ねこ
朝露に濡れた新緑を掻き分け、目の前に広がる天上楽土の如き瓜畑に両手を伸ばす。乾き切った手指と飢え切った喉を潤さんと、鈴生りの果肉を一つ摘み上げ、歯型をざくりと刻みつける。じわりと滋味が口一杯に広がる。
生きた心地がする。
そうして漸く、葉擦れが創った切り傷擦り傷の忸忸とした痛みを思い出す。だがそれよりも今は食い物だ。息を付く間も惜しい。がつがつと瑞々しい果肉を啜る。一息に胃を満たし、さて幾つか頂戴しようか、と邪が脳裏を過ったその時、首を落とされた。
否、落とされた気がした。
風切音が耳に届くよりも早く、冷りとした感触が首元に据えられる。薄皮一枚も切らずにただ触れられただけだが、いつでも殺せると言われた気がして余計に肝が冷える。
「おい」
男だろうか。高い声だ。だが女にしては低過ぎる。青年か、少年か。
「は、はい」
わたしの声は石の裏からほじくり出された団子虫のように裏返っている。
「他所様の畑に分け入って、勝手に荒らしてはいさようなら、とは行かねぇぞ」
「あ、」
後から断りを入れようと、と口から出かけたが、余計な一言で首が飛び得る。結果、間抜けな呻き声が出た。
「ま、良い」
許して貰えたのだろうか。それなら、
「殺して埋めりゃあ肥料に成る。夏も近いし遅成り物に植え替えの時期だ。丁度良い。死ね」
「ま、」
「待った待った待った」
悲鳴が二つの箇所から聞こえた。片方はわたしだ。もう片方の音の主はがさがさと枝葉を掻き分け、畑とは違う方から現れた。その向こうには、岩壁。何か、人の顔の様なものが沢山並んでいる。
「待ったー!」
編笠。袈裟。仏様だろうか。にしても小柄だ。
「応」
青年がその甲高い「待った」に応じる。
「応、ではなくですね」
「嗚呼」
「然うでもなくですね」
私を挟んで小噺でも始めたのだろうか。早くこの刃物を下ろして欲しい。指が動けば切られてしまう。そうすれば当然自然の摂理に従い死んでしまう。その考えに沸騰した頭が追いついた時、恐ろしさのあまり世界が暗闇へと反転した。
2
起きた矢先、木目が見えた。随分と年季の入った天井で、囲炉裏によって付いた煤け色が美しい。ことことと薬缶の鳴る音。どこからか、からからと歌う子供の声が聞こえる。何かを諳んじているのだろう。次いで、茶の香りを聞く。
「う」
呻きつつ、布団を剥いで起き上がると、
「応」
聞き覚えのある声に見知らぬ顔があった。恐らく、私の首に刃を添えた人物だ。
「起きたか、食い詰めのっぺら坊」
鬼だ。二本の角がある。
「た、大変申し訳ない事を……」
項垂れる。
彼は嗚呼、と茶を啜り、
「良い。もう。斬らん。まったく。気が抜けたのか? あんなところで気を失いやがって」
「そ、それはその」
恐る恐る顔を上げれば、興味無さげに見下ろしている。
「えんが来るまで待て」
「えん?」
「お前を生かす事にした猫の事だ、のっぺら坊」
鬼はそう言って、
「飲め」
湯気の立つ湯呑みを此方に差し出した。まだ湯気の立つそれに、呆けたわたしの間抜け面が写った。
3
「さようならー」「またね、先生ー」「またあした!」「さよなら、えんちゃん!」
「はい、さようならー」
きゃらきゃらと鮮やかで大きな声が幾つも響く。日は傾き、夕暮れが近い。青空と茜空が混じり合って鮮やかな彩りが空を染め上げている。先程まで降っていた小雨の残滓が開かれた障子戸の端から端まで煌びやかに掛かる。
のっぺらぼうと呼ばれたわたしは、結局名乗りもせず、この家に居着いて丸一日経った。
気付けば着物も変えられている。私が着ていた襤褸ではなく、真っ当な、地味で質素だが衣として最低限以上の装い。
いつの間に。
寝ている間だろう。
私が独りじっと布団の上で座って虹を眺めていると、とてとてと足音。裸足で床板を踏む、規則的な律動。小股の節奏。
「身体の調子は如何ですか?」
小柄な猫。背丈に似合わぬ袈裟姿。近くで見れば、ところどころほつれている。彼女の面を見れば、相はかなり薄いらしく、髭も無く顔もかなり平たい。耳がなければわたし同様のっぺらぼうでも通じるのではなかろうか。……この人が私を助けたという女性だろう。
「御陰様で、その、随分と。何から何まで、その」
つっかえつっかえ喋るわたしに、その女性はにこりと笑いかける。開かれた障子戸の前に座り、暮れゆく空と落ちゆく陽と雨の残り香を背に、頬を緩ませる。
「
今時分、珍しい。
世は戦国と呼ばれて久しく、富める者は戦で私財を肥やしに、貧しきは糊口を凌ぐために殺し合いの場へと赴く。そんな時代だ。
かく言うわたしも戦から逃れてここに流れ着いた。
住んでいた里が何者かに焼かれたのだ。
火はあっという間に家々を焼き、田畑を荒れ地へ変えていった。油でも撒いたのだろう。春の終わりの風もあった。
村焼き、里焼きは珍しくない。焦土を畑に変える魔術も、骨を人夫にする妖術もあると聞く。そういった手合は多くがどこかしらの軍門に下っている。大事なのは土地だけだ。
そこに元々住まう人々ではない。虐げようが、殺そうが、構わないのだ。
わたしはそれが恐ろしくて恐ろしくて堪らず、ただ一人だけで逃げた臆病者なのだ。
救うものなき末世だ……だというのに。
ごく自然に、当たり前のように。助け合う。彼女はそう言った。
私がぽかんと口を開けて感心していると、
「それに、子供達もお昼食べに来ますから。一緒に食べた方が独りよりもきっと美味しいですよ」
「いえ、あの、ですが」
喘ぐ私に微笑みかけながら彼女は続ける。
「衣物も暫く変えていらっしゃらなかったみたいですし、色々大変だったのでしょう? だから、佳いんですよ」
私は、驚きを禁じ得なかった。
「その、貴女の身形も然程裕福な様には見えませんし、此処もかなり傷んだ建物の様ですし……」
「わたし達も流れ者です。屋根が欲しくて、廃寺を直して使わせて頂いております。ですので」
あまりお気になさらずに、と。
そんな事を言われても。
だが。
盗人猛々しいと思われても辛い。そんな事は気にしないと言われても辛い。
見知らぬのっぺらぼうごときの為に食い扶持を割いて貰えるのも妙な話だ。
わたしが寝惚けた顔をしているからだろう。猫の女性は口元に弧を描いて、わたしの言葉をじっと待つ。
「……戦で村々は疲弊しておりました。耕手が足らずに荒放題の畑を見てきました。明日の米に困り、子を売る親も見てきました。何故貴女は、何を以って貴女はわたしが此処に居ても良いと言うのです」
しどろもどろになりながら這々の体で言葉を引き摺り出す。
「わたしも、彼に頼ってばかりです。偉そうな事は言えません」
でも、と彼女は言葉を繋ぐ。
「でも、色んな人が一人でも多く幸せに成れるなら、それが佳いではありませんか」
ふわりと、和毛の様な柔らかさで、誰もが願い誰もが為し得ない事を言ってのけた。
暫しの沈黙。夏鳥がどこかで鳴いている。名は何だったろうか。もう忘れてしまったか。しようもない事をぼんやり考えているわたしに、
「明日……は里に降りて歌を諳んじる事になっておりますのでー……明後日。少しお手伝いして頂きたいのです」
出し抜け、彼女は言う。
「なんでもいたします」
命の恩人だ。飯と宿まで頂いてしまった。逆らうことなど思いもつかない。
「良かった。みんなでやればきっと早く終わります。そうしたら瓜でも食べましょう」
「あのう、一体何をお手伝いすれば良いので……?」
困惑するわたしに、彼女は今までと少し違った、背丈相応の幼い溌剌とした笑顔を浮かべる。
「お地蔵様のお掃除を、と思いまして」
両手を合わせて、祈るような姿で提案する猫の女性。
「判りました。手伝わせていただきます」
二つ返事だ。そんな程度の事でいいのか。まぁ、これからもここか里に住むなら雑用を申し付けられるだろう。大した仕事はできないが、それでも生かしてもらえるならなんでもやる。
「ありがとうございます。明日はゆっくりしてください。旅疲れもあるでしょう」
その夜は月が高く昇る前に、漬物と粥を頂いた。直ぐに床に着いたわたしは、情け無い事に、疲労と眠気に勝てず、落ちるように眠りについた。
4
がばりと跳ね起きた拍子に掛け布団が捲れ上がる。
暫しの間、所々破れた障子をぼうっと眺め、自分の状況を思い出す。
そうだ。
決心を一つ。恐らく、あの猫の女性なら快諾してくれる。そして、あの鬼なら容易に成せる。筈だ。
早朝の空気は夏を前にじっとりと湿り気を帯び、しかし未だ爽やかな春風の尾鰭がはためく。
意を決した私は、ことことと包丁の軽快な音を目指し、台所と思しき場所へと向かう。
「あン?」
しかして、私を待って居たのは鬼でも猫でもなかった。
「誰だァ、手前ェ?」
毛むくじゃら。言葉を発しなければ畜生の類と思っただろう。円らな瞳に丸い顔。子熊の様にも見えない事も無いが、やや毛が長いか。爪は鋭く、疑問さえ口にしなければ、服を纏った肉食獣の何かしらだと思ったろう。そんなものが居れば、だが。
「き、昨日から居候させて頂いております」
「あー。
のっぺらぼうか。
そう言って彼は上から私の顔を覗き込む。物珍しそうに。
それはそうだろう。
これが普通だ。のっぺらぼうは珍しい。
「石丸だ。あンたの名前は?」
右手を突き出され、否、差し出されたのか。
「おい、聞ィてンのか?」
啞、と間抜け声を返してしまい、
「石丸さんですね。よろしくお願いします。私は、その」
名前。
名前か。
逡巡していると、彼にぐい、と手を握られる。
「本当なンだな。のっぺら坊は忘れちまうッてのは」
はぁ、と気の抜けた返事しかできない。
のっぺらぼうは忘れてしまう。そのとおりだ。
生まれは愚か、今となっては自身の名前も解らない。
何者でもない。それがのっぺらぼうの性だ。
忘れてしまうのだ。何もかもを、無責任に。まるで紙で出来た鳥が飛ぶように。
「恥ずかしながら……」
「成程、まぁ察すンに、しばらく人里から離れてたんだろ。仕方ねェッてことよ」
石丸さんはわたしの手をがっちりと握ったまま話を続けている。
「あの、手……」
「おッと、悪ィ悪ィ。痛かったか」
大層痛かった。とは言えず。
「いえ、まぁ……」
言葉を濁す。
「そういえば、お二人はどこへ?」
「里に出かけたんだろ。ガキ共に読み書き教える代わりに食い
昨日なんかはガキ共のほうがこっちに来てたみてェだが、と石丸さんは続ける。
彼はなんの因果でここに住んでいるのだろうか。昨日は見かけなかったが、たまたまだろうか。どこかに出かけていたのかもしれない。
「そうですか……実はお二人には折り入ってお話があったのですが」
「話ィ? どんな?」
二人で茶を焙じて、男が切っていた生の大根を肴に、わたしの寝床になってしまった一室で茶を啜る。
「わたしの住んでいた里が、賊に襲われまして……命からがら逃げて来たんです」
「あー……そンであの二人に賊を追い払ッてもらおうッつうハラか」
「はい……あの鬼の方は大層強そうでしたし、何より鬼でしたから」
まぁ、逃げていた間、わたしは自身の命しか考えていなかったわけだが。
「ま、珍しいわな」
「鬼ですか」
「おうよ。今時分、どこの軍にも属して
そうですね、と湯気立つ器に手を伸ばし香りを楽しんでから一口。
「だからよ、近場の里でも
5
びくりと体が反応する。恐怖と困惑。
今、この毛むくじゃらは何と言った?
「石丸……さん?」
「おうよ」
「あなたは……あなたが……?」
男は泰然としたまま、当然のように、
「あー……忘れッちまうッてのは面倒臭ェなァおい。おれが、部下に、里の奴らを、殺させて、火をつけさせた」
解るか? とこちらを睨み付ける、毛むくじゃらの相を持つ男。
「部下共じゃあの鬼の相手にゃ不足だからな。ここの偵察だけさせて……で、おれはあいつらが帰って来るまでお留守番よ」
全く、といって茶を啜る。何事もなかったかのように、放火と殺戮を興じた男は大根をかじる。今の話がすべて事実なら、わたしは自分の住んでいた里を焼いた殺人鬼と一緒に喫茶していたことになる。
腰を抜かして、畳の上に尻が落ちる。喉から出るはずの悲鳴が恐ろしさのあまり声にならない。
「まぁそう怖がりなさんなッて。あンたの仕事はこッからだ。偶然居合わせただけだが、それでもあいつら怒らせるには十分だろ」
「なんで、なぜそんな……」
「あァ? 当たり前ェだろ。敵の側につくかもしれねェ鬼は間引いとくに限る。そんだけよ」
あいつ一匹でどんだけの人間を殺せるか考えれば、まァ妥当だろ。
そんなことを言いつつわたしの方に手を伸ばして来る。
怖い。腕が、毛むくじゃらの太い腕が。頭の裏側にこびり着いて離れない記憶の残り滓がぶるぶると身悶え震える。
「怒らせなくても、他にいくらだって手段があるでしょう!?」
ようやく悲鳴が出たところで、丸太のような腕がわたしの首を掴んだ。
「ぶッ殺すんだッたら、その気の相手がいいだろうがよ」
6
「それならよ、お望み通りにしてやろう」
声と同時に、わたしの首を掴んだ腕が宙を舞った。どろりと宙を舞った血が三人の頬を濡らす。狼狽するわたしを余所に、
「おッとおいでなすッたな」
笑う毛むくじゃら。それを睨み付ける鬼。わたしは引き攣った貌のまま腰を抜かしている。
傷口からすぐさま腕が再び生え、石丸と名乗った男は拳を構える。対する鬼の青年は構えを意に介さず横薙ぎ一閃、今度は前に構えていた左腕を吹き飛ばした。
しかし、またすぐににょきりと腕が生える。おどろおどろしい肉塊がすぐさま腕の形を無し、先端から指が芽吹く。
「お前も
「おうとも、抜け忍。手前ェの始末にやッて来た」
毛むくじゃらの豪腕が唸りを上げる。無造作に振った腕を、鬼は避けたようにみえた。だが袖がばさりと切れ、つうと真っ黒な血が流れる。鎌鼬のようなものだろうか。それとも単に、わたしの目が二人の動きに追いついていないだけか。
「速いのは手前ェの専売特許じゃ無ェわけよ」
「
弱み?
思い当たる節は……わたしか?
「呵々、怒るなよ。お遊戯にもなりゃしねェ。ちッたァ楽しもうぜ」
「断る」
「然うかい」
言葉と同時に、二人が突然消失した。
7
鬼の野郎と同時に、忍び同士の戦をおッ始める。
外で舞う木ッ葉が動きを止め、次に視界が白と黒の二色になる。
(けッ、血が頭へ昇る前に決めなきゃならねェッてのは厄介だな。だがよ、)
体感時間の三刻は外での時間の一秒にも満たない。
(終わる前にぶッ殺せば良い)
オレが保つのは十八刻。どうせ十合も打ち合わないで殺し合いは終わる。何の問題にもなりゃしねェ。
ここで重要なのは互いの腕前よりも、単純な性能差よ。
ただ速いだけの小僧は、オレを殺すなんて芸当できやしねェ。
袈裟斬りが左鎖骨を狙って振り下ろされる。超音速のそれは気流を見出し白雲を生み出してすらいるが、無論読み通りの軌道。対処は簡単だ。右半身を突き出し踏み込みつつ右手で突く。
ぬるりと左に躱される。問題ない。流れるように右脚で相手の足を払う。掠れば下半身が吹ッ飛ぶ。オレ達の戦ッてのはそういう世界だ。
くるりと身を捻るように避ける鬼の小僧。同時にヤツは半歩距離を取る。間合いが開けば負ける。逆に密着すればこッちの勝ちだ。歩を進めて、確実に殺す。
コイツは詰将棋だ。
着地した右脚に重心を預け、無造作に右腕を振る。半歩下がった小僧には当たらない。普通なら。
(死ね)
ぶちりと右手の指が千切れる。否、千切った。指を形成している筋肉を骨に食い込ませ、指をふッ飛ばして逃げ場を無くす。触れたら腕の一本くらいは持っていけるだろう。
ずるりと指が生え始める。再び右脚に力を込め、今度は左に身体を振る。ぶちぶちと右足首が悲鳴を上げるが、知ッたことか。その内治る。
普通の人間に、否、他の忍びですらこんな真似は出来ねェ。このオレだけのもの。超再生能力。人外の力。この小僧を遥かに上回る性能。
飛ばした指を避けるためにしゃがむ小僧。馬鹿め。狙いに掛かったな。
そのまま、左足でしゃがんだ小僧を薙ぐ。膝を曲げた状態では下がる事もできない。身体を上に伸ばせばオレの指に当たる。後ろに飛んで下がればこの場は凌げる。が、宙に浮いたままでは次の一撃を避けられない。そのまま追いついてお仕舞だ。
これで詰み。一巻の終わり。
(へッ、楽な仕事だ)
しかし、直撃の数瞬前。
小僧が溜息をついた。
ゆらりとその影が揺らめいた。次の瞬間、鬼の小僧の姿が消える。
直後、オレの視界が真っ二つになり──
──え?
8
一瞬のうちに生じた凄まじい竜巻が部屋の中を荒らし廻り、畳と障子とついでに私が外に放り出された。地面に後頭部を打ち付ける。ぐるぐる回る視界の中、青空と太陽が眩しい。周囲からは蝉の声が染み渡り、青い草木の匂いが鮮烈だ。夏の訪れを感じさせる。
どさりと地面に倒れた感覚だけはあった。わたしは何が起きたかも解らず、節々に痛みを感じつつ起き上がった。
知らず知らずのうちに小さくうめき声を上げていたわたしは、痛みを堪えながら恐る恐るの中を覗く。一体全体、何がどうしたのだ?
無秩序の極みと化したわたしの部屋は、部屋中の壁に血と内臓がこびり着いて、まるで地獄絵図だ。
その真ん中で鬼の彼が、石丸の頭を丁寧に丁寧に擦り潰していた。
「応。無事か」
血塗れのまま、鬼の彼がこちらを覗き返してくる。
「はい、なんとか。えっと」
「すまんな」
「いえ、その、こちらこそありがとうございます……そいつは」
嗚呼、と溜息交じりに、わたしではなくそのわたしの周囲の虚空を見つめながら、諦めたように言う。
「こいつは追手だ。
抜け忍。忍びか。道理で化け物じみた……否、恩人をそんな風に思うなんて。
「……だから、こっちの責任だ。あんたは悪くねぇよ。すまん」
血溜まりに佇む彼はとても悲しそうに、わたしを見つめる。
返す言葉が見つからない。
今日び抜け忍とは。戦に参加すれば食い扶持は幾らでも稼げるというのに、自ずから辞めたのだ。わたしのような部外者においそれと言えない理由があるのだろう。
「えんが帰って来たらすぐ去る。もう迷惑を掛けるのは御免だ」
ここはあんたの好きにしろ、と言って、鬼の彼は石丸の死体をぽいと投げ捨てた。
9
夕暮れにえんと呼ばれる(抜け忍なら本名では無かろう)彼女が帰ってきた。客間の惨状に目を丸くしたあと、わたしの心配をして、それから悲しげに耳がしなりと垂れた。
掃除を鬼の彼に任せたわたし達は、居間で向かい合って座っていた。
「そうでしたか……巻き込んでしまって大変申し訳ありません」
「あの」
俯いたまま彼女は言葉を続ける。
「ここでのことは口外なさらず、わたしたちはいつの間にか居なくなっていた、と説明してください」
もし忘れてしまったらそれで構いませんよ、とも。
痛々しい姿だった。
彼女たちはこんな別離を繰り返してきたのだろうか。
すぐ色々な事を忘れてしまうのっぺらぼうには生涯無縁の感情かもしれない。忘れてしまえるわたしは楽なのかもしれない。現に、前に住んでいた里の人々の顔は思い出せない。だからきっと、この人達のことも忘れてしまう。
「不義理なお願いですが、覚えていたら、お願いします」
三指ついて畳に額を擦り付ける彼女を見ていられず、
「頭を、上げてください。お願いします。あなたは頭を下げるような事なんて何一つしていません」
それどころか、忘れてしまうわたしを助けてくれた。だのに頭を。
それはおかしい。
だから、
「子供たちのお勉強は、わたしができる限りお手伝いします。だから、ご安心を」
少しでも。
安寧を。穏やかな日を願って。
忘れてしまうけど。それでも。
「ありがとうございます」
彼女は笑ってくれた。いつか忘れてしまうけど、その日までは覚えておこう。
「では、弔って参ります」
そう言って、彼女は立ち上がった。
10
ちりん、と風鈴が鳴った。
いつの間にか朝になっていた。いつ床についたかは覚えていなかったが、どうせ忘れてしまったのだろう。
乾いた喉を潤すために台所へと向かう。
台所へ向かう途中に、誰も使っていない客間と思しき部屋がある。障子の無いその部屋を通りがかる度、壁の赤い染みが目に入る。前の住人が何かしらの理由で刃傷沙汰を起こしたのだろうと想像がつく。
まぁ。こんな時世だ。戦の火種は燻るどころか煌々と燃え上がっている。すぐそこにある炎がたまたまこの里にまで移っていないだけだ。
古びた柄杓で水を一杯。ごくりと喉に通る感触を楽しむ。
「生温い……」
今日は暑くなりそうだ。
「おーい!」
声が響く。子供たちだ。
「のっぺら坊ー! 来たぞー!」
唖々、と呆けた声が出る。
「今日は何やるんだ?」「川行こう、川!」「秋まで外出たくなーい!」「えん、どこ?」「昨日の続き読んでよう」「今日は掃除だろー」
わいのわいのと騒ぎ立てる子供たち。
「今日は岩壁のお地蔵さんのお掃除にしよう。終わったら実った瓜がたくさんあるから、一緒にそれを」
瓜。地蔵。袈裟姿に編笠。刀。
刀?
なんだったろうか。
「うり!」「きゅうりだったら怒るぞ、のっぺらぼう!」「ほら、さっさと行こう」「本はー!?」「終わってから読めよ、のっぺらぼうー」
ある子はわたしを押し、またある子は引っ張る。
朝露に濡れた新緑を掻き分け、目の前に広がる天上楽土の如き瓜畑を横目に、岩肌に掘られた地蔵の元へと皆で歩く。
所々が風雨で削がれ、苔生した地蔵を前に、はてこれは誰だったかと思案する。
「のっぺらぼう?」
子供の一人がわたしの顔を不思議そうに覗き込む。
「ねぇ。えんは?」
「えん?」
なんだろう。
「忘れちゃった?」
忘れたのだろう。わたしはのっぺらぼうなのだから。
「そう……かも、しれない」
そうでないかもしれない。それすら判らない。
ただ、目の前にある、穏やかな貌の石仏だけは綺麗にしておこう。そう思った。
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