第29話 恋に落ちて

 一夜が明けて──。


 いつも通りの鐘の音で俺は目を開けた。習慣とは厄介なもので、アクシデントに見舞われて駆けずり回り、幾度も剣を振るってズタボロになった疲労感が残っていたとしても、時間が来れば目が覚めてしまうのだ。

 しかし、今日はまた少し異なる意味で、いつもとは違う……。

 宿の部屋の中には、俺ともう一人の姿があった。


「うん……もう起きるのか?」


 ベッドの上でぴたりと密着する心地よい人肌の柔らかさと、女性特有の甘い香りで、頭も身体もとろけてしまいそうだ。そして、腕で抱き寄せれば至福を感じ、雄の本能が満たされる。その手放しがたい感覚に俺は負けた。


「いや、習慣で目が覚めただけだ。流石に疲れたからもう少し寝る」


「ああ、そうしろ。私もまだお前に抱かれていたい」


「俺もだ」


 そう言って、腕の中のヒルダを抱きしめると、俺はまた目を瞑った──。



 夢うつつに聞こえた鐘は、六つ鳴ったようだ。昼時かと思いながら、俺は再び目を開けた。

 すると、紫の瞳が俺を見つめる。


「おはよう、グレン」


「おはようさん、ヒルダ」


「ふふ、お前は時々口調が年寄りくさいな」


「元はおっさんだからな。そっちこそ、いつの間にか貴様からお前に呼び方が変わってるぞ?」


「これは私なりの親愛の証だ」


 出会ったばかりの俺達だが、共に戦い、酒を酌み交わすうちに意気投合した。いや、俺に限っては一目見た瞬間に目を奪われた。ヒルダの戦士としての強さに……ではあるが、ともかく、俺達は自然と惹かれあい、一夜を共にし、愛し合った。


「不思議なものだ。まさか、お前とこんなことになるとは、昨日の今頃は思ってもいなかったぞ」


 俺の腕の中でヒルダが言う。


「そいつはお互い様だな。俺なんぞ、どうやって足掻いて生き残るかしか考えちゃいなかったさ」


「ああ、必死だったな。だから、私は思わず声をかけてしまったのだ。今思えば、その姿に惚れてしまったらしいな」


「あのズタボロの姿にか?」


「ああ、見事にズタボロだったな。ふふ、はははっ」


「ははっ、お前、ちっとばかし男の趣味がわりいんじゃねえか?」


「ふふ、いいや、私の目に間違いはない。この紫の瞳を見ろ。この目はな、邪な者を見抜くのだ」


 ヒルダは俺の胸に置いていた顔を上げると、その神秘的な紫の瞳で真っ直ぐに俺を見た。


「マジの話でか?」


「ああ、マジの話でだ」


 へえ、と俺もまじまじとヒルダの瞳を見つめる。と、その瞳が揺らいだ。


「そ、そんなに熱い目を向けるな。わ、私はその、この手のことには不慣れ……というか、初めてなのだ……」


 それは昨夜、抱いた時に分かっていた。今世に関しては……。


「前世では? その口調から察するものもあるがな。無理には答えなくていいぞ」


「ほお、懐が広いな」


「男の甲斐性ってやつさ」


「ふむ。ならば聞かせよう。私はな、とある国の王女だったのだ。その国の王家には紫の瞳を持つ者が時折現れてな。それがまた古からの仕来たりで継承権を塗り替えてしまうという困った代物なのだ。そんないざこざで凶刃に倒れて呆気なく死んだというよくある話さ。何の因果か、この瞳はそのままに転生してしまった、齢十四で非業の死を遂げた薄幸の元王女とでも言っておこうか」


「そうか、若いな。この世界に来てどれくらいになる?」


「そうだな……五年になるか?」


「五年か」


 それだけあれば俺はヒルダに追いつけるだろうか?


「ふ、お前また剣のことを考えたな? 分かりやすい奴め」


「ああ、すまん。前も今も、俺の人生は剣を振ってばかりだからな」


「よい、そんなお前に惚れたのだ」


 詫びると共に、俺はヒルダの髪に触れた。寝起きで少しばかり乱れてはいるが、艶やかな銀髪は美しい。ヒルダは猫のように目を細めて、それを感じているようだ。その様子が不意に愛おしくなって、俺はヒルダの額に口づけを一つした。


「しかし、前世では幼かったからにしても、この世界に来て五年も経つなら恋の一つもしていいと思うがなあ」


「だから言ったろう? この瞳の所為だ。ついぞ、そんな相手とは巡り合わなかったのだ。お前のように真っ直ぐな者はそうはいないし、私も女だ、強い男に惹かれるというものさ」


「剣術馬鹿って点なら自信はあるが、ヒルダより強い自信はねえぞ」


「ふふ、今はまだな。が、それも時間が解決してくれる問題だ。お前が私と同じレベルになった時……いや、もっと前に私を超えるかも知れん。お前のあの時の姿が目を瞑ればはっきりと蘇る。狂気すらも感じる強さへの渇望だったものよ」


「ま、似た者同士ってとこか」


「ああ、まさにな。しかし、ただ強さを求めるだけの男に惚れたわけでもないがな」


「へえ、俺にそんなにも魅力があるかねえ?」


「あるとも。あの時、お前の魂の輝きをも見た気がする。そんなことは初めてだ。それが決め手となったのさ。この男こそ運命なのだ、とな」


「魂の輝き……か」


 それがどんな感覚なのかはよく分からんが、結局のところ惚れた腫れたってのはそうゆうもんなのだろう。


「次はお前の話も聞かせろ。随分と女には慣れた様子だが惚れた女はいなかったのか?」


「いねえなあ。傭兵ってのは根無し草だからな。一つ所に居つくわけでもなし、特に縁もなしってところか」


「ほお、ならば行く先々で女を作ったということか?」


「いや、そういう商いをする女の所には行ったがな。軽蔑するか?」


「するわけがなかろう。やはり、真っ直ぐな男だということではないか。男の性は知っている。それをとやかく言うようでは女が廃るというものだ」


 まあ、悪い男に騙されて泣く女の姿を子供の頃からよく見た所為だろうか。そういう不義理には興が乗らなかっただけの話だ。


「それで、あの娘のことはどうするつもりだ?」


「あん? 何の話だ?」


「とぼけるな。あの金髪の娘だ。リーナ、と言ったか」


「はあ?」


「何だお前、気づいていないのか?」


「頼むから分かるように言ってくれ」


 あまりにも唐突な話題すぎて本気の本気で意味が分からない。


「鈍い奴め。ま、それはあの娘もだがな。どうやら、お前のことを好いているようだぞ」


 そんな様子はないと思うが? 思い返すが……ない、はずだ……。


「勘違いだろ?」


「さて、どうかな。だが、とやかくは言わん。これでも王家の出だからな。妾がいるなどよくある話だ。まあ、この話はいいか。そのうちはっきりするだろう。だが、私に傷をつけた責任はとってもらうぞ?」


「ああ、そっちの話なら当然だ。俺も大歓迎さ」


「くっ、しれっと言いおって……」


 俺にしても本当の意味で初めて抱いた女だ。抱くと決めた瞬間からそのつもりだ。


「聞いてなかったが、ヒルダに仲間はいないのか?」


「いないな。いくつかの柵はあるが、仲間ではない」


「直近でやることは?」


「特にないな。王都からたまたま仕事で来ての今回の出来事だ。仕事は終わったから予定もない」


「んじゃ、問題ないな。暫くは俺のとこにいるってことでいいか?」


「い、いいのか……? その、なんと言おうか……押掛け女房的な……迷惑にはならんか?」


「それを聞くのは俺の方だ。知っての通り、俺は駆け出しだ。甲斐性って意味でも、ノルマに関しても、ヒルダの足を引っ張ることになるんだ。だが、追いつけるように努力はする。ということで、不都合がなければ俺のとこにいてくれ。まだまだ抱きたらねえ」


「──ば、馬鹿者が……こ、このスケベめ……。だがまあ、私も同じだ……だから……お前の元にいよう……」


 本来の堂々たる姿が嘘のように、ヒルダは顔を赤らめて、言葉尻が小声になってゆく。俺にしたって恋だの愛だのとは縁のなかった人生だった。この世界に来て、また一つ。俺は得難いものを手に入れたのだ。


「ああ、俺の傍にいろ」


 そう言って抱き寄せると、俺はそっと唇を重ねるのだった。

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