【2-1】遠慮なければ近憂あり?

  気づくといつのまにか梅雨が始まり明けていた。そのうちすぐに夏が来る。


  月曜日の今日は、朝からヘブンスへ出社して竹内部長へ近況報告に行って、終わり次第LOTUSへ出社の予定。久しぶりの酷い満員電車に、ヘトヘトになりながら会社にたどり着き高層ビルを見上げると、小さなため息が漏れた。

  ちょっと前までは一日でもいいから早く帰りたかった場所。でも、今はなにかが違う。でもまだそれが何なのか、はっきりとはわからない。


「おはようございまーす」


  広いフロアに俺の声が響く。ちらっと見るだけの人が大多数。返事はほとんど返ってこない。

 そうだ…… ここはこういう職場だったんだ…… LOTUSはみんなが挨拶を返してくれるけど、ここは違う。

  でも、ただ一人ハイテンションの挨拶が返ってきた。


「梅村先輩!あざーっす! どうしたんすか? 今日?」


  出向になってから初めて面と向かう原は、人懐っこく笑顔を向けてきた。

 でも……


「おはようございます。どうされたんですか? だ」


  即言葉遣いを直させた。俺が居た時より酷くなっている。

 新しい教育係は一体何をしてるんだ?


「竹内部長への挨拶と報告に来た。昼前には帰る」


「えー。そんなに早く帰るんすか?お昼一緒に行きましょうよー」


  こうやって軽々と先輩をランチに誘える後輩が居れば、自分の秘書を誘うのに恐る恐るな社長もいるから、面白い。


「今日は無理だ。弁当持ってるし」


「マジっすか。彼女さんお手製っすか!?」


  彼女になって貰いたい人は居るよ。アタック出来なかったけどね!

 お祝いだって食事奢ってもらっておいて、つきあってくださいって流れは普通ないからね!

 決戦は次回に持ち越しだけどね!と愚痴りたくなったのをぐっとこらえた。


「うるさい。俺のお手製だ」


「すげー。弁当男子じゃないっすか」


  言葉遣いを直すのは今日は諦めよう。酷すぎる。






  原の席に荷物を置かせてもらうと、部長室へ行き扉をノックした。


「失礼します。梅村です」


「どうぞ」


  部長室に入ると、竹内部長が待っていた。


「久しぶりだな」


「報告に伺うのが遅くなりました。申し訳ありません」


「大体は久田から聞いている。だいぶLOTUSの社長から信頼され始めたらしいな」

 

  その言葉で、背筋がなぜかヒヤリとしたのは気のせいだろうか……


「ようやく秘書業務に慣れて来ましたので、そう見えるのかもしれません……」


  謙遜すると、竹内部長は満足げに頷き、俺に質問を始めた。


「今はどっちの業務の比重が大きい?」


「企画開発です。今、一案件を先輩社員と共に任されましたのでそちらを主にやっています」


「そうか。成功するといいな」


  成功させろとは言わなかった。要は、それが俺の帰還要素には繋がらないんだろう。


「……で、どうだ? LOTUS社長は?」


  その問い掛けに、どうやって答えようか一瞬迷った。


  一昨日の夜、蓮見さんにバーに連れて行ってもらった。

 高校時代の友人がマスターをしている、こぢんまりとした雰囲気のいい店だった。

  『俺の秘書』と紹介してもらえた時は嬉しかった。淡い夢を持っていたバーでのひと時。

 焼酎や日本酒をベースに、アルコールは薄めで!とバーに来るような人間ならあまりしないだろう注文を平気で出す蓮見さんに、マスターは文句を言いながら、ちゃんと作る。楽しげに冗談を言いあう姿は、気の置けない友人同士そのものだった。

  少し飲みすぎた蓮見さんを家まで送り届け、ちょっと散らかってた部屋の片付けをしてから帰った。

 ……というのは想定外だったけど。


「とても優秀で、尊敬に値する方です」


  それは本当。正直、俺が秘書なんてしなくても、自分で全部出来るんじゃないかってくらい仕事が出来る。でも、それじゃ疲れる。いつかショートする。だんだんと俺を頼ってくれるようになってきた。それが本当に嬉しい。

  だからこそ、絶対に言えない。お酒に弱い、すごく優しい、人懐っこい、なのにクールで隙のない冷静で時に冷酷な孤高の社長のフリをしている。だなんて……


「そうか。引き続き頼むぞ。報告は基本的に竹内にあげれば大丈夫だ。また顔を出しに来てくれ」


  ヘブンスへの帰還のことが一切出なかったことに、内心ホッとしている自分に気づいた。

 今はまだ帰りたくない。原のことは心配だけど……


  部長の携帯のバイブ音が響いた。これはもう退出したほうがいい。


「はい。では、失礼します」






「先輩、もう帰るんすか?」


  原の席に荷物を取りに行くと、引き止められた。


「もちろん。ここから1時間かかるんだ、LOTUSまで」


「遠っ!え、田舎? でも、もうちょっとくらい、よくないっすか」


「何か聴きたいなら教えるから、なんだ? なにを聞きたい?」


「えっと……」


「無いなら、もう行くぞ」


「えぇ…… いいじゃないっすかもうちょっと」


  やけにしつこい。

 もしかすると、メールとかでは見えてこない不安とかがあるのかも……

  聞いてやらないと……


「わかった。今日は無理だけど、飲みに行こう。OKな日連絡して」


「やった!了解です!」


  後ろ髪を引かれながらも、俺は今の職場へと戻った。






「どうだった? 久しぶりのヘブンスさんは」


  午後イチ、社長室に挨拶に向かうと開口一番にそう聞かれた。

  背筋が冷やっとした。さっきも竹内部長に聞かれたときになった気がする。

  なんだろう……


「改めて、無駄に広くてデカイなと……」


「社員だけでうちの10倍以上だもんな。そういえば、置いてきた後輩くんは元気だった?」


  数回しか話したことがない原のことを覚えているその記憶力に驚いた。


「……なかなか返してくれませんでした」


「……大丈夫? その子」


  それは俺も思う。不安だ。


「もうしばらくフォローします。今度飲みに行って、しっかり話を聞いてやろうかと思います」


「それがいい。いい先輩だな、翔太は」


「いえ」


  社長に褒められると本当に無性に嬉しい。でも、恥ずかしいからその感情を押さえつけた。


「……でさ、あのさ、何か言われた? あちらの部長さんから」


  やっぱり、社長は不安に思ってる。でも、そんな事は何も無い。


「久田さんが私の日報から竹内部長に報告を定期的にあげているようです」


「そっか」


「社長やLOTUSの不利になるようなことは一切書いておりません。私の自己反省のみです。もしご不信でしたら、報告をBCCで社長にもメール送信します」


  ……なんで俺はこんなにも必死になっているんだろう。


「大丈夫、ありがとう」


  俺は疚しいことなどしていない。思ってもない。でもなぜか心の奥底に微に不安が残る。

 信じてほしい。信用してほしい。

  俺のその不安を感じ取ったのか、社長は俺を安心させるように、穏やかに言った。


「今後も引き続きよろしくお願いします。秘書くん」


  俺を見る社長の目は、全く信じてくれていなかった時とは違う、優しい目だった。

 あの時の冷たい社長の目は嫌いだった。今の社長がいい。振り出しに戻りたくない、今のままがいい。

  だから、必死なんだ……






  その日の夕方、社長室に用事があると呼び出された。


「金曜日の午後、大丈夫?」


「はい。大丈夫です」


「じゃ、池谷ファーム訪問、予定に入れておいて」


「はい」


「今度は行きも帰りも迷子にならないように。いいね?」


  運転の練習だ。近場はたまに運転していたけど、久しぶりの2回目の長距離運転。今度こそ、しっかりやらないと。


「はい!」


「じゃ、この前OK出した商品案、持って行って。それと、現時点で追加提案はどういう状況?」


  それはあまり聞かれたくなかった……


「申し訳ございません。現在、ひとつが研究部確認中、もうひとつが浮田さんNGです」


「そっか。今、何を考えてて、止まってる原因は何か簡潔に言って」


  話し方は優しいけれど、きっちり厳しく仕事をする社長の姿勢は最初から変わらない。

 緊張感を持って仕事ができる。


「研究部確認中の物ですが、便秘薬か目薬をと思い、技術面と効能面双方を確認してもらっています」


  製薬会社らしく、ハーブの効能を活かした薬を作りたい。それで考えた案。


「了解。浮田さんNGの方は?」


  こっちは最初から自信がないアイデア。部長どころか課長NGで停滞。

 あまり言いたくないけど、言わないと。


「入浴剤か、ハーブティーを考えましたが、浮田さんからは、普通すぎて面白くないと言われました」


「確かにね。焦った? 焦ってやっつけ仕事は駄目だよ。商売だからね」


  穏やかに怒られた。その通りだ。焦って絞り出しただけ。どこにでもあるチープな案。


「はい。申し訳ありません……」


「行き詰まったら他の仕事するなり、その日は早く帰るなりしたほうがいい」


「はい」


「松田君はなんて?」


「社長と同じことを言われました」


「そっか」


  最近、なんとなく松田先輩と社長は似てるところがあるって思う。側にいる俺だけがわかること。

  その時、はっと閃いた。商品開発のアイディアじゃなくて残念だけど、こっちも大事。


「社長、松田先輩も池谷さんの所、一緒に行かせてもらえませんか? 現場を見た方がアイディアが湧きます。お願いします」


  拒否られるかも。でも、その不安は無用だった。


「わかった。翔太がそう言うなら。松田君も連れて行こう。事務室に篭ってばっかりだと、気分も滅入るしね」


  社長の味方を増やす絶好のチャンスが来た。

 社長は、松田先輩に対する罪悪感、抵抗感は無さそう。歳は一個しか違わないし、似てるところがある。絶対、仲良くなれる気がする!






水曜日、今日は原と飲む約束。

定時で仕事を終わらせて店に着くと、先にきていた原が元気よく挨拶してきた。


「お疲れ様です!」


言葉遣いはOK。


「お疲れ様」


とりあえずビールで乾杯。


「先輩、どうっすか? そっちのローストさんは」


ワザとなのか、マジなのかわからないけど、即ツッコミを入れた。


「ロータスだ! 環境は悪くないよ。人はみんな良いし」


「……良かったっすね」


笑っているが、眼が笑ってなかった。

やっぱり、何かある……


「……原、正直に話せ。大丈夫なの?」


言った途端、下を向いてしまった。やっぱりか……

軽い口を叩くのは、俺を心配させないため……


「……後任の教育係って誰だ?」


「特定の人は、居ないっす……」


「……2年目なのに? 上はなにやってんだ。ほっとかれてるのか?」


俺の時は3年目までは教育係が付いていた。

1年目と違ってつきっきりではないけど……


「何かあったら俺に言えって言ったろ?」


「……梅村先輩には、これ以上迷惑かけられないんで」


「……わかった。俺の同期のやつらに頼んでおく。そっちにも頼れ」


その場で、同部署同課の同期二人にメッセージを送っておいた。

二人ともいいヤツだ。悪いようにはしないはず。


「……すみません。ありがとうございます」


「何かあったら、ちゃんと言うこと。報・連・相は基本だ」


「はい!」


元の明るい原に戻った。それから、恋バナやら、上司の愚痴やら、色々たわいもない話をしていると、原は突然思い出したように切り出した。


「……そういえば、うちのあんまりよくない噂を入手しました」


「……会社?部署?」


うちの部署といっても、軽く50人はいる。そして中で細かく分かれていて、新人の時、全体像を掴むのに一苦労した記憶がある。


「部署です。俺の同期の教育係の先輩の同期の方の話なんすけど」


「ややこしいな」


人が多すぎる。半分以上人の名前も顔もわかっていない。


「とりあえず、社内の知り合いってことで」


「うん。で?」


「梅村先輩より5個くらい上なんすけど、同じように突然出向命令が出て、3年帰ってきてないらしいんす。表向きは武者修行だって話らしいんすけど、どうも実際はスパイさせられてるんじゃないかって噂で」


心臓がドクンと鳴った。『スパイ』聞きたくない言葉だった。


「……個人情報取ってくるとか、技術を盗むとかさせられてるってことか?」


『盗めるものなら盗んでみろ』 と冷えた目でニヤリとした社長を思い出した。

嫌だ。あの社長は嫌いだ。もうあの社長は見たくない……


「……じゃないっすかね。でも、それで何するつもりなんすかね」


噂は噂で、本当であって欲しくない。俺はスパイになるためにLOTUSに出向したんじゃない……


「先輩、俺、調べてみます!」


俺の不安を察知したのか、原はとんでもないことを言い放った。


「は? 危ないことするな。うちは業界最大手だ、何かあったら……」


ヘブンスをクビになるのは勿論、全てに手を回され、同業界から追放され、再就職は叶わない。そんな恐ろしい未来しか見えない。


「大丈夫っす。先輩。俺、こう見えても、バカじゃないんで」


親指立てて、ドヤ顔で言われたけど、そんなことはわかってる。出身大学は有名私立大学だし、なんてったって、ちゃんとヘブンスに入れたんだから。

でも……


「不安なんだよ。お前が……」


「え。どこがっすか?」


「言葉遣いが悪い。態度が軽い。見た目がチャラい。それで誤解される。それが不安なんだよ……」


でも、伸び代があって鍛え甲斐があると思った。だから、辞めて欲しくない。だから、今面倒見てるんだ。


「大丈夫ですって! ところで先輩。いい情報見つかったら、おごってくださいね!」


プラス思考なヤツだ。甘えるのが上手い人誑しだ。人間関係の事は、あんまり心配しなくていいかもしれない。


「わかった。てか、今日も俺のおごりだろ?」


払わせるつもりは最初からなかったけど。


「あざーっす! 梅村先輩、一生付いてきます!」


「だから、言葉遣いに気をつけろって何回言えば……」


「善処します!」


「もういい。とにかく、がんばれよ」


「はい!」


スッキリした顔の原に俺は一安心して、家路に着いた。






今まで夢の中で見たことのある人、聞いたことのある声が入り混じる。


『図に乗るんやない!』

『仲良うしたってな……』

『おまはんに、全部任せるわ!』

『これ若旦那さんにもろた。一緒に食べよ……』


今まで見たことのない人の顔、声が通り過ぎる。


『おまはんは仕事がよう出来るなぁ……』

『店も安泰や……』

『疫病神!お前のせいや!』

『某が、お助け致します』


嬉しさ、楽しさ、悲しさ、怒り、申し訳なさ、恥ずかしさ、恐怖、罪悪感……

あらゆる感情の全てが押し寄せてきた。

そして、不気味な音を立て闇がやってきて、俺を飲み込んだ。


苦しくはない。でも抜け出そうとは思わない。どうでもいい……

眼を瞑って身を任せようとした時、一筋の光が見えた。


暖かい、柔らかい光…… その中から、誰かがこちらに手を伸ばしている。

誰だろう…… 光で見えない。

わからないけれど、その暖かな柔らかな光に惹かれて、俺も手を伸ばした。


でも手は届かず、俺は、完全に闇に飲み込まれた……






ぱっと眼が開いた。

部屋の時計を見ると、ベッドに入ってからまだ30分しかたっていない。

最近はハッキリとした夢ばかりだったのに、さっきのは曖昧すぎて意味がわからない。

そもそも、なんでこんなに夢ばかり見るんだろう。昔から見ていたあの夢は全く見なくなった代わりに、毎回違う夢を見るのはなんでだろう……


うだうだ考えながら眠気がもう一度来るのを待っては見たけど、ダメだった。余計眠れなくなるってわかっていたけど、スマホを手に取った。

夢のことでも、調べてみようか……


「あっ」


赤城さんからメッセージが来ていた。


『アイデア煮詰まって疲れてない? 大丈夫? よかったら、日曜日、気分転換に行かない?』


モヤモヤが吹き飛んだ気がした。OKに決まっている。返事を返そうか……

いや、今はもう夜中だ。やめよう。

また長い時間、赤城さんと二人で居られる。楽しみだ……


暗いことは忘れ、明るい楽しいことに想いを馳せるうちに、いつしか眠りに落ちていた。

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