【1-4】楽は苦の種苦は楽の種!

 三日後、社内システムのカレンダーの社長予定欄に『外出』という文字が現れた。

 行き先は薬を作っている工場。初の社長同行ができるのか。考えをめぐらせながら、まずは日課になっている朝の挨拶をしに、社長室へ向かった。


「おはようございます」


「おはよう」


 いくらスパイ扱いしてる相手でも、社長は顔をちゃんと見る。挨拶もちゃんと返す。無視はしない。ただ、まともな仕事をもらえないだけ。待ってるだけはダメだ。指示待ち人間なんて御免だ。先手必勝。自分から仕事を取りに行く。この人の信頼を勝ち取るために動く。


「今日の外出ですが、準備はいかがしましょう」


 いつもの冷えた笑いを浮かべた社長。拒否されるかと身構えたが、返ってきたのは仕事の指示だった。


「ここに書いてある資料とサンプルを各部署からもらって来てくれ。戻りは昼だ。急ぎの仕事があれば他の者に任せろ。10時半に玄関前に来い」


 仕事をもらえたばかりか同行まで許されて驚いた。せっかくのチャンス。失敗してはいけない。気合を入れて返事をした。


「はい!」


 急いで事務室に戻って松田さんに真っ先に報告すると、まるで自分のことのように喜んでくれた。


「新米秘書くん初仕事か! 頑張れよ!後は俺がやっておくから。それで、準備は?」


「このメモを渡されました」


「えっと…… これは、研究部の田代さんに頼んで、これは総務部の小宮さんに頼むといい。こっちはうちの部署だな」


「ありがとうございます」


 社長初同行を聞きつけた久田さんも、嬉しそうな顔をしてやってきた。


「やっとだな。梅村、頑張れ。あとで報告よろしく!」


「はい! では、行ってきます!」


 皆に挨拶をすると、優しく行ってらっしゃいと声がいろんなところから帰ってきた。暖かい会社に感謝して事務室を出た。

 少し緊張しながら玄関で待っていると、社長が現れた。


「お鞄、お持ちします」


 自分より少し背が高い社長を見上げながら手を差し出すと、予想通り拒まれた。


「いい。自分のものは自分で持つ」


 今まで人に頼ることなく自分一人で全てをこなしてきた人間が、いきなりなんでも人任せにするなんて無理に近い。ゆっくりひとつずつでいい。秘書の俺に任せてもいいと思った物からでいいから、渡してほしい。今日はもうひとつ貰えたから、これ以上は望まないし強要もしない。俺に任せてもいいと自分で思ったからこそ、社長は資料準備の指示を俺に出したんだ。今日はこれだけで十分。


「わかりました」


「行くぞ。……さて、やれるもんなら盗むが良いスパイくん」


 さっきの健気な俺の気持ちを返せ! 心の中でそう悪態をつきつつ、冷たい笑いで挑発してきた社長に不敵な笑みで返した。


「はい。思う存分盗ませてもらいます」


 本当にこの日は社長の後に着いて行くだけだった。工場で製造の様子を確認し、あちらの社長に挨拶して世間話をした後、製品の見本や書類を前に商談。盗むと宣戦布告はしたものの、何も盗むことはできなかった。けれど、社長の仕事を誰よりも一番近くで見ることができた。

 その中で、何をすればもっと社長の警戒心を取り除けるのか、そのためには何をどうすればいいのか、なんとなくだけど見えた気がした。


「……帰るぞ」


「はい!」


 今日の最大イベントだった社長同行が終わって緊張が解けたせいか、うっかり素の笑顔で答えてしまった。流石に気づかれ、気不味くなった。


「嬉しそうだな。何か盗めたのか?」


「いいえ…… でも、目標は見つかりました」


「そうか」


 相変わらずの態度だったが、それは今まで見た中で一番穏やかな声と表情だった。


 あっという間にLOTUSに来てから1ヶ月が経った。

 社長との関係は一番最初に比べたら随分マシになった。任せてもらえる仕事が、本当に少しづつだったけど増えていた。今の一番の目標は、社長が自分でやっているスケジュールの管理をすること。外出や商談の予定をギリギリまで社内システムのカレンダーに入れないから、社員全員が困っていた。みんなの為にも、社長の為にもいいはず。

 その次の目標は、会社の中枢に関わる商談の場への同行。銀行や弁護士との商談には何だかんだ理由をつけられ、同行や同席を拒否されていた。

 そして、誰にも言ってはいない密かな目標。名前を呼んでもらう事。「きみ」とか「お前」としか呼ばれない。名字で呼んでほしい。

 これらは全部、『信頼を勝ち取る』という結果につながる目標。


 朝礼後、真っ先にすることは社長の予定確認。また突然の外出や来社があるんじゃ無いのか?

 ほら、予想通りあった。


「……今日は午後から外出。ん?」


「相変わらずのギリギリ告知だな。どした?」


「松田先輩、行き先が『池谷ファーム』なんですけど、これって?」


 最初は『松田さん』と呼んでいたけど、どうしても!と懇願されて、『松田先輩』と呼ぶことになった。面倒を見る後輩が欲しくて欲しくて仕方なかったそうだ。でも、景気の悪さ、会社の危機などで新卒を取らない時代が続き、結果として後輩はできず…… 高校、大学はずっと柔道部で後輩の面倒を良く見ていたらしい。

 たまに抜けてるけど、丁寧に教えてくれるし、何か間違えても絶対に助けてくれる。優しい頼りになる先輩。俺もこういう先輩になりたかったなぁと、ヘブンスに残して来た原をよく思い出していた。


「あ、それ? うちの契約農家、その『ハーブガーデン』の原材料作ってるとこ」


「あぁ、このシリーズですね」


 シリーズといっても、今あるのは女性向けのサプリメント、ハンドクリーム、リップクリームだけ。

 新商品開発の指示が社長から出ているが、まだ形になっていない。


「今日同行するだろ? 社長にいろいろ直接聞くといいよ。社長主導で始まった製品だから」


「わかりました」


「あ、そうだ写真撮ってきてくれる? あと、向こうの社長さんに話も聞いてきてくれると嬉しいな。新商品開発の参考にしたい」


「はい!」


 部署と社長の橋渡しも、秘書である俺の仕事だ。


 初めて社用車に乗ることになった。

 しかし、車のキーは俺の手の中には無く、社長の手の中に収まっている。渡してくれない。

 社長の尋問が始まった。


「免許はいつ取った?」


「学生の頃です」


「色は?」


「ブルーです」


「違反歴は?」


「進入禁止と、一旦停止無視…… です」


「最後に車を運転したのはいつだ?」


「3ヶ月前です」


 結果、キーは俺の手には来なかった。


「私が運転する。事故られたらたまったもんじゃない」


 腹が立ったが、営業スマイルで押し隠した。


「では、行きは運転よろしくお願いします。帰りは私がやります」


「気が向いたらな」


 大人しく助手席に乗って、同行初日に拒否されて以来言わなかった一言を言ってみた。

 そろそろ持たせてくれるかもしれないと淡い期待を持って。


「お鞄お預かりします」


 手を出すと、渡してくれた。

 やった!進歩した!


「後ろに置いてくれ」


 あえなく撃沈だった。気づかれないくらいの小さなため息を漏らしつつ、エンジンをかける社長の様子を見てはっと閃いた。社長は今から運転中になる。目的地は東京の外れでここから2時間くらいかかる。電話が携帯にかかってくるかもしれない。でも出られない。

 ハンズフリーの設定をするそぶりはない。今だ!


「社長、運転中携帯電話はいかがしますか?」


「気にするな。電源は切ってある。運転中に電話は絶対にしない主義だ」


 当たって砕けた……


「わかりました……」


 でもめげはしない。なぜならいいことに気づいたから。

 今まで電車やタクシーなど一緒に乗ったけど、今日は初めて狭い車内で二人きり。

 今俺が助手席に座っているのは、社長に拒否されていない証拠。大分進歩した証拠!

 気が大きくなった俺は、社長に話しかけた。


「池谷ファームについて、教えて頂けますか」


「私の親戚筋の農家だ。ハーブガーデンシリーズの原材料供給元。花卉栽培がメインで、ハーブは副業的に作ってる。たまに様子を見に行くついでに、手伝いに行く。企画開発部に商品展開と販売戦略を指示してあるが、進んでないようだな」


 その通り。だから今日俺には松田先輩から預かった任務がある。


「社長のお考えは?」


「それを聞いてどうする?」


「もちろん、企画開発部や関係部署の皆さんに共有を…… あ、また、スパイ扱いですか?」


 冗談めかして聞くと、真顔で返された。


「もちろん」


 やっぱり。まだまだだ。いつになったら俺は『スパイ』じゃなくなるんだろう……


「……わかりました。もう聞きません」


 開き直り半分、挑発半分で話を終わらせると、うまい具合に社長が釣れた。


「逃げるのか?」


 好きになれない冷えた笑みを浮かべる社長に、


「いいえ、自分で社長のお考えを汲み取ります」


 営業スマイルで反撃した。


「そうか。まぁ、やってみろ」


 池谷ファームの基本情報をさらに社長から教えてもらううちに、目的地に到着した。


「おばちゃん、手伝いに来た」


 作業着に身を包んだ女性が、社長の呼びかけに振り向いた。


 池谷淳子さん、池谷ファーム社長。元は旦那さんが社長だったが、昨年亡くなり社長を引き継いだ。

 娘さんが二人いるが、まだ大学生。跡を継ぐかはわからない。

 それが社長から得た情報。


「健一くん。いつもありがとね。その子は?」


 サッっと名刺を差し出して、印象良く挨拶した。


「はじめまして。先月から社長秘書をしております梅村と申します。よろしくお願い致します」


「こちらこそよろしくお願いします。池谷です。やっと秘書くんつけたのね」


 笑顔で話す池谷さんに、社長はぶっきらぼうぶっきらぼうに言った。

 親戚で気のおけない仲だということが良くわかった。


「……まぁ、一応。おばちゃん、今日はこいつも使っていいから」


「もう、こいつって言わないの。梅村くん、ごめんなさいね。お手伝いお願いできるかしら?」


「はい! なんでもおっしゃってください」


 社長は池谷ファームの中枢に関わる仕事の手伝いを一人で事務所に籠って始めた。

 俺にまわってきたのは、体力勝負の仕事が中止。倉庫に入れてある工具や肥料の在庫確認と整理から始まり、畑で使うトラクターの洗車、果ては農場で飼っている犬とウサギの世話まで……

 勝手がわからず時間がかかったが、どうにかやり終えた。


「ありがとね、梅村くん。ちょっと休憩して、お茶いれたから」


 池谷さんにお茶を頂き、少しお話しさせてもらった。


「兼務なの? 大変ねぇそれじゃ」


「いえ、まだ秘書の仕事が少ないので、それほどでは」


「あ、健一くんが仕事振ってくれないんでしょ」


「仰る通りです……」


「健一くん人見知りが激しいから。なかなかね。でも、あんなにリラックスしてる健一くん、久し振りに見たわ…… きっとあなたのおかげ。だから、もう少しすれば、もっと頼ってくれるようになると思うわ」


 あれでかよ、と突っ込みたくなったが、大人しく頷いておいた。


「信用してもらえるよう頑張ります」


「頑張ってね」


 おっと、大事な事を聞き忘れていた。

 秘書ではないもう一方の仕事。先輩に託された大事な任務。


「あ、あの、企画開発部員として、お伺いしたいんですが……」


「なんでも聞いて」


 お言葉に甘えて、インタビューを始めた。


「ハーブガーデンシリーズに原料提供しようと決めた理由って、なんでしょうか?」


「最初は苗として出荷してたんだけどね、健一くんがLOTUSと一緒に何かできないかなって考えてくれて」


「そうなんですね。今、うちの部署で商品開発検討してるんですが、なかなか進まなくて……

 池谷さんは何かお考えやご希望、お持ちですか?」


 池谷さんは暫く考えた後、ゆっくり思いを口にし始めた。


「身体に良いことをもっと知ってもらいたいわ。あと、どっちかっていうとハーブって、女性向けって感じでしょ?男性にも使ってもらいたいかな。それと素材を生かして欲しいわ」


「ありがとうございます!しっかり考えます。良い製品!」


「よろしくね」


 日が傾いた頃、池谷さんに挨拶して失礼した。

 有言実行。帰路は運転する。


「キーをお貸しください」


 手を差し出すと、眉間に皺を寄せられた。


「……本気か?」


 本気とは心外な。イラっとしたがぐっとこらえた。


「はい。本気です。毎回社長に運転させられませんので!」


「……わかった。やってみろ」


 少しずつだけど、柔らかくなっている。

 池谷さんの言葉を信じたい。俺をもっと頼ってほしい。

 助手席に荷物を置き、エンジンをかけた。


「荷物後ろに置くぞ」


「えっ」


 助手席に置いたはずの自分の荷物が、社長の手で後部座席に追いやられた。

 助手席に座る気らしい。普通、社長は後ろに乗らないか?


「不安だから、見てる」


 そういうことか。本当に信用されていない。

 しばらく俺の運転を不安げに見ていた社長のスマホが、着信を知らせた。


「お電話どうぞ。運転ちゃんとしますから」


「気をつけろよ。……Hello? Oh John? What’s up?」


 初めて社長が英語を喋るのを見た。

 さすがアメリカに留学して現地で就職した人だ。流暢過ぎて、英語が高校英語で止まっている俺には、全然わからない。

 1時間近く電話で会話をして電話を切った後、社長は突然焦ったように周りを見始めた。


「……おい。ここどこだ? いくらなんでも田舎すぎないか?」


「そうですか?」


 あたりはもうだいぶ薄暗い。運転に集中するあまり、危機感のない言い方になっていた。

 それが社長の気に障ったのだろうか……


「いいから、一旦そこの路肩に止めろ」


「はい」


「ここはどこだ? 」


 急いでスマホで現在地を確認すると、ありえない結果が出た。


「……埼玉県です」


「は? 埼玉? なんで?」


 それは俺が知りたい。どこで道を間違ったのか……


「いい。私が運転する。地図の確認頼む」


「はい」


 大失敗だ。少し見えてきたと思った『信用』がまた遠ざかった。

 今任された地図確認、道案内。これを間違いなくやらないと、さらにまずいことになる……


「……あれ? なんで?」


 いつも冷静で、悪くいえば冷たくて感情の起伏があまりない社長が焦っている。

 嫌な予感がした。


「……どうされました?」


「エンジンが掛からない」


「えっ」


「直せるか見てくる」


「はい……」


「プロじゃ無いと無理だ。会社に連絡を。修理業者も呼んでくれ」


 なんでこうも悪いことがたて続けに起こるんだろ。ため息をついたが、ぼーっとしてる場合じゃない。すぐさま会社に電話をした。


「お疲れ様です。梅村です」


 出たのは、総務の小宮さんだった。


「社用車が故障しました。今から修理を頼みます。はい。ええ。場合によっては…… はい。よろしくおねがいします。はい。失礼します」


 次は車の修理だ。


「修理をお願いできますか? はい、路上です。ちょっとよくわからないです。はい。そうです。

 住所ですか? えっと、埼玉県……」


 社長がスマホの画面を突きつけて来た。そこに表示された住所を読み上げると、

 だいたいの到着時間を知らされた。


「1時間から2時間? そんなに? あぁ、はい、そうなんですね、はい、わかりました。では、よろしくお願いします。はい、失礼します」


 電話を切るなり、きこえてきたのは不機嫌丸出しの社長の声だった。


「ずっとここで待てという事か?」


「はい…… 申し訳無いですが……」


「運転、任せるんじゃなかったな。道に迷うし変な故障はするし、ろくなことがない」


 何かが切れた音が聞こえたような気がした。堪忍袋の緒というやつかもしれない。ついに1ヶ月の我慢の限界がきたみたいだ。気が短い自分がよく今日まで我慢した。そこは褒めて欲しい。


「……全部私のせいですか、そうですか」


「ん?」


「もう我慢できねぇ! いい加減にしろよ!」


 ブチギレした俺の怒声に驚き、怯んだ様子の社長だったが、すぐに俺に怒鳴り返してきた。


「社長に向かってなんだその口の利き方は!」


 その言葉で冷静になればよかったのに、俺の怒りは収まらず、暴言も止まらなかった。


「もともとこんな会社、来たくなかった!」


「は? こっちだって、得体の知れない秘書なんて要らないって言ったんだ!」


「はぁ? じゃあなんで俺、今、あんたの秘書やらされてんですか!?」


「しょうがないだろ! ヘブンスとの関係があるんだ!」


「弱小企業の弱みってやつですか! そうですか!」


「なんだと!?」


「そうでしょ? こんなちっさい会社の名前知ったの、出向が決まってからだし!」


「それはお前の勉強不足だ! うちに来るのがそんなに嫌なら、断ればよかっただろう!」


「こんな若造が上司の命令、断れるわけがないでしょうが!」


「知るか! そんなもの!」


「そうですね! 社長室に引きこもって社員とほとんど顔を合わせない、喋らない、話も聞かない。一匹狼のエリート社長さんには、下っ端の平凡若造社員の苦悩なんて、到底理解できないでしょうね!」


「そういうお前こそ、上に立つ者の苦労なんかわからんだろ!」


「わかりませんよそんなもん!ここに飛ばされたせいで、後輩ひとりすら満足に面倒見てやれなかったんですから!」


 売り言葉に買い言葉、二人で怒鳴りあった。次の社長の反撃を待ったが、来たのは怒声ではなく静かな声だった。


「わかった。落ち着け。もう怒鳴るな…… 」


「えっ」


「梅村はスパイじゃない。もう今後スパイって言わない」


 初めて名前を呼ばれた。やっと呼んでもらえた。「梅村」と。

 驚きの後に、喜びが押し寄せてきた。


「感情に任せて暴言吐いて、社長と大げんかするようなヤツに、スパイが務まるわけがない」


「……あっ」


 その喜びも一瞬、サッーっと血の気が引いた。

 俺は感情に任せて社長に暴言を吐きまくった。何をやってるんだ……


「今気づいたのか? やっぱりスパイは無理だな、それじゃ」


 目尻にシワを寄せて、声を出して笑い始めた社長に驚いた。

 笑うんだこの人も……

 でも、この笑い声、どこかで聞いたような……

 でも、どこで聞いたんだろう……

 そんなことをぼんやりとし考えながら、社長の横顔を眺めていると、気まずさを覚えたのか、社長は元の冷えた表情に戻った。


「修理業者が来たみたいだ。ホテルの予約頼む。もう今日中に会社に戻るのは無理だ」


 車の修理中、最寄りのホテルを探して予約を取った。

 運転は社長に任せてホテルまで向かい、チェックインした。

 部屋に入れば、ようやく一人っきりの空間。ネクタイを緩め、ベッドの上で一息ついていると、コンコンとノックの音が部屋に響いた。のぞき穴から見れば、社長だった。慌ててネクタイを締めジャケットを羽織ると、ドアを開けた。


「なんでしょうか?」


「……飯、行くか。外のラーメン屋しか無いが」


「あ、はい」


 初めてが多い今日の締めは、社長と初めての二人きりの食事。

 記念すべきかわからないが、ラーメンと餃子になった。

 注文した物が出てくる間、さっきの無礼を謝った。


「先程は、大変申し訳ありませんでした……」


「あぁ、もういい。私も今まで言いすぎた……」


 さっきの大げんかを引き摺る気は社長にはないらしい。

 あれだけずっとスパイ扱いして来たのに、疑いが晴れた今、俺に対するあっさりした態度に拍子抜けした。

 でもこれからが本番、これからが正念場。素直に頭を下げた。


「明日から今まで以上に、精進します……」


「梅村……」


 また呼んでくれた。名前を呼ばれるだけで嬉しくなっている自分の単純さに呆れながらも、

 気取られないように神妙に返事した。


「はい」


「私の姉は、ヘブンスの専務に嫁に行った……」


「はい、伺っております」


「LOTUSと、社員全員を守るために、姉が犠牲になった…… だから、姉に余計な苦労はさせたくなかった…… 甥っ子と姪っ子にも。梅村の秘書受け入れを断ると、うちとヘブンスの間に波風が立つ。だから受けた。なのに、梅村をスパイ扱いした。報告したろ?ヘブンス側の上司に……」


 社長は自分のしたことで姉に迷惑をかけることを心配している。昨日までの俺なら、自業自得だろと思った。でも、今はもう違う。


「いいえ。久田さんにしか報告は上げていません。ヘブンスの竹内部長とは懇意ですが、自社の不利になるような事は、流さないはずです」


「そうだといいが……」


 なんで久田さんのことをこんなに警戒してるんだろう。先代の頃からずっと上の役職にいて、社長に一番近い位置にいたはずなのに。 そんな人でさえ信頼を勝ち取れていない。外から来て、そばに着くようになってやっと1ヶ月の自分には相当難しいに違いない。でも、信頼してもらいたい。

 勝手に口が動いた。


「……私は貴方の秘書として、貴方の不利になることは一切誰にも漏らしません。誓います」


 驚いたような表情を浮かべた社長に、じっと瞳の奥を見られた。心の中を探るように……


「ラーメンが伸びる。餃子が冷める。早く食べるぞ」


 なんとも的外れな返事……

 やっぱりダメか……


 身体も頭も疲れていたせいで熟睡できたみたいで、最近よく見るリアルだけど意味がよくわからない夢は見ず、自然に目が覚めた。

 身支度を済ませ、社長にメッセージを入れてからホテルのレストランで朝食を取った。ロビーで新聞を読んで待ったが、いつまでたっても返事もなければ姿も見えない。どうしようかなと考えながらスマホをいじっているとやって来た。


「おはよう」


「おはようございます。朝食はいかがされますか?」


「食べる。梅村は?」


 今日も名前をちゃんと呼んでくれる。嬉しい。

 なんでこんなに嬉しいのかわからないが、ちょっと悔しいから絶対顔には出さない。


「すみません、先に頂きました。コーヒーだけ一緒によろしいですか?」


「わかった」


 コーヒーを飲みながら、朝食をとる社長を眺めていると、どうしても確認したくなった。


「……社長は、朝が苦手ですか?」


 動揺するその姿に、昨日笑った横顔を見たときと同じく、人間味を感じた。


「秘書ですから。社長のことはしっかり知っておかないと」


 すると、そっぽを向きながらボソッと呟いた。


「……得意ではない」


「わかりました。今後は早朝の連絡、気をつけます」


 時計は7時半を指していた。そろそろ出ないと会社に着かない。

 社長は、車のキーを俺に差し出した。


「……会社までほぼまっすぐだ。朝で見通しもいい。運転できるな?」


 昨日の大失敗を挽回するチャンス。無事に会社に始業時間までに着く!


「はい!」


 結局、俺の運転は上手く無いらしい。助手席に座った社長から何度もお小言をもらったけれど、最後まで会社まで運転しきった。


「次はもっと近い客先に行く時に練習だ。いいな?」


「はい……」


 次と言われた。秘書の仕事に次がちゃんとあるんだ。嬉しかった。


「梅村」


「はい」


 社長はカバンから黒いものを取り出し、俺に差し出した。


「……これ、任せる」


「え、はい……」


 そして、俺が受け取ったとわかるなり、そそくさと車を降り一人で行ってしまった。


「あっ」


 それは社長が使っている手帳。黒くてシンプルな、手のひらサイズ。

 ようやく任せて貰える。名前を呼んでもらえた昨日のあの瞬間以上に、嬉しかった。

 好奇心で、自分が来た日の予定欄を見てみた。


 秘書初出勤!


 そこにはそう書いてあった。

 昨日の言葉通り、ただ会社間に波風立たないようにするためだけの秘書受け入れなら、! なんて、つけないはず。これを書いた時、社長はまだ見ぬ秘書に、淡い期待をしてくれていたかもしれない。

 努力しよう。いつか、秘書に受け入れて良かったと社長に思われたい。


 ヘブンスに帰りたい。という気持ちは今どこにもなかった。

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