第7話 水族館

 駅から出るとすぐ広い公園。海まで続いている。観覧車を見上げつつぼくらは歩いた。程なく水族館の入り口。入ってエスカレーターを昇ると屋上に出た。

「海ですね」

「今日は天気がいいから、海が光ってるよ」

「きれいですね」

 南に見える海は冬の低い太陽にキラキラと光っている。渡ってくる風はまだ冷めたいけど、新しい年に徐々に力を取り戻しつつある太陽は温かい。

 何枚かカメラでワモリさんを撮ってから階段を降りていった。茶色いチェックのストールを肩にかけている。ボトムスはストレートパンツだ。

「サメですよ」

「いっしょにいる小魚はイワシかな」

「小魚は餌でしょうか」

「展示と餌と兼用なんじゃないかな」

 ぼくらは水槽に顔を近づけてまじまじとサメを見た。

「それにしても面白い顔ですね」

「シュモクザメだからね」

「どうしてこんな顔なんですか?」

「目と目の間の電気を感じる器官が発達しているからだとか。獲物を探知するセンサーが優れてるんだね」

「普通のサメみたいに尖った鼻でもよかったんじゃないですか?」

「シュモクザメはセンサー全般を発達させたようだよ。左右に離れた目もその一部」

「視力もいいんですね」

「立体視ができるらしい。だから獲物の位置が正確に分かる」

「それは三角測量の原理ですね」

「そう。生きた測距儀」


 先に進むと暗い屋内に青く水槽が浮かび上がる。巨大な水槽にはハマチか何か、精悍な紡錘形の魚が泳いでいる。

「大きい魚ばかりですね」

「水槽が大きいからね」

「マンボウもいますよ」

 ワモリさんは指差した。

 マンボウがびっくりしたような顔で、でも表情と裏腹に、ゆっくりと泳いでいる。半月みたいな体で、上下に伸びた背びれと尻びれを左右に振って進んでいる。

「マンボウは食べられますか?」

「食べられるらしい」

「そうなんですか」

「味はハマチのほうがいいんじゃないかな」

「食べたことありますか?」

「いや。漁師が食べてる写真を見ただけだ」


 やがて、湾曲した水槽の前に来た。

「これがマグロ水槽だよ」

 ぼくは指差した。その先で、一メートルはあろうかというマグロが、勢いよく泳いでいる。それも沢山。銀色にきらめきながら。

「ドーナツ型の水槽だよ。マグロはここで一生を泳いで過ごす」

「速いですね」

「マグロだからね。彼らは高速遊泳マシーンだ」

 ぼくはちょっと得意そうに話した。ぼくが偉いわけじゃないのに。

「マグロは止まると窒息してしまうんでしょう?」

「その通り。止まっているとエラに水を送り込めないから、泳ぎ続けないと呼吸できない」

「泳ぎながら眠ると聞きました」

「広い海を回遊する魚だからこそだね。眠っていても何にもぶつからない」

「すごいですね」

「食物連鎖の上位にいるから、移動していかに広い範囲を回れるかが生き残りに重要なんだ」

「それを人間がつかまえて」

「それで数が減っているけどね」

 ぼくは、そのひたすら突進する生き物をながめた。

 流線型の体はすばらしい美しさ。これほど理にかなった流線型を自然が創り出すとは。そして尾端にある尾びれは三日月のように細く鋭い。

「マグロが速く泳げるのは、もちろんあの優れた流線型の体のおかげ」

 ぼくはマグロの体の秘密について語り合うべく、話を切り出した。

「水の抵抗がすごく少ないんですよね」

「もし完全な球体だったら、抵抗が大きくてあんな速さでは泳げない」

「丸いものは抵抗が大きいですね」

「君の知識は底なしだから、乗ってきたね」

「先生は予習してきたんですね」

「ばれてるなあ」

 ぼくが頭をかいているとワモリさんが話を続けた。

「丸いものは後ろに大きい渦ができやすいんですね。流れが剥離する位置が決まっていないから、剥離位置が前後して、渦が交互に次々とできるんです」

「その渦は?」

「カルマン渦ですね。カルマン渦が激しくできるので、抵抗が流線型の30倍ぐらい大きいんです」

 ワモリさんは即興で集めてきた知識を教えてくれえた。

「ではカルマン渦ができるとなぜ抵抗が大きくなるんだろう?」

「渦に向けて水が流れ込むとき、圧力が下がって後ろから引っ張ってきます」

「なるほど」

「褒めてますか? それとも何かつけ足しますか?」

「カルマン渦の動画を探して確認してみてほしいんだ。渦の向きとか」

「外側から内側に巻き込むように渦ができますね。そのあと反対側から渦ができて、反対から内側に巻き込んでいく。一方で、最初にできた渦は離れてゆきます。渦が交互にできるので、物体の後ろは渦がジグザグの列になります」

「そうそれ。で、物体の中心線上の流れの向きはどうなってる?」

「物体の外側から回り込んでいくから、物体の方へ向いてますね」

「つまり物体の後ろに流れがついて来ている」

「言い換えるとそうですね」

「物体の後ろの流れに、前向きの速度を与えた、という方が分かりやすいかな」

「速度を与えた、ですか」

「カルマン渦ができると、渦の内側の広い範囲で流れに運動エネルギーを与えることになるから、その分物体はエネルギーを失う」

「エネルギーのやり取りということでは、その説明で抵抗が大きいということになりますね」

「普通に『渦をつくるためのエネルギーを奪われる』でもいいんだけどね」

「カルマン渦ができて抵抗が大きい、を少し詳しく話したわけですね」

 ぼくはまたマグロをじっと見た。

「ところで、マグロの尾びれ、左右に振っているね」

 ワモリさんにも、尾びれを見るよう促した。

「カエルみたいに、後ろに水を送るのなら分かるけど、左右に動かしてどうして前に進めるんだろう?」

「?」

「すぐ答えが出ない?」

「いえ、でも魚って、体をくねらせて、それで水を後ろに送ってますよね」

「ウナギとかはそういう泳ぎ方をしてるね」

「それが理由でいいんじゃないですか? うちわを降っても風が起きますし」

「そういう意味では、なぜうちわを降ると風が起きるんだろう?」

「それは……、あ、遠心力ですよ」

「遠心力?」

「うちわが空気を円運動させて、遠心力で風になる」

「そう来たか」

「違いますか?」

「違わない。そういう説明でもいい。でも、それだけでマグロのように、40ノットとかの水流を作れるかな?」

「今回予習してきたのはそこですね?」

 ワモリさんはぼくの魂胆を見破ってしまった。こうなったら早々に結論に行こう。

「カルマン渦は抵抗が大きいという話だったよね」

「はい」

「では、カルマン渦を逆向きにしたら、莫大な推進力が得られるかもしれない」

「逆ですか?」

「逆」

「……あ。『逆カルマン渦』がヒットしました」

「やっぱり君の知識は底なしじゃないか」

「いえ、そんな」

「逆カルマン渦、カルマン渦とは逆に、内側から外側に大きく回る渦を作ると、そういうふうに渦ができるように尾びれを横に降ると、魚の後ろの水が逆カルマン渦によって後ろに蹴り出され、魚はそれで推進力が得られる」

「ええと、尾びれを左右に降るのは、水を左右に動かして、交互に渦を作っているということですか?」

「そう。それこそが、マグロが速く泳げる秘密だよ」

 ぼくは水槽に向き直ると、マグロの弾丸のようなスピードを目で追った。

「推進力になるのは、尾びれに働く力のうち前向きの成分だけだけど、どんな速さでも渦がちょうどできる振動数で尾びれを振れば推力が得られる。力は余分に要るけど、その分速く進めるというのは、まるで自転車だよ」

 誰が聞いてなくてもいい。そう思いつつぼくの感想をもう一つ加えた。


 次の水槽に移った。ここはウミガメがゆったりと泳いでいた。

「ウミガメは前足がひれになっていますね」

「上下に動かしているだろう」

「さっきのマンボウのひれを横に倒した形ですね」

「ウミガメは体の両側で逆カルマン渦を左右に2列作って泳いでいる」

「鳥の翼みたいに見えますね」

「鳥が羽ばたくのも渦を利用してるんだろうね。逆カルマン渦と言えるかは分からないけど」


 そうして歩いているうちに外へ出て、ペンギンのプールに出た。

「フンボルトペンギンだそうですよ」

「小型のペンギンだね」

「泳ぐのが上手いんですね。歩くときはよちよち歩きなのに」

「鳥だからね。水中を羽ばたいて泳いでいる」

「ウミガメと同じですね」

「全く同じだね。ただ、甲羅がないぶん羽は自由に動かせる。体もスリムだから、泳ぐ速さは相当なものだよ」

「陸と海で全然ちがいますね」

「ペンギンも海でもっと栄えてもいいポテンシャルを持ってると思うんだ。じっさい、極地からかなり離れた場所で漁網にかかってしまうペンギンもたまにいる」

「しかたなく連れて帰って、漁師さんが飼育していることもあるようですね」

「ペンギンが有利なのは、羽が胴体から完全に突き出してることなんだ」

 ここで思いついたことをぼくはいっきに喋ることにした。

「それは何かいいことがあるんですか?」

「マグロを思い出してほしい」

「尾びれを左右に降ってますね」

「尾びれだけかな?」

「……、胴体の後ろの方も振ってますね」

「そう。だけど、逆カルマン渦を作るのは尾びれだけだ」

「そうですね」

「ということは、胴体の部分は抵抗になる」

「わかりました。ペンギンやウミガメは翼や前足を、推進力を作るところしか動かさないわけですね」

「そう。マグロにとって胴体を振るのがロスでしかないのは、体の後半に三角のバラのトゲみたいな突起があることでも分かるよね」

「分かると言われましても…。突起があるのは分かりますが」

「丸いものは抵抗が大きい、という話をしただろう」

「ええ」

「胴体を左右に降る時、前から見たらその左右の動きは、丸い物体の動きそのものだ。カルマン渦ができて抵抗が大きくなる」

「?」

 ワモリさんが応えられなくなってる。

「だから、突起で流れを剥離させて、できる渦が小さくなるようにして、抵抗を減らしてる」

「???」

「ゴルフボールのディンプルと同じ理屈だよ。丸い物体はあえて表面を荒くしたりして、流れの剥離をわざと起こす方が抵抗が小さい。マグロの尾の突起も同じじゃないかと。まだ裏はとれてないけど、ぼくはそう思う」

「ヒットしました。『尾柄隆起縁』と言って、流れの中で体を安定させる働きがあるそうです」

「安定、か。でもそのサイト、なぜ体が安定するか説明があるかい?」

「ん〜、ないようですね」

「ならぼくは今の仮説をとっておくよ」


「先生、ペンギンが繁栄するポテンシャルについてまだ話が終わってなかったです」

 水族館の出口あたりの休憩場で一息ついていると、テーブルの反対に座っていたワモリさんが話しかけてきた。

「ああ、そうだっけ」

「翼で泳ぐことが有利とは言いましたが、ではなぜペンギンがマグロほど栄えていないのか、話がまだですよ」

「なぜだと思う?」

「そうですね。エラ呼吸じゃないからですか?」

「それはあまり重要じゃない。水の中は酸素はほんのわずかしかないけど、空気は20パーセントも酸素がある。肺に空気を貯めておけば、クジラなんて一時間も潜っていられる。それに、最大の魚のジンベイザメより、クジラの方が大きいよね」

「ああ、なるほど」

「ペンギンの最大の弱点は、陸に卵を生むことだよ」

「卵ですか」

「爬虫類で、卵でなく胎生で直接子供を生むのはトカゲやヘビの仲間だけだ。カメ、ワニ、翼竜、恐竜、そして鳥。みんな卵生」

「そういえば、ペンギンはみんな陸で卵を産みますね」

「中生代は、魚竜や首長竜は胎生だったから、今のイルカやクジラのように大きくなれた。陸に上がる必要がないからね」

「分かりました。陸に上がって卵を産むためには、自分を支えて歩かなければならないから、それで大きくなれない」

「そう。だから、もしペンギンが胎盤のようなものを獲得して、直接雛を産めるようになれば、首長竜みたいに大きくなる可能性がある。イルカやクジラに負けないぐらいに」

「クジラみたいな大きいペンギンて、ちょっと怖いですね」

「そうなったら、恐竜の再来だよ。新生代についに恐竜が海に進出するんだ」

「今日は先生、上機嫌ですね」

「そう見える?」

「もういろいろ話が聞けて勉強になります」

「いやいや、君が飽きずに話を聞いてくれるからだよ。人間じゃそうはいかない。本当にありがたい」

「でも、私って、基本的には、先生について歩いて、お話をするしかできませんよ。着替えだって一人ではできませんし、その缶コーヒーのプルトップも、開けることができないんですから」

「ぼくはそれでも十分だよ。それに、君の写真を撮るのもすごく楽しい」

「お役に立てているなら光栄です」

「ぼくも感謝しています」

 太陽が眩しい。

 潮風も、日差しのせいか、ちょっと暖かく感じた。

 春はもうすぐだ。

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