不視の岩・不死の身体・不知の闇
平河弥雷が空を見上げる時、【それ】はいつも、彼女の視界のどこかに映る。【それ】は形の詳細を表現するにはあまりにも複雑すぎて、七歳の彼女に理解することはできなかった。
しかし恐怖は無かった。ただ、空に浮かぶ【それ】に引き込まれる何かを感じ、それが何かもわからずに、その浮遊物に魅了されていたのだ。彼女はまだ、思考や感情のコントロールを上手くできてはいない。中途半端に表現することしかできなくて、いつも周囲の人間を困らせてばかりだった。
だが、【それ】を認識する時、思考も感情も一切表せなくなる。頭に浮かべたそれらを外に出そうとする瞬間に、何もかもを奪われてしまうのだ。幼い考えも、拙い感情も、【それ】を前にしてしまった際に全て失くなる。
おかげで【それ】の存在を、彼女は他の誰かに伝達することができないでいる。彼女が【それ】の存在を認識し始めた六歳の時、他の誰かにこのこと伝えようとしたが、結局それは失敗に終わった。伝えようとする際、どういうわけか【それ】を言葉で表すことができなくなる。いや、最初からそれを言葉で表そうとするところから違うのかもしれない。彼女が【それ】について説明する時、いつも空を見上げて【それ】を探す。頭の中に姿形を焼き付けておけば、そんな手間はかからないわけで、おまけに【それ】に思考や感情の一切を奪われることもないわけだが、それは難しかった。説明する際に、つい【それ】を探してしまい、結果、何も話せなくなって終わるのだ。彼女の語彙力は大人のそれに比べれば途方もなく拙いものであり、【それ】を「大きな岩石が浮遊しているようなもの」だと形容することすら叶わない。
そしてそのうち、彼女は他人にこの事を伝えようとするのをやめた。【それ】が見えるのは恐らく自分だけなのではないかと考えるようになった。外にいれば、【それ】は見える。だが、誰もその方向を見ようとしないことに、ある日気づいたのだ。更に、【それ】は空に浮かんでいる。だが足元を見ても、【それ】が落とす影は何処にも見当たらない。彼女ではない他の子供であれば、影が無いことに対して違和感すら持たないだろう。そういうところからしても、彼女は特殊だった。
彼女には兄妹の類の存在がいない。加えて友人の類も同じくいない。
いや、正確に言うなら、いた。
ただ、自分から離れた。友人を失うことを恐れたのだ。そして自分から手放した。
自身の秘密を言いはしない。
寧ろ話せば彼らは離れていく。
それが何よりも恐怖だったのだ。
恐怖から逃げるための措置だった。
ここまで、平河弥雷の七歳の出来事。
小学一年生らしからぬ、諦観に満ちた選択であった。
窓の外に月が浮かぶ。
丸い月だ。明るい月。
彼女はベランダにてそれを眺め、静かに思いを馳せる。しかし、未だ宙に浮かぶ【それ】が視界に侵入し、考えは消え失せる。「宙に浮かぶ大きな石の様なもの」という認識が彼女の中ではもう確立されていて、それこそ見え始めた当初はその神秘さに惹かれたものの、流石に見飽きていた。月を眺めるのが好きになっていた彼女にとって【それ】は、時々月を彼女の視界からまるごと隠してしまう邪魔者でしかなかった。
そんな邪魔者を尻目に、まだ隠されていない満月に意識を戻し、再び考える。
交友や恋愛のような人間関係のことではない。既にそれは一年前に諦めてしまっている。他人のことではないのだ。思いを馳せるのはあくまでも自分自身の話。
あれが見える自分は何者か。
あれが見える自分は異常か。
あれが見える自分は特別か。
月を眺めると、彼女はそういう考えを延々と続けることが出来る。
【それ】が月を隠すまでは。
しかし今日もまた、【それ】は月を隠してしまった。カーテンを閉め、ベッドに向かう。もう自分自身の存在については一切考えられなくなっていた。月だけが自身の考えを整理してくれる、最高で唯一の相談相手なのだ。
ベッドに潜ろうとした時、微かに外で音が聞こえた。
本能的な感覚が働く。
そして彼女に囁いた。
足音が二つある、と。
ベッドを飛び出し、窓に向かうまでの間も、その音は大きくなっていく。同じようなリズムで刻まれるその音は、僅かに二連続して聞こえた。
他人には見えない物が見える彼女だが、若干の恐怖は感じていた。もしやあの浮遊物から何かが出てきて、ずっと【それ】を見続けていた私を捕まえに来たのではないか。私は死ぬのではないか。
しかしそれらの恐怖を凌駕する好奇心があった。
彼女は逃げずにいられない。
彼女は見ずにはいられない。
その正体を、彼女は知らずにいられない。
窓まで駆け寄った時、その音もガラス越しに目の前で鳴り止んだ。彼女にはそう聞こえた。金属製のベランダ柵を叩いた時と同じ音を聞いたことがあるからだ。
そしてカーテンを開ける。
少しの月明かりに照らされた空が見える窓の中に、黒いものが見えた。月明かりを吸い込み、微動だにしないその影は二つ。人の形をしていて、弥雷の体の二つ分はある。だが彼女にはとてつもなく大きく見えた。
体は動かなかった。彼女の特殊性は意味を成さなかった。そもそも他人よりも多くのものが見えることがそんなに良いとは限らない。
辛うじて眼球だけが自由になっていて、そこに気づくと咄嗟に、窓には鍵がかかっていることを確認した。
直後、鍵が独りでに動いた。見えない糸が取り付けられているように、ゆっくりと、鍵は動く。そうして鍵を開けられてしまった。
悲鳴をあげようとした。
声が出ない。自由なのは未だ眼球だけで、静かに窓を開けていく影を見ることしかできないでいる。
影が迫ってくる。ゆっくりと迫ってくる。視界が暗くなる。視界が黒く埋め尽くされていく。
ゆっくりと、影が、視界を、占領する。
私は。私は。
私は。
私は何者?
……………………。
……暗い。
……黒い。
……暗黒。
……暗闇。
目が開く。
強い揺れを感じ、開きかけの瞼が一気に開く。
次に風を感じた。髪が棚引く。冷たい風だ。
全身に感覚が帰ってきた。揺れの感覚も強くなる。
誰かに抱えられていて、彼女を抱えているその人が動く度、上に、下に、体が押さえつけられる。体全体が浮く感覚に襲われた時には、体の中にある物までもが体内で宙に浮いている感覚すらした。
鋭い金属音が連続する。宙に浮く感覚も、間隔を空けつつ連続する。その感覚を縫うように、低くテンポの早い足音が体にまで響いてくる。足音の種類があまりにも多いように感じられた。軽い音から重い音まで。高い音から低い音まで。足音が何もかも違う。一体どれほどの人間が、この夜のなかを駆け抜けているのかわからないくらいだ。バラバラの足音。間隔も高さも大きさも何もかもがバラバラの足音。
時折声のようなものが聞こえる。断片的にしか彼女にはわからなかった。次元。同期。目的。少女。しかし、これらは声ではない。彼女には何故かそれすらもわかっていた。音として発される言葉ではない。直接頭に入ってくる。根拠はない。言葉を発した者の口は動いていなかった。直接見たわけではないが、彼女にはわかった。
また宙に浮く感覚。今度は割と長くて、少し息が詰まりそうになる。かと思えば強い衝撃が体中に染み渡ってきて、一瞬だけ顔の筋肉が狂いそうになる。
心なしか風当たりが強くなってきた。弥雷を抱えているこの人間自身が速く走りだしたからかもしれない。
やがて速度が落ちていく感覚がして、唐突に速度そのものが失くなった。
「連れてきたぞ」と、弥雷を抱えている少年が声を張る。金属音もいつの間にか止んでいた。
少女を抱えていた少年が、彼女が意識を取り戻していることにようやく気づく。そして地面に降ろした。彼女は何も理解していない。理解するだけの能力はないし、理解できるような多さの情報量ではない。
だが、恐怖もなかった。単に恐怖そのものを理解できていないだけかもしれないが、無意識に何かを怖がるくらいはあってもいいはずだ。だが、それすらないのだ。
辺りはとても広い。少なくとも彼女にはそう感じられた。一見すればただの空き倉庫だが、幼い彼女にそんなことはわからない。ただ暗く、広く、不気味な空間。その奥に不気味なかぶり物をした背の高い男がいて、少年が彼女を下ろす前からこちらにゆっくりと歩いてきていて、地面に足を着いた今、目の前に立っている。
とりあえず彼女自身は、何かを感じていた。それが何なのかわからない。恐怖が湧いてこないとはいえ、感じているこの何かが恐怖だと認知していないだけかもしれない。
だがそれとは別に好奇心は旺盛だった。ここに来るまで、様々な出来事が一瞬で過ぎていったわけだが、それら全て対して、疑問を持っていた。しかし言葉に表せない。
「はじめまして。平河弥雷。私は君が求める答えを何でも知っている。君が訊きたいこと、知りたいことを、私はなんでも答えてみせよう」目の前の男はしゃがんで、彼女との目線の高さを合わせる。それによって、少女の方も、彼の眼をじっと見ることしかできなくなった。
だが気になることは山積みだ。
だからこの男に問う。
だれ?
「私はこの世界における物知り博士みたいな存在だ」
どうしてなまえがわかるの?
「私が物知りだからだ」
ならば自分が抱えてる問題についても、なんでも知っているかもしれない。
そとにへんなものがみえるの。
「君にも見えるんだね。ここにいるみんなが、君と同じものを見ている」
彼女は一瞬だけ安堵した。もっとも、安堵の感情を、彼女が認知していればの話になるが。
わたしだけじゃない?
「そうだ、君だけではない」
ますます安堵の感情を表した。そこでやっと、自分でも気づいた自分が安心していることに。今まで抱えていたわけのわからない感情も、消え失せていた。
質問に答えた彼はというと、しばしの間、固まったままだった。
なにか変なことを聞いただろうか? と、彼女は考える。
だが、それも束の間だった。しゃがんでいた彼が立ち上がり、口を開く。「それでは、始めようか」
「何を始めるつもりなんだ?」と、背後にいる少年が訊く。その時にはもう、その男は彼女の頭に手をかざしていて、それがとても眩しかった。
目がくらむ。
たまらず目を閉じる。
それでも眩しく感じた。
耳元で、言葉が一つだけ聞こえた。
複製。
そうして彼女の意識は完全に途絶えた。
目が覚めた。
普段通り布団に潜っていて、明るく光るカーテンが見える。目覚ましをいつも設定しているが鳴っていない。
設定していた時間の、およそ三十分ほど前だった。
起き上がり、ベッドに腰掛ける体勢に変える。昨日の夜について、何かを忘れている感覚がした。意識も記憶も、穴のように抜け落ちていて、もともとそこに何があったかすらわからない。そのうち、そもそもそこには何かあったのだろうかと考えるようになった。
カーテンを開ける。
雲が一つもない。
まだ完全な青空ではない。白味がかった水色の空。
何もない、と彼女は思った。
そしてすぐに疑問を抱いた。
何かあっただろうか? 何かが浮かんでいただろうか? 本当に空には何もなかったのだろうか? 私は何かを見ていただろうか? 空の中に、私は何かを見ていただろうか? 私はどうして、あんなに空を見上げていたのだろうか?
疑問は泡沫のように、浮かんでは消えていった。
その泡沫さえもなくなっていく。
そうして思いだした。
学校に遅れてしまうことに。
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