第8話 地下神殿

 目が痒くてたまらない。春だ。

 風は穏やかで日差しも暖かく、空気はまだ冷たいけど間違いなく春だ。

 細い道を通って大きい川の堤防の上に出た。堤防の上と同じ高さの土地にちょっとした建物がある。駐車場に車を置くとぼくらは外に出て見上げた。今日の目的地。

「本日は見学会にお越しいただきありがとうございます」

 解説の人が、十人ほど集まった見学者に説明を始めた。

 このあたりには平野部の洪水防止のために作られた地下放水路がある。建物は水路が集めた水を堤防の外(堤防をはさんで川がある方が「堤外地」、堤防の外側が「堤内地」と呼ばれる)に排出するポンプ場。今日の目的地はここの地下にある、ポンプで排出する前に水を地下に貯めておく調圧水槽。

 まずは建物の二階にある展示室の説明を受けた。この放水路の位置と役割、過去にどれだけ稼働し、洪水をどれだけ防いできたか。

 平野部は、川によって山から運ばれてきた土砂が堆積してできている。流れに運ばれてきた土砂は海で流れの勢いがなくなると沈下し、海底に溜まってゆく。そしてやがて、海面の高さに平らな土地ができる。

 川ごとに河口に積もった平地はつながり、広い平野を形成した。なだらかな平地に流れ込んだ川は侵食と堆積の作用で流れを蛇行させた。平野は何本もの川が複雑に交錯するようになった。こういった川は大雨が降るとたやすく洪水を起こした。多量の雨水が流れ去った後では、流れが運んできた大量の土砂と、暴れる水の浸食作用とで、川の流れは大きく変わった。

 農耕が始まる前は、山裾に広がり、台地を囲む広い低地は、居住に適さない湿地帯だった。しかしやがて人々は土地を切り盛りして川の流れを変え、葦の原を水田に変えた。たびたび起きる洪水は家屋を台地に建てて避けるか、または水に浸かることを稲作による富の対価として受け入れて暮らしてきた。

 幕府による統治が進むと大規模な河川の改修工事が始まり、川の流れを大きく変えて洪水の危険を減らすとともに、農業用水のための用水路も整備して、稲の収穫を高め、水害も大きく減らした。明治以降さらに治水事業は進み、この付近の住人も今では洪水の災害とほぼ一生無縁で過ごしている。


「それでは、これから調圧水槽に降りてゆきます」

 解説員は地下に降りる階段の前で説明を始めた。ぼくらは黙って注意事項に耳を傾けた。

「調圧水槽まではビルの五〜六階ほどの高さの階段を降りていただくことになります。15分ほど見学のあと、同じ階段を昇って戻ります。エレベーターはありませんので、もしお体の調子などで昇り降りが難しい方がいましたら、どうか無理をしないようにお願いします」

 参加者は互いを見渡して、無理そうな人が特にいないので軽くうなづいた。ぼくとワモリさんもその中にいる。

「それから、アンドロイドの方ももしご一緒でしたら、貯水槽まで降りますと公衆無線回線の電波が届きませんのでご注意ください。見学者向けの低速の無線LANをご用意していますが、見学アプリをインストールしたスマートフォンのご利用にとどめていただき、アンドロイドの方の通信はご遠慮願います」

 解説員はFOHに関する説明も加えた。

「昇り降りに必要な電力が残っているかのご確認もお願いします。先ほども申しましたように、ここには人を運ぶエレベーターはありません。もし移動が困難になるような状況になりましたら、物資搬入用の簡易エレベーターで地上に上げることになりますので、オーナーの方はご了承をお願いします」

 また見学者は互いを見渡した。

 やはり、というべきか。老人が半数を占める見学者の中で、十代女子、それもひときわ整った顔立ちのワモリさんに皆の目が集まった。

「あ、私が該当すると思いますが、電池はまだ90%以上ありますので大丈夫です」

 空気を察して彼女は自分から問題ないと説明した。衣装もこれに備え、ネルシャツにジーンズで山に登るかのような装いだ。ネルシャツの上に軽いストールを羽織っている。

「今公衆無線回線との接続を切りました。スタンダロンでも歩いて階段を昇り降りすることは問題ありません。会話の語彙は大幅に減ると思いますが、それだけです」

 語彙についてはぼくの方を見て話した。うん。それは分かってる。

「ご協力ありがとうございます」

「『ロボット』は貨物エレベーターが使えるのは分かりましたが、私らはだめなんですか?」

 冗談めかして見学者の一人が質問した。白髪の夫婦の旦那さんの方。

「見学者の方で万一体調を崩される方がいましたら、我々は応急処置の訓練をしていますので、救急車が来るまで出来る限りの処置をいたします。AED等の救命用具は地下に備えてあります。そこまで深刻でない場合は、どうか皆さん、その方を地上に運ぶときにご協力願います」

 話を聞いた夫婦は互いにうなづいた。

「分かった。ありがとう。まあ大丈夫ですよ。皆さんに運んでもらうんじゃ申し訳ないしね。そうなんないようにするから」

「荷物扱いでもいいからエレベーター使いたかっただけでしょう?」

 奥さんがツッコミを入れた。

「すみません。それだけは私たちに許されていないんです」

 解説員は軽く頭を下げた。


「広い!」

 階段から見える調圧水槽の空間を見てワモリさんが感嘆の声を上げた。同様の声が見学者から漏れる。

 そこには橙色の電灯に照らされて薄暗い地下空間が広がっていた。サッカーグラウンドほどの広さだという。何十本もの柱が床から立ち上がり、天井のコンクリート版を支えている。床は水が流れた跡が見て取れて、これが治水のための施設だということを改めて伝えている。

 階段を降りきると天井は頭上はるか上で、仰ぎ見ると柱は上空の消失点に向けて斜めに傾いた。目線を水平に戻せば、丸みがある柱は数メートルの太さがあり、コンクリート打ちっぱなしの表面は巨大な石柱としか言いようがない。

 「地下神殿」。そう表現される理由がまさに実感できた。

 ワモリさんはぼくの後をおとなしくついてきていた。足取りは特に危うい感じはない。

 見学者は予め設置されたロープの範囲内で思い思いに散らばって、その地下空間の景色を見て回った。ぼくはワモリさんを呼んで柱のそばに立ってもらい、カメラの感度を上げてフラッシュなしで撮影した。

「ここが水でいっぱいになるなんて、なかなか想像できないね」

「そうですね」

 地下神殿の感想を伝えると、ワモリさんはそっけなく答えた。

「普通の大雨の場合は、堤防がしっかりした大きい川で雨水を流すことができる。台風が何度も来たけど、このあたりは洪水とか特に起きてないよね」

「はい」

「でも、もし堤防を超えるような水が来た場合は、洪水は元の川に沿って流れてしまうんだ。このあたりの低地も、河川が整備される前は頻繁に洪水が起きていたから、そういうときは水に浸かってしまう。戦後の巨大台風のときはまさに、古代の河川の跡に沿って水が下って、都内まで延々と洪水が広がってしまったんだよ」

「そうなんですか」

「そんな大洪水はダムと堤防でかなり防げるようになったけど、平野部に降った雨も相当な量になるから…、そうそう、降水量と土地の面積を掛ければ、それがそこに降った水の量だからね。流域が広ければ平野部だけでも相当の水になる」

「そうですね」

「そういうとき、今平野部に残っている小さい川、小さい川といっても、今大河川になってる川が昔流れてた川なんだけど、それが案外容易に氾濫してしまうんだ」

「はい」

「そうやってこのあたりの川の水かさが増えた時、地下トンネルで水を集めてここに流れてくるようにしてるんだよ」

「そうなんですか」

 ぼくはこの放水路の役割について一通り説明した。ワモリさんの相槌のバリエーションがひどく少ないように思えたが、これがスタンダロンの状況での彼女の標準的な応答なのだろうか。

 そっけない応えの割に、興味深そうな目で地下空間を眺めるワモリさんを見ながらぼくはちょっと考えた。


 地下空間を一番奥まで進むと、直径が30メートルという円形の大きい穴があった。第一立坑だ。壁際の開口部にロープが張ってあるけど、近づける範囲で見てみると、暗い中、かなり深くまで穴が続いているように見える。

「この立坑は深さ約70メートルあります。地下トンネルを流れてきた水は、この立坑を上がってきて、この貯水槽に溜まります」

 解説員が説明してくれた。

「アメリカの自由の女神像がそのまま入る大きさなんですよ」

「「「はー」」」

 見学者から感嘆の声が湧く。

「この貯水槽がわざわざ地下にあるのは、流れてきた水が自然に貯まるようにしてるんだ」

 ぼくはワモリさんに補足の説明をした。

「地上に池を作っても、池まで水を汲み上げなきゃいけなくなるからね」

「そうなんですか」

「最終的には隣の川にポンプで水を汲み上げるんだけど、ポンプを止めた時の逆流の圧力とかがトンネルにまで行ってしまわないよう、ここに一度水を貯めるんだ。衝撃を吸収するにはこれだけの広さが要るんだね。水というのは衝撃が伝わると本当に破壊的にふるまうからね」

「はい」

「それでは皆さん、こんどはここに溜まった水を汲み上げる、ポンプのインペラを見に行きましょう」

 解説員はそう言うと、さっき降りてきた階段のある側を指差した。


「この奥がインペラです」

 解説員は貯水槽の隅の穴ぐらの手前で奥を指して言った。

「二人ぐらいずつで見に行って下さい」

 順番を待って、ぼくとワモリさんが見に行った。

「ああ、あの換気扇みたいなファンが水を汲み上げるんだ」

「はい」

 穴の奥に縦穴があって、その天井に銀色のインペラが見えた。ワモリさんはそっけなく答えると一緒に上を覗いた。ぼくはカメラのストロボを立ち上げて撮影した。画像を再生して、写っていることを確認してから貯水槽に戻った。

「このインペラはガスタービンエンジンで動かします。ガスタービンというか、ジェットエンジンですね。二階にジェット機の写真があったかと思いますが、その飛行機のエンジンと同じものを使っています」

 全員が見終わった後で解説員が語った。

「それでは、階段を登りましょう。そこで解散です」

「「「分かりました」」」

 見学者は互いを一瞥して、体調が悪い人がいなさそうなのを確認した。

「実はロボットでもう動けなくなった、て言ってエレベーター乗せてもらおうかな」

「まーたそんなこと言って」

 先ほどの夫婦が冗談を飛ばしている。見学がもう終わるから皆余裕を感じているようだ。

 そしてぼくらは階段を昇った。解説員が先頭に立ち、補助員が二人ほど最後尾についた。


「皆さんお疲れ様でした。これで今回の見学会を終了します。展示室やグラウンドは閉館時間までご自由にお使い下さい」

 これでぼくらは解散になった。

 屋内の展示室はもう見て回った。ポンプ場のジェットエンジンは今回は見られなかった。写真によると箱型のケーシングに入っていてエンジン本体は見えないらしい。

 建物の入口の反対に回るとちょっとしたグラウンドがあった。まだ枯れ草が多いが、ところどころ新しく生えた青い葉が見える。ナズナ、ホトケノザ、タンポポ、オオイヌノフグリ、そういった春の野草が咲いている。

 ぼくらはレジャーシートを敷いて座った。用意した弁当を広げて食べる。

「今日は通信ができない場所に行ったけど、大丈夫だった?」

「そうですね。しばらく外部の記憶にアクセスできませんでしたけど、私の動作には特に問題なかったと思います」

 ワモリさんはぼくの質問に答えた。

「記憶にアクセス出来ないというと、ぼくの話したことは理解できた?」

「そうですね」

「そうそれ、『そうですね』と『はい』と『そうなんですか』しか話さないときがあったよね」

「その三つの言葉をタイミングを選んで言えば、一応会話は成り立ちますから」

「じゃあぼくの喋ったことを理解して相槌を打ったわけじゃないと」

「いえ、そんなことはないです。肯定すべきでない話題のときはこんな答えは返しません」

「それだと消極的な支持ということになるかな」

「はい」

「でもぼくが話したことを一字一句覚えていて、今頃ネットで照会してたりいない?」

「そうなんですか」

「質問に質問が返ってきたような気がする…」

「ああ、そういう形になってしまいましたね。少しネットからの応答に時間がかかっていて間違えたようです」

「やっぱりネットで照会してたんだ」

「でも私からこれといって言い足すことはないんですが」

「うん」

「このグラウンドが、先ほどの貯水槽の真上にあるんですね」

 ワモリさんは両手を広げて場所の広さを身振りで示した。

「ああ!」

「ここの地下に水を貯めて、建物にあるジェットエンジンでインペラを回して、あちらの川に水を流すんです」

「ここで見ると、地下にいるときより水の流れがよくイメージできるね」

 ぼくも周りを見渡した。

「排水ポンプの能力は、一秒で25メートルプール一杯分の水を送り出せるそうですよ」

「一秒でプールが満杯になるんだ」

「そうですね」

「すごいものを人は作るね」

 ぼくはサンドイッチを手にシートの上に立ち上がった。

 田園地帯にのどかな日差しがそそぐ。まだ少し冷たい風が通り抜けた。

「はっくし!」

 急に鼻がむず痒くなってくしゃみが始まった。食事でマスクを外していたせいもあるのだろう。

「はっくし!はっくし!はっくし!はっくし!はっくし!はっくし!…」

「先生、大丈夫ですか?」

 さすがにワモリさんもぼくを気遣ってくれた。

「ありがとう。っくし! だいじょうぶだよ…っし! 毎年の、ことだから」

 鼻をかんで、痒い目の端もティッシュで拭いて、そう言って笑って見せた。

「緊張しているときはくしゃみは出ないんだけど、というか、今こうして止まらなくなるってことは、地下に入るのにぼくもけっこう緊張していたんだね」

「緊張状態にあるときはアレルギー反応が抑制されるそうですから、おっしゃるとおりだと思います」

「ネットに繋がるって素晴らしいな」

「ですね」

 ぼくは痒い目をこすりながらシートに座った。春だ!

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