した。


 いまさら何かを躊躇ちゅうちょしたところで、〝ソノダ〟のことがどうにかなることも有りえないのだ。


 まとまったチップを使用したことで確かに身体的な不快感は消えた。


 しかし、だからと言って特別な気分にはならない。やはり、〝ゼロ〟にとっては睡眠とはその程度のものだからだ。


「2時間分でよろしいので?」


『いいんだよ。こっちの勝手だろ』と〝ゼロ〟は白シープの言葉には耳を貸さず、内心で吐き捨てる。


 兎角ゲームを続けなければならないことが、その事実そのものが唯々不安で不快でたまらなかった。



 そして〝ゼロ〟は溜息を溢しながらその場を後にしようとした。


 しかし、そこでふと足を止めて眼下の切り立った崖を、そしてその岩肌から地続きで遥か頭上にまでそびえる、この島の最頂上に当たる部分を見上げた。


「〝ゼロ〟様?」


「――ここからなら、てっぺんが見えるんだな」


 そこで、眼下の絶景を裂く様に差し込んでくる陽光に目を細めつつ、その、ほぼ垂直と言っていい壁を見上げた〝ゼロ〟は、その頂上、即ちこのうず高い形状の島の一番高いところに、何か、城か砦のような人工物の影を見つけたのだ。


「なぁ、あれって――」


 白ベータも同じくその人工物を見上げる。


「はい。アレが最終日のゲーム会場となる場所です。最終日までに順を追ってゲームを続ければ、最終的に全てのプレイヤーはあそこに集結することになります」


「…………ここから、あの会場に行けたら、最終日までゲームしなくていいのかな?」


 てっぺんまではどれほどあるのだろうか? 切り立った岩肌は50メートルか100メートルか。〝ゼロ〟には見当がつかない。


「確かに。たどり着けたならばルール上は可能です。――が、ここからでは空でも飛ばない限りは難しいでしょう」


「……エレベーターとか、ヘリとか……なんとかなんないかな」


 〝ゼロ〟が言うと、白ベータは無言で顔を背けた。


 するとその肩が、また少しだけ震えているのが分かった。


「――――なかなか面白い発想ですが、そのような特典は用意されていませんね」


 変なとこでウケてんじゃねぇよ。と、〝ゼロ〟は鼻白む。


 彼は心底から本気だった。


 本気でこれから6日分のゲームをエスケープしたい心境だった。


 あんなことが起こる夜を、これ以上越えたくないと、彼は本気で思っていた。

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