第5話 動物園
一駅だけの電車に乗って、終点で降りると、すぐ前が動物園。入り口から坂になっていて、山の上までずっと動物園がある。ぼくたちは、冬の青空に続いていく山の斜面を見上げた。
「どこから見ていこう」
とにかく正面の道をまっすぐ登ることにした。
十二月。天気は冬なのでよく晴れている。幸い風も少ない。歩くにはいい気候だ。
「サイだ」
「大きいですね」
黙々と草を食むインドサイを僕らは眺めた。
「このサイは野生の捕獲されたものだろうか。だとしたら、ここで一生を終えて、もうそれ以上サイをここに迎えることはできないだろうな」
「いえ、ここで繁殖した個体だと分かりました」
「それはすごい」
「すごいですか?」
「野生のサイは絶滅の瀬戸際にある。動物園の役割がとても重要なんだ」
「でも昔は、野生のサイを捕まえて飼育していたわけですよね」
「過去のことはもうどうしようもない。今は絶滅を防ぐために、できる限りのことをしないと」
「それならここのサイが野生か繁殖個体かくらいは調べていても…」
「すみません。不勉強でした」
ぼくは頭をかいた。
さらに上がると、鉄柱が何本か立っていて、ワイヤーが張り渡してあった。
「オランウータンがこれを渡るんだ」
ぼくはパンフレットの地図を見ながら言った。
「今日はいませんね」
「冬はここは使わないそうだよ」
オランウータン舎に入って、ガラス越しに飼育室を眺めた。やや暗くて、どこにいるのか分からない。
「先生、そこです」
ワモリさんが指さすので、自分の膝のあたりを見た。
大きいオランウータンの顔がそこにあった。オスの個体がそこに腰かけてぼくを見ていた。
「すごい、何かを悟っていそう」
「何をですか?」
「この世界の秘密だよ」
「どんな秘密ですか?」
「いや、具体的には何も。彼の姿に勝手にぼくが考えを当てはめているだけだ。人間の悪い癖だね」
坂を最後まで登ると、金網の向こうに麓の川や街が見えた。ずいぶん登ってきたものだ。体が熱くて上着を脱いで涼んだ。
「ウワハハハハハ!」
唐突に笑い声が聞こえてきた。なんだろう。声がする方を見ると小屋がある。
「ワライカワセミだ」
「オーストラリアの鳥だそうですね」
「名前は知っていたけど、ここまでリアルな笑い声だとは知らなかった」
「私も人が笑っているのだと思いました」
ぼくらはそこでしばらく休んだ。
少し離れたところで、男性がしゃがんで写真を撮っていた。何を撮っているのだろう?
「人形ですよ」
ワモリさんが指さした。
わくら葉の上、木洩れ日が射すところで、一体の女の子の人形が木の根に座っていた。若草色の髪が日差しに光っていて、ベージュのストールが温かそうに肩を包んでいる。60cmドールだろう。ガラス玉の瞳が心なしか、こちらを見ているような気がする。
ワモリさんは、軽く手首を振って彼女に挨拶した。ぼくらは黙って撮影が進むのを眺めていた。
一休みしてから坂を下ると、チンパンジー舎があった。
「ああ、広いな。檻じゃないんだ」
一区画を堀で区切った場所に、二本の柱が立っていて、柱の間にロープが渡してある。ロープは網目状で途中で登って遊べるようになっている。柱も足場が何か所かとりつけられている。
そこで思い思いのしぐさで、チンパンジーの群れが暮らしていた。
「大型の類人猿は、もう狭い檻で飼育している動物園はないそうです」
「そうなんだ。チンパンジーは人間とほんのわずかしか遺伝子が違わないから、檻に入れられたままじゃ留置場だよね」
「留置場ですか」
「悪いことをしたわけでもないのに、そんなところで一生を過ごすのは、確かにどうかと思う。ここも、野生の暮らしに比べたら狭いだろうけど、いくらか自由な生活ができるだろうな」
「昔の檻で飼われていたチンパンジーは、施設が充実した動物園に移住させて、保護と繁殖を進めてきたそうですよ。この動物園もそうした個体を受け入れています」
「ああ、動物園でチンパンジーが安定して住めるようにするんだね。野生のチンパンジーを狩ってこなくてもいいし、絶滅も防げる」
「メスの個体は群れから離れて違う群れに移住するものがいる、とありますね」
「オスはボスにならなければ放浪生活だけど、メスも移住するんだ」
「どうやって旅するんでしょうね」
「それは分からないな。でも、もしかしたら、人間の女性が旅行が好きなのと、何か関係があるかもしれない」
「さあ? 旅行が好きな男性も沢山いますよ」
「そうだね。簡単に何か言うわけにはいかないね」
坂を降りながら、動物をもちろん見たけど、昆虫館が気になってぜひ見たくなってきた。
入り口に近い方まで降りてきて、銀色に輝くバッタのオブジェを見つけた。着いた。人が乗れるほどの巨大なバッタは二匹もいる。
バッタを前に見ると、左側は昆虫の展示館。ハキリアリやヒカリムシが見られるという。右側は温室。大きいドーム状の建物だというのがここから見ても分かる。まずそっちへ行こう。
ぼくらは二重の扉を通って温室に入った。
とたんに目の前が真っ白になった。冷え切ったメガネが結露したせいだ。それに日差しが眩しい。雪山のホワイトアウトってこんなのだろうか。
なにも見えなくて立ちつくしていると、柔らかい手がぼくの手を握った。
「お気をつけて。こちらです」
ワモリさんだ。
「ありがとう。助かるよ」
「いえ、体が不自由な方をサポートするのは私たちの役割です」
「でもこんなに気が利くなんて本当に驚いた。すごいな」
ぼくはワモリさんにこんな親切な一面もあるのかと改めて感心した。
実際、介護の現場では、容姿をあえて人並みにした産業用FOHが多く導入されている。お年寄りの話し相手になっているというし、人をベッドから車椅子に移すなど力仕事も行っているという。職員は腰を痛める人が多いというし、それで現場の事故や怪我を減らせるなら、ずいぶん人間の助けになっていると思う。
徐々にメガネの曇りが蒸発して視界がはっきりしてきた。
蝶だ。
沢山の蝶が舞っている。
冬だというのに、初夏のような熱気。
カメラを手にとってみた。ダメだ。結露している。使えるようになるまでしばらくかかる。
レンズの曇りがとれるまで、ゆっくりぼくらは進んだ。
温室のガラスを通して、冬の低い日差しがワモリさんに当たり、髪や肌を輝かせた。飛び交う蝶がその日差しの中を戯れる。足元には鮮やかな熱帯の花。そして冬であることを忘れさせるぬくもり。
「ここが天国なのか…」
まだ曇りが残るファインダーを覗きながら、ぼくはしばらく、それ以上の言葉をなくした。
レンズの曇りが天然のソフトフォーカスになっていた。ワモリさんを白いハロが囲んだ。
ぼくはしかし、ふと思い出した。
ワライカワセミのところでドールを撮影していた人のこと。傍らにドールを運んできたケースがあった。中が柔らかい布で、ドールを本当に大事に運んできたのが分かった。
反対の傍らには小さい道具箱があり、丁寧な手つきで髪をすいてあげたり、霧吹きでさらに細かくセットを整えていた。
そうでなくても可愛らしい、目のくりっとしたドールなのに、彼の業で、彼女はより美しくなっていった。
ぼくはワモリさんの衣装をたまに選んであげたりするけれど、撮影の時はほとんど、ポーズの指示を出すだけだ。
着替えは手伝わせてもらえないからいいとして、メイクや髪のセットは協力するようにしたほうがいいのだろうか。
ワモリさんがいつもきれいでいてくれることは、それがFOHの美しさだと軽く考えていた。本当は、とても深く感謝すべきことかもしれない。
今更だけど、そんなことに気がついた。
視野がはっきりしてきたカメラのファインダーの中で、ワモリさんの日差しに輝く髪のてっぺんに、一匹の蝶が止まった。嘘みたいにきれいな景色だった。
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