【1-7】酒は愁いを掃う玉箒……
意を決して、エントランスに入った。
「何号室です?」
答えは返って来ず、なぜか肩に重みを感じた。俺の緊張なんか全く知らない社長は、立ったままうとうとしている。酒が入ると眠くなるタイプなんだろうか?
「ちょっと! まだ寝ないでくださいよ!」
「寝てない。ここまでで大丈……」
言ったそばからまたうとうと。こりゃダメだ。ここでハイさようならなんて出来ない。
「御自宅は何号室ですか?」
「503……」
「ありがとうございます。どこが大丈夫なんだよ、もう……」
頭と身体はしっかりしているが、俺も酒が入っている。
ついつい失礼な口の聞き方をしてしまった。こんなんで人に『話し方に気をつけろ』なんて言えないな……
社長は怒らず、逆に謝った。
「……ごめん」
「さ、行きましょう」
エレベーターで5階まで上がり、部屋を探す。503、503…… あった。
カードキーを差し込み扉を開けると、センサーで玄関の電気がついた。さすが高級マンション。
奥へ進むと、明るく照らされたリビングが。俺の部屋とは比べ物にならない広さ、カッコいいインテリア、大きなテレビ…… しかし、お世辞にも綺麗とは言えず、結構散らかっていた。
俺の目線に気づいたのか、社長は言い訳を始めた。
「……忙しくて、掃除と片付けする暇がなかった」
今週1週間の社長のスケジュールは把握している。職場から帰るのはほぼ毎日21時を過ぎていたし、今日の接待のために気を張っていた。だからこそ余計に少量で酒が回ったのかもしれない。
俺は何も言わず、ソファーの上に散らかっている雑誌やダイレクトメールを隅に避けて社長を座らせた。
「水、飲まれますか?」
「冷蔵庫にミネラルウォーターがある…… 」
「キッチン入りますね」
隣のキッチンは綺麗。ということは、使ってないんだろう。
冷蔵庫を開けてみて予想は的中。飲み物類しか残っていない。
ミネラルウォーターに、ジュースに缶ビール…… 全部外食で食事を済ませる人の冷蔵庫だ。
社長の食生活、大丈夫かな? 朝はどうしてんだろう?昼ごはんは毎日一人で何食べてんだろう?夜は毎日外食?
ピーッという冷蔵庫の開けっ放しを知らせるアラームで我に帰った。
こんな事考えてる場合じゃない。俺が取りに来たのはミネラルウォーター! 急いでコップに注いだ。
リビングに戻り、ソファーに座っている社長へ水を手渡した。
「ありがとう……」
社長はやっと人心地ついたらしく、俺もこれで一安心。
さて、どうしよう。タクシーは深夜料金で絶対高い。経費請求できるかも正直怪しい。自腹ならやっぱりマンガ喫茶かな。
「……明日の予定は?」
スケジュール管理は先日俺が引き取った。でも手帳がなくても誰だって明日の予定はわかる。
「明日は土曜日です。何もご予定はありません」
「俺の仕事の予定じゃない」
……俺?
いつもと一人称が違わないか?
「会社ですか? 明日は土……」
酔ってて曜日の感覚が狂ったかな?
「俺は翔太の予定聞いてんの!」
そうじゃないらしい。それと、一人称がやっぱり違う。いつもは「私」と言ってる。
それに、今なんて言った?
「えっ?」
「翔太の予定!」
この人は、なんで俺の下の名前を呼び捨てにしてるんだろうか。
「……私の、ですか?」
ようやく「梅村」と呼んでもらえるのに慣れて来たところだ。ちゃんと呼んでもらえることが、嬉しくてしょうがなかったのが、ようやく落ち着いて来た。なのに突然の名前呼び。びっくり。俺の名を呼び捨てにするのは俺に近い人だけ。仲のいい友達、父親、母親、姉さん、親戚……
今、社長は距離が徐々に縮まって来てはいるけど、一番遠い存在。なのに……
「えっと、特には……」
動揺を押し隠し、明日の自分の予定を思い起こした。部屋の片付けと掃除をしなきゃいけない。足りない物の買い出しに行かなきゃ。あとは……
「じゃ、いっか」
は? ちょっと待って、何がいっか?
「終電もう終わってるでしょ。タクシーとか、ホテルとか後で経費精算面倒じゃん。だからさ……」
だから? だから、なんなんですか?
「飲もうよ、泊まってけばいいから」
この人は、酔うと話し方や言葉遣いが変わるみたいだ。
今後要注意と……
「……社長、もうすでにだいぶ酔われているようですが」
「酔ってない!社長って呼ぶの禁止!」
はぁ?
「では、なんとお呼びすればよろしいですか?」
若干投げやりに聞くと、
「堅っ苦しい敬語も禁止! ……てか、俺の名前、ちゃんと覚えてる?」
何なんだこのクダの巻き方は。もちろん覚えてるに決まっている。
ため息混じりに答えた。
「蓮見健一さん」
ニッと子どものよう笑った。
なんなんだよその顔は! 今まで一度もみたことないよそんな顔!
酔うと表情まで変わる…… と。
「正解!じゃ、飲もう!」
嬉しそうにソファーから立ち上がる社長。
慌てて止めに掛かった。
「ほんとに飲むんですか?」
「だって、まだ翔太と飲んだことないもん。飲みたいじゃん」
目の前の社長というと怒られる、蓮見さんと呼ぼう。
さっきの脳内メモは全部破棄して『酔いやすく醒めにくい、眠くなって、最後は人格が変わる』に書き換えだ。あぁ、まじでめんどくせぇ。こんな人に飲ませていいのか? 家だからいいのか?いや、俺がいるから俺が世話しないといけなくなるパターンだよねこれ。断ったほうがいい?でも社長の誘いを断ると怒られる? もう、どうしていいかわからない!軽くパニックだ!
俺が一人で猛烈に悩んでいると、蓮見さんは不安になったらしい。
「……翔太はさ、俺と飲みたくない?」
さも悲しそうにそう言うのは、『俺の酒が飲めんのか!?』とは真逆。
今まで受けたことのない攻撃に俺はやられた。なんだか可哀想になってしまった。
「いえ…… あの、そういうわけでは無いです……」
「じゃ、飲もうよ。何飲む?」
蓮見さんは嬉しそうに俺に聞いてくる。
もうどうとでもなれ。何かあったらその時考える!
俺は腹を括った。
「お任せします…… あ、お手伝いします!」
社長との記念すべき?初サシ飲みが、宅飲みになるとは全く思っていなかった。
高級なバーで…… と淡い夢を見ていた少し前の俺の頭を叩きたい。
初対面は最悪の印象。初運転で車が故障。初サシ飯はラーメンと餃子。初サシ飲みは宅飲み……
残る初は、泊まり掛けの出張同行くらい? それもろくなことにならないだろな……
でも先のこと考えても仕方ない。まずはこのサシ飲みを乗り切るのが先だ!
「お疲れ様でした!」
「お疲れ様でした!」
缶ビールでの乾杯で酒盛りが開始となった。
リビングのソファーの前のテーブルの上には、缶ビールと芋焼酎、そしておつまみが並んでいる。
もう逃げ場はない。もっと酔わなきゃやってらんねぇと、缶ビールを一気に飲み干した。
「お、いい飲みっぷり!」
「ありがとうございます!」
蓮見さんは少し時間をかけてビールを1缶開けた後、かなり薄い焼酎ソーダ割りを自分で作り、つまみを齧りながらちびちび飲んでいる。俺は焼酎ストレート。
「今日の接待、マジで付いて来てくれてありがとう!」
酔っ払いの言葉でも、嬉しかった。
「ありがとうございます!」
一気に焼酎を流し込むと、今度こそ本物の酔いがやって来た。
「酒強いねぇ。羨ましいなー」
注いでくれる焼酎を、今度はゆっくりありがたく頂く。
「社…… 蓮見さんは、弱いですね」
思い切ってそう言ってみると、蓮見さんは笑って言った。
「バレた? うん弱い。すぐ眠くなるし、強い洋酒は飲めないからマジでキツイ。友達との飲みはいいけど、付き合いで飲むとさっきの西方さんみたいに、ウイスキー大好きな人とかウォッカとか洋酒ばっか飲む人とかいるからほんと辛い」
ウンウンとその愚痴を熱心に聞く。
「でも、飲むの好きだから、なんでこんな体質なんだろって…… たまにイヤになる」
やっぱり好きなんだ。好きだけど弱い残念な体質ってことか。
「辛いっすね。社…… じゃなかった。蓮見さんは、もっぱらひとり酒です?」
会社以外での姿を見たことがない。いつも一匹狼の社長のことだから、誰かとワイワイなんて……
「しないよ!お酒が好きっていうより、誰かと飲むのが好きなの。だからひとり酒はしない!だから、今日は翔太誘ったの!」
おっと、すごい予想外だった。この酒は友達と飲むためのストックか。
俺は蓮見さんの友達じゃなくて部下。さらについこないだまで警戒されてた人間だ。なのに今一緒にサシで飲んでいる。ものすごい進歩だ!
「お誘いありがとうございまーす!」
「お付き合いありがとうございまーす!」
また謎の乾杯をし、酒を飲み進める。
俺ももうだいぶ酔い始めた。日本酒にウイスキーにビールに焼酎なんて完全にちゃんぽんだ。
まだ頭がはっきりしてる今のうちにひとこと言いたい。
「あの、蓮見さん」
慣れない呼び方で呼んでみる。
「なに?」
蓮見さんは俺よりもずっと酔っている。明日になればこの酒盛も覚えてないかもしれない。
忘れられても構わない。でも言いたかった。
「俺、もっと頑張ります…… だから、もっと頼って欲しいです……」
一瞬、真面目な表情になった気がしたけど、すぐにニッと笑うと俺の頭をガシガシと乱暴に撫でた。
「翔太はもう十分頑張ってる! でも、その気持ちが本当に嬉しい!ありがとう!」
酔っ払いの絡みだけど、嬉しかった。
俺には姉さんしかいないけど、兄さんがいたらこんな風だったのかな……
「そうだ! 今度、さとにぃに合わせるよ」
蓮見さんは突然そう言った。
「え? 誰っすか?」
誰だろう。さとにぃって……
「俺の従兄弟の兄ちゃんで、弁護士やってもらってるの。ずーっと翔太に会わせろって言ってたからさ。今度会わせるよ」
そうだ。弁護士の先生にはまだ一度もお会いしていない。同席をずっと拒否されていたから……
これも酔っ払いの酒の席での戯言だろう。あまり期待せずに適当に返した。
「楽しみにしてます!」
夜中の3時を過ぎた頃、社長はまたうとうとし始めた。
結局飲んだのはビール1缶と焼酎ソーダ割り1杯だけ。やっぱり弱い。
でも、俺も相当酔っている。そろそろお開きだ。
「蓮見さん、こんなとこで寝たら、風邪ひきますよ…… どこです? 寝室」
「そっち…… 奥……」
結局ベッドまで送ることになった。引っ張って立たせ、玄関の方に戻る。
手前に和室、奥に洋室が一つずつあった。
「えっと、奥だから、洋室ですね? おい、まだ寝るな!」
立ったまま寝ようとしてる蓮見さんを起こし、部屋まで引っ張っていく。
「ごめん…… うん、これが俺の部屋!」
これまた少し散らかっている部屋。その中のベッドの上に蓮見さんを転がした。
さてと、俺はリビングのソファーを借りて寝るか……
蓮見さんは酔っ払って眠くても、頭はちゃんと働くらしい。
「和室、来客用の部屋、寝間着もあるからさ。向かいがバスルーム、遠慮せず使って! じゃ、おやすみ……」
でも、それを言いきった瞬間に寝落ちした。もう規則正しい寝息しか聞こえない。
「はい、ありがとうございます。おやすみなさい……」
そっとドアを閉じ、和室へ向かうと、そこは流石に綺麗で片付いていた。隅に来客用の布団がいくつか置いてあり、その上には浴衣があった。
「旅館みたい……」
こんな用意がしてあるということは、やっぱりよく友達を呼ぶんだろう。
今日1日で、会社だけではわからない社長の、いや、蓮見健一さんの一面を見ることができた気がする。
酔っ払いめんどくせぇと思ったけど、一緒に飲むことを迷ったけど、結果的によかった。
酔ってない本当の社長との関係も、これでもう少し進歩すればいいな……
シャワーを浴び、浴衣に着替えると、すぐに布団に潜り込んだ。
疲れているし、結構酔っている。妙な夢なんか見ずに、ぐっすり寝られるはずだ。
しかし、そうはいかなかった……
……また夢か。ここはどこだろう。薄暗い畳敷きの部屋の奥には、五十代くらいの少し白髪が混じった男性が机の前に座り、何やら筆で書いている。
『旦那さん。お呼びだすか?』
『すまんな。こないな時間に呼び出して。あいつまだ帰って来ん。迎えに行ってくれんか?』
『今日はどちらに?」
あいつって、誰だろう……
夢の中の俺は、わかっているみたいだ。
『伊津屋の坊のとこで飲む言うてたわ。すまんが、頼む』
『では、いて参じます……』
また酔っ払いの世話?やっぱり酒飲み過ぎたかな。こんなこと考えているが、夢の中の俺は満月に照らされた明るい道を迷わず『伊津屋』という店に向かう。それと思われる店に着くと裏口に回り、戸を叩いた。
『夜分遅うにすんまへん。……屋の手代だす。うちの若旦那さん、いてますか?』
働いている店の名前がなぜか聞き取れなかった。でも、『あいつ』が若旦那さんということがわかった。この若旦那さんは、前見た夢と同じ若旦那さんと一緒なのか、何度も観たあの夢の中の声の人と一緒なのか、知りたい。
『あら、お迎えでっしゃろか?』
中から出てきた女の人に案内され、奥の部屋へ。
そこでは、若い男が二人飲んでいた。違う。この二人じゃない。声が違う。
『毎度すんまへん、主人を迎えに参りました』
少しがっかりした俺をよそに、夢の中の俺は業務的に二人に声をかける。
二人は飲むのをやめ、騒ぎはじめた。
『おっ!よしちゃん、起きて。美男の手代が迎えに来たで』
『起きてよしちゃん!帰る時間やで』
『よしちゃん』って呼ばれてるのが、若旦那さんだろうか。
『まだ飲む……』
この声だ。あの人の声だ。
やっぱり『若旦那さん』だ。俺が誰だか知りたい人は。
『若旦那さん、起きてください。帰りましょ…… 旦那さんが心配しとられます』
『……あ、迎えに来てくれたんか?』
嬉しそうな声。やっと声の主に対面できる。期待でいっぱいだったのに、顔を見ることがなぜかできない。なんでだよ……
ここは夢の中、俺の意思で行動はできない。今回は諦めよう。
『よっしゃ、帰ろ帰ろ』
上機嫌な若旦那さん。でも俺は心配し通しだ。
『立てますか? 歩けますか?』
『大丈夫や。心配しな』
そう言いながらも、フラフラしているので、肩を貸した。
『毎回これやなよしちゃんは…… またな』
『今度は、よしちゃんとこで飲もな』
若旦那さんの友人の二人は、にこやかに手を振る。
『ほな、また!』
若旦那さんも上機嫌。俺だけだ、必死なのは。
『失礼致します』
さっき一人で早足で来た道を、今度は二人でゆっくり歩く。
若旦那さんの一歩後ろをついて行く。いつよろけても助けられるよう、一挙一動に注意を払いながら。
なんで、夢の中の俺はこんなにもこの人の世話に真剣なんだろう……
『すまんなぁ、いっつも迎えに来てくれて……』
どうやら今日だけじゃないらしい。飲むのが好きだけど、弱いってやつか。
そういえば、なんだかさっきから俺の心臓の鼓動が早いみただけど、気のせいかな。
『綺麗やな、お月さん……』
若旦那さんが見上げた空を、夢の中の俺も同じように見上げた。
『そうだすなぁ』
『……おまはん、あのお月さんに似てる気がするわ』
『えっ。どこが?』
やっぱり鼓動が早いのは気のせいじゃない。もっと早くなっている。なんだろう……
『物静かで綺麗なとこや、どことなく影があるとこも、おまはんによう似てる……』
その声は本当に優しい。
でも、なんだろうこの胸の苦しさは……
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