薄膜

「例えば今ここで瞳を抉り取ったとしよう」

 その人は急にそんな話を始めた。

 予兆として存在しうるとしたら、休みの間中、ずっと試験勉強を続けていた僕の姿勢だ。眼精疲労を軽減しようと、眉毛と目の間にあるつぼを指で圧している。

 いた。

 けれど、その人が話しかけてきたから、閉じていた瞳を開いてそちらに向く。

「勿論、私のそれを、だ」

 頬骨のあたりに人差し指を当て、『眼』を現すその人。

「君に害を与える理由は無いからね」

 つまり、理由さえあれば人を傷つけられるのだ。そうではない、ズレた。戻ろう。

 そういって、その指を僕に向ける。自然、僕の視線はその先端に集中し、認識は魚眼レンズを通したようなものへと変貌する。変貌した。変貌した?

 ━━すると、どうなるんですか?

「私の目は見えなくなる。当然だね」

 ━━はい。

「その時、君はどうなるのかな」

 どう。如何成る、とは。

 ━━どうにも、ならないと思います。

「そう。その通り」

 首肯。満足気に縦に揺れる頭部。

「けれど、私は君を一時的に認識できなくなる。君からの干渉が無ければ君を認識するのも難しく成るだろう。音や物体の移動を伴えば話は変わるだろうけれど。今は視界の話に限定させてほしい」

 ━━はい。

「そうして私にとって君は居る人から在る人へと変わる」

 魚眼レンズ。網膜にそんなものは張り付いていない。在るのはただ水晶体。人体の作り出した結晶。光りを受け取るための構造。神経や血管という網目。

 ━━あなたは、居るんですか?

「在るかどうかは既に決まっているだろう」

 けれどね、とその人は続ける。口が三日月を描く。眼は何も言わない。眼は何も言えない。語ったと思ったのは僕だけ。僕にはその瞳が赤い舌よりも饒舌に見えただけ。僕にしか見えない言葉がそこに居る。

「居るかどうかは、君が決め給え」

 ぐにゃり。

 世界が歪んで、僕は椅子から転げ落ちた。

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