第1話 背景 「静かな夜」
――ある時期から、この国は「静かな夜」を迎えるようになった。
それを、人は〝
きっかけは、ある実用化されたテクノロジーを持つ〝企業〟だったとされる。
彼らは水面下で政府に働きかけていた。
そして、法を動かしてからそれを実施するのではなく、それを先に実施して見せることで、一気に法を、いや――「世界」を変えた。
それは、あらゆる人間を自在に〝眠らせる〟技術だった。
いかなる手段か、それについては未だに憶測や曖昧な俗説が流布している段階だが、由来はともかく、誰もがその意味を実感……いや、体感している。
ある時、彼らは前触れもなく自らの存在を公のものとした。そして実際に5分刻みで、すべての国民を眠らせてみせた。
しかも、眠ってしまっても問題のない人間のみを厳選して、である。
それは個々人に至るまで、全ての国民のデータをも完全把握し、そして自在に無力化できるということを示唆したということでもある。
対した世間は沸騰するかのように騒然としつつも、――次第に、それを受け入れた。
無論、当初の反発は大きかった。各地でデモが頻発し、暴動に発展しかける事さえあり、口汚く批判をネット上に流布しようとする者も多かった。
――しかし一方で、というよりも大多数の人間にとっては、そのテクノロジーは決して害のあるものではなかったのだ。
先の見えない社会。誰もが強迫観念に囚われ、不眠に悩んでいた時代だった。
半ば強制的にとはいえ、安らかな眠りと、それに伴うストレスのない健康的な生活は、何物にも代えがたい恩恵であった。
さらに、経済的に無駄なエネルギーを削減できること、青少年の非行や、そもそもの犯罪が劇的に減ったこと。
さらには問題になっていた不法入国者や不法移民のあぶり出し、さらには刑務所の設備や囚人そのものにかかるコストの、大幅な削減なども大々的に評価された。
新聞もテレビも世論も、皆こぞってそれらの点を称賛した。
――というよりも、不可抗力的に解かってしまっていた。というべきかもしれない。
そう。人は弾劾や差別・暴力には抵抗することができるかもしれない。しかし、この〝安らかな眠り〟にだけは抗うことができないのだと。
もはやデモを行うことも出来ず、反対を表明する人々は速やかに眠らされ、〝安全に〟口を封じられて、何日でも何週間でも眠らされ続けた。
それは何人で行動しようとも一緒だった。その事実に、反抗的だったマスコミも沈黙した。
物の数か月でそれがこの国の常識となった。
〝真夜〟。午前0時から明朝6時まで、誰もが静かに眠り続ける。――まるで糸車の呪いにでもかけられたかのように。
この〝健全な〟社会は海外からも称賛された。すべてがうまくいっていると。理想的な社会だと。
――しかし、一方で誰もが確信していることも有る。
公には何ら悪ではないはずの政府――否、〝企業〟が、もしもその気になれば、どんなことでもできてしまうのだということに。
誰の目も届かない〝真夜〟の間に、邪魔な人間の枕元に立つことも。
そしてその誰かの口をそっと塞いでしまうことも。
彼らにとっては簡単なことなのだということに。
もはや、この国の支配者は、政府でも国民でもなく、この〝企業〟そのものなのだと、誰もが知っているのだ。
だが、そんな中で彼だけはその制約の中から自由だった。
彼――〝ゼロ〟こと、
誰も抗うことのできない、不可避の〝眠り〟に左右されない能力。――それが彼の『ショートスリープ』の能力だった。
要するに、彼は通常、長くても2時間ほども眠れば、それ以上睡眠をとる必要が無いのだ。
この能力のおかげで、彼は誰もが抗うことのできない〝真夜〟の中でも自由に行動することができた。
――しかし、それが何かの利得を彼にもたらした事例は、今のところ皆無であった。
そもそも真夜の間に出歩くことは重罪だと法改正がなされていたし、わざわざ出歩く用もなかった。
家から出ることも出来ないし、すたれ始めていたオンラインゲームも相手がいない。
ネットを通してもつながる相手は寝ている。海外のサイトに出向くほどの語学力も度胸もない。
ゲームもネットもやりつくして、それでもなお、彼は一人の夜を過ごし続けた。
――そもそも、彼にはそれ以外には何一つとして、特筆するような能力が無かった。
昼間の学校生活において、人の目を引くような部分も、出会いも、出来事も、なにも、彼には無かったのだ。
真夜が訪れるようになって、はや10余年。日の当たる世界はあまりにも健全だった。
他の学生たちが生気に満ち溢れ、精力的に生きる様を、彼は無感動に眺めることしかできなかった。
眠らないで済む、というだけのこんな特性が、なんの役に立つというのだろう。
ただ無用の長物でしかないショートスリープの能力を持て余し、自室で一人、孤独に夜を過ごすだけ。
そんな時間が続き、彼は自分をまったくのフラットな人生を送る、ゼロの人間だと思うようになっていた。
何の味もしない、何の起伏もない、何の意味もない生を貪るだけの、〝ゼロの人生〟。
それが、彼が16年を生きて得た結論だった。彼はゼロそのものだった。そして、彼はそのまま誰にも気づかれずに生き――そして終わるはずだった。
しかし、偶然だったのか、それとも必然だったのか、彼はあるゲームの存在を知った。――いや、知らされた。
『夜更かし』という、ばかばかしくも、しかし『深刻な罪』を犯した者が送られるという、刑罰に代わる〝ゲーム〟。
人類の究極の資源である『睡眠』を軽んじる不届き者に、安らかな眠りのありがたみを教えてくれるという、陰惨なゲーム。そのうわさ。
彼が得られたのはわずかな末端の情報と、あるグロテスクな写真画像だけ。
それは自殺者の死に顔だった。
しかし、惹きつけられた。
――なんて、安らかな顔をしているのだろう。
いつ、どこでのことなのかもわからない。
飛び降りなのだという。
頭から落ちたのだ。若い女だった。
白い顔には、死してなおぬぐいきれないほどの隈が浮かんでいる。
頭蓋は砕け、長い黒髪は地肌ごとちぐはぐに入れ違いになり、そして薄い朱に染まる灰色の中身が、でろりと零れている。そんな画像だった。
しかし、何よりも彼を惹きつけたのは、その表情だった。
人の人格そのものであるはずの
何がそんなに嬉しいというのだろう。
何がそんなに楽しいというのだろう。
何がそんなに可笑しいというのだろう。
眠れることが、そんな顔になるほどの、それほどに突き抜けた幸福だというのか? それほどの快楽だというのか?
画質は荒い。それでも必死に拡大して、朝が来るまでその物言わぬ笑顔を見つめ続けた。
御旗にとって眠ることは簡単なことだ。スイッチを入れるように寝れるし、いつだって起きたい時間に起きれる。
別に誰かに眠らされなくても、『眠り』で何かに困ったことなどない。
――だから、実感がわかない。
あんな顔をするほどに、いったい、何が良いというのだ?
何かに取り付かれたように、その記事の情報を集めた。
そして、それがあるゲームの中で起こったことであり、これからも起こるかもしれないことだと突き止めた。
というより、真偽はともかく、噂はいくらでもあったのだ。
違法な手段で眠りを妨げ、真夜に外を出歩き、捕らえられた者が送られる、眠りの大切さを教えてくれるレクリエーションであり、代替的な刑罰でもある、『ゲーム』。
そのゲームは常に監視され、ある種の人間にとっては娯楽になっているとか、新たなる技術のための生体実験だとか、或いは何かの陰謀だとか。様々な情報が飛び交っていた。
どの情報が正しいのか、御旗には判じる術がない。
それでも、ただ一つ分かっていることがある。
もしもそんなゲームが本当にあるのなら、そのゲームが本当に『睡眠』を賭けて奪い合うゲームだというのなら、御旗はこの上なく優位に立つ人間だということにならないか?
今までの人生で、何の役に立たなかったこの能力。『ショートスリープ』――それを、活かす術があるという事にはならないか?
もはや終焉まで変えようのない、全てが鋳型に収められているかのような「ゼロの人生」を、変える手段があるのかもしれない。
まるで消せない火種の様に、感じたとこのない鼓動が、いつまでも彼の胸の奥で
以来、何か月も悩み続け、そしてある明るい夜に、彼はふらりと外へ出た。計画的だったのか衝動的だったのかは、自分でもよくわからない。
しばらく当てどもなく歩き、しかし奇妙なほど、高揚していたのを覚えている。
ただ、初めて見る夜が美しかった。何の混じり気もない、真に昏き街の景観だった。
すべてが漆黒に塗りつぶされているかのような。そんな、静かで、どこまでも広い場所。
――もっと早く、こうすればよかった。澄んだ夜を胸いっぱいに吸い込み、そして彼は何者かに拘束された。
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