第3話 灯台
「ここまで、登ると、けっこう、きついね」
「でも風が気持ちいいですよ」
先に上がっていたワモリさんがぼくを見下ろして言った。白いスカートが風になびく。右手で抑えた麦わら帽子に日差しが跳ね、頬に栗色の髪がかかる。
駐車場からここまでの道で約40メートルの上り。ぼくはすっかり息切れしてしまい、汗ばんだポロシャツを風がさっと冷やして通り抜ける。
海に突き出た岬の高台。その手前も向こうも砂浜と寄せる波が見える。空と海は遠くまで青く、山は深い緑。夏だ。
岬の突端に灯台が白くそびえ立っている。昭和の時代に鉄筋コンクリートで作られて、それから戦争も、大地震も、そして津波も、時代の流れをずっと照らし、見つめてきた。今日も白いコンクリート塗装が輝いている。
受付を通って灯台への道を進み、入り口から螺旋階段を昇る。中はコンクリート打ちっぱなしのグレー。壁と中心の柱の間をどこまでもぐるぐると階段が続く。途中一息ついたとはいえ、ぼくはまたぜえぜえと息づきながら昇った。
「もうすぐですよ」
「ああ、それはよかった」
「海が広いです」
階段を一番上まで昇ったところ、灯台を一周するデッキへの出口でワモリさんが待っていた。階段の上は仕切りがあってその上は灯台のランプだ。出口の向こうは手すりが見え、その先は、はてしなく海だった。
「高くから見ると、本当に広いですね」
ワモリさんはデッキに出て、手すりに片手を置きながら、ぼくが呼吸を整えるのを待ってくれた。
「遠くから見えるように、高い位置にあるからね。逆に、ここからは遠くまで見える」
「この灯台はどれぐらい遠くから見えるんですか?」
ワモリさんが素朴に聞いた。ぼくもすぐに分からない。でもどうやれば計算できるかは分かる気がしたので、ワモリさんに手伝ってもらって考えることにした。
「この灯台はランプの高さが海面から約73メートルだそうだよ」
「そんなに高いんですか」
「地球の半径に73メートルを足して、その値で地球の半径を割ってみてくれるかな」
「小数点以下8桁まで計算すると0.99998855です」
「やっぱり9が多いね。コサインがその数字になる角度は? 6桁ぐらいでいい」
「0.273418度です」
「その角度をラジアンにして地球の半径をキロメートルで掛けてみて」
「30.4027キロメートルです」
「水平線までの距離は約30キロ先だね」
「ああ、今の計算で分かったんですね」
「君が計算が得意で助かるよ」
「計算ぐらいしか得意なことはないですが」
「謙遜はいいから」
「先生」
「うん?」
彼女はぼくをよく先生と呼ぶ。助手という認識だからだろうか。
「さっきネットを探したら、3570掛けるルート高さで近似値が出るそうです」
「ああ、高さの平方根に比例するんだ」
さっきまで高さに比例すると思っていた。それは黙ってよう。
「でも、近似値なんだね」
「そう書いてありました」
「ちょっと待ってて」
ぼくはカメラバッグからメモ帳とボールペンを取り出して考えた。そして分かった。
「水平線までの距離は、地球の半径の2倍と灯台の高さの積と、灯台の高さの2乗を足して、平方根をとる」
「はあ」
「高さの2乗が邪魔だな。ええと、ルートの中を地球の半径の2乗で割って、その代わりルートの外に地球の半径を掛けてみよう」
「???」
ワモリさんがちょっとフリーズした。
「ああ、灯台の高さ割る地球の半径は微小値だから、その2乗は0とみなしていい。そうすると地球の半径の2倍の平方根に、灯台の高さの平方根を掛けた式になる」
「??????」
「地球の直径の平方根を教えて? 直径は半径の2倍の値を使って」
「112.88」
「ごめん、キロじゃなくてメートルで。キロメートルを1000倍した値でいい」
「3569.59…」
「ほら、3570が出た」
「あ」
「地球の直径の平方根に、灯台の高さの平方根を掛けると水平線までの距離だって。あれ? けっこうきれいな式じゃない?」
「でも近似値ですよ」
「まそうか。それはそうと、ブリッジの高さが10メートルの船から見た水平線は」
「約11キロですね」
「そうすると、この灯台は30キロ足す11キロで、だいたい40キロ遠くの船から見える。もっと高い視点の船だとより遠くから見える」
「分かりました」
話が一段落ついたと見て、ワモリさんはぐっとぼくの腕を掴み、デッキへと歩み出た。
「あ、ちょ、ちょっと」
「ほら、30キロ先の水平線を一緒に見ましょう」
水平線は確かに30キロメートル先かもしれない。しかし、ぼくにとっては70メートル下の水面が問題だ。手すりをがっしり掴んで、もう片方の手を壁について、足を踏ん張って、そうやってぼくはデッキに出た。
ワモリさんは先に進んで、出口と反対側のデッキに立って景色を見ていた。ぼくは恐る恐るカメラを片手にとり、その横顔を撮影した。
風はより強く、ワモリさんはさらにしっかりと帽子を頭に抑えている。スカートはデッキの手すりに引っかかってはためく。露出した白い肩が眩しい。
デッキが狭くてほとんど後ろ姿になってしまう。あと、スカートは長すぎたか。
何枚か写真が撮れて、ちょっと落ち着いてきた気がした。
「水平線までの距離が高さの平方根ということは」
「まだ考えてたんですか」
「まだ怖いんだけど、なんか思いついた」
「先生、その体制なら落ちることはありません。怖がらなくていいんですよ」
ワモリさんはこちらを向いて、手すりにちょっと寄りかかりながら言った。それ、見てるほうが怖い。
「高さの平方根に比例するということは、ここから見える範囲の面積は高さに比例するってことだ」
「面積ですか」
「その面積は円周率掛ける地球の直径掛ける灯台の高さ」
「はい?」
「海面からここまでの高さの幅のリボンを想像してみて。それを海面に置いて、地球を一周させる」
「想像ですか」
「その地球一周分のリボンの面積が、ここから見える海一周分の面積と同じなんだ」
「それはつまり?」
「地球って大きいようで、案外小さいかもしんない。リボンは球面の地球にぴったりはつかないからその辺が近似値だけど」
「でも先生、地球が小さいという割に、ここの高さをずいぶん怖がってますよね」
「それはしょうがない。落ちたらまず助からない」
またカメラを構えてワモリさんを写した。
「そして、ちょっと手すりを跨げば簡単に落ちることができる。ここだよ。ちょっとしたことでぼくは簡単に落ちることができる。その可能性が怖いんだよ」
「『可能性が怖い』ですか」
「怖い、のバリエーションが増えたかな?」
「んー。それより」
ワモリさんの顔がぱっと輝いた。
「私が先生を撮ってあげます」
「いや、え、え、ぼくはいいよ、うん」
「そうおっしゃらずに。ほら」
ワモリさんはぼくの首にかかった2台のカメラのうち小さいミラーレスの方をとろうとした。しかし、カメラのストラップとスマホのストラップがからんで上半身を引っ張られることに。
「うわあ」
ぼくは変な声を出してへたり込んだ。
ワモリさんはまだカメラを引っ張っている。ぼくは床から尻を上げたくないとあがく。
「たまには先生の写真もないと」
「なぜそんな余計なことを、いいから、いいから」
ワモリさんは許してくれない。
お願いです。や め て く だ さ い。
そうこうしているうちにカメラのストラップが緩み、彼女は立ち上がってカメラを構えた。レンズは標準ズームだ。ぼくの手には麦わら帽子が渡された。
「じゃあ笑ってくださいね」
灯台のデッキでへたり込んだ、目や口の端に老いが浮かんだ痩せこけた男が、ひきつった笑みを浮かべる写真が記録された。
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