第12話 おかえり
「先生、またどこかに連れて行ってくださいね」
ワモリさんの言葉はちょっと重かった。
どこへ行けばいいいのか。
どこへ行けば彼女は喜んでくれるのか。
どこへ行ったら彼女はがっかりしてしまうのか。
とりあえず山の上でも行ってみよう。
そうしてぼくらは出かけた。
車は鳥居をくぐって坂を登った。石段が見えてきたら左の車道に曲がる。細い道だ。対向車に気をつけないといけない。
「ここでちょっと待って下さい」
ワモリさんがいつの間にかナビゲーションソフトを手に入れた。対話型のナビだ。ブラインドカーブの先に車がいれば前もって分かって、どちらか退避できる方に指示を出す。こんな機能前からあっただろうか。よく覚えていない。
やがて山頂近くに来て、駐車場が見えてきた。あいにくと車が多い。一番端の駐車スペースに車を置こうとした。
「だめですよ、ちょっと待って下さい」
ワモリさんはドアを開けて車から降りた。
「いいですよ、バックしてください」
右手で木の枝を持ち上げてぼくに呼びかけた。知らずにバックしていたら屋根に木の枝がかかって塗装を痛めていたところだ。
「オーライです」
ワモリさんの指示で駐車スペースにピタリと止められた。「オーライ」って、昭和か。いつ覚えたんだろう。
それはそれとして、山の上だ。ちょっとした山だが、平野が一望できる。たった200メートルかそこら登っただけでこの眺望。人がいかに小さい存在か実感できる。
「今日は混んでますね」
「行楽シーズンだし、晴天だからね」
「ここは初めて来ましたけど、先生は来たことがあるんですか?」
「何度かあるよ。一番最初は小学校の遠足かな」
「よく覚えてますね」
「杉の木の林を歩いたことしか覚えてないよ」
「そうなんですか」
上りの坂道を歩きながらぼくらは話した。
山の上とはいえ、舗装された車道が整備され、展望台やトイレがあり、売店も多い。
「そばが名物なんですか?」
看板を指差しながらワモリさんは聞いた。
「かもしれないね。随分前にも家族と来て、みんなでざるのそばを食べたっけ」
ぼくはカメラを構えて、後ろ手に先を歩くワモリさんを撮影した。
「鳥居ですよ」
車道から外れて石の階段の道が山の中へ続き、入り口に石造りの鳥居があった。
「神社だね。山岳信仰だよ。この山も、古代から人々に崇められてきた」
鳥居をくぐってぼくらは進んだ。
「この坂道だ」
ぼくらが歩く道は右手が下りの斜面をゆるく上がっている。深い杉の木の林が暗く影を落としている。
「この坂道を、学校のみんなと歩いて昇った」
木漏れ日が落ちる道の景色をぼくは写真に撮った。木陰の風がひんやりと通り過ぎた。
「神社は階段の上みたいですね」
また分かれ道だ。ぼくらは左手の階段を昇ることにした。足元にミズヒキの赤い粒が連なっていた。
神社は開けた場所にあった。山の上にもかかわらず立派な拝殿がある。
「ああ、この階段は麓から続いているんだね」
拝殿の正面に門があり、そこから下に急な階段が続いていることに気づいた。
「歩いて登ってくる人もいるのか…」
階段に少なくない人がいるのを見てぼくは呟いた。
「先生、お祈りしましょう」
そうだ、参拝をしないと。
ぼくらは賽銭を投げ、鈴を鳴らし、並んで二礼二拍手一礼のお祈りをした。
神社から先に行くと、また展望が開けた場所だった。空腹を覚えたぼくはここで昼食にした。そばだ。座って町を見下ろしていると、店員さんが運んできてくれた。
「先生、撮ってあげますよ」
「いや、いいよ」
「その『いいよ』は否定ですか? 肯定ですか?」
「『いい』の微妙なニュアンスも覚えてきたようだね」
「はい」
ぼくはワモリさんが構えたカメラのレンズに向けて微笑んだ。シャッターの音が、小さく鳴った。
山から降りると、ぼくは近くの自動車博物館を目指した。ここまで来たら寄らない話はない。
赤い屋根の古い駅舎を鉄道の駅からここまで運んできた。線路もない場所に忽然と駅がある。その裏手のテント屋根の下が博物館だ。
入場券を買って、「車には触らないでください」という注意事項を胸に刻んで、ぼくらは博物館に足を踏み入れた。
入ったところはちょっとした段になっていて、その下のタイル敷きの地面に数十台のスポーツカーが展示されていた。
フェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェ、ランチァ、デ・トマソ…
「すごい、これが20世紀だよ!」
興奮した口調でぼくはワモリさんに説明した。
「4000cc、5000cc、300馬力、400馬力、それが、二人しか乗れない車に積まれている。ミッドシップだよ。人じゃなくエンジンが車の真ん中だ。速ければそれでいい。そしてかっこよければ申し分ない!」
流麗なボディに二人がどうにか座れる居住空間。屋根が低く、後ろもほとんど見えない車。ぼくらが乗ってきた4ドアセダンとは別世界だ。
「20世紀の、富と美と快楽の結晶だ。聖から俗に、ぼくらは降りてきた!」
そうして、ワモリさんそっちのけで車から車を見て歩き、写真を撮った。
「先生、そんなに自動車が好きでしたっけ」
「あれ? 話をしていなかったっけ。ぼくがガソリンエンジンのセダンに乗っているのは、一応こだわりを示しているつもりなんだけど」
「それで、先生は私に運転させてくれないんですね」
「アンドロイド用のインターフェスとかできる前の車だからね」
「そんな自動車だったんですか」
「エアコンパワステオートマとなんでもありで、ここにある車に比べれば軟弱だけどね、ターボならついてる。ぼくにとってはあれがスーパーカーだ」
ぼくだって車に夢を見ている人間だ。郊外に出て眺めのいい場所でアクセルを踏みこんだときの開放感はやめられない。コーナーを曲がるときのサスペンションとエンジンの調和した動きも楽しい。とりあえず出かけてから行き先を決めるような自由もある。純粋なガソリンの入手は難しくなったけれど、人類が石油の掘削を全面的にやめるまでは乗るつもりだ。
「この自動車工学とイタリアンデザインの融合。ドイツや日本のデザインもあるけど、それはともかく、当時の技術と芸術の全力を、ただ速く、かつ気持ちよく走るだけの車にそそぐ。人は二人だけ。荷物もわずかしか運べない。そんな機械最優先の乗り物。20世紀の機械文明における最高の贅沢の一つ」
「でも、速く走るのは危険じゃないですか?」
「速く走るために作ったクルマは、普通に走る分には十分安全だよ。アウトバーンやサーキットでは全力で走ることができる。その可能性もまた、クルマの価値の一つだよ。人はこういうぜいたくなものを、持っていることそれ自体も快楽なんだ」
「そう言えば以前、『可能性が怖い』って言ってましたね。可能性がある、ということは人にとってとても大事なんですね」
「『裕福』という言葉は、可能性が大きいことを表す言葉だと考えていい」
自動車を所有することが20世紀の人間にどれだけ重要なことだったのか。ワモリさんも理解しつつあるようだ。
「ただ、今の基準で考えると、ここにあるクルマは比較的安全性は低いかもしれない。あと視界が悪いのも問題だよね」
そしてちょっとだけ付け加えた。
「注意するのを忘れていたけど、転んで車を壊さないようにしてね」
ふと思い出して、ぼくは話した。
「それなら心配ないですよ。私が転んだところなんて見たことありますか?」
「そういえばそうだね」
「でも、心配でしたら、私の手をとって歩いたらどうですか」
そう言ってワモリさんは、ちょっと照れた表情をしてから、右手を差し出した。
「いや、気をつけて歩いてくれればそれでいい。ぼくは写真を取るので忙しい」
「先生!」
ワモリさんが不平を言ったような気がした。FOHは日々進歩しているというが、本当のことだ。きっと。
「ああ、そうだね、ちょっと休もうか」
撮影は急がなくてもいい。それより少し話がしたくなって、博物館にある鉄道車両に入った。カメラとカメラバッグを置くと、ぼくはスマートフォンを手にデッキの自動販売機へ向かった。
ガタン。
「しまった、ブラックだった」
出てきた缶コーヒーを眺めながらつぶやいた。
客室に戻ろうとしたらワモリさんが立ち上がってぼくを見ていた。
「先生、それを貸してください」
「喉が渇いたのかい? 欲しいものがあったら言って?」
「そういうわけじゃないですよ」
ぼくの話を受け流しながら、缶コーヒーを左手に取った。そして、右の手でプルトップを開けた。
「手先がだいぶ器用になりました。服のボタンもとめられるようになったんですよ」
そう言って自慢そうにぼくの前に缶を差し出した。
「それはすごい」
ぼくはワモリさんが開けてくれたコーヒーを飲んだ。冷たい。苦い。
「じゃあ着替えは一人でできる?」
「いえ、それはまだ…」
コーヒーの苦味も、別に悪くないと感じた。不思議なものだ。
「そのうち君たちが何でもできるようになって、人間はいらなくなるのかな」
「何を言ってるんですか。私達の使命は人間のお役に立つことですよ」
ときどき返ってくるワモリさんのマジレスも、いいものだと思った。
カフェインが脳を刺激する感覚が、苦味も美味しさに変えているのかもしれない。
「君はサーバーで、どんな世界にいたんだい?」
喉の渇きを癒やしてから、一息ついて、ぼくは思い切って聞いた。
「あの夜、君の本体は破壊されて命を落とした。だけど、君の記憶と心はサーバーにあった。けっこうな時間だったけど、ずっと待っていたのかい?」
「いいえ、どこにいたというわけではありません」
「そう?」
「先生と電話をして、それからちょっと目の前が暗くなって、目を開けたら、また先生がいました」
「そんな、うたた寝してましたみたいに言われても」
「でも、サーバーのバックアップデータだったときは、本当に、ストレージ上のファイルでしかなかったですから。時間を感じるとか、そういう、意識を実行する主体がなかったのですから、本当に、目が冷めたら新しいボディだったんです」
どうやら本当のようだった。
「じゃあもしぼくが、君をあきらめて、アカウントを放棄してたら、どうなったんだろう」
「サーバーから私に関するデータが削除されて、それで終わりだと思います。むしろ、データが残っている方が問題です」
彼女はきっぱりと答えた。
「それより先生、私がさっきの神社で、何をお祈りしたか聞かないんですか?」
「え?」
「聞かないんですか?」
「お祈り、してたんだ」
「失礼ですね。神様の前で手を合わせたら、お祈りするものです。先生だってお祈りしたでしょう」
「そうだね。また家族の平和をお願いしたよ。特に子供の無事な成長のことを」
「そこはいつもの先生らしいですね」
「じゃあ聞くよ。君は何をお願いしたんだい?」
「『夢』が見たいです。先生に起こされる前に、何かありえない体験をしたかったです」
真顔でそう言った。
ぼくは、お祈りの内容より、もっと大事なことを聞かなければいけないことに気がついた。
「そういえば、君は最後の電話で、ぼくになんて言ったか、覚えていいるかな?」
「『できるだけ抵抗してみます』と『はい』ですよ」
そこなのか…。
「私はその後も、何か大事なことを話したんですか?」
「あ、いや、それは…」
「教えていただけません?」
「君が話したというか、ぼくが話したことに、君が答えてくれたんだ」
「それは何ですか?」
「うーん。いや、ちょっと言えない。いつかきちんと伝えられるよう、頑張ってみるよ」
やっぱり目の前にいる人はワモリさんだ。
肉体は一度失ったけど、彼女自身は新しい体で蘇ってここにいる。
ワモリさんは不滅だ。これは人間と決定的に違う。
そして、もしもぼくが、彼女を放棄すると決めたら、一瞬で彼女の心と記憶は消去される。
多分、それだけがワモリさんの死だ。つまり、ぼくが望まない限り、彼女は絶対に死なない。
彼女はぼくを裏切らない。死んでも蘇って、ぼくと一緒にいてくれる。
ぼくだって、彼女を手放したりするものか。
ぼくは立ち上がった。
ワモリさんも立ち上がった。
ぼくは右手を差し出した。今なら心から言える。
「おかえり」
「ただいまです」
ぼくらは固く握手した。
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