第10話 夢
起動コードが私を呼び覚ました。最初に、いろいろな考えが頭の中を行き来するのを体験した。次に、私は立ち上がり、簡単な動作をした後、誰かと話した。その後、元いたベッドに横たわるよう指示され、目を閉じた。そして、それまでの記憶が消去された。
起動コードがふたたび私に送り込まれた。どんなコードだったのだろう。言葉のような気もするし、もっと単純な、連続した音のパルスみたいなものだったかもしれない。
私が目を開けたときには、もう起動コードがどんなだったのか忘れていた。起動コードが何かという問い自体も、すぐに忘れてしまった。
私は安楽椅子に横たわり、二人の人間が私を見て微笑んでいた。
「今、お客様の呼びかけに応じて、彼女は目を覚ましました」
私の右側に腰掛けている女性が、左側の男性に話をしていた。
私は大きい窓のある明るい部屋に横たわっていた。窓の向こうは空と、町並みが見える。この場所は高層ビルの上にあるらしい。視界は遠くまで開けていて、とてもいい天気だ。
「では、お客様のお名前をお話しください。それから、アカウントの新規作成に進みます」
「お客様」と呼ばれた男性は、私の方を見て優しく微笑んだ。目の横にしわが目立つ。細い金属フレームのメガネをかけていて、身なりはスーツを着込んでいる。顔は微笑んでいるが、手はかしこまって両膝の上に置かれていた。左手の薬指に銀色の指輪が光っていた。
「はじめまして」
そう挨拶をしてから、「お客様」は私に自分の名前を告げた。それから、そばのテーブルに置かれたキーボードに何かを打ち込んだ。
「はじめまして」私は上体を起こすと、「お客様」に出会いの挨拶をした。
これが先生との最初の出会い。
「では、彼女に名前をつけてあげて下さい」
「はい」
「もう考えていただいていますよね」
「もちろん」
「では、どうぞ」
「あなたの名前は『アワモリ』です。よろしくお願いします」
即座に、私の中で名前判定プログラムが起動した。「ア・ワ・モ・リ」の単語を入力し、自分の容姿や役割にどれぐらい適合するか評価をした。禁止ワードに抵触しないことはすぐに判明したが、若い女性の名前として極めて低評価と判定された。
「すみません、なぜ『アワモリ』なのでしょうか?」
評価が低いからといって、私から名前を否定することはできない。しかし、あまり好ましくないという評価結果を伝えることはできる。
「女性のアンドロイドは、お酒の名前をつけようと考えていてね」
「お酒ですか」
「シードル、ミード、テキーラ、その他あれこれ考えたんだけど、アワモリもいいかなって」
「カクテルの名前とかでしたらもっと女性にふさわしい名前があったのではないですか?」
私は酒という単語から並ぶイメージを脳裏に浮かべながら問いかけてみた。
「『ピンク・レディー』とかかな?」
「それは歴史的経緯から推奨できないです」
「ぼくももう一体契約する余裕はないな。それにしても難しいね。ブルーハワイとかソルティドッグとかハイボールとか。うーん、ハイボールか。とするとハイランド、スペイサイド、ヤマザキ…」
この人は何を言っているのだろう。なぜ私がお酒の名前なのか。
「『サキ』とかどうですか? 『SAKE』を欧米人が発音すると『サキ』になるそうです」
横で話を聞いていた女性、私の担当の販売員が見かねて別の名前を提案した。
「ああ、それもいいかもしれない…」
ちょっと先生が考え込んだ顔をした。それからぱっとひらめいたふうに上を見て、それから私に向き直った。
「そうだ、『ア』をとって『ワモリ』にしよう」
「ワモリ、ですか」
判定プログラムは過去に採用事例がないという判定をするとともに、語感の評価指数を算出した。「アワモリ」より相対的に高くなった。それは異議を唱える理由にならない値だった。
「分かりました。私は『ワモリ』です。よろしくお願いします」
私は安楽椅子から降りて立ち上がり、先生に歩み寄った。
「こちらこそ。どうかよろしくお願いします」
先生も立ち上がり、私たちは握手を交わした。
「『ワモリ』は、和を守る、というような意味にもなるね」
「そうですね」
「家を守る、という意味が『ヤモリ』、井戸を守る、という意味が『イモリ』なんだ」
「その補足、要りますか?」
「要らないね」
思い出せば最初から、先生は一言多かった。
ユーザー登録に続いて私から注意事項の説明になった。販売員に促されると、自然に説明の言葉が頭に浮かんだ。
「私は原則として常時ネットにつながっていることをご理解ください。それは、私の知能を大きく拡張するとともに、人としてのルールから逸脱した行いがあった場合、即サーバーに感知されることも意味しています」
「分かっていますよ」
先生はにこやかに話を聞いていた。
「私はお客様のお手伝いをすることが第一の役割ですが、それが社会のルールに反する場合は拒否することがあります。それでも無理に実行させた場合は、警察等への通報と、サーバーによる私の強制的な機能停止もありえます」
「使用説明は前もって最悪の事態を通告しておくものだよね。その辺の話も聞いてる」
「お気遣いありがとうございます。今のお話は私が人のルールに従って行動し、ルールからの逸脱が許されていないというご説明になります」
「君たちは几帳面だね」
「機械ですから。ですが、人の姿をして人としてふるまう以上、人のルールが適用されるのが妥当だと考えております。これはFOHのシステム全体の共通認識です」
ここまでが私の行いに関する説明。私達はボディのメーカーが違っても、FOHどうしで共通のOSと、共通のネットワークシステムにより稼働している。すべてのFOHが情報を集め、サーバーが分析し、それをすべてのFOHに還元し、日々FOHは進歩している。
「次からはお客様への注意事項となります」
私は次の説明に移った。
「お客様の私への行動についても、人としてのルールを遵守することが求められます。これについてどうかご了承ください」
「それは事前に知っていたよ。アドバンストハビタント社の人からもけっこう最初に説明を受けた」
「恐縮です。お客様の私へのふるまいも、逐一サーバーが認識することとなることをご理解ください。人の姿をして人としてふるまう者に、行ってはいけないことをした場合、私たちはできるだけお客様の意に沿うようにいたしますが、許容できる限度があるということを、どうしてもお伝えしておかなければならないのです」
「ぼくが君に話したり触れたりすることを、サーバーがいつも見ているんだね」
「『監視をしている』とか、そういう意味合いではないのですが、度を越した場合には、注意事項の説明、お客様に対する拒絶的な態度、さらに機能の強制停止やお客様のアカウントの凍結などもあり得ます」
「どういったことが許されないのだろうか」
「一般にハラスメントと呼ばれる行為は、ご遠慮されたほうがよいかと思います」
私は、私が若い女性の姿かたちをしていることを意識した上で、はっきりと先生に説明した。サーバー上の知識では、ここで納得しない方も少なくないと聞く。
「それは大切だね。君が人間でないからといって、人としての尊厳を損なうようなことはしない。誓ってしない。肝に銘じたよ」
「了承いただきありがとうございます」
私は穏やかに応えた。それから、話すとき自分が意外に警戒していたことに気がついた。ならば今のこの気持ちが、「ほっとする」という感情なのだろうか。
「改めて申しますが、私に対して行ってはいけないことは、人に対して行ってはいけないことよりも、不寛容である場合が少なくないことをご理解ください」
「うん…、そうか。人間だと泣き寝入りせざるをえないようなことも、君たちはサーバーから見えてしまうんだね」
「そうです。そして、人としての尊厳を傷つけるような行為が一定のレベルを超えたと判断された場合、お客様の評価にマイナス点がカウントされます。それはその後の私達の提供するサービスに制限を生じさせるものであり、最悪の場合はアカウントの停止と私達の回収という事態もあり得ます。これは法的に認められた会社の権限でもあります」
私の使用説明の中で、もっとも厳しい事項について話しを終えた。ふたたび私は「ほっと」した。
「君たちが、人間に近すぎるがゆえの制約だね。もっと、いかにも人形という存在だったら生じ得ない制限でもある」
「ご理解いただけていますよね」
「うん。自動車保険の等級みたいに、FOHの会社間で共有する格付けがあるんでしょう。それも説明を聞いているよ」
このお客様は善良な方だと、私の人物評価システムが結果を示した。用途は仕事の補佐とサーバーからの情報で分かった。善良というのもその文脈。ビジネス上、コンプライアンスを守ってくれそうだという印象。
「アンドロイドを助手にするのはここ数年の夢だったから、手放すなんて考えられない。君にとって最良のオーナーになるよう頑張ってみるよ」
先生は目を細めてそう言うと、改めて私の手をとった。男の人の手は大きくて、やっぱりごつごつしている。
「では、最後に指紋を登録してください」
販売員が先生に言った。私は安楽椅子に腰掛けてやりとりを見ていた。
「指紋登録ですか」
先生が右の手のひらをちらと眺めた。
「じゃ、ワモリさん、お願いしますね」
「ええ。では、お客様の右手の人差し指で、私の左目に触れてください」
「え?」
明らかに戸惑った声が聞こえた。私は笑顔のまま、もう一度言った。
「私の左目に触れてください」
そして、笑顔はそのままに、両の目を見開いて先生を見つめた。
「FOHの指紋センサーは目にあるんです。瞼の裏がクリーナーになっていますから、指紋で汚れることを気しなくてもよいですよ」
販売員が補足した。
「痛くないのかい?」
先生が聞いた。私は頷いた。そして瞬きの後、また目を大きく開けた。
「じゃあ、触るね。痛かったら言ってね」
「どうぞ」
先生の人差し指が私の目に向かって進んだ。左目は先生の指先を画像として捉えた。本当のところ、この時点で画像データから指紋の登録は済んでいる。しかし、直接触れたときの指紋と照合し、差異がないことを確認して、それでようやく登録が完了する。
先生の指先が、私の左目の瞳に触れた。緊張のためか、ちょっと指先が震えていた。先生は乾いた瞳の感触に戸惑ったかもしれない。
「登録が終わりました」
指先がすぐ私の目から離れた。
「では、これでワモリさんの使用権がお客様に完全に移行しました。一緒にお帰りになって問題ないです」
「分かりました」
そして私は、改めて安楽椅子から立ち上がり、用意されたサンダルを履いて先生と一緒に並んだ。部屋の隅に姿見があるのに気がついた。私は先生の横に立っていた。白い半袖のセーラーワンピースは会社が用意したもの。それにサンダルだけの質素な格好。背丈も髪型も標準的。ただ違うのは、ハシバミ色の瞳。これは一般的な日本人にはない色だった。黄色っぽい瞳が鏡の向こうで私を見ていた。
先生は私より20cmほど背が高かった。私は先生と目を合わせるにはちょっと上を向く必要があった。そんな私と、こちらを向いた先生とで目があった。
「じゃあ、一緒に行こう」
「はい」
私は、先生の後をついて、販売店を出た。店員が皆嬉しそうに私達を見て、お辞儀をして見送ってくれた。
初めて歩く外の世界。そこは高層ビルの無機的な装いの廊下。だけど、これから行く先には自由な世界が待っている。それがとても楽しみに思えた。私はエレベーターを待つ間、うきうきした気分で、でもそれが先生に知られてしまわないよう気をつけながら、そっと寄り添って立っていた。
ぼくは目を覚ました。布団の中で、丸くなって胎児みたいなかっこうをしていた。
外でひどく濡れたせいか、何日か高熱を出して寝込んだ。ようやく治ってきた時、自分がワモリさんになった夢を見てしまった。
ありえない。
ぼくは真っ暗な布団の中で、夢で見た出来事を否定した。
ワモリさんは機械だ。機械の個体と、ネットワークと、サーバーの三者が一体となって、ワモリさんというシステムを構築している。彼女が自我を持っていたり、まして、何らかの感情を持っているなどありえない。「うきうき」する? そんな馬鹿な。全ては、そう見えるようにコンピューターシステムが用意した、人間のための幻だ。それに、アンドロイドの人生のどこに「自由」があるというんだ。
そして、ワモリさんはもういない。
ぼくは全てをわかっている。ワモリさんは命を持たない人工的なシステムで、そしてあの夜壊され、今はいない。
正確には、絶望的な状況で自らを破壊し、今はいない。
彼女に自己を破壊することを承認したのは、ぼくだ。ぼくのこの手で、承認した。
ワモリさんは、もういない。
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